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安倍新政権への期待

(牛尾山から大井川上流の眺望)

衆議院議員選挙の結果は、有権者自身にも、大きな驚きであったようだ。しかし、このような結果は十分に予測されたことであった。また発足する安倍政権への期待感は、選挙後の方が日を追って高まっているように見える。

民主党は野田総理の解散判断が間違いであったという、怨み節が全党を覆って、再起の兆しが見えないまま、今もって呆然自失の態に見える。弁護するわけではないが、あの時点での解散は、野田総理の最大の功績であったと、後の世の歴史家は記すかもしれない。

内閣支持率が20%台に低迷し、不支持率が50%を超える内閣は、すでに死に体であった。国民に見放された内閣が、世界の国々から信頼されるはずがない。野田政権は勝負あった対局で投げ場を求めている棋士に似ていた。勝負がついているのに、最後まで投げないのは、有権者に対して大変失礼な話で、そこには党利党略以外の何ものもない。国民のため、国家のためを考えるならば、一日も早く解散して、国民の審判を仰ぐのが、正しい政治家の姿であった。

民主党の敗北原因は、政権を担う政党として未成熟であったという、一言で表現できる。もう一度、一から出直して、ぜひ二大政党の一角を担える力を付けていただきたいと思う。

解散があってから、市場は円安、株高に一方的に動き、株価は大きなハードルに見えた一万円を軽く越してしまった。新政権がまだ発足していないのに、日本の経済の足かせだった、円高株安が解消に向いているように見える。安倍新政権が目指す、デフレ脱却のためにインフレ率を2%に設定する経済対策を、マスコミはアベノミクスと呼んでいる。今日、日銀の金融政策決定会合の結果、10兆円の追加金融緩和策を発表した。さらに、日銀総裁は、安倍新政権のインフレ目標2%に、前向きの姿勢を示した。

新政権発足を待たずに、停滞していた様々なことが、支えが取れたように一斉に流れ出した。有権者には何が起きているのか、あれよあれよと思うばかりである。民主党政権の最大の失敗は、日本の官僚を敵に回してしまったことであろう。官僚には功罪があるけれども、戦後の日本を発展させてきたのは、政治家ではなくて官僚組織であった。政治家は官僚組織をうまく使って、自分たちの政治理念を実現するのが役割である。敵に回して、サボタージュをされたのでは日本は動いていかない。新政権発足を前に、官僚たちのサボタージュが一斉に解かれたのではないかと想像している。

東日本大震災の復興予算が実行されないで、残ってしまうことが問題になっている。各所で人手がないから実施できないと声が上るが、一方で災害復旧が送れて苦しんでいる人たちがいるわけで、そんな問題はやる気になれば解決できない問題ではない。民主党政権には官僚たちのやる気を削ぐものが多くあったのであろう。
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「大井川平成の大改修」見学会

(大井川改修工事現場)

一昨日、靜岡の友人、O氏から電話があり、大井川改修工事の見学に誘われた。その場で電話申し込みをして、今日の見学会に参加することにした。自転車で来るO氏とは現地で合流する約束をした。

「天正の瀬替え」の話はこのブログでも何度か取り上げたと記憶する。山内一豊が掛川城主の時代、大井川が山岳地帯から平野へ出るところで、山を削り川筋を変える大工事が行った。工事の主目的は別にして、結果として、自分たちが住んでいる五和地区は豊かな耕地へ開発されることになる。五和地区は、「天正の瀬替え」が実施される420年前は、大井川の川底であった。

瀬替えの名残りを留めて、牛尾山と対岸の相賀の間はわずか300メートルと、狭窄な川幅となっている。地元の見学者の話では、豪雨が続くとその部分が堰となって、瀬替えの下では流れの中央部分が盛り上がって流れて行くという。瀬替えの部分の改修工事は、治水上、地元住民の悲願であった。


(改修工事計画の案内写真)

大井川改修工事の計画は何年も前から進められていて、改修に伴い大井川の河床になってしまう、農地や宅地の買収などが進めらていた。そして、この九月からようやく牛尾山を削る工事に入った。高さ30メートルほどの牛尾山を削り取って、大井川の川幅を450メートルに広げるのである。半端ではない土砂の量があり、完成までこれから8年掛かるという。難工事というよりも、一度に予算が取れないから、それほどの年数が掛かるのであろう。


(牛尾山削取部分)

100人ほど集った見学者が3班に別れて、概要説明、牛尾山の上から見学、豊年岩側から見学、3班に別れて順々に入れ替わって見学をした。国交省の技術者が説明する中で、工事が進めば見られなくなる瀬替えの名残り部分を、今日はゆっくり見学されて、冥土の土産にして下さいと、口を滑らせた。参加者には確かに冥土に遠くない人たちが多い。見学者の一人が、それはよい冥土の土産になると、口に出して頷く。失言に対する突っ込みのつもりである。


(牛尾山から豊年岩)

架設の梯子段で尾根まで登って見学したけっこう高くて、土砂が沢山出るとの話が頷けた。瀬替えで切り開かれた大井川の河床に白い岩が露出して、豊年岩と名付けられている。一説には岩が堅くて残されたと言いながら、周囲の土砂が流されて、工事の後に露出したのだろうと説明があった。


(豊年岩に近寄ってみる)

下へ降りて、河原を牛尾山の鼻の部分まで行き、豊年岩をすぐ目の前にした。豊年岩も工事で取除くのか聞けば、豊年岩はそのまま残しますとの答えが戻ってきた。いつもは流れから顔を出しているが、水量が増えればすぐに水没してしまう程度のもので、流れには支障はないようであった。

約1時間半ほどの見学会を終えて、O氏は我が家に立ち寄り、簡単な昼食をしながら、2時間ほど歓談をして、自転車で帰って行った。靜岡まで2時間ほどで着くようだ。
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衆院議員選挙雑感

(咲き始めたサザンカ)

衆院議員選挙が終わって二日経つ。テレビでは一斉に選挙結果を受けた報道が始まっている。今日は敗戦後の初閣議が開かれた。まるでお通夜のような雰囲気であったという。それもそのはずで、閣僚のうち8人が落選して、一般人になってしまったのである。野田総理の陳謝で始まった閣議後、会見に応えた閣僚たちは、あの時点で解散を決断した野田総理に、恨み辛みをぶっつけていた。自分たちの責任に言及した落選閣僚はいなかった。落選させた有権者は賢明であったと思う。民主党内でも、天下、国家のために粉骨砕身していた議員は、こんな逆風の中でも当選して戻ってきた。

民主党の惨敗は解散の時期が悪かったためではない。民主党は、自民党からはじき出された人たちと、政権に関わってこなかった野党の人たちが、二代政党の確立を急ぐ余り、豪腕の小澤一郎の力を借りて、マニフェストという旗を掲げ、その旗の下に集った人々で作った党であった。不幸なことに、国家ビジョン、政治理念など未成熟のうちに、追い風強風に乗って、図らずも政権を取ってしまった。

机上で、妥協の産物として作られたマフフェストだから、実行しようとすると、当然、あちこちで齟齬を起す。日々世界は動いているし、大震災のような予期せぬ出来事が頻発するから、マニフェスト通りに政策が実行できるはずがない。国家ビジョンや政治理念が確立しておれば、それに照らしてマニフェストの調整が上手に出来たであろう。しかし実際にはマニフェスト通りに出来なければ、マニフェスト違反の大合唱がたちまちに起きる。野党から起きるのは当然だが、与党内からも起きて、それを理由に党は分裂じ、解散前にはすでに国会運営すら、まともに出来なくなって、解散に追い込まれた。

野田総理の判断は民主党にとっては最悪だったのかもしれないが、国家にとってはその時期がギリギリの限界であった。野田総理が選挙で勝利できると楽観していたはずはない。このような惨敗も覚悟しての解散だったと思う。何も決められない状態を、さらに半年続けることは、国家にとって大きな損失だと考えて、解散に打って出たのだと思う。自爆テロ解散だと言ってのけた、田中真紀子氏の言葉を借りれば、テロの対象が民主党にもろに向いてしまった。

今回も、親の地盤を継いだ、2世、3世議員が多く当選を果した。2世、3世議員については批判が多い。しかし、小選挙区制になって、たとえ親の地盤を継いでも、本人の資質と自覚が無ければ、一回は当選できるかもしれないが、何もしないで継続させてくれるほど、今の選挙民は甘くない。越山会という親が作った強力な後援会を持ち、数々の問題を起こしながらも、7回連続当選してきた田中真紀子文科大臣の惨敗は象徴的なものである。うちの選挙区でも、世襲が儘ならなかった例を複数知っている。

当選者名簿を見ると議員が随分若返ったと思う。これだけ自民党が強かった選挙の中で、加藤紘一氏が落選したのは、幾つかの耳を疑うような問題発言に加えて、高年齢、健康不安などに対して、有権者がレッドカードを出したものとして、大変に注目される。

議員数削減、歳費削減など、議員に対して大変に厳しい目が向けられている。確かに480人は多いかもしれない。しかし、議員数も歳費も、議員の懸命な働きが伴っておれば、文句を言うことではない。一年生議員は一生懸命勉強するのが仕事であろうし、それぞれに自分の得意分野で活躍してくれれば、OKだと思う。ところが、一般の有権者は議員が個々に、日々どのように活動しているのか、全く見えない。見えるのは議場で居眠りしている醜態くらいである。

議員全員が日々の政治活動を、ネットなどで公表することを義務付ければ、有権者もその情報を確認して、次回以降の選挙に参考に出来る。問題を起こした議員を選んだ有権者が悪い、と言われかねない中で、何も情報なしにマニフェストだけで議員を選んでいるから、民主党のような未熟な政党が政権を取ってしまう。
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91陽徳寺 - 駿河百地蔵巡り 13回目

(花の少ない庭に咲き出したサザンカ)

この日に撮った写真は別のSDに別ファイルで保管していたが、昨日写真の加工作業をしているときに、ファイルを壊したようで、インデックスが不良とかで、開くことが出来なくなってしまった。復旧の方法がないのだろうか。お天気が良くて、富士山の写真も沢山撮ったのだけれども、残念である。

   *    *    *    *    *    *    *

旧東海道を通って、間の宿、岩淵に至ると、左手に新豊院というお寺があった。山門左側に、古い風化したお地蔵さんが立っている。釣られて境内に入ってみると、火伏地蔵尊という座像の地蔵があった。案内碑によると、元は吉津の西方の愛宕山山頂に鎮座していた地蔵尊で、宝暦九年(1759)上町三度屋富利が建立した。江戸時代飛脚問屋で代々斉藤儀左衛門を襲名している。

愛宕山の火伏せの神様と、地蔵信仰が融合して、火伏地蔵となったもので、興味深い地蔵尊であった。

この後、富士山のビューポイントの富士川べりを散策し、富士川を渡って、富士、吉原とほぼ旧東海道に沿って歩いた。もちろん地蔵を探しながら行くが、お地蔵さんをなかなか発見できない。街道筋には、馬頭観音、秋葉灯籠が多く見受けられ、富士川を越すと道祖神を多く見るようになる。しかし、お地蔵さんはパッタリ見なくなった。地蔵信仰が拡がった地域とそうでない地域はまだら模様になっているのだろうか。この辺りは宗教的には日蓮宗や富士浅間信仰の多い地域で、地蔵信仰はあまり拡がらなかったのであろうか。

吉原の商店街を東へ歩いて、岳南鉄道吉原本町駅をすぐ右に見て踏み切りを渡ってすぐ右に入った所に、第九十一番陽徳寺がある。この御本尊は、右手に錫杖、左手に宝珠を持った等身大の木造地蔵菩薩立像である。「身代わり地蔵尊」と呼ばれて長く信仰を集めてきた。

この地蔵尊は、昔、駿東郡青野村の光明庵と言うお寺に祀られていた。大洪水で、元吉原宿付近まで流されてきたものを、宿場の人が救い上げて陽徳寺のご本尊にしたという。眼病が流行ったときに、お地蔵さんに快癒を願ったところ、眼病がたちまち治り、逆にお地蔵さんにいっぱい目やにが付いていた。それから、このお地蔵さんは「身代わり地蔵」と呼ばれるようになったという。

境内にも何体か石の地蔵尊立像が立っていた。そこにも身代わり地蔵と立て札が立っていたから、いつもは開帳されていない御本尊の代わりをするのであろう。旧東海道を歩いたとき、ここには立寄ったことを思い出した。

今回は、この後、旧東海道を左富士を見たりしながら、JR吉原駅まで歩いて、地蔵巡りを終えた。本日の歩数37,982歩、距離20キロであった。
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89泉龍寺、90宗清寺 - 駿河百地蔵巡り 13回目

(投票証明書)

衆院選挙が本日あった。10時前に投票へ行く。「投票証明書」なるものが要求すればいただけると新聞で知って、投票を終わった出口にいた役場の職員に頼んでみた。頂いたのが写真のものである。野守の池の冬季イルミネーションの写真が付いている。こういうものが出ているとは、今まで知らなかった。多分、法令に基いたものなのだろうが、現場ではあまり出す気は少ないようで、言われて証明書を取りに行った。パソコンで簡単に印刷できる程度のものであった。ところで、この用紙は何に使うのだろうか。その後で寄った散髪屋の親爺は、この証明書を持って行くと、まけてくれる店があるらしいという。いい加減なことを言う親爺だと思った。

   *    *    *    *    *    *    *

(昨日の続き-なお、写真がトラブルで消えた)
第八十九番泉龍寺は旧蒲原町役場の北側にある。途中で立ち話しているおばさんに聞くと、来過ぎたから戻れと教えてくれる。随分自信があるように話すので、少し戻ってみたが、通って来た道を戻るわけで、信用できなくて、出会ったおばあさんに再び聞くと、反対にもっと先だと教えてくれた。再度戻って少し進んで、今度はおじいさんに聞いてみた。さらに300メートルほど先にある、旧蒲原町役場の裏の泉龍寺をしっかりと教えてくれた。あのおばさんはどこと間違えたのだろう。

泉龍寺には境内左手にかつて地蔵堂であった建物があった。八十九番の御詠歌が掲げられてある。しかし、中を覗くと明らかに物置と化していて、どこにも地蔵尊が祀られている様子が無かった。本堂に移されているのかもしれないが、追求せずに次へ進んだ。

次の第九十番宗清寺に向かう。蒲原から富士川へ向かう旧東海道は崖下を行く道と山越えの道がある。山越えの道を取ってしまったが、宗清寺は崖下の道の旧東海道沿いあったようで、少し回り道になってしまったようだ。

宗清寺には石造りの笠被り地蔵という有名なお地蔵さんがある。案内板によると、頭上に大きな笠を頂き、手は法界定印を結び宝珠を持ち、結跏趺坐している。像高1.55メートル、笠直径1メートル。笠を除き一石に彫られている。寛政九年(1797)、中之郷村名主田中傳四郎が夭折した愛児の追善供養のために、由比川上流産の石材で、信州の石工又兵衛、金左衛門に製作させ寄進したものである。山門右側に安置され、前面を通る東海道に向いていたので、旅人達の評判となり、笠被り地蔵尊の名声は高かった。昭和54年、現位置へ覆堂を建てて保護した。

境内左手に柱を真紅に彩色したお堂が建っていた。「駿河一国百地蔵尊第九十番」の板もしっかりと掲げられていた。提灯には「延命福地蔵菩薩」とあり、地元では福地蔵と呼ばれ、延命地蔵として信仰を集めている。
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87桃源寺、88霊光院 - 駿河百地蔵巡り 13回目

(地持院の横長の地蔵堂舎)

12月13日、快晴にして無風に近い天候の下、13回目の地蔵巡りに出かけた。今日は由比駅を下車して歩き始めた。最初に由比宿の北側にある豊積神社の東側にある地持院へ行く。石庭のある境内の左手に、地蔵尊石像が集められた横長の堂舎があった。子安地蔵や六地蔵と並んで、最も左側に「掘出し地蔵」と札の付いた、風化の激しい小さな地蔵尊があった。「大正初期由比貫井地持院宅地からほり出された」と記されていた。

地持院のすぐ南側に第八十七番桃源寺がある。しかし、地蔵尊がある様子は無く、当然「駿河一国百地蔵」の板も見当たらなかった。ここで有名なのは、境内の大イチョウ、七体の観音菩薩石像、双体の道祖神で、案内板に記されていた。


(入上地蔵堂)

由比川の手前に人寄りがしていて、何事かあらんと見ながら通った。どうやら衆院選の候補者が来るので、応援に出ているらしく見えた。由比川を渡った右手に地蔵堂らしきお堂を見つけて、立寄ってみた。「入上(ゆりあげ)地蔵堂」と案内板があった。この由比川は一たび大雨になると急に水かさが増し、渡る途中に溺れて水死する者もあって、そういう水難者を祀った川守地蔵であった。


(由比一里塚地蔵堂)

かつて由比宿の外れに一里塚があって、現在は石碑が立っているのみであるが、そばに小さな地蔵堂がある。由比一里塚地蔵堂と呼んで置く。中に立像と座像の2体の地蔵尊が祀られていた。


(霊光院本堂)

蒲原に入って、蒲原駅の北、山を少し登ったところに、第八十八番霊光院がある。昔ハイキングで、大丸山、金丸山に登ったとき、途中に立寄ったことを思い出した。モダンな本堂と見上げるような観音立像が記憶に残っていた。御本尊が地蔵菩薩である。境内からすぐ下を東名高速道路が通り、蒲原の町並み、駿河湾、伊豆半島まで見晴らすことが出来る。足下の東名高速が出来るときに、霊光院が掛かり、一段上の当所へ移転してきたという。「駿河一国百地蔵」の板も見当たらず、本堂も閉まっていたので、拝観しないで進んだ。


(貞心寺の小さな地蔵群)

旧東海道よりも山側の道を東へ歩いた。途中で貞心寺というお寺に寄ってみた。門は閉まっていたが、脇の戸を開けて境内へ入った。境内左手に紅葉したドウダンに挟まれて、小さな地蔵がびっしりと立っていた。その左手にも子安地蔵尊を中心に小さな地蔵が囲んでいた。そこに次のように刻まれた石碑が建っていた。

  父をば慕い母を恋い 切なき声に尋ねゆく
    幼なき児らをひきよせて つつむ法衣の慈悲の袖


奇しくも本日(12月15日)、テレビでアメリカの小学校での銃乱射事件を報じていた。20人の子供たちを含む26人が犠牲となった。打ち続く銃乱射事件にも関わらず、アメリカは銃規制が出来ない。突然に生を絶たれた子供たちはどこへ迷っていくのであろう。
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雨桜天王社神主の一件(3) - 掛川古文書講座

(東名高速道路と富士山 - 蒲原・富士川間)

(昨日のつづき)
双方の言い分を聞いて、御本所吉田家の裁定は上村筑後の全面勝訴という結果になった。上村筑後の強硬な姿勢は裁定への自信から来るものであった。永年、御朱印継目の度に手厚くお礼をしており、年々のお付き合いも上村筑後が代表して行ってきた実績が自信の元であったのであろう。

右出入一件、再応遂げられ、御吟味候処、雨桜天王神主は、田中村、上村筑後家にて前々より相務め、御朱印御継目の度毎、並び、公儀年限の御礼申し上げ候儀も連綿致し、旅所六所大明神も、神主兼帯仕り候儀、歴然の事にて、外に神主これ無き儀、相違これ無く候処、今度肥前因幡申し合い、六所大明神社地に永正年中より、これ有り候釣鐘銘文の由緒など申し立ても無証拠の趣、かれこれ申し紛し、社頭仕来りを乱し、新規の企てを以って、同国長上郡小池村、神主竹山日向、取次を以って、御本所吉田家へ相願い、六所大明神神主の許状頂戴の次第、不埒の至りに付、右許状は御取り上げに相成り候

残る三人の社家とも、神職不相応の心得違い候儀、以来社頭において表立ち候、祈祷修行雨乞などに限らず、神主、社家一同申し合うべき候

神主儀、出入始末非分にはこれ無く候えども、御本所吉田家より再応御呼出の節、御断り申し上げ置き候のみにて、一応の御請けにも罷り出ざる儀、御本家吉田家へ対して、不敬の至りにこれ有るべく候、

※ 非分(ひぶん)- 道理にはずれたこと。また、そのさま。

御本所吉田家といえども、お上の御意向には逆らえない。おそらく、しかるべき公儀役人からの口添えもあったに違いない。裁定は一転して許状取り上げという、上村筑後の全面勝訴となった。御本所吉田家は図らずも公儀に従うことになった腹立たしさから、再応の呼出しを無視した上村筑後に、不敬の至りと申し述べた。その言葉に気持が出ている。

この外相互に申し争いの儀は、口上のみにて、無證拠の儀ゆえ、御取り用いこれ無く候、これにより仰せ渡され候は、以来、社中に新規の儀を企てず、古来の仕来りを相守り、神主、社家、社人の次第を乱さず、永く和融いたし、再論に及ぶまじき旨、仰せ渡され、一同承知畏まり奉り候、後證のため連判一札差し上げ申す所、よって件の如し
      訴詔人
       遠州佐野郡上垂木村雨桜天王神主
         同郡田中村   上村筑後
 寛政二庚戌年十一月
      相手方
       同社家
         同郡下垂木村  戸塚肥前
      相手方
       同社人
         同村      中村因幡
      相手方
       同社家
         同郡遊家村   山崎出雲
      相手方
       同社家
         同郡上垂木村  平尾長門
      相手方
       同社家
         同村      近藤淡路
 掛川
   郡御奉行所


来月の講座も「雨桜天王社神主の一件」の関連文書を読むので、来月へつづく。
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雨桜天王社神主の一件(2) - 掛川古文書講座

(富士川の川端から、富士山の絶景)

朝起きたときに、寝違えたのか首が少々痛んだが、いつもの時間に、快晴無風の中、地蔵巡りに行った。一日、五合目辺りまで雪を頂いた富士山がよく見えた。なお、地蔵巡りの記録は後日として、昨日のつづきである。

   *    *    *    *    *    *    *

次に、相手方の言い分を記している。あくまで上村筑後が報告しているので、微妙に言い分が省略されて、曲げられているようだが、それはまた後で分かる。

一 同州同郡同村、六所大明神神主、戸塚肥前、中村因幡、答え候は、同所釣鐘銘文に神主、三郎左衛門、三郎右衛門とこれ有る儀は、私ども先祖の由、申し伝えにて、この由緒を以って、神主の許状頂戴仕る、勿論免許の装束、祭礼の節、着用仕り候処、筑後相咎め、かれこれ論談の上、その日は神拝計り装束仕り、神輿供奉の儀は、先々の通り麻上下にて相済み候儀に御座候、相互に論儀決定仕らず候故、なお又御本所吉田家へ相伺うべき旨、申し置き、その後一同出京仕り候

双方御糺しの上、帰村仕り、内済仕り候様、仰せ渡され候えども、内済相成らざる旨、筑後御断り申し上げ、一同帰村仕り候

その後又この一件に付、出京仕り候様、御本所吉田家より御沙汰これ有り候えども、御朱印御継目に付、罷り出難き旨、筑後より申し上げ候由、御朱印相渡し候ても、筑後罷り出申さず候儀ゆえ、私どもも罷り出申さざる儀に御座候


御本所吉田家は、戸塚肥前、中村因幡の神主の許状については、一度許状を出した経緯もあり、白黒の判断を避け、内済するように勧めた。しかし、上村筑後が強行で、内済を拒んだ上、再度の出京も御朱印御継目の時期を理由に拒んだ。上村筑後がここまで強気になれたのはなぜだろうと思ったが、これも後々理由が判ってくる。

山崎出雲、平尾長門、近藤淡路、申し上げ候は、表向きは、筑後壱人神主に御座候えども、内證は同様に神務仕り、装束などまで同様の儀ゆえ、神主、社家は同躰異名と相心得罷り在り候儀、御座候

さて又雨乞祈祷の儀、神主へ届けも仕らず、天王社にて修行仕り候儀は、前々よりの仕来りに御座候旨、申し上げ候処、段々申し上げ候趣、心得違いにこれ有るべき旨、御利害仰せ渡され候に付、ごもっとも承知仕り、これまで心得違い仕り候旨、申し上げ候なり


山崎出雲、平尾長門、近藤淡路の3人は、今までもそのような仕来りで、やり方を特に変えたわけではないと答弁したが、心得違いを御本所吉田家に指摘され、自分たちの非を認めた。(つづく)
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雨桜天王社神主の一件 - 掛川古文書講座

(本日購入した「しずおか百地蔵」靜岡リビング社刊
- 明日は地蔵巡りに行く)

掛川の上垂木に現在もある雨桜天王社の神主について、神主の上村筑後が、社家、社人5人を訴えた文書で、天明四年(1784)に始まり、寛政二年(1790)に一応の決着をみている。この文書は決着に至るまでを、順を追って、掛川の郡奉行所へ報告した文書の控えである。最初の部分は上村筑後が訴えた部分で、訴えた先は、御本所吉田家である。

江戸幕府は神社を間接統治するために、全国の神職の管理を御本所吉田家に委ねた。御本所吉田家は全国の神社を統治する役目を負った。江戸幕府は様々な専門分野で、同様の間接統治方法を取っている。

文書を最初より読み下し文で示す。最初の部分は上村筑後の言い分である。

  差し上げ申す一札の事
遠州佐野郡上垂木村、雨桜天王神主、同郡田中村、上村筑後、訴え候は、当社
御朱印高七拾五石の内、神主、社家、社人、その外社役に応じ、配当仕来り候儀に御座候

天王御旅所の儀は、上垂木村六所大明神と唱え、この社において、別段神主これ無く、筑後代々兼帯の場所に候処、相手肥前、因幡両人申し合い、七ヶ年以前、天明四辰年、神主の私へ届けもこれ無く、同国長上郡小池村神明神主、竹山日向相頼み、右御旅所にこれ有る、永正年中の釣鐘銘文にこれ有る名前、両人先祖の由緒に申し紛らわし、御本所吉田家へ願い奉り、両人共に六所大明神神主の許状、頂戴仕り候

※ 兼帯(けんたい)- 一人で二つ以上の職務を兼ね帯びること。兼任。兼務。

彦兵衛儀は別して、これまで一と通り、社人にて御座候処、官名まで申し請け候て、既に翌巳年六月七日、天王祭礼の節、右両人神主の装束にて出仕、例に相違の趣、相咎め候えば、御本所吉田家より免許の旨、相答え候、なお又申し談じ候は、新規の儀、相願い候節は、その次第もこれ有るべき儀、兼々御本所吉田家より、御触れ流しなどこれ有る儀、掟を破り候始末、取り計らい心得難き旨、申し候えども、かれこれ申し争い、社法相背き候儀とも、打ち捨て難く、御本所吉田家へ、双方罷り出、子細相伺い候に付、一と通りは御糺しこれ有り候えども、御捌(さば)きも成され難き由にて、帰村の上内済仕り候様、仰せ渡され候、帰村の儀は、畏まり奉り候えども、内済の儀は御請け仕り難き旨、申し上げ罷り帰る

又その後双方罷り出候様、御沙汰御座候えども、御朱印御継目の時節ゆえ、罷り出候儀、相成り難き旨、御断り申し上げ候、このまま打ち捨て置き候ては、この上我意に任かせ、如何様の儀、出来仕るべくも、計り難き儀に御座候、この外、三人の社家どもには、前々より御朱印の儀は、天王より頂戴にて、公儀表は筑後壱人神主にても、内證は神主、社家、神務など、同様の儀にて、公儀年頭の御目見え、その外、御朱印御継目などの節、筑後出府の儀も、御朱印配当、仲間高割りを以って出銀仕り、筑後差し出し候儀ゆえ、神主、社家は同躰異名などと申し掛かり、既に天明四辰年、近村より願いにて、天王社において、雨乞祈祷仕り候節も、神主に届けも仕らず、社家とも心ままに、社頭において修行仕り候
※ 継目 - 家督・位・役職などを交替すること。

雨桜天王社は幕府から75石の石高の御朱印状を貰う由緒ある神社で、この御朱印状は将軍が代替わりする度にチェックを受けて安堵される。継目は将軍の交代を意味する。

雨桜天王社は神前に桜の古木があり、神木といわれ、往古よりこの桜に雨乞いをすると叶うので、「雨桜」と名付けられた。だから雨乞の祈祷は度々行われたのであろう。

社法右躰、猥りがましく相成候儀とも、制し候えども、取り用いず、銘々我が意申し募り、迷惑仕り候に付、願い上げ奉り候、右一件の者ども召し出され、御吟味成し下されたきの旨、申し上げ候なり(つづく)
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石川数正という武将 - 駿遠の考古学と歴史

(しゃべる蛍光灯)

台所の天井の蛍光灯が、この頃、突然にしゃべった。「蛍光灯の光量が落ちています。お取替えをお勧めします。」最初に聞いたときは家族で何事かとびっくりした。洗濯機や冷蔵庫などしゃべる電化製品は増えたけれども、この蛍光灯は何年もしゃべる能力を隠していて、いきなりしゃべりだしたのである。

見たところ暗くなったとは全く感じない。もっとも、暗くなったと感じない前に指摘するからしゃべる意味があるので、蛍光灯の早期交換を促進するには効果があるけれども、蛍光灯が駄目になったら言われなくても分かるから、開発者はグッドアイディアだと考えたに違いないけれども、消費者にとっては全く無駄な機能である。暗くなったと感じるまで蛍光灯を換える気はないから、大きな御世話である。どういうタイミングでしゃべるのか分からないけれども、以後再三その声を聞く。おそらく蛍光灯を換えるまで続くのであろう。便利というのは、我慢の裏返しのようだ。

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「駿遠の考古学と歴史」の講義の中で、度々石川数正という名前が出てきた。石川数正が出る場面を以下へ抜き出してみる。

1549年、家康が今川氏の人質となって8歳で駿府へ行くとき、石川数正が随行している。
1561年、桶狭間の戦い後、信長と今川軍の先発隊であった家康の講和を斡旋したのは石川数正であった。
1562年、家康が鵜殿長持を攻め、子氏長・氏次を捕虜にし、石川数正が駿府へ出向き、築山殿母子3人の人質と、人質・捕虜の交換を果した。
1580年、家康の長男信康切腹後、石川数正がその霊を菅生八幡に合祀し、若宮と称した。
1582年、本能寺の変後、石川数正は本田正信らと、家康に従って伊賀越えをし、岡崎城へ逃げ帰る。
1583年、明智光秀を倒した秀吉が賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒した後、家康の使者として、近江坂本城の秀吉に戦勝を賀した。
1584年、秀吉と家康・信雄(信長の後継)とが戦った小牧長久手の戦いでは、石川数正は小牧山の本陣を守った。
1584年、秀吉と家康の講和する中で、家康次男秀康が秀吉の養子となったとき、石川数正の子、康長・康勝が随行する。
1585年、岡崎城代石川数正が秀吉の許へ走った。
1590年、石川数正、信濃松本藩の初代藩主となる。
1593年、石川数正死去。享年61歳。

石川数正は家康より8歳年上で、家康の側近中の側近として、戦国の群雄の中で翻弄される若い時代の家康と常に行動を共にしてきた。軍事面においても、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、多くの合戦で武功を挙げた。しかし、石川数正の活躍は、諸侯との交渉、特に秀吉との交渉において顕著であった。それゆえ、家康の懐刀と呼ばれた。

秀吉の許へ走った理由は諸説があってはっきりしないけれども、交渉相手であった秀吉にその外交手腕が認められていたことは確かであろう。

石川数正は石川伯耆守であったので、秀吉の許へ走った際に、次のような落書があったという。

 「徳川の家につたはる故はゝき(古箒) 落ちてのちは木の下をはく」
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