ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史48

2008-07-26 10:03:57 | 歴史
●アヘンを使ってシナにも進出

 18世紀後半から、欧米列強は、新しい市場と資源の可能性を求め、広大なシナへの進出を開始した。ここでも先頭を行ったのは、イギリスである。
 18世紀末には、イギリスは対清貿易をほぼ独占していた。ところが、シナの紅茶や絹織物等の輸入が増えるばかりで、イギリスの機械製綿布は売れず、大幅な入超に陥り、銀の支払いに困っていた。その一方、インドよりも人口の多いシナで綿布を売ることができれば、その利益は計り知れない。そこで目をつけたのが、シナ人のアヘン吸飲の習慣である。
 インドの大部分を支配下に収めていたイギリスは、インドでアヘンを栽培し、これを清に密輸することを考え出した。イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易である。シナでは、アヘンを売って銀を得て、その銀で茶を購入する。
 これによりイギリスは貿易黒字に転じ、清からは大量の銀が流出した。イギリスは、インドとの間では、木綿生産の技術競争に勝ったのだから、資本主義の論理では正当化される。しかし、アヘンの密輸は、消すことのできない汚点である。

 清国内ではアヘンの広がりが大きな社会的問題となった。清朝政府はアヘンの輸入をたびたび禁止した。しかしイギリス東インド会社は、私貿易商人を通じてアヘンを清に密輸出し続けた。1839年に広東に派遣された林則徐が、アヘン厳禁の布告を出し、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄した。これに対し、イギリスは翌40年、軍艦を派遣してシナ沿岸の各地を攻撃。圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。この時奪われた香港が中国に返還されたのは、1997年のことである。
 アヘン戦争は、幕末のわが国に大きな脅威を与えた。やがてわが国にも白人が攻めてくる、という危機感が、倒幕維新の運動につながっていく。

 南京条約後、イギリスの期待に反し、シナでのイギリス製品の輸出は伸びなかった。この状況を打開するため、イギリスはフランスと組んで、清に戦争を仕掛けた。これがアロー戦争である。第2次アヘン戦争ともいわれる。イギリスは、清の役人が英国国旗を掲げるアロー号のシナ人船員を捕らえ、国旗を引き降ろした事件を口実にした。フランスは宣教師の殺害を理由にした。
 英仏連合軍は、広州・天津・北京を占領し、清と北京条約を結び、開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。これにより、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。西洋近代文明は、アジアの文明をまた一つ支配したのである。

●イギリスでは奴隷制廃止、アメリカでは継続

 さて、こうした展開において、イギリスでは、奴隷貿易・奴隷制への反対運動が起こり、これらの廃止へと進んでいった。
 奴隷貿易は最盛期には、イギリスだけで毎年30万人以上の黒人奴隷が大西洋を越えて運ばれた。19世紀初頭までの間に、推計1,000万人から2,800万人の黒人奴隷が大西洋を渡ったとされる。しかし、イギリス人の中には、奴隷制の非人道性に気づいたものが現れ、1787年に奴隷貿易・奴隷制に反対する運動が始まった。
 まず奴隷貿易廃止のための議会請願運動が行われた。奴隷労働によって生産された砂糖をボイコットする運動も行われた。これを受け、議会では活発な議論が繰り広げられた。その結果、1807年に欧米諸国としては初めて、イギリスで奴隷貿易が廃止された。続いて、1820年代には、奴隷制廃止のための活動が開始された。この時も議会請願運動が起こり、150万人以上の人々の署名が集まった。こうした大衆運動を背景として、1833年には奴隷制そのものが、やはり欧米諸国で初めてイギリスで廃止された。

 こうした奴隷貿易・奴隷制の廃止は、1804年にハイチで黒人奴隷が反乱を起こし、フランスから独立を勝ち取ったことや、重商主義から自由主義への経済政策の転換に伴う奴隷の必要性の減少のためだと考えられてきた。しかし、近年は、奴隷制の非人道性に目覚めたイギリス人が、解放奴隷たちと連携して行った世界初の人権運動の成果と理解されている。
 ただし、この時点では、イギリスが綿花の供給を確保するアメリカ合衆国においては、奴隷制が継続している。イギリスで奴隷貿易・奴隷制が廃止されても、綿花と線製品の生産関係は変わっていない。合衆国における奴隷制の廃止は、南北戦争後まで待たねばならない。また廃止後も解放奴隷は、近代世界システムの下層労働者として、英米の資本主義を支えた。

 次回に続く。