平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
家康の息子、信康、秀康、秀忠の運命 - 駿遠の考古学と歴史
土曜日の午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。30分前には会場へ着き、机と椅子を並べる作業を手伝った。当番を決めていないため、学生代表が一人で作業をされていて、大変だと思い、早く出て手伝うことにしている。
今日のテーマは「秀忠誕生と太刀洗いの池・信康廟-江戸幕府へのみち」である。戦国時代に天下統一に至る過程で、家康の歩んだ道を、親子関係や姻戚関係に焦点をしぼって調べてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。
家康の正室は生涯に、築山殿(瀬名姫)と朝日殿(旭姫)の2人だけである。築山殿は、家康が人質であり、後ろ盾にもなってくれた今川氏一族の出らしいが、確かなところは分かっていない。一説には、瀬名郷士の関口氏、あるいは持舟城主の関口氏が出自といわれる。関口氏は、その一族から、330年後の明治19年に、初代の靜岡県知事になった関口隆吉が出ている。関口知事は開通直前の東海道線に試乗していて、事故で負傷し、それが元で破傷風を発症して亡くなった。
家康は元服した翌年に、築山殿と結婚している。2年後、嫡子信康が誕生する。信康はその後、信長の5女徳姫と結婚したが、12年後、徳姫が「築山殿と信康が武田方へ内通している」との手紙を信長に出したため、信長はそれを口実に築山殿と信康処分を家康に迫り、家康は、築山殿を佐鳴湖東岸で斬殺し、二俣城に預けられた信康に切腹を命じた。浜松の近辺には築山殿ゆかりの「太刀洗いの池」や「築山殿の墓所」が残っている。また天竜区二俣の清瀧寺に信康廟がある。本能寺の変の起きる3年前のことであり、家康は長男信康を切腹させたことを生涯悔いたと伝わるが、あと3年経てば嫡子を失うことはなかった。
次男秀康は信康誕生から15年後に側室於万の方を生母として生れた。家康からなぜか疎まれて、小牧長久手の戦いの後、秀吉、家康の講和条件で、秀吉の養子となった。一方の条件に、秀吉の異父妹旭姫が婚家から呼び戻され、家康の正室になった。6年後、旭姫が聚楽第で没すると、その半年後に秀康は秀吉の養子から離れ、下総の大名、結城晴朝の養子となった。その後、越前北ノ庄へ移り、越前松平家の祖になった。
三男秀忠は秀康誕生の5年後に、側室於愛の方を生母として生れた。掛川市上西郷の戸塚忠春の娘といわれ、西郷の局と呼ばれた。この三男秀忠が二代目の将軍となる。浜松市常盤町に秀忠誕生井が残り、また西郷の局の墓所は、靜岡市の宝台院にある。地蔵巡りの途中で、宝台院に西郷の局の墓は残っていた。
家康の3兄弟のたどった道を思うに、戦国の世から天下統一に至る時代に、信長、秀吉、家康の戦国の雄の間で、パワーゲームの道具として、その運命は翻弄されたことが判る。
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