ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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デフレ脱却の経済学1~岩田規久男氏

2013-03-06 08:44:17 | 経済
●わが国がデフレに陥った経緯

 わが国は、平成10年(1998)後半からデフレに陥っている。戦後先進国でデフレに陥ったのは、わが国だけである。しかも現在まで、15年間もの間、デフレが続いている。その間、毎年3万人以上の自殺者が出ている。かつて敗戦から短期間に復興を成し遂げ、世界を驚かす高度経済成長を成し遂げた日本が、これほどまでの混迷に陥るとは、誰が想像しただろうか。
 デフレに陥った直接的な原因は、橋本内閣の失政にある。まずそこまでの経緯を振り返ると、敗戦から復興したわが国は、昭和35年(1960)から高度経済成長を成し遂げた。昭和40年不況、46年のニクソン・ショック、48年の第1次石油ショック、53年の第2次石油ショックも乗り越え、わが国は経済大国にのし上がった。この間、日本銀行はインフレの行き過ぎにならぬようにしながら、経済成長を可能にする金融政策を行った。
 わが国は、昭和60年(1985)のプラザ合意後、ドル防衛に協力のため円高が進み、日銀は金利を引き下げ、余剰資金は土地や株に向った。62年(1987)からこの傾向が顕著になり、バブルが膨らんだ。株価や地価は天井知らずに上昇した。インフレの昂進を恐れた日本銀行は、平成元年(1989)5月に金融引き締め政策に転換し、以後も金利の引き上げを続けた。そのため、2年初頭から株価が暴落し、続いて3年半ばから地価も暴落した。好景気で多額の借り入れをしていた企業は、一転して借金返済に追われるようになった。借金を返すために、売上高を伸ばそうとすると、供給過剰で物価は下落する。それが続くとフローのデフレになる。デフレになると、貨幣の価値が上がるから、債務は一層重くなる。株価や地価の暴落により、資産の価値も下がっていく。それが続くとストックのデフレ(資産デフレ)になる。資産のデフレは、一層フローのデフレを進める。こうした債務デフレによるデフレ・スパイラルが下降回転をしていった。
 日本経済は、国内企業物価指数で見ると、平成元年(1991)後半からデフレ状態になり、GDPデフレーターで見ると、平成6年(1994)からデフレ状態になっていた。そして、平成10年(1998)には、消費者物価指数で見て、本格的なデフレに陥った。
 バブルの崩壊によって大打撃を受けたわが国は、1990年代において経済的回復の過程にあった。ようやく回復の兆しを示していた時、平成8年(1996)橋本龍太郎内閣が成立した。
 橋本内閣は、財政改革に重点を置いた構造改革を開始した。橋本首相は、粗債務だけを示して財政悪化を強調する大蔵省(現財務省)の資料を鵜呑みにして、わが国は財政危機にあると判断した。そして、GDPデフレーター(物価の総合指数)がマイナスでデフレ傾向にあるときに、基礎的財政収支均衡策を取って緊縮財政を行い、財政健全化を図るとして、平成9年度(1997)に消費税を3%から5%に引き上げた。その結果、消費は冷え込み、不況は深刻化した。橋本内閣は、これに加えて、アメリカの強い圧力の下、外国為替法を改正し、「金融ビッグバン」を行った。時価会計・減損会計、ペイ・オフ、銀行の自己資本比率規制が導入され、わが国の経済は悪影響を蒙った。そのほか様々な失政の結果、わが国は本格的なデフレに陥った。
 橋本緊縮財政の結果を見て、後継の小渕恵三内閣は経済政策を軌道修正した。平成10年(1998)後半から12年度(2000年度)までの積極財政によって、日本経済は回復の兆しを示した。だが小渕氏が急病に倒れると、森喜朗内閣が橋本内閣を継承する構造改革政策をまとめ、平成13年(2001)4月に成立した小泉純一郎内閣は、構造改革路線を強力に推進した。
デフレ脱却を最優先とすべき状況において、竹中平蔵大臣が経済政策を取り仕切り、新自由主義的・市場原理主義的な政策を進めた。それは1997年度の大増税の失敗を反省することなく、再び緊縮財政を強行するものだった。
 当時、経済学者の菊池英博氏は、平成13年(2001)2月27日の衆議院予算委員会、及び3月15日の参議院予算委員会公聴会で、「日本の財政は純債務でみるべきであり、財政支出余力は十分ある。日本は積極財政をとらないと、財政赤字は拡大し、政府債務は増加するばかりだ」と公述した。その後も、「小泉経済政策では財政赤字が拡大し、日本は行き詰まるであろう」と言い続けた。14年(2002)2月27日の衆議院予算委員会公聴会では、「緊縮財政(とくに投資関連予算の削減)を継続する限り、デフレは一段と進み、財政赤字は拡大するばかりだ」と主張した。
 その後の推移は、菊池氏が警告した通りになった。歴代の自民党政権は、橋下=小泉構造改革の弊害を総括せず、財務省の財政均衡主義につき従い、デフレを長期化させた。デフレは長引けば、経済の縮小をもたらす。そこに平成20年(2008)9月、リーマン・ショックによる大波が押し寄せた。自民党政治への国民の不満は募り、21年(2009)9月、政権交代により、民主党が政権に就いた。民主党は、所得再配分に重点を置いたバラマキ型の政策を行い、わが国の経済は混迷を深めた。東日本大震災は、さらに深刻な損害をもたらした。24年(2012)12月、再度の政権交代により、第2次安倍政権が誕生し、ようやくデフレ脱却を最優先とする経済政策が実行されつつある。
 この15年間、デフレによる負の需給ギャップの拡大で、わが国がどれほどの富を失い、国民がどれほどの痛みを味わってきたかしれない。平成13年(2001)当時、菊池氏とは違う観点から、わが国がデフレに陥っていることを明確に指摘し、デフレ脱却策を提案していたエコノミストに、岩田規久男氏がいる。菊池氏は、主に政府・財務省の政策を批判するのに対し、岩田氏は、日本銀行の政策を批判する。ともに歯に衣着せぬ言論であり、英知と勇気と愛民に裏付けられている。
 岩田氏は、わが国がバブルの崩壊後、デフレ状態になっていた平成7年(1995)に、日銀の金融政策への批判を開始した。岩田氏は、平成13年12月に『デフレの経済学』(東洋経済新報社)を刊行した。その後も岩田氏は一貫して、わが国がデフレに陥った原因を追究し、デフレを脱却するための具体策を示し続けている。安倍政権は、岩田氏を日銀副総裁の候補とする人事案を国会に提示している。これまで、誰よりも日銀の金融政策を厳しく批判し、日銀幹部の責任を問うてきた岩田氏が日銀幹部になるならば、日銀の改革が進み、デフレ脱却がようやく現実のものとなるに違いない。
 著書『デフレの経済学』は、”最もタフなデフレ・ファイター”岩田氏の経済理論・経済政策を理解する上で重要なものと思われるので、その要所を取り出して概観する。その後、近年の岩田氏の主張を紹介したい。全7回の予定である。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「経世済民のエコノミスト~菊池英博氏」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13i-2.htm

■追記
 本項を含む拙稿「デフレ脱却の経済学~岩田規久男氏」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13s.htm