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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

ユダヤ145~ユダヤ教の二面性への対処

2017-12-31 10:47:16 | ユダヤ的価値観
ユダヤ教の二面性に対処する

 第五に為すべきことは、ユダヤ教の二面性を理解し、これに対処することである。ユダヤ教は民族宗教だが、その教えには民族的特殊性と人類的普遍性の両面がある。この点について、ユダヤ人の歴史家マックス・ディモントの著書『ユダヤ人の歴史~世界史の潮流の中で』で、ユダヤ思想には民族主義と普遍主義の二面性があり、その二面性がユダヤ民族の生き残りの方法となっていると説いている。
 私見によれば、ディモントは民族主義をよく定義していない。近代以前にネイションは存在しないので、近代以前から現代までを一貫する思想をいうのであれば、ナショナリズムではなくエスニシズムというべきである。また民族主義と普遍主義は、対概念にはならない。普遍の反対語は特殊である。そこで、私は、ディモントにおける民族主義と普遍主義という対比を、民族的特殊性と人類的普遍性に置き換えて理解する。
 ディモントの説くところでは、民族主義はユダヤ人の選民思想であり、神の言葉を伝える者としてのユダヤ人のアイデンティティを保持することが、ユダヤ民族の生存に必要であるとする主張である。また普遍主義は人類に普遍的なメッセージを世界に伝えることであって、そのために世界の数々の中心地にユダヤ人が存在することが必要だとする主張である、とディモントは述べる。
 ディモントによると、彼のいう民族主義を唱えた最初の預言者はホセアであり、普遍主義を説いた最初の預言者はアモスである。また、アモスの普遍主義思想を発展させてユダヤ教の普遍主義を構築したのが、預言者イザヤである。イザヤの普遍主義思想とは「人類は兄弟である」という言葉に象徴されている。「人類は兄弟である」と説く普遍主義は、ホセアの唱えたユダヤ人は選ばれた民であるとする民族主義とは正反対の思想である。
 ディモントによれば、民族主義のためには、イスラエルという国家が必要である。しかし、国家は滅ぶ可能性がある。そこで、ユダヤ教を存続させるためには、イスラエルの外にディアスポラのユダヤ人が存在することが必要である。そして、ディアスポラのユダヤ人は、単にユダヤ教を守るだけでなく、ユダヤ教が教える人類に普遍的な価値を広める責務がある、とディモントは述べている。
 私見を述べると、ユダヤ教史上最高のラビと言われる紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教を一言で言うと、「レビ記」19章18節の「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」であると述べている。イエスもまた「汝の隣人を愛せよ」と教えたが、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。ユダヤ教徒の隣人愛が普遍的・無差別的な人類愛に高まるには、神ヤーウェによる選民という思想を脱却しなければならないだろう。
 馬淵睦夫は、著書『世界を操る支配者の正体』で、次のように言う。「ユダヤ教はあくまでユダヤ人のための民族宗教であって、世界宗教ではない。ユダヤ教の掟はユダヤ人のみを対象としたものだから、彼らは私たち異邦人をユダヤ教に改宗させようとしているのではなく、人類に普遍的であるとみなす思想、『人類は兄弟』のような平等思想や、共産主義、グローバリズムを世界に広めようとするのである。いわば、彼らが普遍的とみなす思想へ私たちを改宗させようと試みているのである」
 「グローバリズムは民族主義を否定すると言っても、ユダヤ人のみには民族主義が許されている。グローバリズムの下ではユダヤ人以外の民族主義は認められていないということは、グローバル社会において民族主義的なものはすべてユダヤ人が独占するのである」
 「グローバリズムはユダヤ普遍思想であって、その担い手であるディアスポラ・ユダヤ人はグローバリズムを世界に拡大させることによって、ユダヤ民族とイスラエル国家の安泰を図っているのだと言える」と。
 私見を述べると、馬淵が把握を試みているのは、ユダヤ民族という選民とこれを支持する非ユダヤ人が世界的な支配集団となり、他の諸民族・諸国民は脱ナショナリズム化させて、人類的普遍性の思想を持たせることである。ここには、ユダヤ人は自らの民族的特殊性の教えを堅持し、一方、他民族には人類的普遍性の思想を広めることで、イスラエルの安全とユダヤ民族の繁栄を確保できるという考え方がある。このように、ユダヤ人は、ユダヤ教にある民族的特殊性と人類的普遍性の二面性を発揮することで、民族の生き残りを図っていると理解される。
 こうしたユダヤ教の二面性を理解し、これに対処する必要がある。

●アメリカ=イスラエル連合に方向転換を促す

 第6に為すべきことは、アメリカ=イスラエル連合に方向転換を促すことである。まずこの連合の宗教的基盤について書くと、ディモントが注目するホセアの民族的特殊性の教えは、シナイ契約によって選民思想を樹立したモーゼに淵源する。一言で言えば、ユダヤ民族は神に選ばれた民であり、神と契約を結んでいる唯一の民族であるという思想である。一方、イザヤの人類的普遍性の教えは、イエスによってユダヤ民族の枠を超えて、諸民族に広める教えへと発展した。一言で言えば、「汝の隣人を愛せよ」という思想である。
 民族的特殊性を核心とするユダヤ教は民族宗教のままだが、人類的普遍性を説くキリスト教は世界宗教となった。キリスト教は、エスニックなユダヤ教と対立する。また、ローマ帝国、ゲルマン社会等の諸民族に固有の宗教を捨てさせ、脱エスニシズムの教えを広布した。だが、16世紀に至って、ヨーロッパで逆流が起った。ヨーロッパに深く浸透したカトリック教会が腐敗を極め、これに抗議するプロテスタンティズムが現れたことにより、キリスト教の一部が再ユダヤ教化したのである。その結果、ユダヤ民族は元来のエスニックなユダヤ教を堅持し、そのユダヤ民族を再ユダヤ教化したキリスト教徒が取り囲むという関係が生まれた。さらに、20世紀後半に至り、人類的普遍性の教えを信奉するキリスト教徒の社会が、宗教的・民族的特殊性を持つユダヤ教徒の社会を守る同盟関係が作られた。それが、アメリカ=イスラエル連合である。アメリカ=イスラエル連合は、ユダヤ教の民族的特殊性と人類的普遍性という二面性が、キリスト教を介して、国家間の関係に発展したものである。
 かつては、ユダヤ人のすべてがディアスポラだった。しかし、今はイスラエルに所属・居住するユダヤ人が、国民国家を形成している。彼らは、イスラエルという本国を防衛し、その拡張を図っている。一方、ユダヤ人の一部はディアスポラであり続け、本国外から本国の維持・発展に寄与している。主に米国に居住するユダヤ人がこの役割を担っている。ユダヤ人が多数、世界的な覇権国家アメリカに居住して、ロビー活動を行うことで、アメリカの政治・外交をイスラエルの国益にかなうものへと誘導している。それによって、アメリカのナショナリズムを、イスラエルのナショナリズムに寄与するものに変形させている。それゆえ、ユダヤ人は、もはや単なるディアスポラではない。元ディアスポラであり、現在は半分がディアスポラであることを利用して、本国の安全と民族の繁栄を追求するという高度な本国連携型のナショナリズムを展開している。
 今日、アメリカ=イスラエル連合は、国際社会でグローバリズムを推進するエンジンとなっている。またアメリカ=ユダヤ文化を普及することによって、ユダヤ的価値観を世界に普及しつつある。その活動は、ユダヤ民族のナショナリズムを強化し、他民族の脱ナショナリズムを促進するものともなっている。それゆえ、ユダヤ的価値観の超克のためには、非ユダヤ民族におけるナショナリズムを保持するだけでなく、アメリカ=イスラエル連合を世界の諸国民・諸民族の共存共栄に寄与するものに方向転換することが重要な課題となる。
 グローバリズムは、アメリカ=イスラエル連合を要として、ユダヤ=キリスト教による人類の教化を進め、ユダヤ教徒という選民とその支持者である非ユダヤ人が世界を統治する体制の樹立を目指す思想・運動となっている。グローバリズムを通じて世界に浸透しつつあるユダヤ的価値観を超克するためには、その核心にあるユダヤ教の在り方が問われねばならない。

 次回に続く。

ユダヤ144~グローバリズムを克服、ナショナリズムを保持

2017-12-27 08:51:14 | ユダヤ的価値観
●グローバリズムを克服する

 第三に為すべきことは、グローバリズムの克服である。グローバリズムについては、前章までに何度か書いたが、グローバリズムはグローバリゼイションを戦略的に進める思想であり、ユダヤ的価値観を世界的に普及させようとする思想である。地球規模の単一市場・統一政府を目指すものであり、地球統一主義または地球覇権主義である。私は、グローバリズムは近代西洋文明が生み出した思想の典型であり、またその頂点だと考える。
 1990年代から、21世紀にかけて、世界的にグローバリゼイションが急速に進んでいる。グローバリゼイションは、国境を越えた交通・貿易・通信が発達し、人・もの・カネ・情報の移動・流通が全地球的な規模で行われるようになる現象である。これに伴い、技術・金融・法制度等の世界標準が形成されつつある。グローバリゼイションは、アメリカ主導で進められ、アメリカの標準を世界の標準として普及する動きとなった。この動きは、アメリカの国益を追求する手段として推進された。またアメリカの伝統・習慣・言語・制度等を他国に押し付けるアメリカナイゼイションの拡張ともなった。今日のアメリカ文化は、イギリスで発達したアングロ・サクソン=ユダヤ的な文化がアメリカでさらに独自性を加えて発達したアメリカ=ユダヤ文化である。その核心には、ユダヤ的価値観がある。それゆえ、グローバリゼイションは、アメリカを通じてユダヤ的価値観が世界的に普及していく現象ともなっている。
 このグローバリゼイションを戦略的に進める思想が、グローバリズムである。20世紀前半から、欧米の所有者集団は、彼らに仕える経営者集団を使って、資本の論理によって国家の論理を超え、全世界で単一政府、単一市場、単一銀行、単一通貨を実現する思想を発展させてきた。その思想が、グローバリズムのもとになっている。
 グローバリズムが出現する前、近現代の世界では、ナショナリズムとインターナショナリズムの戦いが繰り広げられてきた。具体的には、国家と市場、国民と階級の戦いである。インターナショナリズムには、主に市場中心の資本主義と、国家(政府)の否定を目指す共産主義がある。国家否定的共産主義のインターナショナショナリズムは、共産主義の内部矛盾によって大きく後退した。一方、冷戦終焉後、市場中心的資本主義のインターナショナリズムは隆盛し、地球規模のものになった。これがグローバリズムである。
 グローバリズムは、経済的には、世界資本主義の思想である。巨大国際金融資本が主体となって、国民国家の枠組みを壊して広域市場を作り出し、最大限の経済的利益を追求するために、経済的合理主義を地球規模で実現しようとする思想である。諸文明・諸民族が持つ伝統的な商慣習や文化的秩序は、グローバルな経済活動の障害になるとして、廃止させようとする。
 元ウクライナ大使の馬淵睦夫は、外交官としての実務経験をもとに、グローバリズムについて独自の考察を行っている。著書『国難の正体』で、馬淵は「グローバリズムという発想は、歴史的に見ればユダヤ的思考が果たした役割が大きいと思われる」とし、ユダヤ人は国民・国家を超えて「世界全体を単一市場」とすることを目指していると書いている。
 馬淵によれば「グローバル化した市場はマネーの価値のみで動くから、マネーを支配する者が市場を支配する」。それによって、「国家を支配し、世界を支配する」。「マネーの完全支配を目指す国際銀行家たちは、論理の必然として全世界を支配することが彼らの最終目標となる」「国際銀行家たちの仕事に内在している論理が世界制覇、世界政府の樹立という結論になる」と馬淵は述べている。馬淵は、著書『世界を操る支配者の正体』で、グローバリズムとは国際銀行家たちが支配する世界市場及び世界政府を創造しようとする地球規模の運動である、と定義している。
 私見を述べると、グローバリズムは、政治的には、既存の国家を超えた統一世界政府を目指す思想である。第1次世界大戦後に始まった世界政府建設運動が、第2次大戦後、ヨーロッパでEUという広域共同体を生み出した。この動きの延長線上に、地球規模の統一政府がある。それゆえ、グローバリズムは、資本主義的な経済合理主義に基づく地球統一主義または地球覇権主義である。
 グローバリズムは、21世紀の世界において、ユダヤ的価値観を全地球規模で普及・徹底する思想・運動となっている。ロスチャイルド家を中心とするユダヤ系国際金融資本家と、彼らとユダヤ的価値観を共にするロックフェラー家を中心とする非ユダヤ系資本家がこれを推進していると見られる。推進には巨大国際金融資本によって莫大な資金が投入され、優れた頭脳と最新の技術が集められ、政治的・経済的な国際機関、学術・教育・研究機関、マスメディア等が推進の手段になっていると考えられる。
 ユダヤ的価値観の超克のためには、このグローバリズムの克服が必要である。

●ナショナリズムを保持する

 第四に為すべきことは、諸国民・諸民族がナショナリズムを保持することである。
 ユダヤ人の指導層及び非ユダヤ人でユダヤ的価値観を共にする者たちは、現代世界の支配集団、すなわち所有者集団と経営者集団の重要部分を占め、グローバリズムを世界戦略として推し進めている。
 世界戦略としてのグローバリズムは、ユダヤ民族におけるナショナリズムの強化と、他民族における脱ナショナリズムの促進を戦術に含んでいる。ユダヤ人及びユダヤ人に同調する非ユダヤ人の大衆は、シオニズム的なナショナリズムを信奉または支持することで、意識するとしないとに関わらず、支配集団によるグローバリズムの推進に参画していることになる。
 ナショナリズムについては、第5章の現代におけるユダヤ人の様々な思想の項目に書いた。再度になるが、私はナショナリズムを次のように定義している。ナショナリズムとは、エスニック・グループをはじめとする集団が、一定の領域における主権を獲得して、またその主権を行使するネイションとその国家を発展させようとする思想・運動である。また、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的な主権国家の形成・発展にかかるエスニシズムである。
 ユダヤ人のナショナリズムは、エスニックで宗教的なナショナリズムである。イスラエル建国後は、本国においては対外拡張型、本国外においては本国連携型のナショナリズムとなっている。イスラエルは、数次にわたる中東戦争を戦い、周囲に対して対外拡張的な行動を行ってきた。それとともに、イスラエル国外にいるユダヤ人が本国と連携して、本国の安全と民族の繁栄を追求している。
 ユダヤ的ナショナリズムは、宗教的には、ユダヤ教徒が救世主(メサイア)を中心として世界の統治者になろうとする思想に裏付けられている。ユダヤ教は民族宗教であるので、他民族をユダヤ教に改宗させようとはしない。選民は少数の集団に限定され、他の多数を選民に加えることをしない。選民が選民であり続けるには、非選民が必要であり、選民と非選民の差別が不可欠だからである。
 この差別のもと、ユダヤ人の指導層は、ユダヤ民族・ユダヤ教徒が生き延び、宗教的な世界統治を実現しようとするための世界政策を行う。そのために、自民族のナショナリズムを強化する。同時に、他民族のナショナリズムを弱めようとして、脱ナショナリズムを促進する。ユダヤ人のみがナショナリズムを堅持し、他民族はナショナリズムを失っていくように誘導する。親イスラエルの国家以外の国は、ナショナリズムによって集団が団結しないようにする。そのための方法として、集団の内部を分裂・対立させる。個人の意識を強め、個人主義化する。自由主義的な資本主義、インターナショナリズム的な社会主義、世界市民主義的なコスモポリタニズム等は、思想・立場の違いにかかわらず、それぞれこの目的に適う部分がある。ユダヤ人の指導層が抱く将来の世界像は、中心部をユダヤ教及びユダヤ的ナショナリズムを堅持するユダヤ人とその支持者による極少数の集団が占め、周辺部はナショナリズムを失い、固有の宗教を失った諸民族の大多数の集団が居住する社会と想像される。
 このようにグローバリズムのもとでのナショナリズム/脱ナショナリズムを複合した戦術が、ユダヤ的価値観に基づく世界戦略に含まれている、と私は考える。これに対抗するには、非ユダヤ民族がナショナリズムを保持することが必要である。独自の伝統・慣習・文化等に価値を見出し、尊重・維持する考え方や生き方を保つことである。そのうえで、特定の民族集団が世界を支配するのではなく、様々な民族が個性を保ちながら共存調和できる指導原理を探究し、普及していかなければならない。

 次回に続く。

ユダヤ143~ユダヤ的価値観の超克のためになすべきこと

2017-12-25 11:09:01 | ユダヤ的価値観
 拙稿「ユダヤ的価値観の超克~新文明創造のために」は、最終章に入る。本章では、これまでの記述を踏まえて、ユダヤ的価値観をいかに超克するか、またいかにして新しい地球文明を創造するかという本稿全体の主題について述べたい。
 予め要旨を書くと、人類が現在世界を覆っている近代西洋文明の弊害を解決するには、ユダヤ的価値観の超克が必要である。それには、ユダヤ的価値観を普及させてきた資本主義を人類全体を益するものに転換し、またグローバリズムから諸国・諸民族が共存共栄できるものへと指導原理を転換しなければならない。ユダヤ的価値観は、根本的にはユダヤ教の教義に基づくものゆえ、ユダヤ教内部からの改革が期待される。改革のためには、非セム系一神教文明群の側から改革を促進することが必要である。特に日本文明には、重要な役割がある。また、これに加えて、人類は唯物論的人間観を脱却し、心霊論的人間観を確立しなければならない。そして、精神的・道徳的な向上を促す宇宙的な力を受け入れて、核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越え、物心調和・共存共栄の新文明を建設すべき時に、人類は直面している。

(1)超克のためになすべきこと

●新しい文明への転換を目指す

 まず、ユダヤ的価値観の超克のために、為すべきことを挙げたい。(1)新しい文明への転換を目指す、(2)資本主義を改革する、(3)グローバリズムを克服する、(4)ナショナリズムを保持する、(5)ユダヤ教の二面性に対処する、(6)アメリカ=イスラエル連合に方向転換を促すーーこれらの6点である。これらについて書いた後、さらに掘り下げて、宗教・文明・人間観に関して述べていきたい。
 ユダヤ的価値観の超克のために、第1に為すべきことは、新しい文明への転換を目指すことである。現代世界を覆っている西洋近代文明は、西欧発の文明である。ヨーロッパ文明は、ギリシャ=ローマ文明、ユダヤ=キリスト教、ゲルマン民族の文化を三大文化要素としている。それらの要素を持つヨーロッパ文明で、15世紀から近代化すなわち生活全般の合理化が進んだ。近代化は、文化的・社会的・政治的・経済的の4つの領域で、それぞれ進展した。ヨーロッパ文明は、17世紀から北米にも広がった。そこで、私は欧米にまたがる西欧発の文明を、近代西洋文明と呼んでいる。近代西洋文明は世界各地に伝播し続け、各地の諸文明を、あたかもその周辺文明のようにしてきた。
 近代西洋文明は、ルネサンス、地理上の発見、宗教改革、市民革命、科学革命、産業革命、情報通信革命等を通じて、さまざまな思想・運動・理論・制度を生み出した。今日世界に広がっている自由主義、デモクラシー、個人主義、主権、国民国家、ナショナリズム、人権、法治主義、資本主義、社会主義、功利主義(最大幸福主義)、物心二元論、機械論、実験科学等は、近代西洋文明において発生・発達したものである。
 近代西洋文明は、人類に飛躍的な進歩をもたらした。だが、その半面で多くの弊害をもたらした。生活全般の合理化によって、文化・社会・政治・経済に起こった大きな変化は、深刻な問題を生み出した。家族・地域・民族・国家等の共同体が解体され、社会はバラバラの個人の集合となっている。伝統・慣習は否定され、人々は確かな拠り所を失った。国際社会は一個の市場へと変貌し、すべての価値は市場における貨幣価値によって量られる。母なる自然は支配・管理を行う対象となった。
 そうした近代西洋文明の弊害の最たるものは、人類を絶滅しかねない核兵器の開発であり、また文明の土台を危うくする地球環境の破壊である。現代の人類は、世界平和の実現と地球環境の保全を、生存と繁栄に不可欠な二大課題としている。これら二大課題を解決するには、これまで数百年間にわたって、人類を支配してきた近代西洋文明から新しい文明への転換が必要である。その転換のために、本稿が注目するのは、西洋文明の宗教的な中核となっているユダヤ=キリスト教である。とりわけ西方キリスト教文化に溶け込んでいるユダヤ的価値観に焦点を合わせ、それを超克することを本稿の課題としている。
 ユダヤ的価値観の超克なくして、人類は新しい文明に転換することができない。すなわち、物質面と精神面のバランスが取れ、互いに共存共栄でき、また自然と調和できる物心調和・共存共栄の新文明を地球に建設することは、ユダヤ的価値観の超克なくしては、実現できないと考える。

●資本主義を改革する

 第二に為すべきことは、資本主義の改革である。
 ユダヤ的価値観は、物質中心・金銭中心の考え方、自己中心的な態度、対立・闘争の論理、自然の管理・支配の思想である。この価値観は、ユダヤ教の教義に基づいて発達した価値観である。
 ユダヤ教は、富の獲得をよしとし、そのために経済的合理化を推進する。ユダヤ教に基づくユダヤ的価値観は、資本主義の発達とともに、西方キリスト教社会で受け入れられていった。ユダヤ教は、物質中心で拝金主義的な考え方を助長した。その考え方は、自己中心的な態度を取り、対立・闘争の論理を用いる。また、自然を征服・支配し、自然を物質として利用し、金銭的な利益を上げるという考え方でもある。
 ユダヤ人は、近代化するヨーロッパで、経済的な活動の場を求めて移住を繰り返した。14~15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルで、17世紀にはオランダのアムステルダムで、17世後半からはイギリスのロンドンで、ユダヤ人は移住するたびに新しい場所で才能を発揮した。ヨーロッパ経済また資本主義システムのその時々の中心地で、ユダヤ人は活躍した。北米、ドイツ等でも移住したユダヤ人が活躍した。20世紀以降、今日まで世界で最も繁栄しているアメリカ合衆国は、イスラエル以外では世界最大のユダヤ人人口を有する国家となっている。また、ユダヤ民族が古代から継承し続けたユダヤ文化は、17世紀後半からイギリスでアングロ・サクソン文化と融合して、アングロ・サクソン=ユダヤ文化となった。18世紀末からアメリカでさらにアメリカ文化と融合して、アメリカ=ユダヤ文化へと発達した。その文化的融合において、ユダヤ的価値観が英米社会に浸透し、さらに近代西洋文明全体に伝播した。そして近代西洋文明の世界化によって、非西洋諸文明にも広がった。その影響は大きく、物質中心・金銭中心の考え方、自己中心的な態度、対立・闘争の論理、自然の管理・支配の思想が、21世紀の世界で優勢になっている。
 資本主義は、ユダヤ的価値観を重要な要素とする近代西洋文明が生み出した社会経済体制である。その最先端にあるのが、情報科学と結びついた金融資本主義である。ユダヤ的価値観は、情報金融資本主義に最も色濃く表れている。それが生み出した体制を改革しないと、人類は欲望の増大によって争い合い、地球を食い荒らし、遂には自滅に至るだろう。
 資本主義を改革する方法は、資本主義を全く否定することからは生まれない。資本主義は合理的かつ組織的な生産を実現し、人類の生活を豊かにした。その合理的かつ組織的な生産様式を維持しつつ、現在の経済活動を利己的・搾取的ではなく、人類全体を益するものにする仕組みに改善することが必要である。
 資本主義が発達する社会は、自由を中心価値とする。所有・契約・移動等の自由が保障されるところに、活発な経済活動が行われる。しかし、自由を中心価値とする社会は、競争の激化と格差の拡大を生む。そこで、社会的な正義を保つためには、自由を中心としつつ、平等を重視する理念とそれを実現するための政策が必要である。そうした政策を一国内だけでなく、世界規模で実施するところに、人類全体の利益を増進する仕組みが作られるだろう。
 そのような仕組みを作るためには、物質的な発展・繁栄だけを追及する価値観ではなく、人間が精神的に成長・向上し、互いに共存共栄し、また自然と調和することを追及する精神文化が興隆しなければならない。この課題において、重要なのが、グローバリズムの克服である。

 次回に続く。

ユダヤ142~アタリは超民主主義に向かう21世紀の歴史を描く

2017-12-23 08:52:50 | ユダヤ的価値観
●アタリは超民主主義に向かう21世紀の歴史を描く

 次に、もう一人、世界的に注目されているユダヤ系フランス人、ジャック・アタリについて書く。
 アタリは、1943年アルジェリア生まれの経済学者である。現代ヨーロッパを代表する知性の一人とされる。トッドがグローバリゼイションを批判するのに対し、アタリは逆にグローバリゼイションを推進する側の頭脳である。
 フランスは今日、欧州連合(EU)においてドイツとともに二大主要国となっている。アタリはそのフランスにあって、社会主義者フランソワ・ミッテランの政権で大統領特別補佐官を務めた。ユダヤ人で新自由主義者のニコラ・サルコジの政権に替わると、ここでも21世紀に向けてフランスを変革するための政策提言を行った「アタリ政策委員会」の委員長を務めた。社会主義者にも新自由主義者にも重用されるということは、アタリが類まれな優秀さを持つことを示す。また、同時に、政治家の背後にいる所有者集団に評価されていると考えられる。
 アタリは、2006年に『21世紀の歴史』を刊行した。歴史と言っても、21世紀の数十年間の未来を予測して書いた本である。本書は、21世紀初頭の世界を次のように概説する。「現状はいたってシンプルである。つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある。すなわち、さらなる金銭欲の台頭、金銭の否定、金銭の支配が、歴史を揺り動かしてきたのである。行き着く先は、国家も含め、障害となるすべてのものに対して、マネーで決着をつけることになる」と。
 アタリは、こうした現状認識を以て、50年先の未来を予測する。アメリカ帝国の世界支配は、2035年よりも前に終焉するだろう。次に、超帝国(hyperempire)、超紛争(hyperconflict)、超民主主義(hyperdemocratie)という三つの未来の波が次々と押し寄せてくるという。
 超帝国とは、すべてマネーで決着がつく、究極の市場主義が支配する世界であり、民主主義は雲散霧消し、国家権力は骨抜きとなり、稼いだ者が勝ちという社会である。超紛争とは、国境をまたいで跋扈する様々な暴力集団による破壊的衝突による混沌とした泥沼の紛争である。これらの二つの波は、人類に破滅的被害をもたらす。
 だが、これらの波と同時に超民主主義が高揚する。アタリは、次のように述べる。「2060年ごろ、いや、もっと早い時期に、少なくとも大量の爆弾が炸裂して人類が消滅する以前に、人類は、アメリカ帝国にも、超帝国にも、超紛争にも我慢ならなくなるであろう。そこで、新たな勢力となる愛他主義者、ユニバーサリズムの信者が世界的な力を持ち始めるであろう」「そして、地球レベルで市場と民主主義との間に新たなバランスを次第に見出す」。これが、超民主主義である。「新たなテクノロジーの貢献もあり、世界的・大陸的な制度・機構が、共同体としての生活をまとめ上げていく」。「これらの制度・機構は、無償のサービス、社会的責任、知る権利を推進し、全人類の創造性を結集させ、これを凌駕する世界的インテリジェンスを生み出すだろう。いわゆる利潤追求をすることなしにサービスを生み出す、調和を重視した新たな経済が市場と競合する形で発展していく」。「市場と民主主義は、いずれ過去のコンセプトとなるであろう」とアタリは予測する。
 アタリの描く超民主主義とは、市場民主主義をベースとした利他愛に基づく人類の新たな境地であり、利潤追求自体に大きな意味はなくなり、人類全員があたかも家族のように、他者の幸せが自分の幸せと感じられる社会だとされる。そこにおける新たな経済は、「人類の幸福を中心に据えた、新たな豊かさの実現を目指す経済」であり、企業活動の究極目的は「利潤追求ではなく、社会の調和」になるという。
 アタリは、21世紀のこれからの数十年において、ノマド(nomade)が活躍すると予測する。ノマドとは遊牧民であり、流浪者である。アタリは、人類は1万年ほど前にメソポタミアの地で定住民となったが、21世紀に再びノマドとなる者が増えるとする。ノマドには、3種類ある。生き延びるために移動を強いられる「下層ノマド」(inflanomade)、下層ノマドになることを恐れてヴァーチャルな世界に浸る「ヴァ―チャル・ノマド」、エリートビジネスマン・学者・芸術家・クリエーターなどの「超ノマド」(hypernomade)である。これらのうち、超ノマドが超帝国を管理していくようになるという。
 私見を述べると、アタリのノマドは、歴史的には国境を越えて離散・移動しつつ各地で優れた能力を発揮してきたユダヤ人と重なり合う概念である。現代世界では、地域紛争や民族迫害、環境破壊等による移民が欧米で増えている。またグローバリゼイションの進展の中で、国境を越えて能力を発揮できる場所を求める人間の移動も活発になっている。いわば、非ユダヤ人のユダヤ人化である。そして、超ノマドには、国際的に活動するユダヤ人、及び彼らと同様にユダヤ人的な思想を持って行動をする非ユダヤ人が推定される。
 注意すべきは、アタリは、優秀な超ノマドが管理し、究極の市場主義が支配する超帝国を良しとしていないことである。それは、超紛争とともに破滅的被害を人類にもたらすものだという。そして、アタリは、超民主主義の高揚に期待を寄せ、その担い手は、「愛他主義者、ユニバーサリズムの信者」だという。愛他主義は利己心より利他心を優先する考え方であり、ユニバーサリズムは普遍主義であり、コスモポリタニズムの一種だろう。だが、アタリにおいて「愛他主義者、ユニバーサリズムの信者」と超ノマドとの関係は、はっきりしない。前者は後者の一部なのか、それとも異質なものなのか。前者はどのようにして、超帝国と超紛争の破滅的被害の広がる中から出現して増加し、人類全員があたかも家族のように他者の幸せが自分の幸せと感じられる社会へと世界を導いていくのか。これらについて、アタリは具体的に書いていない。また、アタリには、人間には自己実現や自己超越の欲求が内在するという見方や、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教を含む従来宗教が内部から変化していく展望はなく、人類の精神的・道徳的な向上をもたらす指導原理や推進力の考察もない。ただ未来の断片的なイメージを投影して見せるだけである。
 アタリは『21世紀の歴史』の後に書いた『金融危機後の世界』や『国家債務危機――ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか』等では、世界各国が抱える危険な水準の債務問題を解決するには地球中央銀行や世界財務機関の設立しかないと主張している。その点で、アタリは、欧州統合運動の基礎にある世界政府樹立を目指す巨大国際金融資本の思想を代弁していると考えられる。そして、アタリ自身は、愛他主義やユニバーサリズムの先駆者ではなく、超民主主義という理想社会のイメージを提供しつつ、ヨーロッパと世界を超帝国へと導き、その管理を担う超ノマドの育成者と見るのが妥当だろう。

 次回に続く。

ユダヤ141~トッドは人類の未来を予測(続き)

2017-12-21 09:31:55 | ユダヤ的価値観
トッドは家族制度と人口統計から人類の未来を予測(続き)

 私がトッドの主張で最も注目するのは、21世紀半ばに人類の人口は均衡に向かい、世界は政治的に安定し、平和になっていくと予測していることである。人口の維持には、合計特殊出生率が最低2.08必要である。世界の出生率の平均は、その数値に近づいている。『帝国以後』で、トッドは「おそらく2050年には、世界の人口が安定化し、世界は均衡状態に入ることが予想できる」と述べている。人口の均衡化とともに、トッドが予想するのは、世界の政治的な安定化である。
 「識字化と出生率の低下という二つの全世界的現象が、デモクラシーの全世界への浸透を可能にする」「識字化によって自覚的で平等なものとなった個人は、権威主義的な方式で際限なく統治されることはできなくなる」「多くの政治体制が自由主義的民主主義のほうへと向かっていく」「識字化され、人口安定の状態に達した世界が、ちょうどヨーロッパの近年の歴史を地球全体に拡大するかのように、基本的に平和への傾向を持つであろう」「平静な諸国が己の精神的・物質的発展に没頭するであろう」とトッドは述べている。
 ところで、トッドは、ヨーロッパ統合には懐疑的であり、懐疑的反対論者と言うことができる。その主張は、家族人類学、文化人類学、人口学、歴史学、心理学、国際関係論等にまたがる類まれな学識に基づいている。トッドはヨーロッパ統合に反対する理由を五つ挙げる。各国の社会構造・精神構造の違い、言語の問題、国家・国民(ナシオン)の自律性、人口動態の違い、移民に対する態度の違いである。
 トッドは、ヨーロッパ統合に反対するだけでなく、単一通貨にも一貫して反対している。ヨーロッパの近代化は、農村共同体やギルド等、国家と個人の間の中間的共同体を解体しながら進展した。都市化・工業化がそれである。共同体が崩壊すると、それまで共同体によって守られてきた個人は、バラバラの個人になる。単一通貨は、残存していた中間的共同体の意識を崩壊させ、とりわけ国民共同体の意識を崩壊させる。その結果、帰属意識を失った個人を無力感に陥れる、としてトッドは単一通貨に反対する。
 トッドは、自らの出自であるユダヤ人の歴史と運命について、強い関心を持っている。ユダヤ人は、ヨーロッパで最大の移民である。1994年(平成6年)に出した『移民の運命』でトッドは、ヨーロッパにおけるユダヤ人の歴史と各国における対応の違い、またユダヤ人以外の世界の移民の問題について、詳細な研究をしている。その概要については、拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」を参照願いたい。
 トッドは、グローバリゼイションを根底的に批判している。『移民の運命』の4年後に出した『経済幻想』で、グローバリゼイションは「合理性と効率性の原理」であり、「社会的なもの、宗教的なもの、民族的なもの」を壊し、「個別的具体性を消し去り」「歴史から地域性を剥奪する」と述べる。トッドによれば、グローバリゼイションは、アメリカが主導してアングロ・サクソン的な価値観を世界に広める動きである。絶対核家族に基づく個人主義的資本主義の制度・習慣をグローバル・スタンダードとする動きとも言える。
 トッドは、アングロ・サクソン的な資本主義という範囲で、グローバリゼイションを批判し、ユダヤ的価値観を直接的に批判しない。しかし、私の見るところ、アングロ・サクソン的価値観は19世紀からユダヤ的価値観と深く融合しており、アングロ・サクソン=ユダヤ的価値観ととらえることができる。その価値観の表われの典型が、新自由主義・市場原理主義である。
 トッドは、「資本主義は、有効需要の拡大を保護するために、強く積極的な国民国家が介入することを必要としている」とし、グローバリゼイションに対抗するために、国民国家の役割を強調する。こうしたトッドが、現代の世界で強く期待を寄せているのが、わが国・日本である。トッドは次のように語る。「日本は、人類学上の理由から、アングロ・サクソン・モデルとは極めて異なった資本主義の調整されたモデルを示している」。異なったモデルとは直系家族型資本主義のことである。トッドは続ける。「主義主張の面では、現在、沈黙を守っている日本は、アングロ・サクソン世界への対抗軸を代表しうるし、すべきであろう。すなわち、国民国家による調整という考え方の、信頼できる積極的な擁護者となれる」と。トッドはまた次のように言う。「フランスやヨーロッパにとっては、日本がイデオロギー面でもっと積極的になることが必要なのである」「世界第二の経済大国が、イデオロギー的にも政治的にも十分な役割を果たさないような世界は、不安定な世界になるしかない」と。
 トッドのいう「アングロ・サクソン世界への対抗軸」は、アングロ・サクソン=ユダヤ的世界への対抗軸というべきところである。より明確に言うと、アングロ・サクソン=アメリカ=ユダヤ的世界への対抗軸である。トッドが期待する日本の役割については、私見を第6章に書く。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「家族・国家・人口と人類の将来~エマニュエル・トッド」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09h.htm
・拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09i.htm

ユダヤ140~トッドは家族制度と人口統計から人類の未来を予測

2017-12-19 06:36:26 | ユダヤ的価値観
●トッドは家族制度と人口統計から人類の未来を予測

 21世紀の現在、個性的な主張をして世界的に注目を集めているユダヤ人の論者に、エマヌエル・トッドとジャック・アタリがいる。先に第4章で、ユダヤ人の活躍を除くと19世紀末からのフランスの文化的栄光はなかば以上が失われるほどであり、フランス的知性とはフランス=ユダヤ的な知性と言っても過言ではないだろう、と書いた。その際、トッドとアタリについては留保しておいた。彼らは、ともに今日世界的に評価されているユダヤ系のフランス人である。
 エマニュエル・トッドは、1951年生まれの人口学者・歴史学者・家族人類学者であり、現代世界で屈指の知の巨人である。家族は改宗ユダヤ人であり、トッド自身はユダヤ教育を受けていないという。だが、トッドは、ユダヤ人としての民族意識を持つ非ユダヤ教的ユダヤ人である。
 トッドの名が世界に知られたのは、1976年(昭和51年)に発表した『最後の転落』で、「10年から30年のうちにソ連は崩壊する」と予測し、それを的中させたことによる。この極めて早い時期に出されたソ連崩壊の予測は、トッドが専門とする家族制度と人口統計の研究に基づくものだった。
 トッドは、世界各地の家族制度を研究し、婚姻や遺産相続のあり方等によって、八つの家族型に分類した。そのうちヨーロッパには、絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、外婚制共同体家族の四つの類型が存在すると指摘する。家族型の違いは、価値観の違いを生み出す。その価値観は、親子関係により自由主義的であるか権威主義的であるか、兄弟関係により平等主義的であるか不平等主義的であるか、外婚・内婚により集団が外に開かれることを好むか嫌うかで異なる。近代化の過程で現れた西欧の様々な社会思想は、その思想が生まれた社会の家族制度と関係している、とトッドは主張する。
 2002年(平成12年)、トッドは世界にその名を知られることになる著書を出した。それが、『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』である。当時、アメリカは、ソ連崩壊後の唯一の超大国として、比類ない軍事力を誇っていた。しかし、トッドは「アメリカ帝国は2050年前後までに解体する」という大胆な予測を公表した。同書はフランスやドイツでベストセラーとなった。翌年には、わが国でも邦訳が出て、論議を呼んだ。 
 トッドは、本書で、世界史を進展させる真の要因は、識字化と出生調節の普及であり、これらは「人類普遍の要素と考えられる」と言う。伝統的な社会は、「読み書きを知らず、出生率と死亡率の高い、均衡の取れた慣習通りの日常生活」を送っている社会である。こうした社会が識字化され、識字率がある水準に達すると、近代化が始まる。これは、平穏で幸せな伝統的社会との訣別である。また、この時、親の世代との断絶が起こる。伝統的社会が近代的社会に変化していく時期を、トッドは「移行期」と呼ぶ。 トッドは、移行期における人々の心理的な当惑や苦悩を強調する。それが近代におけるイギリス、フランス、ロシア等における革命の要因と見る。
 トッドは、イスラーム・アラブ諸国の闘争性やイスラーム・テロリストの暴力性は、イスラーム教の教えによるのではなく、イスラーム教諸国が近代化の過程における「移行期の危機」にあるからだと言う。今日、それらの諸国は、英仏の市民革命、日本の明治維新、ロシア革命の時期と同じような人口学的危機に達しつつあるとトッドは指摘する。そして、トッドは、イスラーム教原理主義を「移行期の危機」におけるイデオロギーと解釈する。そして、次のように言う。「アラーの名において行なわれるジハード(註 聖戦)は、移行期の危機を体現しているのである。暴力、宗教的熱狂は、一時的なものにすぎない」と。トッドは、この局面が終わると、危機は鎮静化すると見ている。
 トッドは、国際政治学者サミュエル・P・ハンチントンが名著『文明の衝突』で説いた「文明の衝突」説を批判して、文明は衝突せず、接近すると予測する。『帝国以後』の5年後、トッドは、イスラーム教圏の人口動態の研究者ユセフ・クルバージュとともに、『文明の接近――「イスラームVS西洋」の虚構』を出版した。そこで、トッドは「イスラーム教圏は現在、人口学的・文化的・心性的革命に突入しているが、その革命こそ、かつて今日の最先端地域の発展を可能にしたものに他ならない。イスラーム教圏もそれなりに、世界史の集合点に向かって歩みを続けている」と書いている。

 次回に続く。

ユダヤ139~コミュニタリアニズムとコスモポリタニズム

2017-12-17 08:48:26 | ユダヤ的価値観
集団的自由主義としてのコミュニタリアニズム
 
 自由主義には、個人主義的な形態と集団主義的な形態がある。個人主義的形態とは、個人を単位とし、個人の自由と権利の確保・実現を目的とするものである。集団主義的形態とは個人の自由を尊重しつつ家族・地域・民族・国民等の共同性を重視し、集団の維持・発展を目的とするものである。ロールズの正義論は個人主義的な自由主義に基づいているが、これに対し、集団主義的自由主義の立場から共同体を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)による批判が出された。また、ロールズが国内社会における正義と国際社会における正義を区別したのに対し、世界市民的な思想を持つコスモポリタリアニズム(世界市民主義)からの批判が出された。これらの主張について、次に述べたい。
 コミュニタリアニズムは、1980年代に、ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらを批判する思想として出現した。コニュニタリアニズムは、コミュニティ(共同体)を重視する思想である。コミュニタリアン(共同体主義者)は、近代西洋文明で主流となった自由主義に、根本的な疑問を呈する。私的な善を公的な善より優先し、政府に価値中立であることを求める思想の問題点を抉り出し、共同体の復権と自律的・自覚的な主体による共同社会の建設を説く。
 コミュニタリアニズムは、現代のさまざまな社会的病理現象が、彼らのとらえるところの自由主義に起因するとする。社会的病理現象とは、共同体の崩壊であり、それに伴って人間関係が希薄となり、人間の主体性が失われていることである。自由主義は、個人単位の考え方によって、家庭や社会に深刻な事態を招いている。例えば、個人の幸福追求の結果として離婚が増加し、社会福祉への依存によって家族ヘの責任感が弱まっている。それによって、夫婦・親子の関係が不安定になり、家庭の崩壊が進んでいる。また個人の自由や福祉が重視されるあまり、社会のさまざまな集団で人々の結びつきが弱くなり、道徳意識の低下や政治的な無力感が社会全体に広がっている。
 コミュニタリアンは、自由主義がこうした社会病理を生み出したのは、個人主義的な自己観念にあると指摘する。自由主義は、個人は社会関係から離れて、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を選択し生きていくものと考える。それゆえ、個人は他者との関係や相互の承認とは無関係に、社会になんら責任や義務を負うことなく、権利を持つものとした。彼らによれば、近代的自己は、社会関係から切り離され、自己の意思決定だけを拠り所とする「内容を欠いた空虚な自己」である。これに対し、コミュニタリアンは、「共同体の中にある自己」という別の自己認識を対置する。
 コミュニタリアンによれば、近代西洋哲学は感情主義か主観主義に陥っている。価値の選択を個人の感情や主観に委ねている。価値相対主義が支配的な現代社会では、道徳も政治も個人の選好の問題へと矮小化されてしまう。コミュニタリアンは、個人の主体性の確立が重要だと主張する。自分が生まれ、育ち、あるいは参加する共同体の中で自己のアイデンティティは形成され、個人は真に道徳的・政治的主体性を確立することができる、と説く。
 コミュニタリアンの論者の一人、マイケル・サンデルは、ユダヤ人との説がある。サンデルは、リベラリズムの自己観を「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼んで斥け、人間の本質を「位置づけられた自己」ととらえる。サンデルは、「連帯の義務」を説き、家族や民族における連帯を義務として肯定する。彼は親イスラエルの姿勢を表しており、アメリカ・ヨーロッパ等のユダヤ人に強い影響を与えている。
 サンデルは、1980年代前半、エチオピアで飢饉が起こった時、イスラエルがエチオピアのユダヤ人を救出してイスラエルに搬送した行動は適切だったか、と問う。「連帯と帰属の責務を受け入れるならば答えは明らかだ」とサンデルは言う。「イスラエルはエチオピアのユダヤ人の救出に特別の責任を負っており、その責任は難民全般を助ける義務(それはほかのすべての国家の義務でもある)よりも大きい。あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である。いま答えを出そうとしている問いは、国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにあるかどうかである」と述べる。そして、国家には、無差別的に人権を尊重する普遍的な義務とは別に、自国の国民の面倒を見る特別な責任がある、と主張している。そのうえで、「愛国心に道徳的根拠があると考え、同胞の福祉に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することのできない連帯あるいは成員の責務である」と説いている。
 私見を述べると、コミュニタリアニズムの自由主義批判は、自由主義の個人主義的形態を批判するものであって、コミュニタリアニズムは近代西洋文明の自由の価値を否定しているのではなく、それ自体は自由主義の一種である。コミュニタリアン(共同体主義的)な自由主義である。集団主義的自由主義の立場から、個人主義的自由主義を批判するものである。コミュニタリアニズムは、ネイションを共同体とすればナショナリズムに、エスニック・グループを共同体とすればエスニシズムに通じる。ナショナリズムとエスニシズムは、全体主義的な形態があり得る。これに対し、コミュニタリアニズムは、共同体に所属する個人の自由を尊重するから、自由主義的なナショナリズムやエスニシズムの基礎的な理論となり得るものである。

●非ユダヤ民族の脱ナショナリズムを推進するコスモポリタニズム

 次に、ユダヤ人には、少数ながらコスモポリタニズムを信奉する者もいる。コスモポリタニズムとは、古代ギリシャ、ローマに現れた世界市民主義である。近代政治学ではこの用語はほとんど使われていなかったが、1990年代にグローバリゼイションの進行の中で、新たなコスモポリタニズムが登場した。ナショナリズム、エスニシズム、コミュニタリアニズムは、歴史的・宗教的・文化的な共同体に価値を置く思想だが、コスモポリタニズムは、これらと対極にある思想である。
 代表的なコスモポリタンの一人、トマス・ポッゲは、現代のコスモポリタニズムは、三つの要素を共有しているという。個人主義、普遍性、一般性である。ポッゲは、個人主義については、「私たちが関心を向ける究極の単位は人間や人格であって、家族的、部族的、民族的、文化的あるいは宗教的共同体や国民国家ではない。これらの共同体は間接的に、つまり個々人がその構成員または市民であるという点でのみ関心の対象となるだろう」と言う。普遍性については、「個々人が関心の究極の単位であるという地位は全ての生存する人間に平等に与えられる」と言う。一般性については、「この特別な地位はグローバルな力を持っている。個々の人格は、自らの同胞や同じ信徒にとってだけでなく、全員にとっての関心の究極の単位なのである」と言う。(『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』)
 個人主義、普遍性、一般性という三つの要素を共有する現代のコスモポリタニズムは、個々の人間を価値単位とし、すべて人間は平等な価値を持ち、それは国家・地域等を越えて普遍的であるとする。
 コスモポリタニズムの代表的な論者の一人に、マーサ・ヌスバウムがいる。ヌスバウムはアメリカ人の倫理学者だが、ヌスバウムという姓は、ユダヤ人である夫の姓を名乗るものである。
ヌスバウムは、ロールズの正義論をグローバルに拡張する。著書『正義のフロンティア』で、ヌスバウムは、社会正義の「三つの未解決の問題」を取り上げる。第一に「身体的精神的障害をもった人々に正義を行うという問題」、第二に「正義をすべての世界市民に拡大するという緊急の問題」、第三に「動物をわれわれ以下に取り扱うかということに含まれる正義の問題」である。ヌスバウムは、これらの問題はロールズによって解決されていないものであり、これらへの取り組みは正義論のフロンティアを開拓する試みだとしている。
 コスモポリタニズムは、近代西欧的な個人主義的自由主義を徹底し、ネイションの本質的な価値を否定し、国民国家を単位とする国際社会を認めないことを特徴とする。コスモポリタニズムは、人類は皆同じという普遍主義の思想である。普遍主義は、人類の中にある特殊性を否定するか、軽視する。個人間・民族間・文化間の差異性より、相同性を強調する。これは一面において啓蒙主義的なユダヤ思想に似ている。だが、ユダヤ思想の主流は、諸民族のナショナリズムを否定しながら、ユダヤ民族のナショナリズムのみは肯定するという自己民族中心主義である。コスモポリタニズムは、シオニズムを含むすべてのナショナリズムを否定する点が、これと異なる。それゆえ、ユダヤ民族の中にコスモポリタニズムが浸透することは、ユダヤ人のナショナリズムを弱めるものとなる。しかし、ユダヤ人以外の民族にコスモポリタニズムを広げれば、それら民族のナショナリズムを弱めることができる。そのことは、ユダヤ民族のナショナリズムを強化し、他民族の脱ナショナリズムを推進するためには、有益である。

 以上、今日のユダヤ人が抱く諸思想のうち、ナショナリズム、リベラリズム、コミュニタリアニズム、コスモポリタニズムについて概述した。再度強調しておきたいのは、思想の多様性を超えて、今日のユダヤ人の多数が抱いているのは、ユダヤ人のエスニックで宗教的なナショナリズムであるということである。次に、21世紀の現在、これらの思想に分類できない個性的な主張をして世界的に注目を集めているユダヤ人の論者について記したい。

 次回に続く。

ユダヤ138~多様性を増すリベラリズム

2017-12-15 10:59:25 | ユダヤ的価値観
●多様性を増すリベラリズム

 ナショナリズムに次いで、今日のユダヤ人が多く信奉しているのは、リベラリズム(自由主義)である。ユダヤ人は、古代において他民族の奴隷となり、隷従からの解放を切望した。ヨーロッパでは、長く差別と迫害の対象となり、圧迫からの自由を希求した。それゆえ、自由を求めるユダヤ人の思いは強い。
 リベラリズムは、自由を中心価値とする思想・運動である。17~18世紀のイギリスでロック、アダム=スミスらが自由主義の原理を説いた。この自由を一元的な価値とする古典的な自由主義に対し、19世紀にJ・S・ミルらが自由だけでなく平等に配慮する修正的な自由主義を説いた。今日、自由主義という時は、古典的自由主義と修正的自由主義の両方を含む。
 自由主義は、20世紀に厳しい試練を受けた。共産主義及びナチズムとの対決である。ユダヤ人はそれら二つの全体主義の体制のもとで迫害を受け、自由を渇望した。第2次世界大戦後、ナチズムは敗退した。自由主義は、残る共産主義との対決を続けた。それが米ソ冷戦である。
 冷戦下で最大級の地域紛争となったベトナム戦争は、自由主義と共産主義が激突した戦争だった。同時に、この戦争は、米ソや巨大国際金融資本の複雑な利害が絡み合っていた。長期化するに従い、米国民の間で、自由を理念として、遠隔の地で多大な犠牲を払って、泥沼の戦争を続けることに疑問が強まった。同じころ、黒人を中心に公民権運動が高揚し、人種差別に対する反対運動が広がった。また性別や文化的な違いによる差別に反対する運動も広がった。これらベトナム反戦運動、人種差別や性的・文化的な差別への反対運動等によって、建国以来の米国の自由の理念が根本的に問われるようになった。自由を中心価値とする旧来の自由主義への信頼が揺らぎ出した。
 そうした危機的な状況にあった1970年代の米国で、自由の理念を再度確立するとともに、自由と平等の均衡を図ろうとする試みが現れた。その先鞭をつけたのが、政治哲学者ジョン・ロールズである。ロールズは「公正としての正義」という正義論を提唱した。
 ロールズは、正義の原理を打ち出した。その最終形は、『公正としての正義 再説』に書かれたものである。それによると、第一原理は、「各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組みへの同一の侵すことのできない請求権を持っており、しかも、その枠組みは、諸自由からなる全員にとって同一の枠組と両立するものである」。第二原理は、「社会的・経済的不平等は、次の2つの条件を充たさねばならない。①社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。②社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益となるということ」である。
 この正義の原理において、第一原理は第二原理に優先する。自由は自由のためにのみ制約されるとする付帯ルールもあり、基本的諸自由への平等な権利に優先的地位が与えられている。また、第二原理の中でも、①の公正な機会均等原理が②の格差是正原理に優先する。すなわち、“平等な自由原理>公正な機会均等原理>格差是正原理”という関係が成り立つ、とロールズは主張する。
 ロールズに対して、その理論を批判する思想家たちが現れた。彼よりも自由を重視する自由至上主義的な立場や、彼よりも平等を重視する平等主義的な立場からの批判である。前者の代表的存在がロバート・ノージック、後者の代表的存在がロナルド・ドゥオーキンである。ノージックはリバータリアンであり、今日のアメリカでは共和党のティーパーティに近い。ドゥオーキンは社会民主主義に接近しており、米国では極少数派である。
 ノージックについては、先に書いたが再度概要を書くと、ロシア系ユダヤ移民の子で、ロールズを古典的自由主義の立場から批判した。今日米国で「リベラル」と言えば、主に修正的自由主義を意味する。そこで、古典的自由主義者は、自らの自由主義が修正的自由主義と異なることを主張するため、リバータリアニズムを標榜する。リバータリアニズムは、個人の自由を至上の価値とする思想である。自由至上主義または絶対的自由主義と訳される。ノージックは、この思想を理論化した。
 著書『アナーキー・国家・ユートピア』で、ノージックは、すべての個人は、生命、自由及び財産の権利を侵害されることなく、侵害されれば処罰や賠償を求めることができる絶対的な基本的権利を持つとした。ノージックによると、道徳的に正当化できる国家(政府)は、暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の履行の強制に限定される「最小国家」のみである。所得の再分配等の機能を果たそうとする「拡張国家」は、人々の権利を侵害するゆえに正当化されない。ノージックは、国家に必要なのは市場の中立性と矯正的・手続き的正義の確保であると説く。また取得と交換の正義が満たされている限り、どのようなものであっても、結果としての配分は正しいとした。ベンサム流の功利主義(最大幸福主義)やロールズの格差是正原理については、分配の結果を何らかの範型に当てはめようとするものであり、政府によるそうした押し付けは、個人の自由を侵害し、専制的な再分配を正当化するものであると批判した。

●消極的自由とリベラル・ナショナリズム

 リベラリズムは、多様化を続けている。それがユダヤ人にも広がっている。多様化の事例として、積極的自由と消極的自由及びリベラル・ナショナリズムを挙げたい。
 20世紀イギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンは、バーリンは「消極的自由」の重要性を主張した。バーリンは、ラトビア生まれのユダヤ人である。イスラエルには帰化せず、主にイギリスで活動した。
 1969年に公刊した著書『自由論』で、バーリンは自らの見解を述べた。バーリンによると、「消極的自由」とは「~からの自由(freedom from ~)」であり、干渉・束縛からの自由を確保しようとするものである。一方、「積極的自由」とは「~への自由(freedom to ~)」であり、理想・目標に向かって権利を拡大していこうとするものである。バーリンは、積極的自由は理想や正義の実現を目指すが、それによって全体主義に転化しかねないとし、その弊害を恐れて、私的領域の不可侵性を守ろうとする消極的自由主義を唱えた。これは、ユダヤ人を迫害したナチズムとスターリニズムのような全体主義の再来を警戒したものである。バーリンはまた、ナショナル・アイデンティティのもとになる文化的ナショナリズムを提唱し、排他的・攻撃的なナショナリズムを批判した。その一方で、コスモポリタニズムをも批判した。それは、自らの拠り所であるユダヤ文化を保持・防衛するとともに、西方キリスト教的・近代合理主義的な普遍主義への異議を表したものだろう。
 バーリンはイスラエルを支持するシオニストである。だが、バーリンは、排他的・攻撃的なシオニストではなく、パレスチナとの平和共存を目指す運動を行うイスラエルのNGO「ピースナウ」に関わってきた。「ピースナウ」は、イスラエルというシオニスト国家を肯定してはいるが、イスラエル政府による入植政策には反対している団体である。バーリンがそのような団体に関わりつつ、パレスチナ人との平和共存を説く点は評価できよう。
 バーリンの弟子にリベラル・ナショナリズムを説くユダヤ人政治哲学者ヤエル・タミールがいる。タミールは、バーリンの思想を継承し、独自の政治理論を展開している。タミールは、次のように主張する。リベラリストは、所属・成員性・文化的な帰属の重要性とそれらに由来する道徳的義務の重要性を認めつつ、リベラリストであり続けることができる。また、ナショナリストは、個人の自立・自由・権利の尊さを認めつつ、ナショナリストであり、また国民内部と諸国民間における社会正義に関与し続けることができる、と。この主張は、ネイションの価値を再評価し、リベラリズムとナショナリズムの融合を説くものである。
 タミールはまた、ナショナリズムを踏まえた広域的な機構をつくる提案をしている。その提案におけるタミールの主張は、リベラル・ナショナリズムの枠組みを越え、ネイションの文化的・政治的な自治能力を保持し得るようなトランスナショナルな広域共同体を志向するものである。中東における共存共栄を模索するものだろう。こうした思想を説くタミールも、バーリンとともに、「ピースナウ」に関わっている。
 バーリン、タミールらの思想の賛同者は、イスラエルでは少数派である。バーリン、タミールは、穏健なシオニストだが、シオニストの主流は戦闘的かつ攻撃的な行動を取っている。しかし、中東において、諸民族の共存共栄を実現しようとするならば、ユダヤ人及びイスラエル国民は、バーリン、タミールの試みを評価し、批判的に継承する必要があるだろう。

 次回に続く。

ユダヤ137~ユダヤ人のナショナリズム

2017-12-12 13:07:21 | ユダヤ的価値観
ユダヤ人のナショナリズム

 ナショナリズムは、近代国民国家の形成とともに、17世紀のイギリスで発生し、18世紀のフランスで発達して、19世紀にヨーロッパ及び諸大陸に広がった。
 ユダヤ人のナショナリズムは、ほかの民族が近代的な国家・国民を形成したり、維持・拡大しようと図るナショナリズムとは、もともと異なっていた。
 イスラエル建国以前のユダヤ民族は、西欧のみならずロシア、東欧からイベリア半島等にまで分布するディアスポラであり、複数の国家にまたがって居住するが、政治的な統治権力を持たないエスニック・グループだった。
 ユダヤ人は、ユダヤ教を信仰することによって、キリスト教文化の中で迫害を受けてきた。イギリス、ドイツ等では、18世紀の啓蒙主義の時代に、ユダヤ人の知識人を中心にキリスト教社会への同化がかなり進んだが、ユダヤ教徒エスニック・グループの独自性を保とうとする動きも根強かった。
 フランス革命を通じて、ヨーロッパで初めてユダヤ人の解放が行われた。しかし、19世紀末にそのフランスでドレフュス事件が起こり、反ユダヤ主義が高揚した。これに対し、ユダヤ人は、パレスチナの地に国家を再建しようとする運動を起こした。その運動は、目指すべき場所の名を取ってシオニズムと呼ばれることになった。シオニズムは、ユダヤ人というエスニック・グループが自前の国家を持とする思想・運動だった。ユダヤ人によるナショナリズムである。
 ユダヤ人のナショナリズムは、エスニックであるとともに宗教的なナショナリズムである。単に国民的・民族的・文化的でなく、宗教的である。異民族から摂取した宗教ではなく、自民族に固有の宗教に基づく。しかもユダヤ民族のみが神に選ばれた民族だとする選民思想を信奉する。ユダヤ教は集団救済の宗教である。その救済は現世におけるものであり、救済を実現する手段は政治的である。
 祖国を失い、各地を流浪してきたユダヤ人は、国家を持たない民族として、祖国の回復、国家の建設を目的とするナショナリズムを発達させた。政治的な集団救済を目指すナショナリズムである。また、ディアスポラによる本国獲得型のナショナリズムである。
 第2次世界大戦後、イスラエルの建国によって、国家・領土を持つ民族となったユダヤ人のナショナリズムは、対外拡張型のナショナリズムに変化した。建国にあたり、多数のパレスチナ人を排除したため、ユダヤ人のナショナリズムとパレスチナ人のナショナリズムが対立・抗争することになった。
 また、ユダヤ人のナショナリズムは、本国獲得型から、本国の維持・発展とともに本国とのつながりを維持・強化する本国連携型のナショナリズムに変化した。本国獲得型の主体はネイションを目指すエスニック・グループだったが、本国連携型となって以降、主体は本国のネイションと国外各地のエスニック・グル―プとなっている。
 本来、シオンへの帰郷建国運動だったシオニズムは、ユダヤ人のエスニックなナショナリズムである。イスラエルの建国後は、イスラエルという国家におけるナショナリズムと、イスラエル以外に居住するユダヤ人のナショナリズムが連携している。イスラエル以外では、ユダヤ人は、各国におけるエスニック・グループでありながら、そこでの独立を目指すのではなく、本国と連携しながら、世界におけるユダヤ人の生存と繁栄を目指す活動をしている。イスラエル本国のナショナリズムは、こうした在外ユダヤ人のナショナリズムを利用して、国家の安全、民族の繁栄を図っている。これが本国連携型のナショナリズムである。現代のユダヤ人の多くが信奉しているのは、こうしたシオニズム的なナショナリズムである。
 イスラエル以外で最大のユダヤ人人口を持つアメリカは、イスラエルと連合を組み、その最大の擁護者・支持者となっている。アメリカのユダヤ人には、リベラルで民主党を支持する者や、保守的で共和党を支持する者等がいる。また様々な思想を持つ者がいる。だが、彼らの多くに共通しているのは、イスラエルの擁護・支持である。そして、大多数の在米ユダヤ人は、エスニックで宗教的なユダヤ人のナショナリズムを信奉している。そのナショナリズムが、政治的な主義・思想の違いを超えて、彼らの基盤にあるものである。
 ユダヤ人のナショナリズムには、世界戦略的な思考が貫かれている。ユダヤ思想の主流は、諸民族のナショナリズムを否定しながら、ユダヤ民族のナショナリズムのみは肯定するという自己民族中心主義である。そこから生まれてくる行為が、ユダヤ人におけるナショナリズムの強化と、他民族における脱ナショナリズムの促進である。この点については、個人が抱く思想の範囲を超え、ユダヤ人の世界戦略に関わるものなので、後に項目をあらためて書く。

 次回に続く。


■追記
 
 本項を含む拙稿「ユダヤ的価値観の超克~新文明創造のために」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-4.htm

ユダヤ136~現代ユダヤ人の様々な思想

2017-12-09 09:27:18 | ユダヤ的価値観
現代ユダヤ人の様々な思想

 ユダヤ人とは、狭義ではユダヤ教徒のことであり、ユダヤ教徒には宗派による違いがある。また、広義ではユダヤ民族のことであり、キリスト教等の他宗教に改宗した者や無神論者・唯物論者等がいる。またユダヤ人には、様々な政治的・社会的な思想を持つ者がいる。また、それぞれの思想において、ユダヤ人は有力な唱道者や論者となっている。自由主義、共産主義、グローバリズム、ナショナリズム、コミュニタリアニズム、コスモポリタニズム等である。それゆえ、ユダヤ人は一枚岩ではなく、ユダヤ人全体が世界征服という陰謀を行っているということは、ありえない。一部と全体を混同してはいけない。
 様々な思想のうち、共産主義、グローバリズムについては既に本稿の各所に書いてきた。そこでそれら以外に今日ユダヤ人において特徴的な思想として、ナショナリズム、リベラリズム、コミュニタリアニズム、コスモポリタニズムについて概述する。

●ナショナリズムとは何か

 ナショナリズムは、今日のユダヤ人が最も多く信奉する思想である。イスラエルのユダヤ人、アメリカのユダヤ人、そのほかの国々に住むユダヤ人も共通して、ユダヤ人のナショナリズムを保持している。最初にナショナリズムとは何かについて書き、その上でユダヤ人のナショナリズムについて述べる。
 ナショナリズムは「国家主義」「国民主義」「民族主義」と訳される。ナショナリズムはネイションにかかる主義であり、ネイションは「国家」「国民」「民族」「共同体」等と訳される。だが、国家と国民は異なり、国民と民族は異なる。私は、基本的にネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」、エスニック・グループ(ethnic group)を「民族」とし、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。これによって、用語や訳語による混乱を少なくできる。
 詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第2部のナショナリズムの項目に書いたが、第1次世界大戦後にナショナリズムの先駆的な研究が現れ、1980年以後、様々な論者が活発に議論を行うようになった。アーネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、アンソニー・スミス、エリック・ホブズボームらである。
 彼らナショナリズムの研究者には、ユダヤ人ないしユダヤ系が多い。左記のうち左翼のホブズボーム以外はそうである。彼らがナショナリズムを積極的に研究する背景には、ディアスポラとしての出自、ナチスによる迫害の記憶と新たな迫害への警戒、シオニズムの正当化または内在的批判等があると思われる。
 社会人類学者ゲルナーは、著書『民族とナショナリズム』で、ナショナリズムを「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義した。この定義における「民族的」はナショナルの訳である。政治学者アンダーソンは、著書『想像の共同体』で、ネイションを「イメージとして心に描かれた想像の共同体」であると定義し、「それは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」と述べた。
 ゲルナーとアンダーソンは、ともに国民が形成された要因を、近代化に見たが、政治学者スミスは、ネイションの形成における伝統文化の役割を強調した。スミスは、著書『ネイションとエスニシティ』で、近代のネイションの背景となっているエスニック・グループをエスニーと名づけて、ネイションと区別した。エスニーは、ネイションが形成される過程で、そのネイションのもとになった集団である。ネイションは、一つのエスニーが周辺のエスニーを包摂することによって成立したものであり、近代以前からのエスニーの伝統を引き継いでいる、とスミスは主張する。そしてスミスは、ネイションを「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と定義する。スミスは、ネイションを「文化的かつ政治的共同体」とする。そして、ナショナリズムとは「ある人間集団のために、自治、統一、アイデンティティを獲得し維持しようとして、現に『ネイション』を構成しているか、将来構成する可能性のある集団の成員の一部によるイデオロギー運動」である、と定義する。
 スミスがエスニーと呼ぶ集団を、私はエスニック・グループと呼ぶ。また、私は、ゲルナー、アンダーソン、スミス等の所論を検討し、ナショナリズムを次のように定義している。ナショナリズムとは、エスニック・グループをはじめとする集団が、一定の領域における主権を獲得して、またその主権を行使するネイションとその国家を発展させようとする思想・運動である。また、西洋文明の近代以前及び非西洋文明にも広く見られるエスニシズムの特殊な形態であり、近代西欧的な主権国家の形成・発展にかかるエスニシズムである。
 ナショナリズムの主な目的には、革命、独立、統一がある。またナショナリズムには、国家形成段階と国家発展段階があり、前者は、ある集団がネイションを形成しようとするナショナリズムであり、後者は、出来上がったネイションをさらに発展させようとするナショナリズムである。
 国家形成段階のナショナリズムには、目的別に、国内において市民革命によって権力を奪取または権力に参加しようとする市民革命型、一つのネイションにおいて植民地人民が本国の政府から独立しようとするか、または人々が異民族支配から独立しようとする独立建国型、自民族の統一を目指し、民族統一的な国家を作ろうとする民族統一型がある。
 国家発展段階のナショナリズムには、自らの国家や国民の国内的発展を目指したり、文化的同化や思想の共有による国民の実質化を図ったりする内部充実型と、他の国家や民族を支配またはそれらを併合して発展しようとする対外拡張型がある。
 ナショナリズムは、個人を主体として見れば、個人の忠誠心を近代的なネイションに向けることによって成立する政治的な意識と行動である。そのナショナリズムの主体は、多くの場合、特定の国家に所属するか、または一定の地域に集住する集団である。しかし、ここに特殊な集団として、ディアスポラ(離散民)がある。
 ディアスポラは、複数の国家に分散居住するエスニック・グループである。どの居住地でも少数派であるディアスポラには、本国を獲得する本国獲得型のナショナリズムと、本国とのつながりを維持・強化する本国連携型のナショナリズムがある。本国獲得型の主体はエスニック・グループ、本国連携型は本国のネイションと国外のエスニック・グル―プとなる。近代最大のディアスポラであるユダヤ人の場合は、イスラエル建国までが本国獲得型であり、イスラエル建国後は本国連携型である。

 次回に続く。