●歴史を導く自然
カントにおける自然を検討するには、『判断力批判』によらねばならない。本書の前に書いた『実践理性批判』で、カントは結語に有名な言葉を記している。「それを考えることしばしばであり。かつ長きに及ぶに従い、常に新たなるいやます感歎と畏敬をもって心を充たすものが二つある。我が上なる星しげき空と我が内なる道徳法則がそれである」と。
この文言に続いてカントは、大意次のように書いている。人間は「短い期間、生命の力を与えられた後に、自分がそこから生じてきた物質をこの惑星に返さなければならない」。しかし、「叡智的存在者としての私の価値を高からしめる人格性」において、「道徳法則は動物性から、さらには全感性界からさえ独立ないのちを私に開示する」。そして道徳法則による定めは、「この世の生の制約や限界に限られることなく、それを超えて限りなく進むのである」と。
カントは、ここで心霊論的信条に基づいて、宇宙的な大自然の中における人間について書いている。人間は宇宙の一点にすぎない地球に生を受けた死すべきものである。だが、人間は叡智界に所属する者でもあり、霊魂は不滅であり、内なる道徳法則に沿って、死後も限りなく実践すべきものとしている。『判断力批判』は、そうした人間の認識能力として、判断力を基礎づける批判書である。そこで、判断力の基礎づけを通じて考察されるものが、自然なのである。
カントは、本書で判断力は悟性と理性を媒介する能力であるとする。判断力は、特殊が普遍に包含されていると思考する能力である。判断力には、既にある普遍的原理によって特殊なものを判定する規定的判断力と、特殊的なものだけが与えられ、そこから普遍的なものを見出す反省的判断力がある。自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。カントは、感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならないと考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。
カントは、判断力は自然と自由、自然界と道徳界をつなぐものだとして、次のように書いている。「(判断力は)自然概念と自由概念の間を媒介し、純粋理論的理性から純粋実践的理性への、前者に従う合法則性から後者に従う究極目的への移行を可能ならしめる概念を、自然の合目的性という概念において暗示するものにほかならない」「判断力は、自然概念の領域から自由概念の領域への移行を可能ならしめるものなのである」と。
こうした判断力の検討は、自由の領域である道徳から文化、歴史の考察へと広がり得るものである。その検討において、カントは自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極目的は道徳的な人間を出現させることだとした。
判断力の検討はまた宗教の考察へも及ぶ。人間は、自然の美しさや広大さや精妙さに感動を覚える。その自然への感動は神への崇敬につながる。カントは『判断力批判』の「付録 目的論的判断力の方法論」で、世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説き、自然と道徳の両面から目的論によって神学を基礎づけた。
ただし、カントは、1790年の『判断力批判』によって、全面的に目的論に基づく形而上学に転換したのではない。全面的に転換すれば、かつて自ら斥けた独断的形而上学に陥る。そのことは、当然明確に意識していたはずである。そのカントが95年の『永遠平和のために』では、自然を主語とし、自然が人類に配慮または強制して、永遠平和を保証すると説いたのである。ここには飛躍があり、またカント自身の思想と矛盾しているように見える。だが、自然が人類の歴史を導くという考えは、『永遠平和のために』の前から、カントが表明していたものである。
カントは、1784年の『世界公民的見地における一般史の構想』で、次のように書いた。「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる。ところでこの場合に自然の計画というのは、各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない。このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質をあますところなく展開し得る唯一の状態だからである」と。ここにおける自然は、計画を遂行するために、目的に向かって人類を導く者である。続いてカントは、1786年の『人類の歴史の憶測的起源』では、旧約聖書に基づいて人類の歴史の起源を想像し、自然が人類をアダムとイブという起源から文化の完成、永遠の平和へと導いているという考えを述べた。本論文では、自然の歴史は「神の業」であると書いている。
『判断力批判』は、1780年代中葉の『世界公民的見地における一般史の構想』『人類の歴史の憶測的起源』の後に1790年に書かれた批判書である。そこでカントは、自然の究極目的を考察し、また目的論によって神学を基礎づけた。そのうえで1795年に書かれたのが、『永遠平和のために』である。『永遠平和のために』でカントは、人間が為すべき予備事項・確定事項を述べた後に、自然が永遠平和を保証することを主張した。この主張は、上記のような1780年代~90年代における思考の展開があってのものである。
カントは、『永遠平和のために』で、自然を神とはしておらず、また、神が自然を通じて人類を導くとも書いてはいない。だが、ここにおける自然は、ほとんど神のようであり、また神の一部のようでもある。カントの永遠平和は、そのような自然が人類に保証するものとして説かれた目標なのである。
次回に続く。
カントにおける自然を検討するには、『判断力批判』によらねばならない。本書の前に書いた『実践理性批判』で、カントは結語に有名な言葉を記している。「それを考えることしばしばであり。かつ長きに及ぶに従い、常に新たなるいやます感歎と畏敬をもって心を充たすものが二つある。我が上なる星しげき空と我が内なる道徳法則がそれである」と。
この文言に続いてカントは、大意次のように書いている。人間は「短い期間、生命の力を与えられた後に、自分がそこから生じてきた物質をこの惑星に返さなければならない」。しかし、「叡智的存在者としての私の価値を高からしめる人格性」において、「道徳法則は動物性から、さらには全感性界からさえ独立ないのちを私に開示する」。そして道徳法則による定めは、「この世の生の制約や限界に限られることなく、それを超えて限りなく進むのである」と。
カントは、ここで心霊論的信条に基づいて、宇宙的な大自然の中における人間について書いている。人間は宇宙の一点にすぎない地球に生を受けた死すべきものである。だが、人間は叡智界に所属する者でもあり、霊魂は不滅であり、内なる道徳法則に沿って、死後も限りなく実践すべきものとしている。『判断力批判』は、そうした人間の認識能力として、判断力を基礎づける批判書である。そこで、判断力の基礎づけを通じて考察されるものが、自然なのである。
カントは、本書で判断力は悟性と理性を媒介する能力であるとする。判断力は、特殊が普遍に包含されていると思考する能力である。判断力には、既にある普遍的原理によって特殊なものを判定する規定的判断力と、特殊的なものだけが与えられ、そこから普遍的なものを見出す反省的判断力がある。自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。カントは、感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならないと考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。
カントは、判断力は自然と自由、自然界と道徳界をつなぐものだとして、次のように書いている。「(判断力は)自然概念と自由概念の間を媒介し、純粋理論的理性から純粋実践的理性への、前者に従う合法則性から後者に従う究極目的への移行を可能ならしめる概念を、自然の合目的性という概念において暗示するものにほかならない」「判断力は、自然概念の領域から自由概念の領域への移行を可能ならしめるものなのである」と。
こうした判断力の検討は、自由の領域である道徳から文化、歴史の考察へと広がり得るものである。その検討において、カントは自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極目的は道徳的な人間を出現させることだとした。
判断力の検討はまた宗教の考察へも及ぶ。人間は、自然の美しさや広大さや精妙さに感動を覚える。その自然への感動は神への崇敬につながる。カントは『判断力批判』の「付録 目的論的判断力の方法論」で、世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説き、自然と道徳の両面から目的論によって神学を基礎づけた。
ただし、カントは、1790年の『判断力批判』によって、全面的に目的論に基づく形而上学に転換したのではない。全面的に転換すれば、かつて自ら斥けた独断的形而上学に陥る。そのことは、当然明確に意識していたはずである。そのカントが95年の『永遠平和のために』では、自然を主語とし、自然が人類に配慮または強制して、永遠平和を保証すると説いたのである。ここには飛躍があり、またカント自身の思想と矛盾しているように見える。だが、自然が人類の歴史を導くという考えは、『永遠平和のために』の前から、カントが表明していたものである。
カントは、1784年の『世界公民的見地における一般史の構想』で、次のように書いた。「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる。ところでこの場合に自然の計画というのは、各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない。このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質をあますところなく展開し得る唯一の状態だからである」と。ここにおける自然は、計画を遂行するために、目的に向かって人類を導く者である。続いてカントは、1786年の『人類の歴史の憶測的起源』では、旧約聖書に基づいて人類の歴史の起源を想像し、自然が人類をアダムとイブという起源から文化の完成、永遠の平和へと導いているという考えを述べた。本論文では、自然の歴史は「神の業」であると書いている。
『判断力批判』は、1780年代中葉の『世界公民的見地における一般史の構想』『人類の歴史の憶測的起源』の後に1790年に書かれた批判書である。そこでカントは、自然の究極目的を考察し、また目的論によって神学を基礎づけた。そのうえで1795年に書かれたのが、『永遠平和のために』である。『永遠平和のために』でカントは、人間が為すべき予備事項・確定事項を述べた後に、自然が永遠平和を保証することを主張した。この主張は、上記のような1780年代~90年代における思考の展開があってのものである。
カントは、『永遠平和のために』で、自然を神とはしておらず、また、神が自然を通じて人類を導くとも書いてはいない。だが、ここにおける自然は、ほとんど神のようであり、また神の一部のようでもある。カントの永遠平和は、そのような自然が人類に保証するものとして説かれた目標なのである。
次回に続く。