北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

庶民に生まれるならこの国で

2009-01-06 22:30:07 | Weblog
 ※今日のはちょっと長いです。まず私の記事を一通り読んでから、興味に応じてリンク先へ飛ぶことをお勧めします。※


 日本人(男性)ながら結婚してブラジルに渡り三年を経過したという、通称「セアラ小太郎」さんという方のブログを時々読んでいます。

 やはり知的日本人が海外から見た視点を届けてくれる記事には考えさせられることが多いものです。

 そんなセアラ小太郎さんがクリスマスに教会からの帰りに裁判所前で見かけた風景に非常に違和感を感じたと言う記事を載せていました。それは、カトリック団体の人たちが路上生活をしている親子に対して食事を振る舞うというボランティア活動をしているという姿でした。

 一見何気ないほのぼのとした風景のように思えますが、小太郎さんは「何か違うだろ!」と思うのでした。

セアラ小太郎「【雑感】クリスマスの日に思ったこと」
http://fortaleza-08.iza.ne.jp/blog/entry/850596/

セアラ小太郎「クリスマスの日に思ったこと(2)」
http://fortaleza-08.iza.ne.jp/blog/entry/850745/

    ※    ※ 【以下引用】 ※    ※

【カトリックは、なぜ彼らが生まれる原因を正そうとしないのか?】

 これこそが、このエントリを書き始めた根本的なきっかけです。そもそも、路上生活者(貧困層)が生まれる原因がこのブラジルと言う国家そのものにあることは自明です。

・・・ですが、それらを「根本的に改善しようという動き」は、ほとんど見られません。

 これは何故なのでしょう?少なくとも国や国民が豊かになれば、当然こうした問題は起こらないとは言わないまでも、少なくとも満足な教育も受けられずに毎日街角で母親と一緒に物乞いをしながら生活をする子供たちを減らすことはできるはずです。

やはり「何か違うだろ!!」と。

 *また、同時に(と、いうかそれ以前に)そうした子供が生まれてくる原因を元から正すこともしていません。


【「子供にとっての幸せ」を本当に考えているのか?】

 そもそも、こうした子供が生まれてしまうのは、母親である女性はもちろんのこと、その子の父親である男性も性に関する知識に無頓着であり、また「子供の将来がどうなるか」についても、あまりにも考えがなさ過ぎます。

*こうした人たちには、自分たちの将来についてさえ「食べていくのが精一杯だ」とか、「そんな先のことまでいちいち考えていられない」といった考えの人が多く、刹那的に一時の感情に流されやすく、また生きるためには何だってやるのが当たり前といった考えが常識化しています。

 しかし、「こうした考え方」では本当の人間の尊厳は手に入れないのは明らかです。

 そして、少なくともカトリック信者の中にいるブラジル社会のある階層の人々は、そのことを既に知っています。

しかし、「そうした問題の改善」に努めているとは言い難いのが現状です。

 彼らにとっては、そうした存在こそが、自分たちの存在や活動の意義を社会にアピールするのに不可欠だからです。

 もちろん「善意でやっている」と言えばそうでしょう。また、どんな人に対しても「その人の幸せと、神の加護があるように祈ること」が大切というのも分かります。ですが、彼らに対してそうした施しだけをし「神のご加護を―」などという事が、彼らにとっての幸せにつながるでしょうか。

やはり「何か違うだろ!!」と。
 (以下略)
 
    ※    ※ 【引用おわり】 ※    ※

 セアラ小太郎さんは、根本的な根っこの部分を解決しようとせず、枝葉末節な施しをして誇らしく思っている宗教関係者に対して、なぜ宗教の力で根本問題を解決しようとしないのだろうか、ということを不思議に思ったのでした。

 その疑問点までを二つに分けた記事で表したところ、このブログの熱心な読者である「やせ我慢Aさん」というハンドルネームの方が、その答えに当たる記事を書き付けました。

 その文章が秀逸で実に面白いのでここにご紹介します。


 やせ我慢Aさん「庶民に生まれるならこの国で」
 http://webtoy.iza.ne.jp/blog/entry/851131/

    ※    ※ 【以下、ちと長い引用】 ※    ※

 幕末の日本に来たヨーロッパ人の一人が、庶民階級に生まれるならこの国で生まれたいと言ったそうです。

 学校の勉強では、江戸時代は士農工商という厳しい身分社会だと教わりますが、 ならば何故このような感想が出てくるのでしょう。

 確かにかつての日本は形としては階級社会でしたが、江戸時代も100年を越えたあたりから実質的な社会は大きく変わっていきました。

 少数の武士階級が露骨な力で大多数を支配していたなら、元禄などという太平の世は生まれません。

 以前にも少し書きましたが、当時の身分とは特殊な例を除いて、芝居の役のようなものでした。

 馬鹿馬鹿しいと本人達も充分に承知で、表面上だけ大真面目にやっていただけなのです。

 もちろん、だからといって平等な社会だったと言うつもりはありませんが、欧米の階級社会に較べれば驚くほど階級差の少ない社会でした。

 これを杉浦日向子は、武士と町人は上下ではなく、二つの社会が平行して存在していたと言っています。

 (中略)


 ブラジルでは、カトリック団体がクリスマスイブの夜に貧者へ食事の配布などボランティアを行っているそうです。

 小太郎さんは、そうした現地の様子を紹介しながら、カトリックはなぜ貧者の生まれる原因を正そうとしないのかと問いかけています。

 そのまま紹介すると、無茶な要求のように聞こえるでしょうが、彼が指摘するブラジルの貧困層(路上生活者)とは、日本のそれとまったく違います。

 日本のホームレスは、社会が構造的に作り出したものではなく、多くは本人の責に帰する人たちです。

 その証拠に、日本で親子二代のホームレスが何人いるでしょう。

 しかし、ブラジルを含め世界の多くの国に存在する貧困層は、社会構造として生み出され、ごく少数の例外を除いて世代を超えて続くのです。

 つまり、階級構造の末端として存在しているということです。

 だからこそ小太郎さんは、そうした構造を黙認する社会に対して、なぜカトリックは何も行動を起こさないのかと問いかけているのです。

 イブの夜に、どんなに大盤振る舞いしても、誰も救われないし、善人顔でボランティアをするカトリック団体の人たちは、自分の属する社会を変えようとは思ってもいない、それが透けて見えるからこそ、小太郎さんは「なんか違うだろ!」と感じたのでしょう。

 しかし階級社会は、今もなお世界で最も一般的な社会構造なのです。

 そしてカトリックに限らず教会は、ずっと階級社会のトップグループの一員であり、階級そのもを作り出してきた側なのです。

 教会の領地運営、免罪符販売の悪徳商法、美女を侍らせ梅毒に悩まされた法王たちの姿、そしてあらゆる戦争と政争に関わってきた歴史を見れば、それは明らかです。

 つまり、階級を作り出し利益と権力得ている教会が、貧困層を生み出す社会構造の変革を望むわけも無いし、そうした行動を起こす事も有り得ないということです。

 表面的に民主主義国家になった今現在も、そうした構造は基本的に何も変わっていません。

 ヨーロッパでも南北アメリカでも中東でも中国でも、他のほとんどのエリアでも、ごく一部の国を除いて階級社会が骨格として存在します。

 そうした世界の中で、日本は300年も前から階級社会を実質的に廃しています。

 そんな社会は、おそらく日本以外にはありません。

 だからこそ冒頭に挙げたように、庶民に生まれるなら日本で…という言葉がヨーロッパ人から出てくるのです。

 乱暴に言うなら、世界中で多くの国々が抱える本質的な問題に対して、日本は独自の方法で遥か昔に一つの回答を見つけ、それを実践していたということです。


これはまさに誇るべきことです。

しかし、そうした日本人の知恵を日本人自らが否定し、忘れ去っているのです。

 そして民主主義や平等・自由が、ヨーロッパで生まれアメリカを経由して日本に与えられたと信じ込んでいます。

 彼ら白人の言う自由や平等は、階級社会を前提にしたものであることを、誰も見ようとはしないのです。

 ※例えば、自由・平等・博愛を国旗とするフランスは、200家族が経済を支配していると長く言われ、自由・平等・博愛でさえ所によっては有るがパリには無いなどと揶揄されたりしています。

 ※そして日本に自由と平等を与えたと思われているアメリカは、戦後10年も過ぎた1950年代まで公然と黒人を差別していました。

 自由や平等を声高に叫び、日本の知恵を破壊する人たちは、そうした現実を冷静に見るべきではないでしょうか。

 そして、日本人が積み重ねてきた経験と知恵を、きちんと知るべきだと思います。

 おそらく世界の国々が、歴史と既得権益が絡む階級社会から脱するには、とてつもなく長い年月が掛かるでしょう。

 そうした中で、宗教の政治介入を排除し、実質的な平等と自由を最大限に実現した日本の存在と知恵は、大きな希望になるような予感がします。


    ※    ※ 【引用おわり】 ※    ※


 この文章を読んでセアラ小太郎さんは「用意していた自分の答えよりすばらしい!」とがっくりしていましたが、まさにこういうやりとりこそが集合知のように思います。

 さて、学校の歴史の時間には徳川時代など日本の封建時代は農民から搾取をし続けて、各地で一揆が発生する悪政で、それがために政治腐敗が進行してやがて明治維新に至る、と習います。

 しかし私自身東京を自転車で巡りながら垣間見える江戸時代を探って行くと、徳川様を酷い目に遭わせた明治新政府に対して江戸っ子たちは長い間恨みに思っていた様子もうかがえたりします。

 徳川幕府は必ずしも憎まれ嫌われたような存在ではないことに気がつくのです。

 考えてみれば今日も、生まれ落ちたがための身分階級の差などほとんど感じないのが日本の社会なのではないでしょうか。このことがどれくらいすばらしいことなのか、ということは、日本人の意識と海外の常識が合わなければ分からないことかも知れません。

 日本人は神道と仏教の境目も曖昧で、「日本人には宗教心がない」などとよく言われますが、海外での宗教心の根っこに上記のようなことがあるとしたら「そんなのが宗教なのだったら宗教など要らない」とすら言いたくなるかも知れません。


 日本人の祖先たちの知恵と努力の歴史をもっと勉強したくなりました。 

  
コメント
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