毎年夏に行われるザルツブルグ音楽祭が今年100周年を迎えました。開催が危ぶまれていたのですが、コロナ対策に万全を尽くし、「この最中だからこそ開催する」のだそうです。
それに大賛成です。私は2月以降現在まで3回のコンサートを予約していたのですが、すべてキャンセルされ、2回の有料オンラインコンサートで我慢しています。もちろん感染者数が圧倒的に少ないオーストリーだからこそ可能なのでしょう。8月の1か月間、世界の超一流の演奏家、歌劇団、楽団がモーツアルトを中心としたプログラムを演奏するためにザルツブルグに大集合します。それを目当てにヨーロッパを中心に多くのセレブが大集合するのが、夏のザルツブルグの風物詩になっています。
今年のプログラムを見ていたら、今を去る43年前、1977年に行われた音楽祭と同じオペラの演目を見つけなつかしくなり、その時の思い出を書いてみることにしました。その年の前年から私はJALの海外研修生としてドイツのフランクフルトに赴任していました。クラシック音楽好きの私にとってドイツは天国でした。当時はまだ東ドイツだったベルリンのフィルハーモニアにカラヤンを聴きに行ったり、クリスマスの夜バンベルグ交響楽団による教会コンサートを聴いたりするチャンスがありました。
76年の11月に知り合いの旅行社の方から、「林さんは音楽好きですよね。早いですが、来年夏のザルツブルグ音楽蔡に行きませんか」と聞かれ、一も二もなく「行きます!」と言ったのが事の初めでした。ただしそのツアーは「現地集合で5泊6日のホテルと、毎晩オペラやコンサートの切符がついていますが、値段は一人約25万円です」と言われ、びっくり。毎日5万円、夫婦二人だと10万円で計50万円かかる勘定です。しかし一生に一度のチャンスと、清水の舞台から飛び降りて二人分の申し込みをしました。
当時の月給は日本では約15万円でしたからその3か月半分かかります。しかし通貨マルクの強いドイツにいたのがラッキーで、むこうではマルク建てですが、日本円換算で30万円ほどもらっていて、けっこう余裕のある生活を送れたのです。同じ研修生でもイタリアやフランスなど通貨の弱い国に赴任すると円換算では約半分の15万円ほど。高いマルクはドイツ以外でこそ価値があり、とてもラッキーでした。
フランクフルトからザルツブルグまでは当時乗っていた愛車、中古のアウディでアウトバーンを600kmほど飛ばし、丸一日で到着できました。市内のホテルにチェックインを済ませ、初日の晩は体を休めレストランでの食事を終え、明日からのオペラ鑑賞に備えました。2日目から昼は観光、夜は音楽祭の鑑賞が始まりました。会場は主にザルツブルグ祝祭大劇場。当時世界のだれもが見て知っているミュージカル映画サウンド・オブ・ミュージックで、トラップ一家が歌を歌いながら一人また一人と消えて行ったあのシーンで使われた会場でもあります。岩山をくり抜いて作ったとても印象に残る舞台です。
初日のプログラムはカール・ベーム指揮、ウィーン国立歌劇場によるモーツアルトのオペラ、コジ・ファン・トゥッテでした。そのプログラム、100周年記念の今年もスペシャルプログラムとして選ばれています。
しかし当日会場に行って一番驚いたのは、入場客を見に来る見物人の多さでした。会場の入口と道路を挟んで反対側は見物人であふれ、交通整理が行われていました。世界各国からのセレブが豪華な衣装をまとい集まる様子を、人々が見物しに来ているのです。当時のヨーロッパはまだ貴族が多く、まるでアカデミー賞の会場入り口のようで、我々はきちんとした格好はしていたものの、イブニングドレスでもタキシードでもなかったので、とても気後れしてしまいました。それでもまだ健在だったベームによるオペラは見応えがあり、大満足でした。長いオペラの幕間は、さながら女性客たちのファッションショーのようで、なるほどこれが社交界というものかと思ったしだいです。
二日目のプログラムは、当時私がもっとも聞きたかったピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるピアノ演奏で、彼も世界的に人気があるため会場はやはり祝祭大劇場でした。彼がピアノの前に座り弾き始めたのはベートーベンのピアノソナタ29番「ハンマー・クラビーア」です。弾きだしの音は、今でも私の耳に残っています。その瞬間全身に鳥肌が立ち、手に汗をかく経験をしました。その後も何度か彼のコンサートを聴き、レコードやCDがたくさんあるのですが、最初の出だしの音が今でも耳にこびりついています。
三日目はザルツブルグのモーツアルテウム管弦楽団によるモーツァルトの交響曲第40番とセレナーデなどを、モーツアルテウム音楽院大ホールにて。さすがモーツアルトの地元の楽団の演奏はこうも見事なのかと思わせるもので、オペラもさることながら交響曲でもモーツアルトの神髄を聴けた思いだったことを覚えています。
そして最後の四日目にはふたたびベームとウィーン国立歌劇場によるモーツアルトのオペラ、「皇帝ティートスの悲劇」でした。ベームが健在だったのは本当に幸運にめぐまれたといえるでしょう。この数年後に彼は亡くなり、引き継いだのはカラヤンでした。当時はもちろんベルリンフィルの終身指揮者でしたが、かつてウィーン国立歌劇場の総監督も務め、ベームを引き継ぐ音楽祭の芸術監督は、ザルツブルグ生まれのカラヤンしかいないということだったのでしょう。「皇帝」とまで言われたカラヤンの絶頂期でした。
ザルツブルグは観光地としても名高いところで、日本からも多くの方が訪れていると思います。ザルツとはドイツ語の塩、ブルグは城、街にはホーエン・ザルツブルグという城があり、サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったとても美しいミラベル城庭園やモーツアルトの生家が残されています。でも私が一番気に入ったのは映画サウンド・オブ・ミュージックにも使われたオーストリー・アルプスの景色と、8月でも涼しい山の気候でした。
以上、私が経験した「夢の音楽祭」についてでした。
コロナのニュースにかき消される毎日ですが、こんな時こそみなさんも昔訪れたお気に入りの場所に思いを馳せてはいかがでしょう。
私もドイツ滞在経験があり、ずいぶんあちこちに足を伸ばしました。アウトバーンで600キロ、これって時速200キロほど出せば3時間ちょっとだったりするんですよね。当時のアウディってもしかして名車アウディ100でしょうか。私にとってはそれさえもうらやましく思います。日本のGDPがドイツを超えて間もないころで、日本もドイツも一番いい?、少なくとも明るい時代だったように思います。
ドイツはまだ壁崩壊の前、フィルハーモニーは連合国管理下のベルリンでしたが、東ではなく西側ですね。カラヤンの黄金期として今も語り草になっていて、ベルリンの公共放送ラジオはいまも本当によく当時の演奏をオンエアーしています。メンバーも伝説の名プレーヤーぞろいで、あんな時代はもう二度とないと、現地の年配の音楽ファンは異口同音に語っているほどです。バンベルクもいいですね。重厚で朴訥なドイツ流の音を響かせる名門オケは、ベルリンフィルに負けない良さがあります。当時の指揮者はヨッフムでしょうか。
そしてポリーニ! 当時、彗星のごとく登場した天才ピアニストだったはず。どれほど神々しいベートーベンを弾いたことか。全身に鳥肌、分かる気がします。
ベームのコシやティトゥスもうらやましい限り。歌手陣もまさにオールスターキャストだったはず。何もかもが、もう二度と経験できない、金銭には替えられない貴重なものだったことでしょう。
ザルツブルク、聴衆の着飾りのほど、私も冬シーズンでしたが80年代の祝祭大劇場を経験しています。最低でも燕尾服、むしろ現地の人たちはチロリアンを取り込んだ民族服で着飾って音楽を楽しみに来ていたのにとても驚きました(背広姿では本当にいたたまれなくなります)。今はもうバイロイトのプレミエでもあれほどのきらびやかさはなくなっているように思います。
夢のような70年代の音楽三昧の話、ありがとうございました。
>ピアノやコンサートの演目は素晴らしいものでしたね。演奏家も20世紀を代表するような人たちばかりで。
本当にそう思います。
清水の舞台から飛び降りる価値があります。
当時の音楽家にとってはこの音楽祭に呼ばれることが最高のステータスだったのでしょう。今でもそうか。
呼ばれたからには最高のパフォーマンスを演じないと、耳の肥えた聴衆は許してくれないと思います。
>しかし、どうしてオペラの演目は、モーツァルトとしては地味なものばかりなんでしょうか?三大オペラはやらずにね。
理由は定かではありませんが、私が想像するに、音楽祭は毎年開かれすでに100年。
となると3大オペラを毎年演ずるわけにはいかないのだと思います。
セレブたちは毎年来ます。ちなみに今年またコジ・ファン・トゥッテを選んでいますが、プログラムの概要に書いてあったのは、「新たな演出の初演です」と言う言葉です。
つまり晴れの舞台にふさわしい新演出のお披露目ですね。
コメント欄でいろいろ書こうと思ったのですが、山ちゃんとたまちさんに刺激を受け、せっかくなのでドイツの続きをもう一回書くことにしました。
しばしお待ちを。