●第1部独断篇における霊魂論(続き)
カントは第2章で心霊論的な見方を書いたのに対し、第3章では、打って変わって、視霊現象は脳内現象だとする唯物論的な見方を示す。カントはここで自分の外に物が存在すると認識する仕組みについて考察する。金森訳によると、「感覚が印象を受ける方向線の集合点、すなわち虚焦点」が体の外に想定される。「感覚の対象が感官と直接触れあい、したがって感覚的刺激のもろもろの方向線がこれらの感官自身の中で交わる点を持つ」と考えられる。
カントは、続けて書く。「このことを想像が生み出す、もろもろの幻像に適用するためには、さきにデカルトが認めたのについて彼以後の大多数の哲学者たちが同意した次のような考え方を基本とすることを認めていただきたい。それは想像力のすべての表象は同時に質料的観念と呼ばれる脳内の神経組織あるいは神経中枢のある種の運動に伴われているということだ」
「私は、何らかの偶然、あるいは病気によって脳のどこかの器官が障害を起こして、しかるべきバランスを失うと、いくつかの空想と調和して振動する神経の運動が脳の外側に移動して横切るような線に沿って起こるために、虚焦点は思考する主体の外部に置かれること、それに、単なる空想力の所産に他ならない心像が外的感覚にとっても存在する対象として表象されると仮定しておく」
「私としては、読者のみなさんが、視霊者をあの世に半分住んでいる市民とはみなさずに、一刀両断に、彼らを病院に送り込み今後一切この種の探究をおやめになっても決して悪く取ったりはしない。だがすべてこの調子で進むにしても、霊界に通じた達人を、上述の概念通りのような人物とは、まったく異なる方式で扱わねばなるまい。それにかつては、しばしばこの種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、今では彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」と、カントは書いている。最後の火あぶりは、魔女狩りを連想させるが、その代わりに「霊界に通じた達人」に下剤をかけるというのは、蔑視的である。
こうした第2章「霊界との連帯を開くための隠秘哲学の断片」、第3章は「反カバラ。霊界との共同体を取り壊そうとする通俗哲学の断片」を突き合わせる時、カントの真意がどこにあるのか、判然としなくなる。第2章と第3章の併記を、理論理性が陥る二律背反(アンチノミー)の原形とする見方もある。
結論として、カントは、第4章「第1部の全考察からの理論的結論」と題された章で、哲学的学説は不可知論の立場を表明すべきだとして、次のように書いている。
「哲学的学説は、われわれの洞察の限界をはっきりと定め、次のようなことをわれわれに確信させるからである。すなわち、まず自然の中の各種各様の生命の現象及びその法則だけが、われわれの認識を許しているすべてであること、しかしこの生命の原理つまり霊の性質については、なんらの材料もわれわれの感覚に与えられないために、まったく知ることはできず、ただ憶測するだけで、決して、積極的に考えることなどできないこと、さらにすべての感覚的なものからあまりにかけ離れた事物を考えるためには、どうしても否定、否定の一点張りで対処しなければならないこと、そうはいうものの、こうした否定の可能性自体も、経験や推理に基づいているわけではなく、ありとあらゆる補助手段を奪われた理性が逃げ場に求めた虚構に頼っていることなどである。こうした確信に基づけば、人間の霊魂学は、憶測された存在を狙ってはいるが必ず人間の無知をさらけ出す学説と名付けられるだろうし、それにこうしたものとして使命を簡単に果たしていくことになろう。
さらに私は形而上学の広範な分野を占める霊に関するすべての材料を、まったく用済みのもの、一巻の終わりとして退けることにする。こうしたものは将来も、私には何の関係もないであろう」と。
霊魂については何らの材料も感覚に与えられないので、まったく知ることはできず、憶測するのみ、否定的に考えざるを得ないが、否定の可能性も「理性が逃げ場に求めた虚構に頼っている」。肯定も否定もできない。カントは、大意このように書いている。霊魂・霊界については、いろいろ考えても分からない。経験に基づかないことだから、霊魂や霊界については、これ以上語らないことにしよう。今後、再び霊に関する材料を取り上げて、検討することはしない。カントは、こういう態度を決めたと理解できる。
しかし、この語らないという態度は、信じないという態度とは違う。信じているが、語ることはしないというのが、カントの取った態度である。私はそう理解する。そのように理解してはじめて、カントの批判哲学、特に道徳哲学は理解可能となる。
次回に続く。
カントは第2章で心霊論的な見方を書いたのに対し、第3章では、打って変わって、視霊現象は脳内現象だとする唯物論的な見方を示す。カントはここで自分の外に物が存在すると認識する仕組みについて考察する。金森訳によると、「感覚が印象を受ける方向線の集合点、すなわち虚焦点」が体の外に想定される。「感覚の対象が感官と直接触れあい、したがって感覚的刺激のもろもろの方向線がこれらの感官自身の中で交わる点を持つ」と考えられる。
カントは、続けて書く。「このことを想像が生み出す、もろもろの幻像に適用するためには、さきにデカルトが認めたのについて彼以後の大多数の哲学者たちが同意した次のような考え方を基本とすることを認めていただきたい。それは想像力のすべての表象は同時に質料的観念と呼ばれる脳内の神経組織あるいは神経中枢のある種の運動に伴われているということだ」
「私は、何らかの偶然、あるいは病気によって脳のどこかの器官が障害を起こして、しかるべきバランスを失うと、いくつかの空想と調和して振動する神経の運動が脳の外側に移動して横切るような線に沿って起こるために、虚焦点は思考する主体の外部に置かれること、それに、単なる空想力の所産に他ならない心像が外的感覚にとっても存在する対象として表象されると仮定しておく」
「私としては、読者のみなさんが、視霊者をあの世に半分住んでいる市民とはみなさずに、一刀両断に、彼らを病院に送り込み今後一切この種の探究をおやめになっても決して悪く取ったりはしない。だがすべてこの調子で進むにしても、霊界に通じた達人を、上述の概念通りのような人物とは、まったく異なる方式で扱わねばなるまい。それにかつては、しばしばこの種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、今では彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」と、カントは書いている。最後の火あぶりは、魔女狩りを連想させるが、その代わりに「霊界に通じた達人」に下剤をかけるというのは、蔑視的である。
こうした第2章「霊界との連帯を開くための隠秘哲学の断片」、第3章は「反カバラ。霊界との共同体を取り壊そうとする通俗哲学の断片」を突き合わせる時、カントの真意がどこにあるのか、判然としなくなる。第2章と第3章の併記を、理論理性が陥る二律背反(アンチノミー)の原形とする見方もある。
結論として、カントは、第4章「第1部の全考察からの理論的結論」と題された章で、哲学的学説は不可知論の立場を表明すべきだとして、次のように書いている。
「哲学的学説は、われわれの洞察の限界をはっきりと定め、次のようなことをわれわれに確信させるからである。すなわち、まず自然の中の各種各様の生命の現象及びその法則だけが、われわれの認識を許しているすべてであること、しかしこの生命の原理つまり霊の性質については、なんらの材料もわれわれの感覚に与えられないために、まったく知ることはできず、ただ憶測するだけで、決して、積極的に考えることなどできないこと、さらにすべての感覚的なものからあまりにかけ離れた事物を考えるためには、どうしても否定、否定の一点張りで対処しなければならないこと、そうはいうものの、こうした否定の可能性自体も、経験や推理に基づいているわけではなく、ありとあらゆる補助手段を奪われた理性が逃げ場に求めた虚構に頼っていることなどである。こうした確信に基づけば、人間の霊魂学は、憶測された存在を狙ってはいるが必ず人間の無知をさらけ出す学説と名付けられるだろうし、それにこうしたものとして使命を簡単に果たしていくことになろう。
さらに私は形而上学の広範な分野を占める霊に関するすべての材料を、まったく用済みのもの、一巻の終わりとして退けることにする。こうしたものは将来も、私には何の関係もないであろう」と。
霊魂については何らの材料も感覚に与えられないので、まったく知ることはできず、憶測するのみ、否定的に考えざるを得ないが、否定の可能性も「理性が逃げ場に求めた虚構に頼っている」。肯定も否定もできない。カントは、大意このように書いている。霊魂・霊界については、いろいろ考えても分からない。経験に基づかないことだから、霊魂や霊界については、これ以上語らないことにしよう。今後、再び霊に関する材料を取り上げて、検討することはしない。カントは、こういう態度を決めたと理解できる。
しかし、この語らないという態度は、信じないという態度とは違う。信じているが、語ることはしないというのが、カントの取った態度である。私はそう理解する。そのように理解してはじめて、カントの批判哲学、特に道徳哲学は理解可能となる。
次回に続く。