わが国は独自の伝統・文化・国柄を持つ国である。文明論的に見れば、古代よりシナ文明の影響を受けながらも早くから自立の道を進み、独自の日本文明を確立し、それを熟成させた。
こうしたわが国は、幕末に近代西洋文明と遭遇した。この時、国を防衛し、改革を進める原動力となったのは、尊皇心や国体観念というわが国固有の思想だった。
幕府からの大政奉還と王政復古が行われると、「五箇条のご誓文」が発せられた。ご誓文は、日本の伝統・文化・国柄をもとにして、西洋文明を取り入れ、近代国家を建設する基本方針を示した。以後、ご誓文がわが国の国是となる。
わが国が参入した19世紀後半の世界は、西洋列強が世界の大半を分割し、植民地として支配・収奪していた。わが国は、列強の圧倒的な軍事力・技術力・経済力に屈して、不平等条約を結ばざるをえなかった。
維新後、独立を守り、一部失った主権(治外法権の許可と関税自主権の喪失)を回復するには、列強に認められるような近代国家としての体裁を整えなければならなかった。ここに必要となったものが、西洋式の成文憲法の制定である。
大日本帝国憲法は、日本人自らわが国の国柄を表現したものだった。
起草の推進役となった伊藤博文は、自ら西欧を訪れて、プロイセン・オーストリア等に行って近代憲法を学習してきた。彼は単なる模倣・翻訳で速成せずに日本の伝統を踏まえ、またさまざまな意見の者とよく議論して合意をつくり、立案を行った。起草の実務的な中心となった井上毅は、西欧の法学の研究だけでなく、日本の古典、記紀・祝詞・詔勅等の研究を行った。
彼らの努力により、明治憲法は、維新の原動力であった尊皇心や国体観念を踏まえ、わが国の国柄を近代法の形に表現したものとなっている。
明治憲法は、非西洋世界、有色人種初の近代憲法である。ここにわが国は、天皇を元首とする立憲君主制の議会制デモクラシーを定めた。この憲法の下、近代的な議会政治が開始され、日本的なデモクラシーが発達した。国民の権利に関する規定も、当時の欧米に劣らないものだった。
しかし、明治憲法の規定には、不備もあった。最大の問題は、統帥権の独立である。第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。統帥権とは軍隊の最高指揮権である。これを天皇の統帥大権と言った。軍の指揮は政府や議会と関係なく行われるため、軍事と政治が二分され、ただ天皇御一人が両方を統括する形となっていた。
また、憲法の条文に、内閣や総理大臣という言葉がなく、首相の地位や権限が弱く、内閣を統括できない規定になっていた。明治・大正期には明治の元勲がおり、統帥権が他の権限から独立したものではないことは熟知していた。憲法には規定のない元老会議が指導性を持ち、条文の不足を補っていた。
ところが、元老が一人減り二人減りし、昭和まで生き残ったのは西園寺公望だけとなった。天皇の側近に明治以来の有力者がいなくなると、憲法の欠陥が隙を生じ、軍の横暴を許してしまった。
昭和5年から、軍部が統帥権干犯を唱えて政治に介入し始めた。また、神兵隊事件、5・15事件などのクーデタ未遂事件が続発し、これに勢いを得た軍部が、政治を左右するようになった。とりわけ2・26事件後の軍部大臣現役武官制の復活によって、軍の意向一つで、天皇に首相の任命を受けた宇垣一成が組閣できずに終わったり、軍部大臣一人のために内閣が辞職せざるを得なくなったりするという異常な事態となった。
こうしたなかで、シナ事変の勃発・泥沼化、日独伊三国同盟の締結、アメリカによる経済制裁、日米交渉の難航、ハルノートの手交等が続いた末、わが国は、英米等を敵とする無謀な戦争に突入した。
大東亜戦争の敗戦において、わが国はポツダム宣言を受諾した。宣言には、わが国の「民主的な傾向の復活強化」が要望されており、また最終的な政治形態は国民の自由意思で決定すべきことが記されていた。この内容は、わが国には「民主的な傾向」があったという評価が含まれている。それが、明治以来の立憲議会制によるデモクラシーであることは、明らかである。
ポツダム宣言のとおりに、戦後の日本の復興が行われたならば、わが国は自主的に、自らの手で明治以来の日本的デモクラシーの伝統を取り戻して、国の復興に努めたはずである。
ところが、マッカーサーは、わが国に憲法改正を要求してきた。これは、ポツダム宣言の内容を越え、また国際法に違反するものである。軍事占領のもとにあるわが国は、これに応じざるを得ず、憲法問題調査会を組織し、国務大臣・松本烝治を中心に、自主的な憲法改正案を作成した。この時、日本人は開戦と敗戦の原因を反省し、自らの手で憲法の欠陥を正し、国の再建に取り組もうとしていた。
しかし、マッカーサーは、この日本人自身による明治憲法の改正案を退け、GHQ民政局の職員に秘密裏に憲法を起草するように命じた。そして、この占領者による英文の憲法案を、わが国に受け入れるように押し付けてきた。受け入れない場合は、天皇の身命に保障がないことが暗示されたらしい。
こうして、銃砲による脅迫と徹底的な検閲のもとで作られたのが、昭和憲法である。
こうしたわが国は、幕末に近代西洋文明と遭遇した。この時、国を防衛し、改革を進める原動力となったのは、尊皇心や国体観念というわが国固有の思想だった。
幕府からの大政奉還と王政復古が行われると、「五箇条のご誓文」が発せられた。ご誓文は、日本の伝統・文化・国柄をもとにして、西洋文明を取り入れ、近代国家を建設する基本方針を示した。以後、ご誓文がわが国の国是となる。
わが国が参入した19世紀後半の世界は、西洋列強が世界の大半を分割し、植民地として支配・収奪していた。わが国は、列強の圧倒的な軍事力・技術力・経済力に屈して、不平等条約を結ばざるをえなかった。
維新後、独立を守り、一部失った主権(治外法権の許可と関税自主権の喪失)を回復するには、列強に認められるような近代国家としての体裁を整えなければならなかった。ここに必要となったものが、西洋式の成文憲法の制定である。
大日本帝国憲法は、日本人自らわが国の国柄を表現したものだった。
起草の推進役となった伊藤博文は、自ら西欧を訪れて、プロイセン・オーストリア等に行って近代憲法を学習してきた。彼は単なる模倣・翻訳で速成せずに日本の伝統を踏まえ、またさまざまな意見の者とよく議論して合意をつくり、立案を行った。起草の実務的な中心となった井上毅は、西欧の法学の研究だけでなく、日本の古典、記紀・祝詞・詔勅等の研究を行った。
彼らの努力により、明治憲法は、維新の原動力であった尊皇心や国体観念を踏まえ、わが国の国柄を近代法の形に表現したものとなっている。
明治憲法は、非西洋世界、有色人種初の近代憲法である。ここにわが国は、天皇を元首とする立憲君主制の議会制デモクラシーを定めた。この憲法の下、近代的な議会政治が開始され、日本的なデモクラシーが発達した。国民の権利に関する規定も、当時の欧米に劣らないものだった。
しかし、明治憲法の規定には、不備もあった。最大の問題は、統帥権の独立である。第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。統帥権とは軍隊の最高指揮権である。これを天皇の統帥大権と言った。軍の指揮は政府や議会と関係なく行われるため、軍事と政治が二分され、ただ天皇御一人が両方を統括する形となっていた。
また、憲法の条文に、内閣や総理大臣という言葉がなく、首相の地位や権限が弱く、内閣を統括できない規定になっていた。明治・大正期には明治の元勲がおり、統帥権が他の権限から独立したものではないことは熟知していた。憲法には規定のない元老会議が指導性を持ち、条文の不足を補っていた。
ところが、元老が一人減り二人減りし、昭和まで生き残ったのは西園寺公望だけとなった。天皇の側近に明治以来の有力者がいなくなると、憲法の欠陥が隙を生じ、軍の横暴を許してしまった。
昭和5年から、軍部が統帥権干犯を唱えて政治に介入し始めた。また、神兵隊事件、5・15事件などのクーデタ未遂事件が続発し、これに勢いを得た軍部が、政治を左右するようになった。とりわけ2・26事件後の軍部大臣現役武官制の復活によって、軍の意向一つで、天皇に首相の任命を受けた宇垣一成が組閣できずに終わったり、軍部大臣一人のために内閣が辞職せざるを得なくなったりするという異常な事態となった。
こうしたなかで、シナ事変の勃発・泥沼化、日独伊三国同盟の締結、アメリカによる経済制裁、日米交渉の難航、ハルノートの手交等が続いた末、わが国は、英米等を敵とする無謀な戦争に突入した。
大東亜戦争の敗戦において、わが国はポツダム宣言を受諾した。宣言には、わが国の「民主的な傾向の復活強化」が要望されており、また最終的な政治形態は国民の自由意思で決定すべきことが記されていた。この内容は、わが国には「民主的な傾向」があったという評価が含まれている。それが、明治以来の立憲議会制によるデモクラシーであることは、明らかである。
ポツダム宣言のとおりに、戦後の日本の復興が行われたならば、わが国は自主的に、自らの手で明治以来の日本的デモクラシーの伝統を取り戻して、国の復興に努めたはずである。
ところが、マッカーサーは、わが国に憲法改正を要求してきた。これは、ポツダム宣言の内容を越え、また国際法に違反するものである。軍事占領のもとにあるわが国は、これに応じざるを得ず、憲法問題調査会を組織し、国務大臣・松本烝治を中心に、自主的な憲法改正案を作成した。この時、日本人は開戦と敗戦の原因を反省し、自らの手で憲法の欠陥を正し、国の再建に取り組もうとしていた。
しかし、マッカーサーは、この日本人自身による明治憲法の改正案を退け、GHQ民政局の職員に秘密裏に憲法を起草するように命じた。そして、この占領者による英文の憲法案を、わが国に受け入れるように押し付けてきた。受け入れない場合は、天皇の身命に保障がないことが暗示されたらしい。
こうして、銃砲による脅迫と徹底的な検閲のもとで作られたのが、昭和憲法である。