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「駿河安蘇備 上」を読む 77

黒田家代官屋敷の長屋門

黒田家代官屋敷の白梅


黒田家代官屋敷の紅梅

今日は天皇誕生日(祝日)だったことを、今朝まで知らなかった。毎日が日曜日の身にとって、近年の祝日にはなかなか付いて行けない。

思い付いて、早めの昼食後、菊川市(隣町)の黒田家代官屋敷の「梅まつり」を見に行く。黒田家代官屋敷を訪れるのも久しぶりである。庭にたくさんの梅が植わっていて、祭りの期間は無料で開放されている。庭内、紅白の梅は満開にもう一歩といったところであった。

黒田家は支配が色々変わりながら、明治になるまで、一貫して、この地域の代官を勤めてきた家柄で、広い屋敷は堀に囲われている。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。
 
遠藤新田 文禄年間、遠藤伝左衛門正忠、甲斐国より
ここへ来たり、荒廃の地を開発す。
身延山過去帳 遠藤左衛門尉、法名宗広。永正十五年十二月二十五日、云々。
その子、伊勢守正綱、同国粟の倉村に居城すと、永禄四年、川中島合戦に
討ち死にす。正綱の長男、尾張守正則、父とともに討ち死にす。二男伝蔵正忠、
後に伝右衛門と称ず。勝頼に仕う。天正十年、勝頼に随って、天目山に
(のが)る時に、勝頼の妹、於市殿と申すあり。助命致させたき旨、勝頼の命
にて、土屋惣藏、原甚蔵、遠藤伝蔵、三人の内へ、妻子与え立ち去り候様
にとて、鬮(くじ)にて伝蔵当たり、その場よりお市殿を具して、甲州成嶋村
の山間に隠る。文禄年中、駿河国安倍川の西岸、中の郷村に
来たり住みて、そこの芝地を開きて田畑とす。世の人、遠藤原と云う。
御縄入れの後、遠藤新田と云う。伝左衛門正忠、寛永十八年正月
二十三日、八十八歳にして死す。法性院法伝居士と云う。その長男、
五郎太夫正勝、家を続(つ)ぎ、二男兵右衛門正全、紀州御家に
召し出され、三百石を賜う。五郎太夫の母、信玄公の女(むすめ)お市殿、母は江州
浅井長政の臣、遠藤喜右衛門の孫なり。五郎太夫家、今に
存ず。武田家感状も蔵す。
(つづく)
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