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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

カント6~『視霊者の夢』第1部の霊魂論(続き)

2013-08-26 07:36:04 | 人間観
●第1部独断篇における霊魂論(続き)

 カントは第2章で心霊論的な見方を書いたのに対し、第3章では、打って変わって、視霊現象は脳内現象だとする唯物論的な見方を示す。カントはここで自分の外に物が存在すると認識する仕組みについて考察する。金森訳によると、「感覚が印象を受ける方向線の集合点、すなわち虚焦点」が体の外に想定される。「感覚の対象が感官と直接触れあい、したがって感覚的刺激のもろもろの方向線がこれらの感官自身の中で交わる点を持つ」と考えられる。
 カントは、続けて書く。「このことを想像が生み出す、もろもろの幻像に適用するためには、さきにデカルトが認めたのについて彼以後の大多数の哲学者たちが同意した次のような考え方を基本とすることを認めていただきたい。それは想像力のすべての表象は同時に質料的観念と呼ばれる脳内の神経組織あるいは神経中枢のある種の運動に伴われているということだ」
 「私は、何らかの偶然、あるいは病気によって脳のどこかの器官が障害を起こして、しかるべきバランスを失うと、いくつかの空想と調和して振動する神経の運動が脳の外側に移動して横切るような線に沿って起こるために、虚焦点は思考する主体の外部に置かれること、それに、単なる空想力の所産に他ならない心像が外的感覚にとっても存在する対象として表象されると仮定しておく」
 「私としては、読者のみなさんが、視霊者をあの世に半分住んでいる市民とはみなさずに、一刀両断に、彼らを病院に送り込み今後一切この種の探究をおやめになっても決して悪く取ったりはしない。だがすべてこの調子で進むにしても、霊界に通じた達人を、上述の概念通りのような人物とは、まったく異なる方式で扱わねばなるまい。それにかつては、しばしばこの種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、今では彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」と、カントは書いている。最後の火あぶりは、魔女狩りを連想させるが、その代わりに「霊界に通じた達人」に下剤をかけるというのは、蔑視的である。
 こうした第2章「霊界との連帯を開くための隠秘哲学の断片」、第3章は「反カバラ。霊界との共同体を取り壊そうとする通俗哲学の断片」を突き合わせる時、カントの真意がどこにあるのか、判然としなくなる。第2章と第3章の併記を、理論理性が陥る二律背反(アンチノミー)の原形とする見方もある。
 結論として、カントは、第4章「第1部の全考察からの理論的結論」と題された章で、哲学的学説は不可知論の立場を表明すべきだとして、次のように書いている。
 「哲学的学説は、われわれの洞察の限界をはっきりと定め、次のようなことをわれわれに確信させるからである。すなわち、まず自然の中の各種各様の生命の現象及びその法則だけが、われわれの認識を許しているすべてであること、しかしこの生命の原理つまり霊の性質については、なんらの材料もわれわれの感覚に与えられないために、まったく知ることはできず、ただ憶測するだけで、決して、積極的に考えることなどできないこと、さらにすべての感覚的なものからあまりにかけ離れた事物を考えるためには、どうしても否定、否定の一点張りで対処しなければならないこと、そうはいうものの、こうした否定の可能性自体も、経験や推理に基づいているわけではなく、ありとあらゆる補助手段を奪われた理性が逃げ場に求めた虚構に頼っていることなどである。こうした確信に基づけば、人間の霊魂学は、憶測された存在を狙ってはいるが必ず人間の無知をさらけ出す学説と名付けられるだろうし、それにこうしたものとして使命を簡単に果たしていくことになろう。
 さらに私は形而上学の広範な分野を占める霊に関するすべての材料を、まったく用済みのもの、一巻の終わりとして退けることにする。こうしたものは将来も、私には何の関係もないであろう」と。
 霊魂については何らの材料も感覚に与えられないので、まったく知ることはできず、憶測するのみ、否定的に考えざるを得ないが、否定の可能性も「理性が逃げ場に求めた虚構に頼っている」。肯定も否定もできない。カントは、大意このように書いている。霊魂・霊界については、いろいろ考えても分からない。経験に基づかないことだから、霊魂や霊界については、これ以上語らないことにしよう。今後、再び霊に関する材料を取り上げて、検討することはしない。カントは、こういう態度を決めたと理解できる。
 しかし、この語らないという態度は、信じないという態度とは違う。信じているが、語ることはしないというのが、カントの取った態度である。私はそう理解する。そのように理解してはじめて、カントの批判哲学、特に道徳哲学は理解可能となる。

 次回に続く。

カント5~『視霊者の夢』第1部の霊魂論

2013-08-25 08:36:32 | 人間観
●第1部独断篇における霊魂論

 これからカントの著書『視霊者の夢』の内容を検討したい。カントは本書の開始部で、「わたくしは、霊があるかどうかを知らない。いやそればかりか、霊という言葉が何を意味するかすら、まったく分かっていない」と書いたのち、霊について、様々な観点から検討を行う。
 第1部独断篇で、カントは、霊的存在について考察し、物質的存在とは、異なる性質があることを認める。霊魂には活動性、空間への可入性、無延長性等の特性がある。そこから推測して、カントは、霊魂は脳髄の極小部分にあるという物体的な考え方を取らない。また霊魂が身体全体にもその部分にも存在するという考え方も取らない。結局、通説を否定した上で、カントは、自分は霊魂については分からないという。
 カントは、独断篇の第2章と第3章で、大きく異なった見解を併記する。第2章は「霊界との連帯を開くための隠秘哲学の断片」、第3章は「反カバラ。霊界との共同体を取り壊そうとする通俗哲学の断片」と題されているが、二つの章とも、題名と本文が誰か別の哲学者が書いたものを抜粋・引用・要約したものではない。隠秘哲学者や通俗哲学者ならこう書くだろうと成り代わった試みになり切れてもいない。明らかに両章ともカント自身が書いたものである。それをそれぞれ「隠秘哲学」「通俗哲学」と蔑視的な呼び方をしている。また第3章は、どうして「反カバラ」なのか、ユダヤ教の神秘思想であるカバラには、直接言及がない。このように執筆者の意図が分かりにくい書き方になっている。
 カント研究で名高い坂部恵氏は、独断篇の第2章と第3章について、次のように書いている。カントは「互いに相反する二つの方向からする視霊現象の説明理論」を提出した。すなわち、第2章では、「生命現象やあるいはまた道徳感情などからしてその存在が推定される非物質的な霊の世界と物質界との相互交渉による視霊現象の解明の可能性を示唆」する。また第3章では、「逆にデカルトの生理学説を仮に武器として借りながら、視霊の現象が『何らかの偶然あるいは病気によって、二、三の夢想と調和的に震動する大脳神経の運動が、延長されて大脳の外部に交叉するような方向線に従って行われる』ような一種の特殊な夢想として説明され、従って『下剤をかける』ことによって除かれうる可能性を示す」と坂部氏は解説している。坂部氏は『理性の不安 カント哲学の生成と構造』でカント哲学の生成における『視霊者の夢』の重要性を明らかにしたが、カントの心霊論的信条に対しては距離を置いている。超心理学やトランスパーソナル学との関係も考慮していない。本稿は、坂部氏の見方に異論を提示するものでもある。
 独断篇第2章で、カントは、霊魂・霊界の存在を想定する心霊論的な見方を書いている。金森誠也氏の訳(『霊界の研究~プラトン、カントが考えた死後の世界』PHP版)によると、カントは、次のように書いている。
 「この世にもあの世にもメンバーとして属しているのは常に同一の実体であり、二つの種類の表象は、実は同一主体に属し、互いに結び合わさっている」
 「われわれが、明瞭さを獲得するために、霊の概念にかなり近いわれわれの高度の理性概念に普通いわば物質的な衣装を着せる有様をじっくり観察するならば、これについての可能性がわかりやすくなるであろう」。
 道徳的衝動は「霊的存在を互いに交流させ合う真に活動的な力の結果」であり、「道徳的感情とは個人の意志が一般意志にまさにその通りだと感じられるように拘束されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう」
 「人間の魂は、この世に生きている時でも、霊界のすべての非物質的存在と解きがたく結ばれた共同体の中にあること、さらに、人間の魂は、交互に霊界内に作用し、霊界からも印象を受けているのだが、すべてが調子よくいっている時は、魂は人間としては意識されていないということは、大学の講義流に言えば、すでに証明されたも同然か、あるいは、もっとつまびらかに研究すれば容易に証明されることとされるだろう。いっそう巧みに表現すれば、どこで、いつということは、私にも分からないけれども、きっと将来、証明されることになるであろう」
 「あの世における生命は、魂がすでにこの世に生きている時持っていた結びつきの自然な継続となるであろう。さらにこの世で行われた道徳性のすべての結果は、あの世においても、霊界全体と不可分の共存関係にある存在が、すでに以前に霊の法則に従って行ってきた作用の中に再び見出されるであろう」と。

 次回に続く。

カント4~スヴェーデンボリ問題

2013-08-23 08:49:10 | 人間観
●スヴェーデンボリ問題

 先に書いたように、カントは自然科学を研究して優れた業績を上げる一方、ライプニッツ、ヴォルフの合理的形而上学の影響下にあった。しかし、ヒュームによって「独断論のまどろみ」を破られ、ルソーによって人間を尊敬すべきという啓発を受けた。そんな時に、カントが取り組んだのが、スヴェーデンボリ問題だった。ヒュームによる衝撃とルソーによる啓発の交点に、視霊者スヴェーデンボリをどうとらえるかという課題が立ち上がったのである。
 カントは、人間の研究をするに当たり、人間の認識能力を根本的に検討する必要に迫られた。ニュートン物理学を中心とした自然科学の知識及び自然科学をもとにした形而上学の思考法を以て、スヴェーデンボリという優れた数学者・自然科学者であり、かつ特殊な能力によって霊と交流し霊界を語る特異な人間を研究することは、果敢な取り組みだった。
 カントは若い時から、好んで来世や霊界のことを口にする哲学者たちについては、批判的だった。だが、1750年代の半ば過ぎ、スヴェーデンボリの存在を知って、カントは強い関心を持った。1758年に印刷物に掲載されたシャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢宛の手紙で、視霊現象について、これまで自分は適当な距離を取ってきたが、今度のスヴェーデンボリの場合はいささか違う、との旨をカントは書いている。
 手紙には、オランダ公使の未亡人マルトヴィーユ夫人が亡夫の未払金を催促されたのに対して、スヴェーデンボリが亡くなった夫の霊と交通して領収書のありかを示した話と、1756年ストックホルムのゼーデルマルム地区の大火事の様子をスヴェーデンボリが50マイルあまり(約80キロ)も距っているイエーテボリで細かに告げた話が書かれている。前者は霊魂との交流または透視、後者は遠隔視に関する逸話である。後者はカントの友人が現地調査をし、多くの証言者から話を聞いたことが、先の手紙に書かれている。
 カントは、スヴェーデンボリに手紙を書いたが、返事はそっけないものだった。カントは苦労してスヴェーデンボリの著書を手に入れて読んだ。そして友人たちの強い要望に応えて見解を書き、1766年に刊行したのが、『視霊者の夢』である。
 『視霊者の夢』は、ヒュームの懐疑論による衝撃とルソーの人間尊重という啓発を受け、形而上学の見直しと人間の研究に向かったカントが、最初に取り組んだ難問への解答だった。哲学者の坂部恵氏は、『視霊者の夢』について、「1760年代前半のカントの思考の歩みの一つの総決算をなすもの」「人間的ないし人間学的関心と、形而上学をはじめとする諸学をめぐる方法論的な関心という、この時期のカントの二つの主要な関心の流れが、おのずからあい合するところに成立したもの」としている。
 確かに『視霊者の夢』は、当時のカントの二つの主要な関心の流れの交点に成立したものだが、三大批判書を知る後世の者にとっては、特異な作品である。本書におけるカントは、後の著書で厳密かつ整然とした論述をしたカントとは、別人のようである。考えが十分整理されておらず、全体を見通しよく読者に示すことができず、矛盾した見解を併記した後に、それらをともに斥ける。その仕方がまた半ば否定、半ば肯定のような感じになっている。スヴェーデンボリという対象については、相手への驚異と揶揄、敬意と軽蔑等の相反する感情を表し、アンビヴァレンスが見られる。読者に対して自分の態度を取り繕ったり、本書を書く事情を弁解したり、真の目的を後から明らかにするなど、複雑に揺れ動く心理状態を露わにしている。それだけ、スヴェーデンボリ問題は予想以上の難問だったのだろう。
 これは、21世紀の我々にとっても同じことで、超人的な能力を持つ人間の能力や普通人には見えない世界を論じることは、科学者による様々な仮説が出されている現代においても、依然として困難な課題である。
 カントの時代以降、自然科学が大きく発達し、19世紀後半には唯物論が優勢になった。だがその一方、19世紀半ばから心霊主義(スピリチュアリズム)が興隆し、霊的なものへの関心が高まり、霊媒を使った実験が多く行われた。視霊現象や超能力に関心を持つ科学者・哲学者は少なくなく、アルトゥル・ショーペンハウアー(哲学)、アルフレッド・ウォーレス(生物学)、ウィリアム・クルックス卿(物理学)、シュミット・ツェルナー(天文学)、ヘンリー・シジウイック(倫理学)、ウィリアム・ジェイムズ(心理学)、アンリ・ベルグソン(哲学)、カール・グスタフ・ユング(心理学)等が有名である。だが、当時の科学では心霊的な現象の解明は進まなかった。そうしたなか、ジョセフ・バンクス・ラインは、1927年に心霊現象の研究から超能力の研究に転換し、図形カードやサイコロを使って超感覚的知覚(ESP)や念力(PK)を研究する実験を行った。ラインが厳密な実験方法を確立して以降、テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等について、欧米の諸大学・研究所で研究が続けられている。旧ソ連では軍事目的で国家的に研究がされたり、米国ではFBIの犯罪捜査に超能力者が協力したりしている。
 だが、いまだ科学者の間では超能力について、有無自体からコンセンサスは得られていない。幽体離脱、霊界通信等、霊魂や霊界については、実験による検証はさらに困難である。安易に論じると、カントが批判した独断的形而上学者と同じ轍に陥る。まだしも幽体離脱、霊的交通については、証言の事実関係を確認する方法が取れるが、スヴェーデンボリが書いたような霊界訪問記となると、事実か創作か、体験的要素があるのかすべて幻覚か、現段階の科学では検証はほぼ不可能である。まして、私が生涯の師とし、また神とも仰ぐ大塚寛一先生の起こす人類史上に比類ない奇蹟現象の数々については、現代の科学では、まだまったくとらえることができていない。
 カントの場合は、18世紀にあって、まだ超常現象の分類や、現象に応じた研究方法の検討もできていなかった。またカントは、ただ一人の検討対象であるスヴェーデンボリに直接会って調査したわけでもない。より本格的に研究するか、適度なところを打ち止めにするか。カントがもし前者の道に進んでいたら、まともな職業に就くことができず、社会生活は困難になっただろう。後者の道を選んだことによって、哲学者カントの大成が可能になったと言えよう。

参考資料
・大塚寛一先生については、下記をご参照下さい。
http://srk.info/sinreikyo/ayumi/
http://srk.info/experience/

カント3~第四の問い

2013-08-22 08:54:24 | 人間観
●三つの問い(続き)

 第3の問い、人間は何を望んでよいかについて、カントは宗教を検討した。カントは、第三の批判書『判断力批判』で、悟性と理性を媒介する判断力について検討した。判断力は、特殊が普遍に包含されていると思考する能力である。特殊的なものだけが与えられ、そこから普遍的なものを見出す能力は、反省的判断力と呼ばれる。自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならないとカントは考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。そのうえで、世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説き、目的論によって神学を基礎づけた。一方、カントは啓示宗教としてのキリスト教から、啓示の部分を除き、道徳的宗教へと純化、改善することを試みた。人間は本能や衝動で行動する動物的な感性的存在者であるが、自由で自律的な理性的存在者でもある。人間は、欲望の誘惑に負けやすいが、理性は人間を超感性的な世界へと向かわせる。人間は理性の声に従って道徳を実践する者として、神・不死を望んでよいとした。

●第四の問い

 カントは、三つの問いの検討のため、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)の三大批判書や『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)、『単なる理性の限界内における宗教』(1793年)、『人倫の形而上学』(1797年)等の多くの著書を書いた。晩年のカントは、三つの問いに加えて、第四の問いを立てた。それは、人間とは何かという問いである。
 カントは『論理学』(1800年、死後編纂刊行)の序論に次のように書いた。「第1の問いには形而上学が、第2の問いには道徳が、第3の問いには宗教が、第4の問いには人間学が、それぞれ答える。根底において、これらすべては、人間学に数えられることができるだろう。なぜなら、はじめの三つの問いは、最後の問いに関連を持つからである」と。
 人間とは何かという問いは、形而上学、道徳、宗教の検討を踏まえて、人間を総合的に研究するものである。これこそ実はカントの中心主題だったものであり、晩年のカントは『実用的見地における人間学』(1798年)を著した。カントは、本書に次のように書いている。
 「人間は、人々と一つの社会をなし、その社会において、芸術及び学問を通して自己を陶冶し、市民化し、かつ道徳化するよう、自らの理性によって定められている。幸福と呼ばれる心の安逸と歓楽へ受動的に身を任そうとする動物的傾向がいかに強くとも、むしろ能動的に、人間の自然の粗野のために人間につきまとっている妨害と戦いつつ、自らをば、人間性にふさわしいものとなすよう、その理性によって定められている」と。
 こうした思想によるカントの人間学は、近代西欧の人間観に大きな影響を与えてきた。世界人権宣言は、現代世界で重要な価値の一つとなっている人権の思想を表現したものとなっているが、宣言の根底には、ロック=カント的な人間観があり、人権の思想の考察において、カント哲学とその影響の検討は不可欠の課題と私は考えている。
 さて、カントは、上記の四つの問いに取り組み、独自の解答を示した。それによって、今日まで人類の思想に大きな影響を与えている。私はこうしたカントの哲学の構築において、『視霊者の夢』という三大批判書の前に書かれた小著が重要な位置にあると考える。自然科学の研究をし、合理的な形而上学の影響下にあったカントは、ヒュームの懐疑論に衝撃を受け、「独断論のまどろみ」を破られ、ルソーの人間尊重の姿勢に啓発され、人間の研究に向かった。この時、取り組んだのが視霊者スヴェーデンボリであり、スヴェーデンボリの研究が、カントを批判哲学へと向かわせたのである。次に『視霊者の夢』の検討に移ろう。

 次回に続く。

■追記
 上記の拙稿を含む「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm


カント2~三つの問い

2013-08-21 08:41:52 | 人間観
●三つの問い

 『視霊者の夢』の検討に入る前に、カントの批判哲学を概観しておきたい。カントは、批判哲学の嚆矢となる『純粋理性批判』に、三つの問いを挙げた。(1)人間は何を知り得るか、(2)人間は何を為すべきか、(3)人間は何を望んでよいか、の三つである。三大批判書をはじめとするカントの主要著作は、これらの問いへの彼の解答である。
 第1の問い、人間は何を知り得るかについて、カントは形而上学を検討した。カントは、第一の批判書『純粋理性批判』で、理性による理論的な認識について検討した。批判とは、認識能力の適用範囲と限界を吟味することをいう。批評というより裁判に近い。当時、ライプニッツ、ヴォルフ等による合理論的形而上学は、数学・自然科学を用いて、神の存在、霊魂の不滅、人格の自由を証明しようとしていた。カントは、ヒュームの懐疑論に啓発されて、すべての認識は感覚的経験によるという経験論と、確実な認識は生得観念によるとする合理論は、ともに正しくないとし、人間は対象をア・プリオリ(先験的)な形式に基づいて感覚し、思考するのだとした。これは、従来、対象は外界に独立して存在するとしてきた考え方を転換したもので、カントのコペルニクス的転回と呼ばれる。この転回は、自我を中心として哲学の諸問題を解明しようとしたデカルトの立場を徹底したものだった。なお、カントのア・プリオリは経験から独立したものを意味し、その基準は必然的かつ普遍的であることである。必然的かつ普遍的とは、必ずそうなり、誰にでもまたどういう場合でもあてはまるということである。
 カントは、人間の認識能力を感性・悟性・理性に分け、その検討を行った。現象は主観が経験に与えられた感覚内容を総合構成したものであり、物自体は感覚の源泉として想定はできるが、認識はし得ないとした。物自体は、物そのものというより、物事の真相というのに近い。こうして、カントは現象界・感性界と物自体の可想界または叡智界を厳格に区別した。ヒュームが成立を疑った自然科学及び数学については、感性のア・プリオリな直観形式としての空間・時間と悟性のア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーの協同によって確実な学的認識たり得ているとして、学としての基礎づけをした。そして、悟性による認識を体系づけ、統一する理性による理論的な認識は、感性による経験に基づくものに限って可能だが、感性を超えたものは知り得ないとして、その適用範囲と限界を明らかにした。一方、神、不死、自由という超感性的な対象に関する形而上学は、これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないとした。
 第2の問い、人間は何を為すべきかについて、カントは道徳を検討した。理性には理論的な機能とは別に、実践的な機能があるとして、第二の批判書『実践理性批判』において、道徳法則の客観的な確実性を論じ、『人倫の形而上学』で道徳哲学の体系を示した。カントは、人間は、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率を、普遍的な道徳法則と一致するように行為すべきものとした。無条件に「△△せよ」と命じる定言命法に従って実践すべきことを説いた。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」である。人間は幸福を求めるべきではなく、幸福を恵まれるにふさわしい人間をめざして努力すべきものであるとした。
 神の存在、霊魂の不滅、人格の自由については、理論理性は決定不可能である。だが、これらは人間の道徳的な行為が意味あるものとなるために不可欠であり、実践理性はこれらを要請するとした。道徳的実践の目的は善であり、究極目的は最高善であるが、人間は最高善を実現するには力不足である。そこで最高善の実現を根拠づけ、徳性と幸福の一致を恵み与えるものとして神が要請される。また最高善に到達するには無限の努力が必要であるので、霊魂の不滅が要請される。また人間は、単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であり、理性が課す義務を負う人格とみなさなければならない。互いに、単に手段ではなく、目的そのものとして尊重されねばならないと説いた。

 次回に続く。

カント哲学と心霊論的人間観1

2013-08-20 08:56:43 | 人間観
 私は現在ブログに「人権――その起源と目標」を連載しているところですが、その中でいずれ人権の思想史を書く予定です。人権の思想史において最も重要な思想家の一人がカントです。カントは、人権論だけでなく心霊論の観点からも重要な思想家です。一度、「カント哲学と心霊論的人間観」を書いておく必要を感じていましたので、本日から集中的に連載します。哲学と超心理学・トランスパーソナル学を結ぶ試みとなるものです。全20回の予定です。

●はじめに

 すべての哲学はカントに流れ込み、それ以後のすべての哲学はカントから発するといわれるように、イマヌエル・カントは西洋思想史で最大級の思想家である。カントの思想の後世への影響は大きく、今日にまで及んでいる。カントは、へーゲルやマルクスによって乗り越えられたとか、ニーチェやフロイトによって排除されたという見方がある一方、20世紀以降の著名な哲学者、エルンスト・カッシーラー、マルティン・ハイデッガー、カール・ヤスパース、和辻哲郎、ジョン・ロールズ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ等がカントとの対話を行い、自らの糧にしてきた。
 私は、拙稿「心の近代化と新しい精神科学の興隆」に、「世界の呪術からの解放」による心の近代化について書いたが、その視点から、カントは「呪術の追放」を推進した「啓蒙の完成者」であると同時に、心霊論的な信条を保ち、科学と道徳・宗教の両立を図った思想家であることに注目している。心霊論とは、人間は単に身体的・精神的存在ではなく、霊的存在でもあるという考え方である。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09b.htm
 現代世界で重要な価値の一つとなっている人権を表現した世界人権宣言の根底には、ロック=カント的な人間観があり、人権の思想の考察において、カント哲学とその影響の検討を不可欠の課題と私は考えている。カント哲学は単なる道徳哲学ではなく、心霊論的な道徳哲学と理解することは、人権の思想を批判的に発展させるための一つのポイントとなる。
 本稿は、心霊論的及び人権論的な関心から、カントの著作『形而上学の夢によって解釈された視霊者の夢』(以下、『視霊者の夢』)に焦点を合わせ、本書におけるカントの取り組みを検討し、そこにおけるカントの思考がその後の批判哲学にどのように発展したか、を考察する。またカントは、『視霊者の夢』に書いた心霊論的信条をその後も持ち続け、それが彼の道徳哲学の前提となっていることを示す。そしてカント以後の思想と科学の展開を踏まえて、心霊論的人間観をこのわれわれの時代、21世紀に確立すべきことを述べるものである。

●カント哲学における『視霊者の夢』の位置づけ

 カントは、18世紀西欧の「啓蒙の世紀」を代表する哲学者であり、「啓蒙の完成者」といわれる。カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生き、当時の政治思想・社会思想を哲学的に掘り下げた。現代の人権の思想には、ロックと並んでカントが重要な影響を与えている。
 若き日のカントは自然の科学的研究に優れた業績を現した。数学・自然科学の論文を多く書き、特に宇宙の発生に関する星雲説は、ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用したもので、カント=ラプラス仮説として名高い。カントは、数学・自然科学だけでなく、論理学・形而上学・自然地理学等、広い範囲にわたる科目を大学で講じていた。しかし、ヒュームによって「独断論のまどろみ」を破られた。
 ヒュームは、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づく習慣に過ぎない。自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、と考えた。カントは、ヒュームの懐疑論に衝撃を受け、それまで影響を受けていたライプニッツ、ヴォルフ等の思弁的形而上学を見直した。そして、人間の認識能力について根本的な検討を行うことにした。
 またカントは、ルソーの著書から人間を尊敬すべきことを学んだ。「私は無知の民衆を軽蔑していた。しかし、ルソーが私の誤りを正してくれた。目のくらんだ優越感は消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ」とカントは書いている。そして「人間を尊敬するというこの考え方こそ、すべての他の人に一つの価値を与えることができ、その価値からこそ、人間らしい諸権利は由来する」と信じ、自然の研究から人間の研究に向かった。
 こうした時、カントが強い関心を示したのが、視霊者スヴェーデンボリである。スヴェーデンボリは、数学者、科学者として著名であるとともに、霊魂との意思交通、遠隔視を行うことで、当時西欧で評判だった。カントは、スヴェーデンボリを研究し、1766年刊行の『視霊者の夢』に自らの見解を書いた。この書でカントは、霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを書く一方、スウェーデンボリの語ることを幻想であると否認する見方も書くという二面的な態度を見せる。そして霊界を語る視霊者と独断的な形而上学者はともに夢想を述べているとし、自らは、経験に基づく立場から人間理性の限界を定める新しい形而上学へと向かう。
 『視霊者の夢』を書いてから10数年を経て、ようやくカントは1781年に『純粋理性批判』を発表する。本書でカントは、経験に基づく範囲で理性による科学的認識を基礎づけた。そして、88年の『実践理性批判』等で科学の理論的認識の対象とはならない道徳の実践を説き、科学と道徳・宗教の両立を図った。さらに、市民社会の目指すべき姿を提示し、また国際社会に永遠平和を実現する道を論じた。その哲学は、批判哲学または批判的観念論と呼ばれる。
 私は、ヒュームの衝撃とルソーの啓発を受けたカントが、独自の哲学を構築するに当たって、『視霊者の夢』は重要な節目になっていると考える。また、『視霊者の夢』に書いた心霊論的な信条が、カントの道徳哲学の根底にあると考える。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm