ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史35

2008-07-11 10:12:19 | 歴史
●共和制と国民主権がはらむもの

 フランス市民革命を、人類の進歩として語る意見がわが国では多い。市民革命によって、主権が国王から理念的に国民に移った。特にそのことが評価されている。しかし、それは、単純な見方である。
 国民主権とは、国民の意思によって、政体を変え得るということである。またそれはその時々の国民の感情や気分によって、政体が変わり得るということである。革命によって主権者となったフランス国民は、選挙によってナポレオンという独裁者を選任した。多数決で独裁者が生まれたのである。ナポレオンが失脚した後は、王政復古、七月王政、第二共和制、ナポレオン3世による第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化した。イギリスが、ピューリタン革命の後、君主制議会政治を確立し、安定した体制を形成したのとは、まったく対照的である。

 共和制と国民主権を手放しでよいものとすることはできない。ロシアでは第1次世界大戦後、革命によって帝政が廃止されて共和制に移った後、クーデタによって社会主義となった。理論的にはプロレタリア独裁だが、実態は共産党による官僚独裁となった。しかも、その中から独裁者スターリンが登場し、個人崇拝が行われた。思想警察と収容所による統制が行われた。ドイツでは、第1次大戦後、帝政が廃止され、共和制となった。当時最も進歩的といわれたワイマール憲法のもと、国民投票によって、ナチスが第1党となり、議会で合法的にヒトラーに独裁権が与えられた。それゆえ、共和制と国民主権を無批判に理想化することは、歴史的経験を無視した愚論である。

●フランス市民革命を批判したバーク

 フランス市民革命には、革命の最中から批判的な見方があった。1789年、フランスで革命が勃発すると、イギリスでも共和主義に同調する者が表れた。その中で、フランス革命を敢然と批判したのが、イギリスの政治家、エドモンド・バークである。
 バークは革命の最中である1790年に『フランス革命の省察』を書いた。フランスやドイツなどで翻訳されて読まれた。西欧諸国は、フランス革命の波及から自国の伝統・体制を守ろうとしていた。バークの思想は、各国の保守の形成に影響を与えた。それによって、バークは保守主義(コンサーヴァティズム)の元祖とされている。
 バークは、著書でフランス革命を次のように見る。貴族・僧侶による伝統的な秩序を打破して自己の利益を拡大するため、新興の貨幣所有階級が啓蒙思想家と手を組み、民衆を扇動して起こした破壊行動であると。いまや「騎士道の時代は永遠に過ぎ去り、詭弁家・守銭奴・計算屋の時代がそれに続くであろう」とバークは言う。しかし、「恥知らずの純粋デモクシー」たる暴徒の支配によって、最後は社会そのものの崩壊と荒廃にいたるだろうと予測した。

 バークが守ろうとするのは、13世紀のマグナ・カルタ以来、400年、500年とかけて熟成されたイギリスの政体であり、伝統である。リベラリズムとデモクラシーの融合である。すなわち、権力の介入への規制と、民衆の政治への参加のバランスである。また、近代科学による知識と、人間を超えたものへの信仰との共存である。すなわち、理性と感情のバランスである。
 バークは、イギリスでは国王と貴族と民衆、教会と国家、私有財産と社会的義務、自由と服従、理性と愛情などの諸要素が調和し、美しい統一的秩序を為していると説く。この秩序ある体制は中世以来の騎士道精神と、宗教改革を経た国教制のキリスト教が結合し、長い歴史の中で生まれてきたものだとバークは主張した。そういう祖先の英知をバークは尊重し継承しようとする。

 バークの主張の背後には、「知は力なり」と言ったF・ベーコン流の科学的楽観主義に対し、人間理性による進歩への懐疑があった。また人間は放任されると際限なく利己主義と無秩序に走るものであり、社会の秩序のためには権威と権力が不可欠だという人間観察があった。この点において、彼は同時代の哲学者ヒュームに通じる。
 ヒュームは人知を過信した合理主義の矛盾や限界を指摘し、懐疑主義の哲学を説いた。その深い洞察は、啓蒙の完成者カントに大きな影響を与えた。ヒュームはフランスでの革命の到来を予見し、頭の中で考えた観念的な理論は破壊・混乱をもたらすことを警告していた。人間は現実的な経験を重んじ、歴史的に培われてきた英知を大切にすべきことを説いていた。

●保守主義の広がり

 バークがフランス市民革命を批判した後、革命は、誰もの予測を超えた展開を続けた。国王の処刑の後、王党派も共和派も、穏健派も急進派も、首切り機械に送られた。独裁者の登場、恐怖政治、穏健派の巻き返し、軍人によるクーデタ、皇帝の誕生、そしてヨーロッパ規模の大戦争へ。フランスの進軍は、周辺諸国にとっては侵攻戦争である。フランスに対抗する諸国でのナショナリズムの高揚。最終的に、イギリス中心の諸国連合軍は、ナポレオンを破った。ナポレオン軍は、自由と平等を中心とした一種普遍的な価値を他国に普及しようとした。これに対し、各国は、自国の伝統や既成の制度を守ることに努めた。
 その後、保守主義という言葉が一般化するのは、イギリスで1830年代初めにトーリー党が、「保守党」に改名したことによる。バークは、トーリー党だった。「保守党」という名称は、保守は単なる守旧ではなく、「秩序ある変革の擁護者」という意味で名づけられた。続いて19世紀後半以降、西欧諸国で保守を名のる政党が多くなる。ちなみにトーリー党のライバルのホイッグ党は「自由党」となった。ここに「保守」と「リベラル」の対立の原型が生まれた。

 西欧諸国の保守政党が維持しようとしたものの内容は、一様ではない。各国の伝統や事情が異なっていたからである。そのため、保守主義は、普遍的な政治理論を否定し、それぞれの固有文化の価値を主張することが多い。しかし、保守主義の根底に共通するのは、フランス革命に対する批判である。人間の知恵と力を過信した、近代西欧の啓蒙思想・合理主義に対する西欧人自身による反省である。そこには、近代西洋文明に対する一定の内在的批判を読み取ることが出来る。
 近代世界システムにおいて、フランス革命を通じて生まれた諸思想は、半周辺部や周辺部にとっても、重要な意味を持つ。中核部で生まれた一種普遍的な価値、自由、平等、人権等は、半周辺部・周辺部では、中核部の支配・収奪に対抗する思想に転換された。また、保守主義は、中核部が押し付けてくる西洋的・近代的な価値に対し、個別的な伝統や固有の文化を守る運動に応用された。

 次回に続く。