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「駿河安蘇備 上」を読む 68

庭の、冬のガーベラの花
先日の寒さに傷ついているが

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

勤臣子孫、延暦年中改姓して、滋野宿祢となる。山中旧民、海野
なるもの数え難し。また東人、この国の守たりし時に、親族三十四
人、伊蘇志臣族賜るということ、この辺りより黄金出るは、称徳天皇の
御時、初めてこれを献ず。その後、醍醐天皇、延暦二壬戌年に
出だしより、久しく中絶して、享禄年間(一五二八~一五三二)、今川氏輝朝臣の時なり。
宗長の手記に、大永年中の条、金二両また金三両など
贈り来たりしことを記す。今川小判と称するは、この金なり。両重さ
八分、小判の形にて、槌の跡あり。
※ 銭(せん)➜ 秤目で、貫の一〇〇〇分の一。匁(もんめ)。
金山の繁昌したるは、慶長年間にて、今これを元栄(もとさかえ)と云う。
大小金礦を開きて堀りし。黄金出ること夥し。駿府において、
※ 金礦(きんこう)➜ 採金の坑。
後藤庄三郎鋳る所、駿河小判と云う、これなり。その後、貞享中、駿
府の市商、桑名屋六郎兵衛はじめ、二十人請負のこと申し承りて、
掘り出す。五年を経て、御手山と云うものにて、年を経たり。元禄四年
より村請けとなる。同十四年より、また駿府桑名屋六郎兵衛、再び
請負を命ぜられ、宝永六年、金山禁止となる。正徳三年、また
右桑名屋六郎兵衛請負、享保六年禁止。村民追掘り役金を納めて、
追掘り沢流れの事をなす。享保十六年、江戸町人へ命ぜられ、
五年掘り出す。宝暦九年より、村民沢流れの砂金を出す
のみなり。いまだ金鉢のありし跡、また、奉行屋鋪、御蔵やしき、
傾城やしきなど云う所あり。山繁昌の時は遊女までありしと
云う。貞享三年三月、御蔵その外、御殿、払いになると云う。
(つづく)

読書:「南町奉行と犬神の家 耳袋秘帖」 風野真知雄 著
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