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雨桜天王社神主の一件 - 掛川古文書講座

(本日購入した「しずおか百地蔵」靜岡リビング社刊
- 明日は地蔵巡りに行く)

掛川の上垂木に現在もある雨桜天王社の神主について、神主の上村筑後が、社家、社人5人を訴えた文書で、天明四年(1784)に始まり、寛政二年(1790)に一応の決着をみている。この文書は決着に至るまでを、順を追って、掛川の郡奉行所へ報告した文書の控えである。最初の部分は上村筑後が訴えた部分で、訴えた先は、御本所吉田家である。

江戸幕府は神社を間接統治するために、全国の神職の管理を御本所吉田家に委ねた。御本所吉田家は全国の神社を統治する役目を負った。江戸幕府は様々な専門分野で、同様の間接統治方法を取っている。

文書を最初より読み下し文で示す。最初の部分は上村筑後の言い分である。

  差し上げ申す一札の事
遠州佐野郡上垂木村、雨桜天王神主、同郡田中村、上村筑後、訴え候は、当社
御朱印高七拾五石の内、神主、社家、社人、その外社役に応じ、配当仕来り候儀に御座候

天王御旅所の儀は、上垂木村六所大明神と唱え、この社において、別段神主これ無く、筑後代々兼帯の場所に候処、相手肥前、因幡両人申し合い、七ヶ年以前、天明四辰年、神主の私へ届けもこれ無く、同国長上郡小池村神明神主、竹山日向相頼み、右御旅所にこれ有る、永正年中の釣鐘銘文にこれ有る名前、両人先祖の由緒に申し紛らわし、御本所吉田家へ願い奉り、両人共に六所大明神神主の許状、頂戴仕り候

※ 兼帯(けんたい)- 一人で二つ以上の職務を兼ね帯びること。兼任。兼務。

彦兵衛儀は別して、これまで一と通り、社人にて御座候処、官名まで申し請け候て、既に翌巳年六月七日、天王祭礼の節、右両人神主の装束にて出仕、例に相違の趣、相咎め候えば、御本所吉田家より免許の旨、相答え候、なお又申し談じ候は、新規の儀、相願い候節は、その次第もこれ有るべき儀、兼々御本所吉田家より、御触れ流しなどこれ有る儀、掟を破り候始末、取り計らい心得難き旨、申し候えども、かれこれ申し争い、社法相背き候儀とも、打ち捨て難く、御本所吉田家へ、双方罷り出、子細相伺い候に付、一と通りは御糺しこれ有り候えども、御捌(さば)きも成され難き由にて、帰村の上内済仕り候様、仰せ渡され候、帰村の儀は、畏まり奉り候えども、内済の儀は御請け仕り難き旨、申し上げ罷り帰る

又その後双方罷り出候様、御沙汰御座候えども、御朱印御継目の時節ゆえ、罷り出候儀、相成り難き旨、御断り申し上げ候、このまま打ち捨て置き候ては、この上我意に任かせ、如何様の儀、出来仕るべくも、計り難き儀に御座候、この外、三人の社家どもには、前々より御朱印の儀は、天王より頂戴にて、公儀表は筑後壱人神主にても、内證は神主、社家、神務など、同様の儀にて、公儀年頭の御目見え、その外、御朱印御継目などの節、筑後出府の儀も、御朱印配当、仲間高割りを以って出銀仕り、筑後差し出し候儀ゆえ、神主、社家は同躰異名などと申し掛かり、既に天明四辰年、近村より願いにて、天王社において、雨乞祈祷仕り候節も、神主に届けも仕らず、社家とも心ままに、社頭において修行仕り候
※ 継目 - 家督・位・役職などを交替すること。

雨桜天王社は幕府から75石の石高の御朱印状を貰う由緒ある神社で、この御朱印状は将軍が代替わりする度にチェックを受けて安堵される。継目は将軍の交代を意味する。

雨桜天王社は神前に桜の古木があり、神木といわれ、往古よりこの桜に雨乞いをすると叶うので、「雨桜」と名付けられた。だから雨乞の祈祷は度々行われたのであろう。

社法右躰、猥りがましく相成候儀とも、制し候えども、取り用いず、銘々我が意申し募り、迷惑仕り候に付、願い上げ奉り候、右一件の者ども召し出され、御吟味成し下されたきの旨、申し上げ候なり(つづく)
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