初期経典の『大般涅槃経』には、いよいよブッダがニルヴァーナに入る直前、9段階の禅定(九次第定)を上下に入出して、最後に下から4番目の禅定から完全なニルヴァーナに入ったとされています(ブッダの死)。
下から4番目からニルヴァーナに入れるなら、その上の5つの禅定は無駄なのではないかという気がしますが、この九つの禅定に関しては、もう一つ面白いことがあります。
経典を読むと、様々な禅定が出てきますが、ほとんどは思わせぶりな名前がついているだけか、非常に抽象的な説明があるだけで、各禅定において具体的にどのような心身状態になるのかなどは、まったく教示されていません。
たとえば、最高位の「滅尽定」はブッダのみが到達した境地とされますが、だとすれば、それは「悟り」とか「存命中の涅槃(有余涅槃)」、あるいは「解脱」同様の状態でしょうから、これがどういう心身状態か、極めて興味深いところです。
この疑問を考える時に参考になるのは、最高位の「滅尽定」の次、第2位の「非想非非想定」と第3位「無所有処定」の存在です。
この2つは、ブッダが悟る前、ゴータマ・シッダッタ青年が出家後に師事した修行者二人の指導する禅定で、シッダッタ青年はたちまちその禅定をマスターしますが、その直後にこれらの禅定は「悟りにも涅槃にも導かない」と考え、あっさり捨ててしまいます。
つまり、ブッダが捨てた禅定が仏教の禅定体系の中に取り込まれ、後世には、在家人は第2位までは到達するが、最高位の「滅尽定」は出家者しか実現できない、などと教学の中で説明されるようになります。
面白いのは、同じ『大般涅槃経』の中に、ブッダに可能な「滅尽定」と、修行者アーラーラ・カーラーマがかつてシッダッタ青年に教えた第3位「無所有処定」を、比較していると思われる叙述があることです。
それはこういう話です。
ある日、アーラーラ・カーラーマが禅定に入っていると、その近くを500台の車が大音響を立てて通りすぎました。直後、男が一人、彼に近づいて言いました。
「尊い方よ、あなたは五百台の車が通りすぎたのを見ましたか?」
「見ませんでした」
「音は聞きましたか」
「聞きませんでした」
「あなたは眠っていたのですか?」
「眠ってはいません」
「では、意識をもって(覚めて)おられたのですか?」
「そのとおりです」
これを聞いて男は、覚醒しているにもかかわらず、過ぎていく五百台の車を見ず、その音も聞かなかったという、アーラーラ・カーラーマの禅定を讃嘆します。
アーラーマ・カーラーマの弟子からこのエピソードを聞いたブッダは、次のように言いました。
自分はある村に滞在したとき、大嵐に遭い、雷鳴が轟き、稲妻が走り、ついに落雷して、農夫二人と牛四頭が死に、群衆が飛び出してきたが、それを見ることもなく、音も聞かなかったが、しかし眠っていたのではなくて、覚醒していたのだと。
この言葉を聞いて、弟子はブッダの禅定がはるかに勝ることを知り、師を捨ててブッダに帰依したというわけです。
経典は、二人の禅定が「滅尽定」と「無所有処定」かどうか、触れていません。しかし、もしそうでないとすると、比較自体が無意味だろうし、そもそも比較になりません。
この場合、エピソードを読んですぐわかるのは、2つの禅定の差はレベル(深度)の差であって、質の差ではないということです。違いは、目覚めていても見も聞きもしなかった現象の、視覚的刺激の程度や音響の強度にすぎません。質の違いではないから、9段階の禅定に序列化できたのです。
肝心なのは、違いではなく共通性です。両者ともに「見ないし聞かないのに、眠っているのではなく、覚醒している」と言っている、そのことです。
これはすなわち、何を「見た」か・何を「聞いた」か一切判断せずに、ただ「見えている」「聞こえている」状態、すなわち感覚機能を完全な受動態に設定したということです。それはつまり、言語の作用をギリギリにまで低減したわけです。
すると、「私は○○を見た・聞いた」という認識の〈自己―対象〉二元構造が崩れ、自意識は溶解していきます。
ということは、特定の身体技法(禅定・坐禅)を用いると、言語機能が停止し、自意識が溶解していくのですから、これを裏返せば、実体を錯覚させるような自意識の在り方もそれ相応の身体的行為(代表的なのは競争と取引)に規定されているということです。
この言語と自意識と身体行為の致命的な相関性が、禅定において体験的に実証されるとき、言語作用によって何ものかを実体視すること(無明)の錯誤が発見されるわけです。
すなわち、仏教における様々な禅定の核心的意味は、まさに禅定が無明を自覚させる最重要の方法だということであると、私は思います。
下から4番目からニルヴァーナに入れるなら、その上の5つの禅定は無駄なのではないかという気がしますが、この九つの禅定に関しては、もう一つ面白いことがあります。
経典を読むと、様々な禅定が出てきますが、ほとんどは思わせぶりな名前がついているだけか、非常に抽象的な説明があるだけで、各禅定において具体的にどのような心身状態になるのかなどは、まったく教示されていません。
たとえば、最高位の「滅尽定」はブッダのみが到達した境地とされますが、だとすれば、それは「悟り」とか「存命中の涅槃(有余涅槃)」、あるいは「解脱」同様の状態でしょうから、これがどういう心身状態か、極めて興味深いところです。
この疑問を考える時に参考になるのは、最高位の「滅尽定」の次、第2位の「非想非非想定」と第3位「無所有処定」の存在です。
この2つは、ブッダが悟る前、ゴータマ・シッダッタ青年が出家後に師事した修行者二人の指導する禅定で、シッダッタ青年はたちまちその禅定をマスターしますが、その直後にこれらの禅定は「悟りにも涅槃にも導かない」と考え、あっさり捨ててしまいます。
つまり、ブッダが捨てた禅定が仏教の禅定体系の中に取り込まれ、後世には、在家人は第2位までは到達するが、最高位の「滅尽定」は出家者しか実現できない、などと教学の中で説明されるようになります。
面白いのは、同じ『大般涅槃経』の中に、ブッダに可能な「滅尽定」と、修行者アーラーラ・カーラーマがかつてシッダッタ青年に教えた第3位「無所有処定」を、比較していると思われる叙述があることです。
それはこういう話です。
ある日、アーラーラ・カーラーマが禅定に入っていると、その近くを500台の車が大音響を立てて通りすぎました。直後、男が一人、彼に近づいて言いました。
「尊い方よ、あなたは五百台の車が通りすぎたのを見ましたか?」
「見ませんでした」
「音は聞きましたか」
「聞きませんでした」
「あなたは眠っていたのですか?」
「眠ってはいません」
「では、意識をもって(覚めて)おられたのですか?」
「そのとおりです」
これを聞いて男は、覚醒しているにもかかわらず、過ぎていく五百台の車を見ず、その音も聞かなかったという、アーラーラ・カーラーマの禅定を讃嘆します。
アーラーマ・カーラーマの弟子からこのエピソードを聞いたブッダは、次のように言いました。
自分はある村に滞在したとき、大嵐に遭い、雷鳴が轟き、稲妻が走り、ついに落雷して、農夫二人と牛四頭が死に、群衆が飛び出してきたが、それを見ることもなく、音も聞かなかったが、しかし眠っていたのではなくて、覚醒していたのだと。
この言葉を聞いて、弟子はブッダの禅定がはるかに勝ることを知り、師を捨ててブッダに帰依したというわけです。
経典は、二人の禅定が「滅尽定」と「無所有処定」かどうか、触れていません。しかし、もしそうでないとすると、比較自体が無意味だろうし、そもそも比較になりません。
この場合、エピソードを読んですぐわかるのは、2つの禅定の差はレベル(深度)の差であって、質の差ではないということです。違いは、目覚めていても見も聞きもしなかった現象の、視覚的刺激の程度や音響の強度にすぎません。質の違いではないから、9段階の禅定に序列化できたのです。
肝心なのは、違いではなく共通性です。両者ともに「見ないし聞かないのに、眠っているのではなく、覚醒している」と言っている、そのことです。
これはすなわち、何を「見た」か・何を「聞いた」か一切判断せずに、ただ「見えている」「聞こえている」状態、すなわち感覚機能を完全な受動態に設定したということです。それはつまり、言語の作用をギリギリにまで低減したわけです。
すると、「私は○○を見た・聞いた」という認識の〈自己―対象〉二元構造が崩れ、自意識は溶解していきます。
ということは、特定の身体技法(禅定・坐禅)を用いると、言語機能が停止し、自意識が溶解していくのですから、これを裏返せば、実体を錯覚させるような自意識の在り方もそれ相応の身体的行為(代表的なのは競争と取引)に規定されているということです。
この言語と自意識と身体行為の致命的な相関性が、禅定において体験的に実証されるとき、言語作用によって何ものかを実体視すること(無明)の錯誤が発見されるわけです。
すなわち、仏教における様々な禅定の核心的意味は、まさに禅定が無明を自覚させる最重要の方法だということであると、私は思います。
https://m.youtube.com/watch?v=uPchccIHHNg
夜中に笑えるようなネタを、持っていないのかなあ。
トップと言わず、3番目クラスでもよいんだけどね。
これも涅槃に近づく修行なんだけどなあ。
https://m.youtube.com/watch?v=TbpTWpre0fk
https://m.youtube.com/watch?v=k7Q-NZVl7ro
四禅より上がたとえ後世の加増とされたとしても滅受想定は実際あると思うわけです。
ダイバダッタの 魂やどし
空にかけたる 虹の夢
いまさらあとへは ひけないぞ
だから行くのだ レインボーマン」
https://m.youtube.com/watch?v=Ukw8HMaJCIA
余談
提婆達多が釈迦暗殺を企てた反逆者というのは、現在、疑問視されています。
実際の所は釈迦の教団の戒律をもっと厳しくしようとしたが、受け入れられなかったので離反して新しい教団を作った人物という立場のようで、これが悪意により歪められて伝承されたとか。
レインボーマンのお師匠様の名をダイバダッタとしたのは、原作者:川内康範氏の実家が法華経(日蓮宗)の寺であり、法華経では提婆達多は、前世(過去)の釈迦を教えた師匠という事になっているので、それに因んだものです。
つまり、提婆達多と釈迦は、前世(過去世)では立場が逆だったのです。
世間的なモノサシで考えるから、「得るため」となるのでしょうね。
最初に求めていたとするなら、求めないようにするのも修行の一つかと。
「無駄な一日。
それは笑いのない日である。」
チャップリンより
http://joen-ji.jp/jo7ofbwb2-136/
(引用開始)
仏法にあうこと、人身を得ることは難しい。その人身を得ることも三洲の人身がよいが、その中で南洲の人身がすぐれている。見仏聞法、出家得道するからである。いま、この八大人覚を習学したのであるから生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれを説くことは、釈迦牟尼仏と同様で異なることなくありたい。
(『正法眼蔵』「八大人覚」)
道元禅師自身も、その生涯において仏道が完成されたとは思っていない。釈尊に近づきたいという思いが窺われる。
(引用終わり)
最初から何も求めないなら、修行は必要無いでしょう。
何のために宋に渡ったのか。
修行の初期と、最終段階とは、分けて考えるべきでしょう。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。
(スッタ・二パータ)
最初からそれでいいなら、出家する必要は無いでしょう。
誰に教わる必要も無いでしょう。
385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。
337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
(スッタ・二パータ)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。(弁道話)
修行しないと得られないということは、修行するのは、得るため、と言えるでしょう。
でも、最終的には、得るため、という執着も捨てずに行わなければならない。
それが、仏教の無執着の肝心なところだと思います。
https://m.youtube.com/watch?v=oVgImvy-qGI
今のように。
未だ単数形での想定ではあるし
複数同時に存在した場合の想定でもない。
抜けは多数あるが難解だというご指摘もあったのでたかはしくんの努力は賞賛に値する。
イエスチョンのお怒りも免れたし特別な恩赦を考えないわけでもない。
ぬうう
よし!!
お前を赦す!!(偉そうでさーせん)
アーメン
もう少し軽めにしないと。
それって個人のブッダの場合に限るからね。
ブッダが複数の場合は赦すとはいってない!
ブッダたちという複数想定の場合いってみ
無論ブッダはバラモン教のブッダ場合とかも考えないとダメよ
ほらはよ
ぬうイエスちゃん○の激怒は回避された。お前を赦す!アーメン
それから、ジャイナ教の教祖と釈迦の言ってることに違いがあるから、別の宗教として民衆から受け止められたんじゃないでしょうか。
それはバラモン教の伝承とも違っていたから、バラモンから非難されたということでしょう。
そして、バラモンの中には、釈迦の教えに共感して釈迦の弟子になる者もいた。
引用されたスッタ・二パータの箇所は、そういう場面を描写したものですよね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/cmt/39fa4ccc6c6d0100861c27df2952c834
アーメン。
ギーターとかで涅槃、教法がでてくるこの2つと
ジャイナのニルバーナ、ダルマ
釈迦のいうニルバーナ、法
ぜんぶ一緒違いなしってことか?
それ問題発言だと思います!!
訂正のほどよろしくおねがいします!
ゴータマさんがいた頃すでにこの2つの宗教あったわけだ。
それらを信仰対象としたってことになるが??
それ問題だろって。
境界が曖昧になってしまうぞ!
だって仏教特有、固有オリジナリティなんもねえってことじゃん。
かろうじて縁起の法とかでユニークアピール可能な程度じゃん。
たかはしくんはそこんとこ考えていってるのか?
今なら訂正可能だよ?
ダメだろそれは
イエスちゃん○が激怒するぞ!!
バラモンに退行したとかいってるんだから。
釈迦はそれを信じた、ということだと思いますよ。
いやいいたいのはそういうこっちゃなくてさ
釈尊が成道以前のことだよ
悟っていない時期になにを信仰としたのかってこと
わかる?
そりゃ悟ったら完成者なわけだし自灯明もいえよう。
悟ってない人が自灯明なんてできんだろ。
未完成者が未完成な自分を拠り所になんかできんよ。
成道前の(未完成状態の)ゴータマさんが信仰するに値するなにかはなに?といっとるわけなの!
法灯明というなら法ダンマを信仰するってことでいいのか?
といってもさ悟ってないんだったら法がなにかわからんだろう。
わかってないから悟ってないんじゃないか。
開祖という前例がない状態でなにを信仰したのかってことだよ。
(スッタ・二パータ)
民衆に対して悟った人への信仰という種を植えつけている、その言葉を信じて実践すれば果報があるのだから、という解釈も出来そうですね。
それから、釈迦は苦行を否定したと言われることがありますが、それは、悟りの役に立たない苦行を否定したということでしょう。
托鉢で食を得て、しかも1日1食で、腹一杯食べてもならない、というのは、立派な苦行だと思います。
それから、徹底的な禁欲も苦行ですよね。
77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。
開祖が信仰ってなに?
そもそも信仰ってなに?
信仰する対象があるはずだ。
信仰の対象いってない。なんだこれ。
我々は釈迦如来を信仰すればいいのだろうけど、
開祖の場合は信仰する対象はないはずである
いったいなにを信仰するというのだろう
開祖以前には信仰するに足るなにがあったんだろうか。
過去仏?でも当時そんな観念あったんだろうか。
わからんわあ。
否定されたはずの苦行が雨だという肯定的表現になってるのも気になるよね
苦行は必ずしも否定したわけではない。
謎は深まるばかりだ。
こう考えるしかないでしょうね。
そして、誰しも、そういうことだと思います。
>この状態から他の状態
これは曖昧な言い方ですよね。
今の状態から解脱の状態、とも置き換えられる訳ですしね。
なぜ「自ら」知ったこと、と言えるのか?
「妄想から」知ったこと、と言っても過言ではないだろうが、では何故かと問えば、真実味が失せるから、となるのではないか?
悟りにおいて、事の真偽は関係ない、と言ってるようなものか?
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
(スッタ・二パータ)
第四禅定を実現した後で、輪廻を知る智慧を得ることが経典に書かれています。(沙門果経など)
それは、悟りを実現したことによって、それを知る智慧を得た、と考えるしかないでしょう。
それが真実か方便なのかは、悟っていない人には、分かるはずもないことでしょう。
それは、どんな輪廻ですかね。
つまらん。
寝よ。
過去七仏とブッダ複数説の独自見解おねがい
せっかくツッコミいれたのに><
コメントまってます♪
都合悪いとダンマリで
「無記」ですかね?
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
(スッタ・二パータ)
(スッタ・二パータ)
この世のことはもちろん、あの世も捨てるのですから、釈迦が説いた輪廻が真実であれ方便であれ、同じことでしょうね。
(スッタ・二パータ)
釈迦が語ったことは、釈迦が自ら知ったこと、ということでしょう。
そして、それを語るのは、それは悟りの役に立つから、ということでしょう。
初期経典の原語では、そこは、如来は死後には存在するのか、しないのか、と書かれているそうです。つまり、悟った人、修行完成者、輪廻から解脱した人は、死後にはどうなるのか、という意味です。ウィキペディアの無記の説明でも、如来は、とされています。
それを、人は死後には存在するのか、しないのか、と訳すのは、長部経典の梵網経の中で紹介されている外道たる詭弁論について書かれている部分において、その如来という原語に対して、5世紀のブッダゴーサが、それは生けるもの、衆生の意味であると註釈しているからだそうです。
それは、異教徒の詭弁論者が、如来ということに疑問を持つとは考えづらい、という理由からだそうです。
しかし、如来という言葉は、仏教以外の当時の諸宗教を通じて、修行完成者を意味するから、そこは原語のとおり、如来の意味である、と解釈する学者もいるそうです。(春秋社、原始仏典、長部経典Ⅰ 註 592ページ参照)
悟っていない人は、死後には輪廻する。では、輪廻から解脱した如来は、死後にはどうなるのか、ということが関心事になるのは無理もないことだと思います。
1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
(スッタ・二パータ)
無記(2)釈迦は言った。目の前に毒矢が刺さって苦しんでいる男がいる時に、その矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかと詮索しても仕方がない。それよりも、男の苦しみを解いてあげることの方が大切だと。
無記(3)霊魂があるか、死後どうなるのか、どうして我々はここにいるのかという問いに対しては、「無記」を貫く。これが、仏教の根本思想である。
無記(4)その後、歴史的発展の中で、仏教の実践において「極楽」や「地獄」の概念が派生した。しかし、仏教の根本的な思想が、これらのことについて「無記」を貫いていることは変わらない。
無記(5)一方で、仏教には融通無碍ということもある。「無記」が根本思想だからと言って、教条的にそれを守ればいいというわけではない。
無記(6)禅僧の南直哉さんは、ある時、おばあさんに「お坊さん、私は死んだら極楽に行けますかね?」と尋ねられた。南さんは、おばあさんの手を握って、「それはそうだよ。おばあさんくらい苦労した人が極楽に行けなかったら、誰も行けないよ」と答えた。
無記(7)極楽に行けるか、と尋ねるおばあさんに対して、「そもそもね、仏教においては、無記ということがあって」と理屈を並べても仕方がない。根本思想としての「無記」を貫き、一方で融通無碍に接する。それが、私たちの生命のあり方というものだろう。
無記(8)仏教を離れて、私たちの人生一般においても、「無記」は一つの覚悟となる。もっとも大切なことは、語る必要がない。胸の中に収めておけばよい。決して人の目に触れることのない「絶対秘仏」のように、「無記」たる原理を抱いていればよい。
無記(9)小津安二郎の『東京物語』で、尾道から出てきた老父は、子どもたちにひどい仕打ちを受けても一切何もいわない。「ああ、そうかい」「いやあ、いそがしいのは結構だから」といつもニコニコ笑っている。
無記(10)ところが、旧友と会った時に、老父の口から思わぬ言葉が飛び出す。「わしもあんた、東京に出てくるまでは、もすこし息子がどうにかなっとると思っていました。それがあんた、場末のこまい町医者でさ。」
無記(11)諦念と慈愛を絵に描いたような老父の中に、冷たい刃のような気持ちが隠れている。人間というものは、複雑で、重層的である。見えるものが全てではない。しかし一方で、すべてを外に顕す必要もない。
無記(12)フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。小津安二郎はそのことをわかっていた。
無記(13)大切な問い、思いを胸に秘めたまま、黙って日々を生きること。「無記」の思想は、私たちの生にとってのかけがえのない叡智となり得る。>
クオリア日記より。
app.m-cocolog.jp/t/typecast?__mode=individual&blog_id=57893&id=65078637&user_id=55852
時に人は、言わなくてもよいことを口に出してしまう。
これも無明か。
➡何故に「生まれる前」は、無記されていないのか。
➡何故に「生まれる前」は、無記されていないのか。
これが在家での事なら、質は違うかなと。
これは、誰が量ったものでしょうか。
過去の七仏が教えてくれたのでしょうかね。
また、釈迦が現れるまで、七仏は世界に存在していたのでしょうか。
さらに、七仏の死後の存在は「無記」されますが、何故に生前は無記されていないのか。
それは遠い未来に、八仏が現れるかもしれない、という事でもあるからでしょうかね。
これが涅槃のことなら、他の誰かに、涅槃の境地は、あり得えない事ではないでしょうか。
過去91劫、人の寿命が8万4千歳の時
うおおお
いったいなんだこれは?
史実なんでしょうか?
審理中・・・・・・・・・
結果でました
史実です。と思う。
でっち上げではない!
決してでっち上げではない!!
何度もいいたい
でっち上げではないのだ!
話を盛ってなどいない!
潔白だ
あれ、見つけたらどうなるんだっけ?
また、院代さんの本で名前を知り、当初は背の低いイメージがあったんですが、読み終えた後に御写真を見て、あ、ナルホドって感じも、何というんでしょうかね。
7種類、なら使えそうだけど、、。
え、何に?
あー過去七仏とかそういうことだったっけ。
ブッダが複数ってのは最近よくいわれるよね。
だってジャイナとバラモンでもブッダというんだからね。
それらを七仏にぶっこんでもいいんじゃないの?
ジャイナのブッダ、バラモンのブッダという可能性はないの?
じゃ7人かそれ以上だったかなんか知らんけどさ
そのうち一人でも滅尽定経験者がいたら
ブッダは滅尽定を経験したっていえるわけじゃないか。
釈尊を一個人として滅尽定を経験してないとしてもさ。
開祖が複数っていうんだからややこしいことこの上ないだろ。
今でいえば南さんが7人いるってことだよ。
うおお 南さんがいっぱいだ~(うっとり)
私流が7つ分派しました。
私流第1派 私流第2派(以下略
ややこしいだろって。
釈迦が説いた道は、古城へと至る一本道、と表現されるようです。
過去に悟りを実現した人がいたから、それが伝承されてきた。
しかし、伝承に誤りがあった。
釈迦は、その誤りを是正した。
そういうことだと思います。
悟りに関して様々な伝承があり、悟ったという人も様々に現れる。
釈迦が生きた時代も今も、変わっていないと言えそうですね。
涅槃は釈迦の専売特許ですよね?
スペシャル5つ星禅定は、デザートコース。
「修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」(弁道話)
格差は、自らの努力の差、ということになりそうですね。
仏教は、自業自得でしょうから。
釈迦は、独自に阿羅漢果を実現した人。
釈迦の弟子の阿羅漢は、釈迦から教えられて阿羅漢果を実現した人。
釈迦と弟子の実力差は、そういうことだそうです。
涅槃には違いが無いと。
松コース:ブッダレベルで超絶ウルトラマン。至高比肩なき全き完全者コース、料理でいえば最高級品で最高のシェフでつくったフルコース
5つ星いや星がつけられません!
竹コース:阿羅漢出家者ガチでやってもこれくらいですね。
上級レストランの高いフルコース4つ星
ーーーー<<圧倒的格差、越えられない壁>>ーーーー
梅コース:在家用、パンピー向け、簡易型、
安い材料ありあわせでつくった幕の内弁当レベル、
作り置きで冷えてます!!
無星、星がつけられません
身の丈にあったとなれば梅コースだろ!
いやはや食事も宗教も格差社会ですなあ。
どのような理由で?
第1段階たる預流果に達したという証を発行して布施を得る、なんてことにもなりそうですし。
スリランカで、とある僧侶から預流果と認定された人が、預流果の会という在家信者の集まりを開催していて、それを他の人が冷笑している、という事例がある、とスマナサーラ長老が言ったことがあります。
(ダンマ ・パダ)
段階やレベルを考えなくてよい
とも言えますかね。
釈迦自身は
段階やレベル付けをしていたのでしょうか?
高橋博士
どう思いますか。
じゃ道元さんのいった身心脱落はあれなに?
身心脱落に、段階やレベルはあるのでしょうか?
でも深いなあ、実に深い。
まあ切なくてシンドくても、
仮面白いにしとこう。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/c136e2f1584e5f679105c3aef4c75ba5
なぜゆえに我々は、こんな困った生き物に生まれてきたんでしょうね。
>「時間」それ自体の存在は否定されて
否定してる訳ではなくて、否定される、つまり言語否定でしょ。世界に時計が無いようなもんだよ。時間を無常に置き換えてるともいえるかな?
その時、リーゼント君も立派な毛をドアに挟まれ、周りには嘲笑う者しかおらず、絶望しかなく、救いも期待できなかった事でしょう。
ですが現在は、そのトラウマを生かし、満員電車で眠る術を、僧侶も驚く程に身に付けられ、いまだに僧侶を励まし、ネタ支えにもなっているのです。
君にありがとう。
『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。
このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。
>「時間」は解体され
と
>「時間」それ自体の存在は否定されて
これな。
他にもあったので探してね。
実体なんか認めないんだから時間という実体だって例外なく否定する。
理解してからレスしてね。
引用ばかりでなくてご自身の意見のほうがいいな。
なんちゃってドアを作っただけ。
信じなくてはいけないといいながら
信じたフリ
でもかまわない。
つーか
どう信じてんのさ。
滅尽定はさ
トップの会社社長じゃなくって
名誉会長みたいなもんだって。
でもかまわない。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/68fc26b1b4a64442d9fba366a620f6e0
ニルバーナの見方
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/6ee02f98acd8a1cb3b4749e47a75a235
どこで、時間を否定されてる?
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/b4fe8ed05ccb5b42fb57905baf87e954
「0ゼロ」字の問題。
滅尽定の境地であって極めて限定されたものであるとしたら
衆生済度なんてきれいごといわんでほしいわ。
才能がないただの凡夫は安楽の境地も知らず、真理は美味だという味も知らず、苦しみの中で死ななければならんということだろうからね。
絶望しかありません。
救いは全く期待できない。
なら最初から衆生のためとか大義を掲げるなといいたい。
これ言い過ぎでしょ。
ニルバーナはなんなのか一切いってなくて仏教徒だったらそれを
信じなくてはいけないといいながら滅尽定はでっち上げだっていうの?
でもなんでニルバーナに関しては無記であって
滅尽定は説明があるんだ?
おかしい、わからん
涅槃=ニルバーナ=滅尽定とはならず
ニルバーナと滅尽定は異なるってわけ?
わけわからん。
上座部は阿羅漢果で寸止めらしいけど
じゃ道元さんのいった身心脱落はあれなに?
なにがどう対応するわけ?
どう位置づけるの?
わしらはスーパーマンによるスーパープレイを
ただよだれ垂らしながらああでもないこうでもないと
ウンチクいいながらうっとりしてる観客のようなもんだよ。
スーパーマンにしかできない滅尽定ってことで普通のおっさんには絶望的無理ゲー。
わしらの境地はクソのままだ。
クソはクソらしく生きるべきなんだろうな。
クズはクズらしくあろう。
坐禅をすることで、執着が少なくなるなら、それでいいんじゃないでしょうか。
苦しみの原因は、執着でしょうから。
坐禅で自我の解体を経験し、その坐禅を止めたことで、また自我が形成されたとしても、その自我は、以前より多少なりとも執着心が弱い、ということになってるんじゃないか、と思います。
こういう論法ておかしいよね。
だってさ時間をこの人否定してるんだよ。
変化は時間による同一なものの比較なしでは成立しない。
今しかない(今の遷移のみで時間は存在しない)っていいながら変化の例をもちだせないってば。
つまり時間を否定した時点で比較も無効だ。今と今にはない(記憶にしかない)ものとの比較が無効になり同一性を主張できなくなるってわけだ。
水と石の比較で同一なもの比較のみ有効で異なることを比較しようが意味がないことをを例示したいんでしょうけど時間を一度否定した上で時間が必要な比較は使うなんてご都合主義は通じません。
比較自体が無効で無意味ですよって。自滅だ。
水は比較できない一瞬一瞬異なる(新しい)比較不可能な水であり、石も同様といわねばならん。
都合いいところだけ時間だの変化だのいわんこった。
あとさ極微ってのもこの人否定してるんだよって。
実体がないとかさ。
極微例えば長さ一兆分の1cmだとかはほぼ目には見えないので0とおみなしても全く0ではない。
一兆倍すれば1cmになる有に対し、0は何倍しようが0のまま
つまり極微は単位に依存するが(スケール比により変動する)
0は全く依存しない。
0マイクロm=0km、極微であったら誤差レベルで話がすまない。
つまり極微であったら単位次第で等式でむすべない。
無限小とゼロの断絶は数学でもいわれることでいくら有を微分しようが0にはならん。
滅尽定が0と極微の違いにもいえるんじゃないですかね。
ランク外というか次元がちがうことくらい想像つくとおもうんだけどもね。
つまりだ序列しておきながら比較不可能な断絶された境地が滅尽定ってことじゃないっすかね。
ん~?そうなのか?最初から0は0として考えないとダメなのか?
わからんですな。
260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。
261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。
(スッタ・二パータ)
いろいろなことが説かれてますね。
在家は、自分に出来る範囲で無理なく、というのがいいと思っています。
禅定がどうだこうだと拘る事は止め、
ただひたすら、「坐禅(禅定)で、『何も存在しない』と思う事に依って・・」
「すべての煩悩と執着を断ち切りなさい」と釈迦は教えているのだ、
という事でよいのでしょうか??
(まあ伏魔殿的教義などバサッと切り捨てて、煩悩・執着の完全滅失の為に
ただひたすら修行せよ、と言ってるだけに過ぎぬ・・・と)。
1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
(スッタ・二パータ)
無所有も、想いからの解脱も、そのどちらも無所有処定だとする註釈があることを中村氏が紹介しています。
私は、
無所有 = 無所有処定
想いからの解脱 = 非想非非想処定
<想いからの解脱>において解脱 = 非想非非想処定を実現したことによる煩悩を消滅させる智慧の開発
とそんなふうに思っています。
南さんの言われる、
>ブッダは、かつての二人の師を離れたとき、禅定についての考え方とその使い方を変えただけだと思います。しかし、この変更こそが決定的だったのでしょう。
ということに共感します。
なお、スマナサーラ長老が、スッタ・ニパータのその部分の解説をした時に、四苦八苦してました。その解説を聞いてもスッキリしなかった記憶があります。
スマナサーラ長老は、スッタ・二パータは私にも難しくて説明できない部分がある、とも言いました。
特に滅尽定は、テーラワーダでは、
『九番目の想受滅は、瞑想とか禅定という言い方が当てはまるかどうかさえちょっと分からない、悟りの追体験なのです。何も感受しない、本当に滅の状態です。意識はもちろん、意識したいという衝動・想さえなくして、想によって何かが感受されることさえ滅した状態です。
悟った人は最長七日間、想受滅の状態のままで居続けられるそうです。想受滅の間は何の心のはたらきもありませんから、その最中にそろそろ出定しようかなどと考えることもできません。どのくらいの時間想受滅に入っているか、いつ想受滅から出定するか、想受滅に入る前に予め決めておきます。時間が来たら、レンジでチーンとするみたいに自動的に心がはたらき始めて、また欲界の日常の心にまで戻るのです。
想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。
樹下で想受滅に入っていたあるお坊様を見た町の人が、そのお坊様が亡くなったのだと思い込んで火葬にしようとして、動かない身体の周りに薪を積んで一昼夜燃やし、翌日骨を拾いに行ってみたら、ちょうど想受滅から出定したお坊様が身体に付いた薪の灰を払い落としているところに出くわして腰を抜かしたという出来事がお経に記録されています。』
と説明されていて、真顔でそんなこと言ってるのか、と思ってしまいます。
それを読んだ時、私が子供の頃に見たレインボーマンというヒーロー物のテレビドラマにそんなストーリーがあったことを思い出して笑ってしまいました。
滅尽定は、釈迦以前からインドにあった伝承で、それを後世の人が取り入れたものかもなあ、と思っています。
私は滅尽定は後世のでっち上げで、ブッダはそんな禅定はしなかったと考えています。
ブッダは、かつての二人の師を離れたとき、禅定についての考え方とその使い方を変えただけだと思います。しかし、この変更こそが決定的だったのでしょう。
ただ、結果から見ると、有と無では、そこに質の違いが有ると言ってもいい気がします。
また、いきなり滅尽定が実現できるか、その実現のためには順々に段階を経る必要があるのか、という問題もありそうですね。
温度変化による水から氷までの個体化のレベルは観察できるし有意味ですが、水と石の温度変化の様子を比較しても無意味でしょう。
いったい、それは、どういうことなのか、そこが問題になりますね。
それに関すると思われることが、長部経典(沙門果経など)において解説されていますが、そこでは、戒律を守り、禅定を修して、第4禅定を実現してから、煩悩を滅する智慧に心を傾けて、そこで四聖諦を知り、煩悩から解放されることが説かれています。(輪廻を知る智慧を得ることも。)
また、心理作用の消滅については、戒律を守り、禅定を修して、第4禅定を通過し、更に順々に進んだ先に最終的に実現すると書かれている経典もあります。またそこでは、心理作用とアートマンの関係に関する質問には答えずに、四聖諦について説いています。(ポッタパーダ経)
さらに、大念処経では、一連の修行が説かれる中で、禅定については、その完成を知るとだけ書かれていて詳しく説明されておらず、最終的には、四聖諦を知って悟ることが説かれています。
一方、中部経典の小空経においては、順々に進んで滅尽定を実現した後に、最上の滅尽定でさえ作られたもので結局は無常だということを知るに至って、煩悩からの解脱が実現されることが説かれています。
それらから言えることは、悟りのルートには、第四禅定通過型と、滅尽定通過型の二つがあるが、いずれにせよ煩悩が消滅する智慧が開発されないと悟りは実現できない、ということだと私は思います。
まさに、戒定慧(戒→定→慧)ですね。
だから、煩悩が消滅する智慧が開発されないなら、その禅定には、まだまだ不足があるということ、あるいは、その禅定を通過してから以後の手法に問題がある、ということだと思います。
そして、禅定を通過して以後に四聖諦を知る、煩悩を消滅させる智慧が開発される、ということが、どのようにして実現されるかについて経典に具体的な説明が無い、ということが問題だと思います。
それは、実践で自ら試行錯誤するしかない、ということだと思います。
だからこそ、実現を信じて実践する、ということが重要になる。
まあ、滅尽定まで到達したら、自動的に煩悩を消滅させる智慧が開発されるということじゃないかとは思えますが。
だから、最上位の滅尽定と、それ以下では、決定的な質の違いがあるように思えます。
テーラワーダにおいても、
『最初の八つの禅定は感受を減らしていくもので、悟っていない人でも瞑想の達人なら達せられるものですが、この九番目の想受滅だけは、減らすだけでなく、滅するという、レベルの違うことをするのです。』
と説明します。そこでのレベルの違いというのは、質の違いというニュアンスだと思います。
だから、大パリニッバーナ経で、無所有処定を教えていたアーラーラ・カーラーマよりも凄いことを示した釈迦のその禅定は、その一つ上の非想非非想処定のことで、つまり、上から3番目と2番目の違いということだと思えます。
それは、意識があるのに500台の車の騒音に気づかないというカーラーマの禅定を凄いと思ってる相手のレベルに応じた対機説法だと。意識があるけど周囲の大音響に気づかないということには、もっと上のレベル(近くで落雷した音に気づかない)があるのだよと。
最上位の滅尽定なら、「覚醒している」とは言わないと思います。滅尽定は、心理作用の消滅でしょうから。
なお、初期経典では悟りが四段階に説かれていて、自我を実在と見なす見解(有身見)を捨てた人で、まだ煩悩の残っている人は、その煩悩の程度に応じて、悟りの最初の段階たる預流果から第三段階の不還果の間とされるようです。
(引用開始、アドレスを貼り付けられませんでした。)
修行僧たちよ、このようにアーラーラ・カーラーマはわたしの師であるけれども、弟子であるわたしを、師とまったく等しい地位に置いた。そして、わたしを最上の敬礼をもって礼拝した。
修行僧たちよ、そのとき、わたしはこう思った。
この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、[煩悩を]滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。<なにもないという境地>に達するのみである』と。そこで修行僧たちよ、わたしはその教えに満足せず、厭って、その教えから去った。
(中略)
修行僧たちよ、このようにウッダカ・ラーマプッタはわたしの修行仲間であるけれども、わたしを師の地位に置いた。そして、わたしを最上の敬意をもって礼拝した。
修行僧たちよ、そのとき、わたしはこう思った。
『この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、[煩悩を]滅することに導かず、寂静に導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニッバーナに導かない。<想いが有るのでもなく、ないのでもないという境地>に達するのみである』と。そこで、修行僧たちよ、わたしはその教えに満足せず、厭って、その教えから去った」
「修行僧たちよ、そのようにして、わたしはなにかしら善なるものをたずね、無上にしてすぐれた静寂の道を求めながら、マカダ国中を順次に遊行して、ウルヴェーラーのセーナー村に入った。
(中略)
そこで、わたしは、修行僧たちよ、ここは努力するのにふさわしい場所である、と[思って]そのままそこにすわった。
修行僧たちよ、そこで、わたしはみずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
(以下、老、病、死、憂い、汚れに同じ。)
そしてまた、わたしに知見が生まれた。
『わたしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない』と。
(引用終わり)
では少し疑り深い自分は、平気な顔して陥っていたことになるのでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/851ef686c24597c2ced1c94c64a32e52
寒いせいか眠いので、夜中の更新を待たずに寝ます。それでは、御休みなさい。
サリンを直接製造したわけでも、地下鉄内で散布したわけでもないでしょう。
ただ指示をしただけです。
指示に従わなければリンチや制裁を加えることを指示しただけです。
そいういう意味では、危険思想というよりは、至って現実的なものとして実効性があるわけです。
責任を転嫁しようが放棄しようが、それは大したことではないわけです。
既存の宗教にせよ、新興宗教にせよ、国家という組織にせよ、殆ど変わりはないわけです。
生物としての本能から逸脱し、わけのわからないことをするのが人間というわけです。
わけのわからないことをするが故に、責任とか法律で制御する必要があるわけですが、それとて万全の保障にはならないわけです。
言葉は、人を殺すことも、狂わせることも一方では可能なわけです。
実体は無いが、実効性は確実にあるわけです。
だが、仮に自己に責任が無いとしても行為主体としての身体は他の誰のものでもなく、また本人が望むと望まざるとに関わりなく負わされたものとして存在するわけです。
だったら行為だって行為主体だって私じゃないわけだ。
だって世界を構成するものすべて私じゃないんだから当然さね。
ところでさ
今はなき麻原彰晃さんがおっしゃってましたね
有名な弁明「わたしはやってない。潔白だ」
これは五蘊非我とすれば真理となります。
あぶね~わ、この思想。
大日方さん これどう思う?
責任転嫁に使えるよね。自己責任放棄だもん。
危険思想だね。
意思作用もわたしではない。
自殺しようとする意思も私ではない
自殺といいながらその「自」は私ではない他なのだ。
よって自殺は他殺なのであ~る。
自然死というが「自然」に(勝手に)自殺しようとする意思が発動する
自動、自発呼吸、自律神経、自然
すべて自といいながら正体不明で勝手に起こる現象を指す。
よって自殺は正体不明なもの=他によるわたしでないなにかを殺すのであり自然死であると結論することができる。
自殺はなにものかによる他殺であり犯人不明の自然死である。
禅定で非思量を突破すれば、欲望なんぞにカマケていた己を思い知らされ、ゲンナリするであろう。
それでは、煩悩や執着の塊ではないか。魂が優れたものとなるよう努めたまえ。
それが、善というものだろう。
これはイエスちゃんの間違いです。
自己を自己ならざるものとしての関係性において根拠を見出すのであれば、自殺という選択肢はむしろ取りにくいわけです。
自己の根拠を自己ならざるものとしての関係性としてではなく、自己そのものの内に何らかの根拠を求めようとするのであれば、自殺は選択肢として取り得ることができるわけです。
その根拠を自己の内に見出すことができないという事実をもってして自殺は選択肢として可能になるわけです。
無神論者とか、有神論者といったような前提条件は自殺という選択肢において関係性はあまり無いわけです。
私がイエスちゃんに呆れる理由です。
>それは食事と睡眠を制限し作ることもできる。LSDといった幻覚剤を使ってもできる。
え?それじゃオウムのやったことと大して違いありませんよ
ヘッドギアかLSDでラリってるのと同じってこと?
覚せい剤、麻薬、幻覚きのこくっとけってこと?
呼吸制御で健康になるとかその程度であればヨガの健康体操とかわらない。
身心脱落は麻薬ジャンキー、アルコールの酩酊状態、脳幹麻痺、気絶、昏睡、とそれらは同列であり区別できないとなりませんかね?
意識喪失はパニック、酸素不足などでも容易に起きる。
それらといかに区別可能か全く不明ですね。
もし同一視するのであれば道元さんは身命を軽視し仏法を求めよなんていいますかね?
身命を度外視してもいいような立派な「なにか」があるんじゃないですかね?
それとも急性アル中かオーバードースで彼岸へGOってこと??
まさかね。
わたしには理解力がないようだ。ぜひそこのところ解説おねがいします。
あ ごめん有神論者かとおもった失礼失礼。
国語力ないのはわしのほうだった。
しかーし、無神論者と自殺しないを直結させるってのもなんかおかしくないか?
神を信じようが信じまいが死ぬときゃ死ぬだろう。
自然死がコントロール不可能だったら自殺したい意思も自然発生的不可避ともいえるわけじゃん。
自殺するなというドグマがあれば自殺抑止にはなるのか?
無神論者は自殺しないってのはなぜそういえるのか?
本能(生存、生殖)がプログラミングされているなら人間に限らず生命はその存続を目的としているとはいえても自殺者が無神論者であろうがなかろうが直接的に関係はない。
イエスちゃんの論理でいくと
「アッラーは偉大なり」といって自爆テロする人間はどうなるっていうの?立派な自殺だわね。
有神論者もいっぱい自殺してませんかね?
安楽死を希望するのは無神論者だけなんですか?
安楽死は穏やかな自殺を体よくいっただけだよね。
「大多数といってるわけですべてとはいってない」とかいって逃げますか?
私のコメントが知ったかぶりと判断できるということは、それなりの専門知識をお持ちなのでしょう。なぜその専門知識を使って「お前の議論はここがおかしい」と指摘して下さらないのですか?
「そんなことをするのは時間の無駄」ということでしたら、最初から私のコメントなどは読まなければ、時間は節約できますし、イライラすることもないでしょう。
あなたの怒り正体は、反感を覚えても反論する技量のないご自身に向けられた負の感情ではないですか?
深い意味はありませんでした。 >> これは「いつものこと」
「大部分の無神論者は自殺をしない」
でもいいです。
今度は、意味が解りますか?
これでも無理ですか? >>言っているのは同じことです。国語力がないのですか??
人は貶し嘲笑うけど自分の発言には嘘と欺瞞でごまかす。
おびなたさんもイエスちゃんと同じレベルの理解力しかないということでしょう。その人の理解の範囲でしか理解出来ないのは仕方ない事です。ただ知ったかぶりのコメントが多すぎて反感を買っている事実を知るべきです。ご自分のブログでコメントしたら如何でしょうね。老人の愚痴や自慢話に付き合わされる身にもなって下さい。
というのは資本主義的なものです。
関係に関係する一つの形式です。
資本主義的なものの見方です。
その方が理解しやすいと思います。
馴れ合い楽しいですか?ご自分の見解を主張して、それに賛同しなかったら馬鹿なんですか?それは押し売りでしょう。
イエスちゃんのコメントは同じ言葉の繰り返し、リサイクルにみえることはあるとおもいますよ。
「普通」の無神論者は⇒「大部分」の…
深い意味はありませんでした。
「大部分の無神論者は自殺をしない」
でもいいです。
今度は、意味が解りますか?
これでも無理ですか?
それでは、私には、もう、手が付かないですね。
真言宗の関係者で、イエスちゃんさんの密教に関するコメントが気に障ったということですか?
「さんざん馬鹿にしておいて教えてくれとは虫が良すぎる」と思うかもしれませんが、是非教えていただきたい。その動機、怒りの理由を伝えておいた方が、あなたとってもイエスちゃんさんにとってもいいと思うのですが、いかがでしょうか。
詳細な解説に同意致します。
感謝が遅れました。
まあ、無駄な議論を避けるために、
嘗ての相手に対して「自分の意見はない」と応えました。
実感としては、
「父の考え」と「自分の考え」との間に、
境界を引くことができなかった体験によります。
知らない間に、自分の子供の対して、父と全く同じ行動をとっていて、愕然としました。
「父のこころ」と「自分のこころ」とが連続しているのです。
「肉体」が連続しているように、「こころ」も連続しています。
「言葉」上だけで、分離しているのです。
「縁起の世界」なのです。
しかし、言葉に騙されてしまう。
それが解っていない。
「坐禅」で、言語機能を停止し、言葉の虚構の「自己」を溶解するしかない。
大日方さんが偉そうに「学問を知らない」とか「頭が悪いことを喧伝しているようなもの」などとコメントされるからですよ。コメントの内容は別にどうでもいいんですよ、私は。
それさえも無理な場合に備えて書いておくと
言葉:単語や語句。
発想:思い付き。特徴的な考え方。
これでもまだ違いが理解できませんか。
>「普通の無神論者」とは一体どういう人たちのことを指示しているのか理解できるわけがありません。
>「普通の無神論者」→「自殺をしない」とはなんの必然性もない。
ならば、なぜイエスちゃんさんに対して、こういった弱点を指摘しなかったのですか?「自分の言葉や意見がない」などと何度も何度も同じことを書き連ねる必要があります?
まず「普通」ってなんですか?「普通」の言葉がなにを示すのか、各人がなにを「普通」と捉えるのか人それぞれなんですから、これはなにもいっていないのと一緒ですよ。
「普通の無神論者」とは一体どういう人たちのことを指示しているのか理解できるわけがありません。
「普通の無神論者」→「自殺をしない」とはなんの必然性もない。
これを理解しろ、という方がどうかしてる。
なら教えていただけますか?違いを。
ただつらつらとご自身の推測や憶測に過ぎないコメントではなんの説明にもなっていない。
自分で考えろ、などと言わないでくださいね?それは逃げですからね。
頭が悪いことを喧伝しているのは大日方さんご自身のほうでは?
「自分の言葉」などは存在しない、といいながら「独自の発想」などは(殆ど)ない、とコメントする。
どっちですか。殆どない、のであれば「ある」じゃないですか。はじめに「存在しない」と断定しておきながら、あとには「殆ど」と余地を残す。
これでは何もいったことにはなりません。
コメントが全体としてなんの説明にもなっていない。これではご自身で言われているようにただの推測を過ぎない
これは記事に書いてある様に、実体を錯覚させるような意識の状態を作る身体的行為の例ということでしょう。
自意識とは、自分と他者との関係性を認識すること。競争とか取引は、自分と競争相手、取引相手との関係性を認識し、それがどういう性質であるかを理解し、それをどのように運びたいか、変えたいかという意思を持たないと成立しない。つまりは、競争や取引をすれば、自他との違い、その関係性を意識することになり、〈自己―対象〉という二元構造で世界を見るようになる。自他の関係を意識させるというのは、ありとあらゆる行為について言えるのでしょうが、その顕著な例が競争、取引だということだと思います。
イエスちゃんさんの「普通の無神論者は自殺をしない」というコメントの何が理解できないのですか?私とは全く意見が異なりますが、内容に難しいことは何もない。
あれが理解できないのであれば、読解力のなさをよくよく反省するべき。他人が解説して解決する問題ではないと思います。
2018-12-07 16:43:06
普通の無神論者は、わざわざ自殺などはしない。
生物には、「生き残るというプログラム」が組み込まれている。
「食欲」と「性欲」とは、生物の特徴でもあります。
まあ「生物」をどのように定義するか、にもよりますが。
「生物」と「無生物」の境界も、言葉で定義しているのですが
◎ イエスちゃんさんが以前に「自分の意見はない」と書いた意味を未だに理解できず、「自分の言葉、独自の発想」などという妄想に取り付かれている人達がいるようなので、解説をしておきます。
それでは、上記の文章の解説もお願いします。・
「自分の言葉」などは存在しない。
「独自の発想」などは(殆ど)ない。
「自分の言葉で話せ」「自分の考えを話せ」などとしたり顔で言えるのは、言語や知識といったことに関する認識が甘く、学問というものを知らない人だけ。自分の頭が悪いと喧伝しているようなものです。
言語というのは、共有されなければ機能しない。当たり前ですね。共有されなければ意味が通じない。我々は、外界から言葉を取り入れて、それを反復するからコミュニケーションが可能になる。共有されない「自分だけの言葉」などは、言葉とはいえない。
独自の発想なるものは、殆どない。なぜ我々は数百年前、もしくは千年、二千年前に書かれた「古典」を学ぶでしょうか。科学・技術の分野となると話は違いますが、人文科学で新しい発想などはそう頻繁にあるものではない。もちろん世の中には研究者という人達がいて、新たなる知識を創造しています。その研究者でも既存の知識にちょこっと付けたしているに過ぎません。
ブログのコメント欄は研究者や専門家が集まる場所ではない。素人が意見を交わしているだけなので、仏教や哲学に関して、批判に耐えうる、まともな「独自の発想」などはまずないでしょう。ですから、「読書感想文」というのは至極まっとうなのです。読書感想文とそうでないものの違いは、書き手が、自分が学んだ知識を反復しているにすぎないということを自覚しているか、していないか。それだけです。
私が推測するに、「自分の言葉」に拘る人は、小中学生のときに「教科書を丸暗記するだけじゃだめ。自分の言葉で説明してみなさい」と言われて、それを思い出しているのでは?小中学生に「自分の言葉で」と言うのは、その子の理解度を確認するためであって、「自分の言葉」に価値があるわけではありません。
脳内だけで、あれだけのことを整理できるんなら、やはりサトリって凄いことなんでしょうね。
ソクラテスやキリストも、坐禅していれば、西洋版のサトリを開けてたかもしれないですね。
一生、人と話をすることだけでおわった人で
ソクラテスを主人公にして様々な人と対話させている
ああいう形のものを何編も何編も創ったのは
ギリシャにおける表現というものが
哲学は対話から始まったけれど
対話自体を一つの物語としてプラトンは創ったということは
幾分、文学的な影響があったということであろう。
ソクラテスは人間がつねに問題なのだから、
書かないで人々と話しあうのだとも言える
彼は、ただ「知らないことを、知っている」と
言い続けているが「知る」ということの内容
つまり、あれこれの知識と、それらの知り方
形式としての「知る」ということを明確に分けて
初めて問題にしたところにあると思う
「無知の知」とは言うが、ほんとうは「知の知」であって
相手は「知の無知」と、だが「無知の無知」は
「無知」かと言えば、やはり螺旋状に元に戻って
「知」になる、そう言える限りは。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/4db95d5fdba2d9750858c02d68e8e1e8
何故か?人気記事ランキングに上がってたので、少し気になりました。
各地、寒波の模様です。
皆さんお気をつけ下さい。
多くの人が善きものと考えているものは、それをどう使うかを知っていなければ、人をかえって不幸にすることになり、それらは幸福であるためには何の役にも立たないかもしれない。
幸福であるためには、何が自分にとって善であるかを知っていなければならない。これが知恵や真実に気を使うということの意味であり、この意味での善悪の知が魂を優れたものにする。
ソクラテスは、自分は知っていると思い込んでいる人には、厳しくその知を吟味し、実はその人が何も知らないということを明らかにしていく。
しかし、そうすることで、何も知らないということを自覚することで終わるのではなく、知らないことを自覚する、知るという条件を厳しくすることによって、絶対の知に近づいていくことを目指した。
ソクラテスの弁明より。
一、旦那を信じないが、旦那以外に頼りにするものがない。
一、「受賞」の主張を愚かだと思うが、そうする人の欲望は理解できる。
一、宇宙人の実在はどうでもよいと思うが、それを信じる人の実存には大いに興味がある。
一、不老不死の話は面白いと思うが、それを持つと公言する人には関心がない。
一、他人の「嘘」を知りたいとは思わないが、他人の「交換」を理解したいと思う。
一、他人を「幸福に」できるとは思わないが、他人の不幸を認識したいと思う。
一、前世を持つ習慣がないが、来世を考える性癖がある。
一、出家するほどの困難を知らないが、坐禅する技術は知っている。
一、一切のアイデアや価値観には、それを無条件で「誤り」とする点で、絶対論者だが、人間はそれらから何かを学習せざるをえないと考えることにおいて、絶対主義者ではない。
さて、
これらが5つ以上○なら
在家に向いてる・・・・かな?
卒業式での縁起でもない話をされたとのことですが、そうではなく、縁起そのものの話なのではないでしょうか。
リストカット者も、真面目で人に優しく、優秀な人も多いのではないでしょうかね。自己否定の仕方が釈尊のようにはいかず、自己に矢を向け傷つけてしまい、それがいつしか快楽となる習慣がつくと、そこから抜け出すのも困難となり、二重の困難さを伴うことになりますから、早目の対策が必要となるでしょうね。
本質を確定するよなことしたら、間違わない?
まあ無明とすれば、間違わないのかな。
仏教以外の無明のヤカラから、仏教者が「無明のヤカラ」と言われる筋合いはないのでしょうが、仏教者も悟らない限り、「無明なヤカラ」ではあるのでしょうから、どう反論しますかね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/c8d05686303936354c6bd1b04ef0f24f
「自己」は、生かされている。
「自己」と「他己」とは、「言語機能」によって、分断されているように認識される。
「主客二元論」
・・・
「言語機能」を止める。
これが肝要である。
「非思量」「思量ではない」
「運転を止める」
今回のブログで、何が本質か?が重要です。
仏教においては、
釈尊は「自己」の「死苦」の解決のために、妻と子供の家族を捨てて「出家」した。所謂、蒸発した。父親失格です。
「死ぬ寸前の断食の修行」を間違いと気づいて止めて、
乳粥をいただき、体力を回復してから、
「坐禅」によって
『特定の身体技法(禅定・坐禅)を用いると、
「言語機能」が停止し「自意識」が溶解していくのですから…』
自分の信じていた「自己」とは「言語機能」で「虚構されたもの」と知り、
・・・後の「諸行無常」「諸法無我」・・・
「自己」は「縁起の現象」と分かり、
初めて「自己の消滅・死の苦」から解放された。
「自己」が生きているのではない。
縁起で「生かされている」のが「自己」である。
三男が小学生の時、PTAの会長を務めたが、
卒業式で「卒業生への送る言葉」を述べた。
12歳で、アパートの階段から飛び降り自殺した少年の話である。
卒業生と同じ年ごろである。
(私の勝手な想像だが、在日朝鮮人だから、いじめられたのだろう)
父親が、子供の詩集、遺稿集を出していた。
その本を卒業生に壇上から掲げながら、
なぜ自殺したのか?についてお話しした。
「自分」を必死に守ろうとして自殺した。
ここで何が欠けていたのか?
伝えたかったのは
「いのち」は「自分」の所有物ではない!
皆さんは「自分が生きている」と思っているだろうが、
本当は、「自分」は生かされているのだ。
「いのち」は、自分の「もの」ではない。
お父さん、お母さん、友達、いろんなひとにつながっているのだ。
だから困ったことがあったら相談する。
自殺されたお父さんお母さんの苦しみを伝えた。
卒業生の晴れの式で「自殺の話」で縁起でもないが、
どうしても伝えたかった。
卒業後、自殺したいという試練が起きるかもしれないので。
新編 『ぼくは12歳』 (ちくま文庫) 文庫
– 1985/12/1
岡 真史 (著)
ある夏の夕暮、ひとりの少年が大空に身を投げた。少年は、美しい、謎にみちた詩を残していた。「ぼくは/うちゅうじんだ/また/土のそこから/じかんの/ながれにそって/ぼくを/よぶこえがする」青春一歩前で死を選ばせたものは何か。「ひとり/ただ/くずれさるのをまつだけ…」謎はとけない。多くの人びとに深い感動をよんだ詩集に、今回新たに少年死後の、両親と読者との往復書簡を併収し、決定版とした。
釈尊の教え:
「自分」は「縁起」で生かされている「もの」。
これは「リストカット」の自殺願望者も気が付くことができると思う。
瞑想(坐禅)している時の脳反応という事として広くとらえれば・・・
それは経験と学習によって蓄えられた情報や所有する意識・無意識が、
有る形に顕現して来たものだ(=南師の言う変性意識)と言う事が出来るだろうか。
有神論の坐禅者(瞑想者)にとっては、
実体たる神との出会い(自覚)を意味するかもしれない。
浄土宗の仏教徒が瞑想(坐禅)すれば、ありありと極楽浄土を体感(自覚)するかもしれない。
ヨガの瞑想者(坐禅者)、あるいはバラモン教徒なら瞑想(坐禅)によって禅定を得て「梵我一如」を自覚するかもしれない。
彼等にとっては、そう言う『実体』を知らない人を「無明のヤカラ」と呼ぶだろう。
すなわち禅定によって、或る者は実体を自覚し、或る者は無実体を自覚すると考えられる。
じつに各人にはそれぞれの各人各様の禅定(=変性意識)が顕現するのではなかろうか。
各人各様の持つ「意識論」が顕れ出る筈だから、それが各人の自然な脳の反応のだと思われる。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/5bea75bf22d9d0247adb0582ffdf8fb8
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/851ef686c24597c2ced1c94c64a32e52
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/df23c76f58a40570e923b8d9118a5388/?st=1
さらには、「無明の自覚」とまでも、なり得ないことになりませんかね。
身心一如の立場から見ると、二元論的な考察をしていることになりませんかね。
坐禅会に行くと、
「私は無宗派で、御寺や神社などをあちこち巡っているんです。こんな風に人と話したり、和尚さんから話を聞いたりすると、スーっとしますよね。」と言われました。
そこで私は、
「苦しみがなければ、宗教は必要ないのではないですか。」と問いました。
すると其の方は、
「苦しみがあろうとなかろうと、宗教は必要です。生き方を学べますよね。生き方を学べるんです。」と強調されました。
私は、苦しみがなければ、別に宗教でなくても、生き方は学べると思う派なのですが、其の方は何を言いたかったのでしょうね。
何処からともなく湧いてくる無明、
「競争と取引」とは、何のことですか?
教えて下さい。
ー小さな倫理学入門 山内志郎ー
<欲望と「もの」とを比較すると、現在は欲望が欠如した時代として考えるべきでしょう。だからこそ、高度消費社会ではあれほどコマーシャルが流され、必要ではない商品を欲しくなるように駆り立てられています。そういう時代において、古代の倫理学に帰れ、というのは典型的な時代錯誤になってしまいます。>
ー小さな倫理学 山内志郎ー
二千数百年経っても未だにお釈迦様の話をしているということは、世の中は変わっても、人の苦しみは変わらないということなのでしょう。
お釈迦様の生きられた時代には、時代が変わっていくという実感はあったのでしょうか。それとも、王朝に栄枯盛衰はあっても、技術力・経済力は変わらず、同じような生活水準の社会が何千年後も続くと思えたのか。
後者のような気がします。そうでなければ「一切皆苦」とまで悲観的にはならないでしょう。
>生物には、「生き残るというプログラム」が組み込まれている。
そのとおりだと思いますが、そうであるにも関わらず、リストカッターと呼ばれるような自分を傷つけてしまう子や、自らの命を絶つことを選んでしまう人がいる。
これらの人の苦しみを「普通ではない」「生物的に異常」と片付けてしまうのは、あまりにも無情です。
生きる苦しみを考える際に、「私はだれ」「なぜ存在する」という根源的な問いは飛ばして、「自己が消滅するのが苦しい」と結論づけてしまうのは、議論が雑だと思います。
禅定と言う認識論に没我し過ぎて
津波と言う存在論が見えなくなって、
はかなくも没命となった。
これはもう宿命としか言いようがない。
輪廻の解脱上はそれもまた是なり!!
存在の構造を問うとか存在者の存在を問うといった存在論的問題構制は
立てられなかったように見える。
悟りというのはいわば人間認識の宿業的な無明性
━━━ 実体化への傾向 ━━ の転換であるから
存在論か認識論というわけ方でいえば、むしろ認識論であると言える。
しかし、認識の転換という場合、
そこでは認識存在が問題になっているからであり
更にこの認識存在の転換が問題になっているからである。
それ故、この転換においては認識 ━ 存在の相互媒介性が
完成していて、あるかぎりのものがあるがままに顕われてくるという
仕組みになっている。
仏教思想の歴史は、この悟りあるいは転換をいかに
獲得するかという理論と実践の歴史であるから
その意味では認識論的問題に視点が集中し
存在論的問題は認識論のふるいをかけられてのみ問題となり得た
むしろ存在論の存在すら忘れられていまったように思う。
生命体として実存するモノには「実体」がない。
無我で説くか、縁起で説くか、無常で説こうか、ど・れ・に・しようか。
>命題B.
生命体として実存するモノには「煩悩・執着」が属性として備わっている。(これを無明と呼ぶ)。
すなわち、土俵は・・・
同じとも同じでないともいわない。
無明の自覚と実体視関係は、分けて考えないと、ゴチャゴチャするなあ。
「おお、彼こそは真なる覚者であった!」と。。。
生きて誰かに禅定レベルを話して、誰かより帰依されないことには、覚者認定とは成らず、ただのタワゴトか錯覚に陥りやすい。
生命体として実存するモノには「実体」がない。
命題B.
生命体として実存するモノには「煩悩・執着」が属性として備わっている。
(これを無明と呼ぶ)。
設問;AとBを同じ土俵で論じられるのかどうか?
煩悩・執着が有るか無いかとは
一対一の絶対十分条件を構築しない。
それが『苦』からの解脱である。
これは輪廻概念を前提にすれば「真理」であろうか。
輪廻概念を拒否した後でも成り立つものかどうか、はなはだ疑わしい。
実体がないと知ったからとて
煩悩や執着が無くなるかどうかも、
はなはだ疑わしい。
津波で「逃げろ」という周りの騒ぎにも全く無反応でそのままおさらば。
かくて海の藻屑と消えました。
あとに残った人々は称賛していわく
「おお、彼こそは真なる覚者であった!」と。。。
間違えているわけです。
「技能実習生は、この3年間で69人亡くなっております。日本を本当に愛してやって来たのに、結局、差別され、虐待され、蹴られ、殴られ、自殺をした。そういう人がいっぱいいるのに、これをどのように総括して、新しい制度に入っていかれるのか」
外国人まで自死に追い込む国?
<日本人が伝統的に持っている神仏習合的な宗教観に即したファンタジー世界が、まんべんなくMIXされて表現されている。>
死を知らないから生きているということであり
死を復活することも、突然生を宿すことも、
そう信じられてその宇宙となったキリスト教は
自殺を禁じることでやがて権力と化したが
自殺した意識が自殺し得たのかどうかは
もはや審判を越えた永遠の課題だろう。
宗教は、いつも何かを隠蔽する。
生物には、「生き残るというプログラム」が組み込まれている。
「食欲」と「性欲」とは、生物の特徴でもあります。
まあ「生物」をどのように定義するか、にもよりますが。
「生物」と「無生物」の境界も、言葉で定義しているのですが
どういうことでしょうか。
暴行、謝罪、引退などなど、、これらは無明のオンパレードとでもいうような事態なのでしょうか。
>そして、死ぬとその「自己」が消滅する。
>無神論者も、現代人も、この「自己」にしがみついている。
世の中には自死を選ぶ方が少なからずいます。上の論法でいくと、彼らの苦しみは仏教の範疇外ということになってしまいませんか。
彼らの苦しみは、「自己」が死によって消滅することではない。
「自己」が不生不滅といったそばから、「自己」は虚構、幻といってしまう奇妙な論理
まさしく空理空論、徒手空拳、考えたことを整理できていない生半可な受け売り。半可通。
中島義道さんのどの本のどこを読んで独我論、唯我論、唯識論が大好きと判断したのか。見当違いも甚だしい。
イエスちゃんに答えてほしい。イエスちゃんがコメントするように、人は「言語にすぐ騙される」。だとしたら「歴史の事実」も「進化」の言葉も自明なものではない。
イエスちゃんは「歴史の事実」「進化」の言葉の使用が正当であると主張できる根拠を示してくれ。仏教はなにより絶対的な視点を認めないのだから。
「ああ、わたしのやってきたこと無駄だった…」みたいな。神学大全書いてる途中で。』
トマス…さんは、
ギリシャ哲学のアリストテレスを用いて、
キリスト教神学を構築しようとした。
しかし、ヘブライズムが濃厚な『パウロの手紙』や『マルコ福音書』を料理しようとしても、
失敗するのは当然である。
「ユダヤ思想」と「ギリシャ哲学」とでは、融合させることはできない。
他方、日本人は優秀である。
「神仏・習合」「本地・垂迹」説で、
「日本民族の自然宗教」と「仏教哲学」とを、融合・一体させてしまった。
当然、仏教の側が変質したという代償があったが…
そもそも最初から変質した仏教ではあるが・・・
「天台本覚思想」「密教」
ハイデガーは『存在と時間』を完成できなかった。
何度も試みて失敗した。
「仏教論ずる(=否定する)処の実体論」を信じていないと考えて良い訳で、…』
いいえ、決定的に違います。
「自己」が存在していると考えています。
そして、死ぬとその「自己」が消滅する。
と考えています。
これは、仏教で言う「断見」です。
仏教は、「自己」は不生であると教えます。
だから、当然「自己」は不滅です。
「自己」は言語機構が構築する「概念」、「言葉が生み出す虚構・幻・ヴィジョン…」なのです。
無神論者も、現代人も、この「自己」にしがみついている。
だから、お金を欲しがる。無神論者も。
「自己」にだけ、リアリティを感じている。
デカルトの「われ思うが故に、われ存在する」
「言語」「思考」「概念」「真理」…
に直ぐに騙される。
同時に、西洋哲学の生半可な受け売りの「空理空論」に走ることになる。
中島さんは「カント」に嵌まっているだけ。
唯我論、独我論、唯識論…が大好き。
これこそ「釈尊の仏教」の対極にある。と思う。
存在論であってるよ。
なんで存在論では駄目なのか教えてよ
>とすれば彼らに坐禅(禅定)を今回記事に沿って説明しても、
人に坐禅を勧めたり、説明したりというのは、あまり軽々しく考えないほうがいいのではないかと、私は思います。
まず、坐禅する趣旨ですが、「実体を錯覚する」ということを説明するのに、全く無意味とは思いません。「自意識とはつくりものなんだよ」と言っても、ほとんどの人にはその意味は理解されないでしょう。私も理屈でしか理解できない。このブログの記事には説得力があると思えるので、「無明」や「非思量」の説明も取り敢えずは信頼して、「そういうことなんだろうな」と思っているだけ。
もし自意識が溶解するという状態を体験し、「自意識は制作物だ」という発想の理解を深められるなら、私のような者にも坐禅をする意味があるのでしょう。しかし、それを目標に坐禅をするというのは、何か違う気がします。
「自意識溶解」など自分が体験していないことを他の人に勧めることはできない。健康法としても、坐禅をした方が自分の体の調子がいいような気がするからといって、人に勧めたらそれはインチキ医療と一緒。本当に具合が悪い人に、「坐禅をすれば調子が良くなる」なんてことを軽率には言えない。
私に関して言えば、そもそも坐禅の技法をどこまで正しく理解しているかも怪しい。となると、私が坐禅について人に語れるのは、「興味があるなら『禅僧が教える心がラクになる生き方』という本を読んでみたら」、ぐらいのことだけ。
お坊さんでなくても坐禅に詳しい方はもちろんいるのでしょうが、素人があまり安易に語ることではないと思います。
わたしのうちに世界がある
わたしのうちに世界が流転する
わたしはあり、しかもない
他者もなし自己もなし
なんちゃって
「歴史の事実」といった時点で、歴史を俯瞰する超越的な視点を認めることになるのにイエスちゃんそんなことも気づかないの?でなけりゃ、なにをもって事実とするか、いろんな見方があるんだよ?
「進化」という言葉は目的ありきの言葉だよ?でなけりゃ「進化」って言葉は意味を持たないでしょ。
つまりイエスちゃんは結局、仏教についていろいろコメントしながらも神を信じてるんだな
イエスちゃん 中島義道さんの「明るいニヒリズム」とか読んだらいいわ。イエスちゃんのコメント全部論破してあるから。
それイエスちゃんの単なる好みやろ
トマスアクィナスみたいなことあるかもしれんし
「ああ、わたしのやってきたこと無駄だった…」みたいな。神学大全書いてる途中で。
言葉を捏ね回しても、頭蓋骨の中で、無数のニューロンが活性・非活性の発火リレーしているだけ。
生物進化の歴史、言葉の獲得・改良の事実に、常に戻り、
空理空論を排除すべきである。
「兎」と「角」とで「兎の角」が造れる。
言葉に騙されてはならない。
「はいはい、そんなことわざわざ坐禅(禅定)しなくても昔から知ってますよ!!」と言うんじゃあないのでしょうかね??』
無神論者も、自分が死ぬことに恐怖するだろう。
つまり、実際は「死苦」に縛られている。
現代人でも「自己の消滅」「死苦」が解決できていない。
そして「死苦」からの解放が「釈尊の仏教」である。
「言語機構」によって「自己を実在・実体・自性・霊魂」と錯覚するそのメカニズムに気が付く方法が「坐禅」である。
人類は言葉・言語に騙されている。
「ヨーガ行・唯識派」も後退である。
どういうニューロンの結合状態が「自由」という「言葉」に結びつくのか?
頭脳の「言語機構のニューロンの働き」を「坐禅」という身体能力を用いて低下させ、非活性化させ、
「自己」を溶解させる「体験」を何度も繰り返す。
「自己の活動」と「言語機構の活動」との関係性が、解る、実感する、
突然、あっ解った、とひらめく。
今回の南師の説明で、
「頭で」「理論で」解っておいてから、
実際の「坐禅」で「体験で」解るようにする。
「心・学道」と「身・学道」
道元和尚は「身・学道」の方を重視した。
コレ、世ノ理、人ノ常、物ノ道理ナリ。
あなたブログで「…だが禅的視点というのは"ただ今即今、ここ"にしかない」「私の視野そのものは私の視野の中にはないのである。実存的な視野は決して対象化されることはない。」とされているね
これ哲学なの?違うよね。
「私の視野そのものは私の視野の中にはないのである」当然これでは、私の視野の中にはない私の視野そのものの「場所」として超越論的主観の存在の余地を残してしまうよね。「私」の視野そのもの、といっているわけだし。
御哲坊さんはそこで突然「実存的な視野は決して対象化されることはない」と論理が飛躍するわけだ。2つの文のあいだの過程が抜けてるんですが。そもそも実存的な視野って言葉でなにがいいたいの?そんな中途半端な知った風な言葉で説明とばしたら駄目だって。
それとね、禅的視点って何?禅的視点じゃなくて禅は禅でしょ。何、的って。超越論的主観性を認めないのに「ただ今即今ここ」が存在することは受け入れるの?諸法無我なのに?しかも「ただ今即今」って同語反復だし。
いってること矛盾してるよ。
だからこそ、人間は、後天的に獲得した自分の力で自分が生きる新しい世界を作り出せるのである』
ポルトマン(スイス比較動物学者)
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/mikeamikea.exblog.jp/amp/4775582/%3Fusqp%3Dmq331AQJCAEoAVgBgAEB
僕ちん 「ホトケってなあに?」
坊さん 「座ればわかる」
僕ちん 「わかんない」
坊さん 「悟ればわかる」
僕ちん 「サトウ?」
坊さん 「舐めるな」
僕ちん 「虫歯になるの?」
坊さん 「そういうことだ」
可逆性は、元の状態に戻すことが可能
不可逆性は、元の状態に戻すことが不可能
(可逆反応)
水は熱すると水蒸気になるが、冷やすと水に戻る
(不可逆反応)
木を燃やすと炭になるが、冷やしても元に戻らない
はてさて、我々は仏に戻れるのだろうか?
1つ目は脳が発生していく時や発達していく段階にみられる可塑性。2つ目は老化や障害を受けた時などに神経の機能単位が消失するが、それが補填・回復されていく場合。3つ目は記憶や学習などの高次の神経機能が営まれるための基盤となっているシナプスの可塑性である。特に神経科学にとっては3つ目が重要で、その機構についても徐々に明らかにされている。記憶には、短期記憶と長期記憶があるが、短期記憶は主にシナプスでの伝達効率の変化により、長期記憶はシナプス結合の数や形態の変化により達せられると考えられる。>
3つ目の高次機能というのが、禅定段階とするところなのかなと思ったりなんかして。
<ニューロン (神経元) とニューロンとの接合部。あるニューロンの神経線維の末端は他のニューロンの神経細胞体の一部に接近し,シナプスを形成している。興奮がシナプス前部線維の末端までくると,そこから化学伝達物質が放出され,それがシナプス後部膜の膜電位を変化させる。このようにして興奮がニューロンからニューロンに伝えられる。これをシナプス伝達という。化学伝達物質が介在しないような伝達もある。シナプス伝達には,(1) 興奮は一方向にのみ伝わる,(2) 興奮がシナプスを通過するには,神経線維を伝達するよりはるかに時間を要する,(3) 促進や抑制現象がみられる,(4) 疲労しやすい,などの特性がある。>
そして間隙に行きました。
ひとりよがりの哲学気取った言葉遊びつまらんよ
ZIPさん、ヘーゲルについてコメントするならヘーゲル論理学において無と有とがいかなる論理で成の運動に止揚されるのか逃げないで説明してちょうだいよ。
榮久さん、BdeutungとかSinnとかどうだっていいんだよ。哲学やるならさあ、例えば<因果応報>とか<天網恢々疎にして漏らさず>とか<剣をとるものは剣に滅びる>とかの言葉を存在論として説明してちょうだいよ。否定せずになぜそのようなことがいわれたのか、またいえるのか。
できないだろうなあ。あなたがた小難しい無駄な言葉並べるだけで実力ないもんな。
<デリダの脱構築と、ヘーゲルの弁証法、ハイデガーの存在論の関係の生産的な問い直しを続け、現在フランスで最も注目される哲学者、カトリーヌ・マラブー。本書においてマラブーは、ヘーゲルの時間論を批判的に読解するハイデガー、ハイデガー哲学を批判的に継承するデリダといった複数の対話を潜在的に共鳴させることで、彼女自身の哲学の核心をなす「可塑性」の運動、すなわち、自ら形を与える―受け取るという時間的な塑造過程を見定めようとしている。>
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/urag.exblog.jp/amp/238632958/%3Fusqp%3Dmq331AQJCAEoAVgBgAEB
「究極的な理由がないこの世界を言祝ぐ」
utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2016/06/post-830/
<メイヤスーがまっすぐに有限性(=カント)の「後」へと向かったことを批判しつつ、その明日の「前」に踏みとどまることの意義を訴えるのだ。>
dokushojin.com/article.html?i=4321
千葉雅也 著
<世界には〈意味〉と〈無意味〉がある。そして〈無意味〉には、二つの無意味がある。〈意味がある無意味〉と、〈意味がない無意味〉である。
『動きすぎてはいけない』で〈非意味的切断〉、すなわち〈意味がない切断〉により、全生活をインターネットが覆い、〈つながりすぎ〉で身動きがとれなくなっている現代に、切断の哲学を提案し話題になった著者。本書では、〈意味がない切断〉を引き起こす〈身体〉の哲学を提起する。
考えすぎる人は何もできなくなり、頭を空っぽにしなければ、行為できない……身体と行為の本質をめぐり、自らレスリングする注目の哲学者・入不二基義氏と、スリリングな対話を展開する。
ベストセラー『勉強の哲学』でも注目の著者による、待望のトークイベント。>
(尚、トークイベントは終了)
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/urag.exblog.jp/amp/238842022/%3Fusqp%3Dmq331AQJCAEoAVgBgAEB
これらは、茂木派の思想形態になるのでしょうか。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8834540.html
四無量心(しむりょうしん)とは
catur-apramāṇa
仏が4種の方面に心を限りなく配ること。
(1) あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること
(慈無量心)
(2) あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと
(悲無量心)
(3) あらゆる人の喜びをみてみずからも喜ぶ心を限りなく起すこと
(喜無量心)
(4) いずれにもかたよらない平静な心を限りなく起すこと
(捨無量心) 。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8834540.html
四無量心(しむりょうしん)とは
catur-apramāṇa
仏が4種の方面に心を限りなく配ること。
(1) あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること
(慈無量心)
(2) あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと
(悲無量心)
(3) あらゆる人の喜びをみてみずからも喜ぶ心を限りなく起すこと
(喜無量心)
(4) いずれにもかたよらない平静な心を限りなく起すこと
(捨無量心) 。
どうなのでしょうね。
無神論であるが故に、その矛先が我となり、オレオレが強くなり、つまりは苦しくなるパターンなら、無神論の実体だけに限ったことではないでしょうね。
無我というのも、坐禅を通して体感していくものなら、仏教的には、概念で知るだけではつまらん!となるかもしれません。
>この様な、問いと共に開けてくるのは、Bedeutung「意味」の世界である。
>「意味」は現実に存在するものではない。
>「意味」は現実を指し示すが、現実でないものをも指し示す。
Bedeutungは指示対象のことですから、ここで使用するのは適切ではないように思います。Sinnとした方がよいでしょう。
ヘーゲルが精神現象学でこの事を言ったわけです
超越的な概念である或るもの(事象)を実体視する事を無明と言うのだが、
坐禅(禅定)する趣旨(効果・目的)は、
無明を自覚する事、すなわち実体などないと自覚する事で在るという事になると、
現代人で無神論者はホボすべて、仏教論ずる(=否定する)処の実体論を信じていないと考えて良い訳で、
とすれば彼らに坐禅(禅定)を今回記事に沿って説明しても、無神論者は
「はいはい、そんなことわざわざ坐禅(禅定)しなくても昔から知ってますよ!!」と言うんじゃあないのでしょうかね??
>要点は禅定(身体的行為)と無明についての説明でしょう。
経典の「覚醒していたが、見も聞きもしなかった」という記述が例えかどうかは分かりませんが、それが実際に起きたことだとしても驚くことではないのでしょう。そのような意識の状態は身体技法によって作ることができる、ということだと思います。それは食事と睡眠を制限し作ることもできる。LSDといった幻覚剤を使ってもできる。過去の記事によれば「セックスによってでも、ギャンブルやスポーツによってでも、作り出せる」。
大事なのは、それをどう解釈するか。それを宇宙と一体となったと結論づけるのか。神に近づいたことにするのか。仏教ではそれを「実体を錯覚する」という文脈で解釈し、その体感を「無明」「私とは作りもの」といった発想を理解するために使う、ということだと思います。
とは言え、これは我々素人がそういった意識の状態を作ることを目指せ、という話ではないと思います。言葉まみれの日常生活を意識的に止めて、それを続けることによって心身の状態がいくらかでも良くなると感じれば、それでいいのではないかと思います。
それでは、不十分である。
それは、禅では、「it」を言語化しなければならないから。
「教外別伝」の禅宗において、膨大な禅問答が、「伝統の歴史・灯史」として何度も編纂され、お経として保存さる理由です。
道元和尚も『正法眼蔵』旧草75巻、新草12巻、全87巻を執筆した。
また各巻も、何度も改訂版を作っている。
http://microsamgha.com/スーパー坐禅/
<あえてスーパーと付けるのは、
あまりにも坐禅のスタイルに拘りすぎているからです。
「坐禅」という言葉にもこだわらない。
「坐禅」を超えた「坐禅」なのですが、
「◯◯◯」とでも書いておけばいいのですが、
これでは訳が分からないので「超坐禅」
これも今一つなので「スーパー坐禅」。
何も考えない。
すべてを乗り越えること。
それは全てを捨てること。
時間の概念さえ捨てて、
今、現在にもこだわらない。
あらゆる概念を捨てること。
これがスーパー坐禅の心です。
スーパー坐禅は、実行・実践の姿です。
もちろんそれにも拘らない。囚われない。
何も考えない。
ただそれだけです。>
「すべてを乗り越えること。
それは全てを捨てること。」ということですが、「すべて」って何だ?となり、それを乗り越えたり捨てたりするとなれば、それはもはや受動態の姿勢ではないように思うのですが、どうなのでしょうか。
「万事を休息する」とは正に、このことであるかと。
仏教も様々なようにキリスト教も様々だよ、
という話のように読めます。
記事の本筋である
禅定については置いて世俗的な常識で考えても、
宗教上の『奇跡』が本当にあったことなのかは
確かめようがないですよね。
文献を精査するにしても、歴史学な出来事とするものの
整理であって、タイムマシーンに乗って自分の眼で
確認するわけじゃないですし。
宗教の『奇跡』に対して取れる態度を3つ挙げてみました
①信じる
実際にあったこととして、正に「信じる」
②解釈する
実際の事実かは置いておき、一種の例え話として解釈する
③選ぶ
事実であったこととそうでないことを、
肯定する事柄と否定する事柄に取捨選択する
これらの中で一つだけを採用したり、
組み合わせていたりするのだろうなあと、
自称無宗教の立場からは思えます。
ただ今回の記事、経典の記述は例えであって
要点は禅定(身体的行為)と無明についての説明でしょう。
だからコメントするべき内容は一つです。
「そんなことより坐禅しようぜ!」
難解な仏教用語など一つもお使いにならず、説教がましくもない。が、メモを取る人の姿も珍しくないほど皆真剣にきいていました。
結果、帰り道には自分の深層心理に気づかされ、自分の求めていた事に気づかされました。
正直なところ、ご著書や他での講演で聞いた事のある話もありましたが、それでも新たなインパクトを持って私に刺さってきました。また別の演題の講演を楽しみにしております。
私は、「仏教一般」とは極力言いません。
「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」と言います。
その間には違いがあるからです。
そして、その一つ一つが「完成体」です。
不足はない。
だから、
『パウロに関しては「使徒行伝」など参考にして下い
「本当にキリスト教を学んで」きたのですか。』
パウロの信仰は「パウロの真正の手紙」から、回答して下さい。
「使徒行伝」は福音書記者・ルカの信仰ですから。パウロの信仰とは別物です。
「パウロの真正の手紙」「マルコ福音書」各々が「完成体」です。
ここには何も不足はない。
ただ、読む人が「主体的に選び取る」だけです。
ナザレのイエスも使徒パウロも、自分は正しいユダヤ教徒であると自覚して行動している。
だから、使徒パウロも、信じている神様は以前も以後も同じであり、
しかし、自分の今までの神理解が間違っていて、正しく神を理解した発見したという出来事・体験である。
だからこそ、ユダヤ教の正典が、そのままキリスト教の正典であり、キリスト教内で区別するために「旧約」聖書と呼ぶわけです。
イエスもパウロもユダヤ教徒だから、ユダヤ教の教会の中で「自分の理解した教え」を広める訳です。
後年、ユダヤ戦争でユダヤ教側が負けてから、神殿から追放され、正典のみで生きるようになって、戦争に負けた原因を追及して、
彼らが不純物と考え始めた「ユダヤ教ナザレ派」を追放し出した。
仕方なく、脱退して所謂「キリスト教」の道を歩むことになった。
イエスもパウロもユダヤ教徒です。
歴史的には、第三者的には、
イエスも預言者、パウロも預言者で、二人とも、各自が「独特の神の言葉」を預かっている。
その間には「水と油との関係」があるだけ。
「パウロの回心」というのは、ユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害していたパウロがキリスト教に回心したという話。
パウロが「ユダヤ教からパリサイ派に回心する」って何の話?
「いんちき」呼ばわりしておいて、しかも南さんまで巻き込むなんて恥ずかしいと思わないの?
違います。論議と呼べるようなものではなく、単なる日本語の読み書きの問題です。
例えば曹洞宗は仏教の一宗派ですから、「仏教から曹洞宗に回心する」という言い方はおかしい。同じ理屈で、ファリサイ派はユダヤ教内のグループなのですから、「ユダヤ教から回心しパリサイ家(派)となった」という表現はおかしい。
これが単なる書き方のミスなのか、知識の欠如なのかは定かではありませんが、イエスちゃんさんはそれを指摘した。それに返ってきた言葉が
「ファリサイ派(パリサイとも)、サドカイ、エッセネ派を御存じないことも驚きです。」
イエスちゃんさんの指摘が理解できなかったのか、わざと理解しないふりをしたのかは定かではありません。
さらに、イエス・キリストやお釈迦様に関して伝わる逸話が史実ではなく創作かもしれないという話を、今回の記事で語られている「実体を錯覚する」という話と結びつけた。つまり、歴史上実在したとされる人物に関して「逸話を創作する」という話と「実体を錯覚する」という話を同レベルで捉えている。
私にはなぜイエスちゃんさんが、これらのコメントにまともに反応しているのかが理解できない。
俗化的に言うと、認知行動療法といいますか。
ただ、あらゆることを、根拠がない、意味がない、わからない、など否定性を抱えると、立ち尽くすしかありませんが、そこから、主体を持って歩み出さなければ、「自己」が開始されないとも思うんです。
それが苦しいから、誰でもいいから排除したい、殺したい、になると思うんです(自己不在)。
やはり、私たちは知識不足でしかありませんね。重箱の隅論議程度なのかなぁ~??
旧約聖書のエズラ記かネヘミヤ記辺りを見過ごされたのでしょうか
また、ファリサイ派(パリサイとも)、サドカイ、エッセネ派を御存じないことも驚きです。
パウロに関しては「使徒行伝」など参考にして下い
本当にキリスト教を学んできたのですか。
議論の本筋は、今回のブログで
『言語作用によって何ものかを実体視すること(無明)の錯誤が発見されるわけです。
すなわち、仏教における様々な禅定の核心的意味は、まさに禅定が無明を自覚させる最重要の方法だということであると、私は思います。』 と結ばれている。
ここが、理解出来ているなら、「つくりごと」と言う意味に気づくと
初期キリスト教の「具体的な歴史的流れ」に無知!
それでいて、自信満々で、キリスト教について「自説を主張する」。
自分の頭で考えなければならないと。
『「ユダヤ教」から「回心しパリサイ家(派)となった」
パウロが「編纂編集した」
と「言っても良いキリスト教」は
「神の子であるイエス・キリストの教え」を守ることこそが「神への道である」とした。』
・ユダヤ教の中に、パリサイ派やサドカイ派などがあります。
・パウロが編纂編集した?具体的には「何と何とを」編纂編集したの?
・パウロが「どこで」神の子と言っているの?
・パウロは「イエスキリストの教え」として、「どんな内容」を言っているの?
回答して下さい。出鱈目ですから。
道元の思考形態も同じように感じる。
さて、あなたは仏教と非仏教と種々宗派を捉え糾弾されている。
ご承知のように、ユダヤ教の教義や思想の中心であった
ハンモン家が分裂しエッセネ家、サドカイ家、パリサイ家となり
イエスはエッセネ家(派)に属していたと「死海文書」には記されれいるとも
ユダヤ教から回心しパリサイ家(派)となったパウロが
編纂編集したと言っても良いキリスト教は
神の子であるイエス・キリストの教えを守ることこそが神への道であるとした。
また神学でも、神の子であるイエスの親は誰かということも争点となっていた事も指摘しておく
超越者「神」を絶対化したがゆえに、悪を同じロジックでつくられた
「つくりごと」ということ。
今回のブログにある
『言語作用によって何ものかを実体視すること(無明)の錯誤が発見されるわけです。
すなわち、仏教における様々な禅定の核心的意味は、まさに禅定が無明を自覚させる最重要の方法だということであると、私は思います。』 と結ばれています。
あなたは超越と実存、仏教と非仏教の言わんとする核心部分の理解ができず
謎解きのような文献学的解釈ばかりを行い、真に思索していないのではない
感想文や思いで話を綴る方のように見受ける。
無明と不平を言わない。
けど
あれ、
悟りは求めちゃいけないんでしょ?
どっちだろ
母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中に、カピラヴァストゥ郊外のルンビ二で子を産んだ。
この子の誕生に関して
「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、
「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説がある。』
なお、地中海周辺世界では、「偉い人は処女降誕する」ことになっていて、
ローマ皇帝は処女降誕だった。
だから、キリスト教がローマ帝国で広まるにつれて、イエスも「当然」処女降誕になったのでしょうね。
そんなもん。
イエス運動をきっかけに、「いろんな地域で、同時発生的に」「多種多様な宗教」となり成長した。
西暦200年頃に、つまり、イエスの死後170年も経ってから、異端を排除するために、「新約聖書」の範囲を、200年間もの長期会議で決定した。
だから、個々の書物の信仰は異なっています。
イエスが殺されて20年後頃、西暦50年頃に執筆された「マルコ福音書」には、
『処女から生まれ、
死から甦ったイエスの事蹟』
は、一切記述されていない。
当時の壮年である30歳頃に洗礼を受けた時点から、34歳頃殺されて墓に収められたが、墓が空っぽになっている時点までで記述は終わっている。
そして、イエスが宣教を始めたガリラヤ湖畔で再び会えると伝言するだけ。
つまり、これは、マルコ福音書の「最初のページに戻ってガリラヤ湖畔の記述を読み直せばイエスに会える」という事である。
つまり、処女降誕も、復活していろいろな行動をしたという事績のお話は不要であるということ。
重要なことは、これでもれっきとしたキリスト教であるということである。
「使徒パウロの宗教」と「マルコの宗教」は、異なっているのです。
水と油のようなものであり、矛盾しているのです。
それでも仲間とみなす、それが「新約聖書」なのです。だから調整に200年間もかかった。西暦400年頃にようやく固まる。
使徒パウロには「歴史上のイエスの教えもイエスの生き方も」不要なのです。
「十字架刑で殺されたという人物」が存在するだけでいいのです。どのように生き抜いたのかには一切関心がない。
これもキリスト教なのです。
面白いインチキだね
処女から生まれ、死から甦ったイエスの事蹟が信ぜられたこと。』
これまでの歴史上の最高最大の「いんちき」は…
こんな認識では、宗教を語る資格はないと言う事です。
貴方の言葉に、その深層心理が、本音が現れているのです。
日本のお寺では、灌仏会(かんぶつえ)、釈迦の誕生を祝う仏教行事を4月8日に行います。
『処女から生まれ』
・・・仏教では、釈尊は、母親の脇の下から生まれた
『死から甦ったイエス』
・・・仏教では、釈尊は、生まれて直ぐに歩き出し、天と地とを指さして「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。
しかし、誰もそれを、
『これまでの歴史上の最高最大の「いんちき」』
とは言わない。
問題にしているのは、「おかしな哲学至上主義の妄信」にはまって、「宗教」というものを全然解っていないという事です。
それなのに、「宗教」に発言している。
2,400年前に死んだとなれば、釈迦とそう遠くない時代ですかね。
ソクラテスも著作は残しておらず、プラトンの著作でしか知ることができません。
ソクラテスは、国の認める神を認めないという「不敬神」の罪と、若者を墜落させるという罪で告発され、死刑判決を下されてしまいました。
魂をすぐれたものにする
知らないことを自覚する
「ソクラテスの弁明」プラトンより
何故そう思うのか。
雑草には、認識も言語も自意識もないから?
「青いケツか?」
「声は聞きましたか」
「声変わりか?」
「あなたは眠っていたのですか?」
「パッチリ起きてたわい」
「では、意識をもって(覚めて)おられたのですか?」
「Exactly!」
その日、
百歳になる御婆さんは、英語の勉強を熱心にされていたのです。
何も見えず聞こえる筈も無いでしょう。
例えばエピソードが、北海道と沖縄ほど離れていた話、というオチもあるかもしれません。
「外界現象」と区別しないで捉えてみては如何でしょうね。例えば、私はリンゴの立場とすると、言われている外界現象のことなど、見えも聞こえもしない、というような。通常認識している「言葉の外」という事でしょうから、内も外もなく、いわば音の元というような、バラバラ状態なのかもしれませんね。
私が経験したことではないので、今回の記事の説明から想像するしかないのですが
“何を「見た」か・何を「聞いた」か一切判断せずに、ただ「見えている」「聞こえている」状態”
とありますから、「外界の出来事が認識されない」ということではないと思います。ただ「外界の出来事」と判断するには至らないのでしょう。
この記事が語っているのは、自意識の在り方であり、なぜ我々が「物体が客観的に存在する」などということを疑うことなく言うようになったか、ということだと思います。
『心ここにあらざれば、見ると言えども見えず、聞くと言えども聞こえず』という現象は我々の日常茶飯事にしょっちゅう起きる事で在って、
ある物体が(客観的に)実存していても、それが見えるかどうかは其の人(の心)次第と言っているだけの話で、
その物体が実体なのかどうかとは全く無関係の命題である‥という事になりますね。
禅定・坐禅と言う脳の知覚レベルの非定常的有為(人為)的操作によって、
外界の出来事が認識されないという現象が坐禅者に起こったが故に
『外界現象の実体性』が無い事が証明されたと論理付けた(様に見える)という事でしょうか(=唯識論的思考)。
そばに居て、座禅していない人は
その外界現象を目撃しているから、坐禅者の脳内意識との差が比較出来る訳でしょうから、
それは実体論とは全く無関係の脳の仕組みの命題を無理にこじつけたように私には思えるのですが、
どなたか南理論を補足説明して下さると有難いです。
① 処女から生まれたこと
② 死から甦ったこと
更に「仏教」と「非仏教」、「超越」と「実存」とも関連して
証明を論理的に お願いいたします。
>> 『これまでの歴史上の最高最大の「いんちき」は
処女から生まれ、死から甦ったイエスの事蹟が信ぜられたこと。
存在の認識、ではなく
そこに「ない」ものを「つくって」しまう領域が
まだ、意識の暗部に
この「つくって」しまうことを、
「創造」といえば立派だし、
「つくりごと」といえばつまらぬことで
「信ずる」ことは、そのニ義性を持っている。』>> というのが私のコメントの一部です。
そのまた一部を切り取ってのイエスちゃんからのコメントになっています。
そして神から預かった言葉を発する。
アーモンドの花が咲いているのを啓示とした旧約聖書の預言者もいた。
使徒パウロは、「キリストの幻の顕現」を啓示として受け取った。
更に「木に吊るされる者は呪われる」という旧約聖書の教えを基盤に、十字架に架けられ上げられたキリストを深く考察した。
そして、キリスト教をローマ帝国に広く伝道した。
なお、キリストとは「頭に油を注がれて聖別された者」を言い、イエスよりも前に複数の人物が既にいる。
「貧相な発想」つまり
「発想が貧相だから、理解不能となる」
「使徒パウロの信仰」は、
神が十字架刑で殺されたナザレのイエスをキリストとして復活させ、パウロに幻として顕現させた、という実際の体験を基盤にしている。
「いんちき」というのは「人を騙す意図があって」成立するものである。
しかし、パウロは事実キリストの幻を見たのである。
これは真正の手紙に記述している。
パウロは「いんちき」しようとしていない。
これは、新約聖書の「パウロの手紙」を読めば直ぐに分かることである。
そもそも「西洋哲学」をうんぬん言う人物が、西洋の精神のバックボーンの「新約聖書」も読んでいないなんて、いんちき臭い。
ーニーチェとの対話 西尾幹二ー
ー ショーペンハウアー ー
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000005.000024799.html%3Fusqp%3Dmq331AQJCAEoAVgBgAEB
オンライン寺で住職とは、画期的ですね。
http://fujitaissho.info/archives/1616
リアル坐禅て、、
https://blogs.yahoo.co.jp/cyqnh957/57293368.html?__ysp=44Kr44O844Op44O844Oe44K544OD44K%2F
ジッドゥ・クリシュナムルティ ○
訳 藤田一照
「アナーパーナサティ・スッタ」
(中部経典第118)
全身での呼吸の気づき
錨としての呼吸
選択のない気づき
最初の瞑想の師は
ジッドゥ・クラシュナムルティ
https://gallu.hatenadiary.jp/entry/20180701/p1
盲信することなかれ。
<「老病死」を除けば>という都合よく出来ていないのが、この世界の有り様ですから、「楽しい」などと言ってる限り、この世の無明は終わらない。
「仏法と坐禅」の関係性のようですね。
昨日と今日では錯覚に気付き辛いが、10歳の私と、20歳の私、30歳の私として見ると、その違いは明らかで、錯覚を認識しやすくはありますかね。
>1人でいれば、いるほど、肥大化する自意識。
自分としては、1人でいる時より、大勢といる時の方が自意識は高くなるようです。人混みが疲れる所以でもあるでしょうか。
>「自分が自分でない」と思っている自分はだれなんだ。自分が自分と思っている自分は2人いるのか。
これは、自我や無我、真我というものが入り乱れた状態でしょうかね。
とりあえず、死ぬまでの課題としておきます。
ー無の思想 森三樹三郎 ー
1人でいれば、いるほど、肥大化する自意識。「自分が自分でない」と思っている自分はだれなんだ。自分が自分と思っている自分は2人いるのか。
ここらへんが、腑に落ちない
神学の話をしてるのか、哲学の話をしてるのか
仮にイエスちゃんに対する反論であるとしても哲学風を装った言葉並びたてて煙に巻いて反論にすらなってないよ
ないでしょ
そんなこともわかんないの?
中間の状態とは、キリスト教終末論において人間の死後、イエス・キリストが再臨され、体が復活して最後の審判を受ける日まで、人間がおかれる状態のことを言う。 「ウィキペディア」にあるように、たぶんイエスちゃんへ向けたコメントじゃないの?
きっと「馬鹿は相手にしない」なんて思ってるんだろうが、イエスマンは受け入れるが批判は聞かない答えないなんて個人の見解として表現する意味ないよね。それが見解として主張されるのは公共的に吟味されるためだからね。それすら分からないで「馬鹿は相手にしない」なんて思ってるんだとしたらもうどうしようもないよ
客体を志向しながら、しかも同時に、
その意識が、背後から規定されているというその背面をいう。
何によって規定されているのか、意識にとってそれは明確には判らない
ただ、その都度、その都度、背後から規定せられていると意識は感ずる
規定しているものは何か「形而上学」は、このような事態から発する。
私たちが、何ゆえに、この世に、生まれ、生き、何のために在るのか・・・
この様な、問いと共に開けてくるのは、Bedeutung「意味」の世界である。
「意味」は現実に存在するものではない。
「意味」は現実を指し示すが、現実でないものをも指し示す。
「イデア」、「ロゴス」、「神」などは古来、形而上学が熱心に携わったが
これらは、意味的存在であって、感性的な生成消滅の世界における存在を越えている。
感性的な存在をDasein「現実存在」というならば、
これらの意味的存在は " ideell " に「存立」 bestehen している。
数の存在や、幾何学の対象である図形のように、存立しているものである。
いわば意味は「あるべき」世界を画く。
私たちの日常の行動は、価値組織系の中で、営まれている。
どの価値が最も希求するに価する根源的な価値であって
どの価値が従属的な二次的な価値であると見なされるかによって
価値秩序の組織系 " システム " が、きめられてくる。
②「この自分の不変、死なない、不死」を求めるようになる。
私には、①から②に行くのは論理の飛躍がある様に思えます。
例えば、無期懲役を言い渡され服役している受刑者がいるとします。この人は、自分は刑務所の中で残りの人生を過ごすと思っている。ところがある日、この人が恩赦で釈放されることになったら、彼はどう思うでしょうか。中にはずっと刑務所にいたいと思う人もいるかもしれませんが、普通は「ああ、良かった」と思うでしょう。
仏教的には「生きるのは苦しみである」というのは、誰も異論を挟まない観察でしょう。「死」というのは何であるか解らないにせよ、とりあえず「生」が終わるのは確か。つまりは、「死」は苦しみからの解放である。ならば、「ずっとムショ暮らしが続く」と錯覚した受刑者が釈放を喜ぶように、「ずっと死なない」と錯覚した人が死を喜ばないのはなぜなのでしょうか。「生きる」という苦役から解放されることをなぜ歓迎しないのでしょうか。「苦役がずっと続く」という錯覚が裏切られることが、なぜそんなに恨めしいのでしょう。
①から②に続く議論を維持するには、「老病死」を除けば、生きるのは楽しい、少なくとも苦ではない、と主張しなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。
処女から生まれ、死から甦ったイエスの事蹟が信ぜられたこと。』
(釈・一行、1926年10月11日 - )は、
ベトナム出身の禅僧。
ベトナムは大乗仏教の国であり、具体的には、臨済正宗である。
20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者であり、「行動する仏教」または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもある。アメリカとフランスを中心に、
仏教及び「マインドフルネス」「気づきの瞑想」の普及活動を行なっている。
「あるがままに一つ一つ気づき、そのまま流していく」
「完全なる受動態」に置きます。
古来からの「念」を持続していく「修行方法」です。
極端な場合「怒りが込み上がってきたら、今怒りが込み上がってきていると気づく」のです。
すると「その怒り」は静まっていく。
サマタ(精神の集中)とは、別の修行方法です。
この「同じ」もの、から「不変」が導出されてくる。
眼から感知した膨大な動的情報から、「様々なもの」を切り出して、「名色」名前を付けて区別する。
壁の後ろで一瞬隠れた「犬」も、さっき見えていた「同じ犬」と判断する。
「ない」という概念も、
「リンゴを食べる前」と「リンゴを食べた後」とを、比較して、同じでないから、
「リンゴがない」と言語表現する。
二つを比較して「同じだ」「同じでない」の判断は、「脳のどういう機構」が行っているのか?
「昨日の自分」が一晩寝て、「今日の自分」と「同じものだ」と実感するから、
「この自分の不変、死なない、不死」を求めるようになる。
ここに「死苦」が起こるメカニズムがある。と思う。
「釈尊の仏教」は「科学」とは矛盾しない。
しかし、見えたものを追ってはいけません。
見えるがままに放置する。
完全な受動態にします。
だから「半眼」とし、手前に視線を落とします。
臨済宗では、対面で座るので、視野の隅に「単」の向こうの相手が見えています。
警策を受けるのも見えています。
他方、「瞑想」では、普通、眼を閉じます。
外部を「見ない」、外部を「聞かない」、内部だけに精神を集中する。
身体を導いて、「三昧」「サマタ」状態にする。
『これはすなわち、何を「見た」か・何を「聞いた」か一切判断せずに、
・・・ただ「見えている」「聞こえている」状態、すなわち
「感覚機能を完全な受動態に設定した」ということです。それはつまり、
・・・「言語の作用をギリギリにまで低減した」わけです。
すると、「私は○○を見た・聞いた」という
「認識の〈自己―対象〉二元構造が崩れ」、「自意識は溶解して」いきます。』
もし関心がありますなら
②http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-524.htm
③http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-525.htm
④http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-526.htm
⑤http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-527.htm
⑥http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-528.htm
⑦http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-529.htm
⑧http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-530.htm
⑨http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-531.htm
⑩http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-532.htm
⑪http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-533.htm
⑫http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-534.htm
あの解説は、なかなか読み応えありましたよね。
駒沢大名誉教授、田上師の説明で曰く、
釈迦の出家の動機とは「何かしら善なるモノを求めて出家した(と書かれている)」というのに共感しました。
「生老病死」の苦しみを克服する(=無くす)ためというのは
後の人が創った言説だったというのが、私にとっては実に納得のいく解釈法だと思えます、イエスちゃんには申し訳ないですけど・・・
思い出すことさえ出来ないわけです。
何を経験したというのでしょうか。
よく赤ちゃんを引き合いに出す人いるけど、ただ言葉を知らないだけで、何を言ってるのか理解できない状態なだけでしょう?
狼に育てられた赤ちゃんがいたという話がありましたが、言葉を知らずに、そのまま大きくなっても、本人としては狼の仲間という意識なだけでしょうね。
赤ちゃんの経験というのを、言葉を知らないまま思い出したところで、だから何だという事態なだけではないですかね。
だから赤ちゃんの状態を引き合いに出すのは、気に入りませんね。
第一義を得らざれば即ち涅槃を得ず
思い出すことさえ出来ないわけです。
ならば、赤ちゃんは皆、禅定中ということでしょうか。
父母未生以前の自己として、赤ちゃんは該当すると思うわけです。
「うゃ~ん、うぎゃ~ん」
というギャン泣き音
目覚まし時計の
「ジリリン、ジジジジリ~ン」音
寝たきり爺ちゃんの
「お~い、うぉ~い」音
聞こえない人を知っています。
要らんこと考えでよい、というツッコミも不要。
無我が気づいてくれるのでしょうか?
これって、思量に非ずという状態なのでしょうか。
そもそも、気づきって何なのでしょう?
思い量ってはならないのに、気づくとは?
気づいている時、思い量ってはいないのでしょうか。
http://antaiji.org/ja/category/blog/
「三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、(弁道話)」
身体は、坐禅の姿勢。口は、黙って何も喋らない。心は、坐禅で言えば非思量、手放しの姿勢で、今あることにただ気づいている。
(引用終わり)
やはり気づきの瞑想、ビパッサナー瞑想との類似性を感じます。>
このような記事を見かけましたが、ビパッサナー瞑想と似ているのでしょうか。
教えて下さい。
流動=成の運動 この論理教えてよ榮久さん、ZIPさん、尻馬さん
自分で考えるんでしょ?自分の意見コメントできるんでしょ?
まさかいきなり成の運動があるとかいわないよね
ヘーゲルの論理学において無と有とがその根源にあるよね。では、無と有からどのようにして成という運動が止揚されるのか。その論理を教えてくれないか?当然わかるよね。榮久さんもZIPさんも尻馬さんも頭いいから
龍樹の中観仏教を中国にもたらしたのは、訳経者として著名な鳩摩羅什(350-409頃)です。この系統から三論宗が成立しました。
この鳩摩羅什は、『坐禅三昧経』『阿弥陀経』『大品般若経』『法華経』『維摩経』『大智度論』『中論』などを訳している名訳者です。ただ、その訳経には般若経典に関わりのない『法華経』にすら中観派の思想が混入しているという指摘もあります。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/16/050000
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/03/01/050000
空を哲学にしたのは中国、という説もあるようです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7764141.html
S長老が、どこかのサイトで、龍樹のことをそのような書かれていたのを見かけた事があります。
詳しくは直接、お問い合わせしてみては如何でしょうか。
それを無明とも言うのだろう。
所詮、つまらぬもの。
龍樹本人が
「仏教を哲学にしたのは間違いだった」
と言われていたそうですが
その点について、どうお考えでしょうか。
「自分で考える」という言葉の意味に気がつきにくいのだろうか。
インドの思索者やギリシャの哲人たちは
一冊の書物ももたないで、つまり自分の意識だけで
生と死と宇宙を考えぬいた。
書物なんかにはおよそ縁のない田舎のお婆さんの方が
確実に存在論をしていることがある。
生死に敏感だからであろう。
「何故」という言葉を人間がその辞書にもってしまった限り
それはもう引き受けなければならない、さだめなのだろう。
物理学は、重力なしにはなりたち得ないのだが
ニュートン以来物質には引力があると決まったものの
「何故あるか」という問いには答えられない。
これまでの歴史上の最高最大の「いんちき」は
処女から生まれ、死から甦ったイエスの事蹟が信ぜられたこと。
存在の認識、ではなく
そこに「ない」ものを「つくって」しまう領域が
まだ、意識の暗部に
この「つくって」しまうことを、
「創造」といえば立派だし、
「つくりごと」といえばつまらぬことで
「信ずる」ことは、そのニ義性を持っている。
自力では当然不可能というわけです。
https://www.youtube.com/watch?v=EvFDGJw1fMY
私たちの意識にはある。
「考え」は誰のものでもない
ちょうど数式や文法がそうであるように。
非人称の「考え」が、まぎれもない固有名を纏うに至るのは
彼が、ひとつの明らかな文体[スタイル]を所有したそのときで
哲学と文学とが
非人称と人称とが、渾然と交差する地点に
哲学もまた、その発生状態においては
生身に悩ましく感受されるものだということを
ゴルギアスの相念に
私は考える。誰々は考える。
宇宙について、その始まりについて終わりについて、
神について。
考えられている対象は、私によって考えられているのだから、
それらは全て私であるか、あるいは誰のものでもない「考え」である。
証明終わり。
「シンボル・概念」が形成され、
同時に、「それの操作」が形成され、
それの空回りが、
『私が無限を考えているのか
無限が私を考えているのか
私が存在と言ったから存在したのか
ないものは認識できないのに
何故「無」という言葉があるのか。』
「言語」と「自意識」と、両方が「溶解」する。
逆に「坐禅」から抜け出すと、「言語」と「自意識」と、両方が再び「構築」される、「出現」する。
(だから「言語」と「自意識」とは、科学の探求の対象となる)
「言語」も「自意識」も、生物進化で初めて発生した。
それも、つい最近である「200万年の間」で。それも「ホモサピエンス」にだけ。
頭脳での外部情報処理は「並列処理」であり、それを統合する必要性から、
次第に「思考」「言語」「自我意識」が生まれてきた。
「釈尊の仏教」は「不可解な神話を信じる」必要なしで、
「自己の消滅、死苦」を解決する。
「涅槃寂静」に導く。
『この「言語」と「自意識」と「身体行為」の
「致命的な相関性」が、禅定において体験的に実証されるとき、
「言語作用によって何ものかを実体視すること(無明)」の「錯誤が発見される」わけです。
すなわち、仏教における様々な禅定の核心的意味は、まさに
「禅定が無明を自覚させる最重要の方法だ」ということである』
「言葉の罠」に存在をおとしこむのは
無限とか零とかいう言葉をつくりだしたからであろう。
その感覚にそう名付けた瞬間の発語の必然性とは
私が無限を考えているのか
無限が私を考えているのか
私が存在と言ったから存在したのか
ないものは認識できないのに
何故「無」という言葉があるのか。
「迷妄の領域」に最初にある宗教は
言葉の罠をうまく利用したけど
哲学は、困惑し、混乱し
いま「迷妄の領域」にある
禅的な思考が
よほどの工夫をしなければ
信仰に傾き宗派に拡がるようだ
生まれてくるということは、なにがしかの歴史的な言語体系の中に生まれてくるということに他ならないわけですから、当然自力で考えることは不可能なわけです。
分かる人には分かるし分からない人には分からない
つまり自分の思考力範囲でしか理解できないし
最近、自力で考えようとする人が少ないなと感じています。
読書感想文のようなコメント
引用文が文面の大半で自分の意見などないようなコメント
URLの紹介だけが自分の意見なのか情報交換なのか
日毎に、このブログコメンターの幼稚化傾向にあるようです。
残念なことです。
よろしく、zipさん!!
何もない事、考えることのできない事、として
無を考えることができるわけです。
無は有に対して従属的なものとしてあるわけです
「欲しいと思えるものが欲しい」
これは、不足の充実であり、充実の不足です。
貴方はまだ、榮久さんには及ばないというわけです。
不足は無の充実ってどういうことですか?
無は無でしょ
無の充実とは矛盾だよ
仮に無が幾ら充実しようが無だよ
無は思考すらできないから無なの
対象になりえないから無なの
デタラメなこといわんでくださいよ
それは何かにひたすら没頭している時です。その時、意識対象−意識内容−意識作用といった分離がない。
しかし、私たちはその状態を一時的なものとしてしか認識しない。
眠っているのではない、覚醒している。という「確認」は、その状態が一時的なものか、恒常的なものかという違いの単なる区別の「確認」ではないでしょうか。
読書感想文や紹介文に反論や批判などは無意味のようにも、コメントとは少し違うようにも思えるからです。小学生の作文に添削するのは先生ですが、ご老人には無駄なようです。独善的で固まった思考パターンから脱け出すのは無理なのです。
ご自分の意見ではない感想文ではね😵⤵
断じて行えば鬼神もこれを避く。
今こそ行に挺身すべき秋(とき)ですぞ。
例えば、坐禅をして、無明であり、錯覚であることを見破り、自分の道具に化すのは、なかなか珍しいと思うんですよね(必要性があるからだと思いますが)。
そして、一時的な相対化でも、相対化できた事実が残ってることが意味があると。
南さんも自意識が過剰なことは確かですよね笑。年齢を重ねても減少はしなかったんですよね。
僕は、南流を踏襲してきましたが、あまり教えを意識に刻むことは減りました(身についたのかな)。
皇室の方が、政府より世間の実状に敏感とは、なんと嘆かわしい事か。
道元和尚は、「坐禅」状態から「ゆっくり」と「戻れ」と教えている。
これは、坐禅によって、徐々に「自己」が「溶解」し、消滅していく。
そして、逆に、
「坐禅から、「徐々に」出ると、再び「自己」が徐々に構築されていく。
自己の徐々の溶解と消滅と、逆に、
自己の徐々の再構築の体験を繰り返し、
「自己」が「構築された、形成されたもの」であり、
そこには、概念・思考・言語の作用が大きく働いている、
それに気が付くようになる。
だからこそ、「坐禅から徐々に出よ」とわざわざ教えている。と思う。
釈尊は以下でお教えになる。
十二因縁:
無明、行、「識」、「名色」、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
「常・楽・我・浄」
「常」永久に存在し続ける、
諸行無常なのだから、ありえないことである。
「言葉の世界」だから、情報・記号・シンボルは「不変」である。
同様に、
「正三角形」は、現実には存在しない。
「言葉・シンボル・数学」の世界においてだけ仮設されるのみ。
言語機能が停止し、
「自意識が溶解していく」のですから、
これを裏返せば、
「実体を錯覚させるような自意識の在り方」も
「それ相応の身体的行為(代表的なのは競争と取引)に規定されている」ということです。』
要は、人間は、単細胞生物から進化したものです。
単細胞生物の「アメーバ」は、「食物を感知し」、そちらに向かって進み、その食物を飲み込み、体内に取り込み、それを体内で分解して、生き続ける。
この「食物を感知」が、「外界の認識」です。
それの進化の最先端が「頭脳の働き」として、「頭脳を用いて」、外界を認識することです。
この過程で「言語認識機能・機構」が形成されています。
ここで、大問題が起こります。
「言語認識機能」と「リアリティを感じる機能」とが、架空の世界「言語・空間」「言語・意味・空間」を生成し、それを「実体」と、「自性」「精神」「魂」「自己」が実在と、錯覚し始めたのです。
ここから「自己の消滅への恐怖・苦悩」が生じてきました。
釈尊の仏教は、この「脳の言語機能」による「自己を実体視する」を、錯覚だと示し、「死苦」から解放した。
言語に騙されている。
大脳皮質の機能を低下させ、実質、停止させて、「古代からの脳部分」だけで生きている状態に持っていく。
(小脳や間脳や延髄や…)
これが「坐禅」「禅定」です。
すると「自己認識機能」が不活性になり、働き・現象である「自意識」も現れなくなる、つまり「溶解」する。
要は、言語に騙されてはなりません。
所謂、小乗仏教の「涅槃経」と、
大乗仏教の「涅槃経」です。
この内、大乗仏教の「涅槃経」は、「非仏教」に後退した「まったくのフィクション・物語」です。
如来は「常・楽・我・浄」であり、
まっすぐに密教と成り果てる教えです。
だからこそ、道元和尚は、この大乗「涅槃経」の教えを批判して『正法眼蔵』の「仏性」の巻でその理由を懇切丁寧に説明しています。
(日本天台本覚思想、日本達磨宗への批判になります)
大乗「涅槃経」は、「非仏教」です。
当然、南師の分類からも「非仏教」です。
どちらも同じことである。
不足は無の充実で、
充実は無の不足であると、見ることができる。
「何故」と問うのは、
思索の無限大性を示す一種回答不可能な究極語であり
「如何に」と問えば、
その過程はやがて答えられるであろう。
「何故」と問えば、
無限大に答えがでてきて、しかも答えきれない。
そうすると、「何故」と問うてはいけないことになるが
しかし「何故」をぬかしてしまえば、
思索は思索であるという機能を失い
緑の木のない砂漠になるのだろう
それは、テクニカルタームの外で思索することなのであろうか
二、人の善行を全うさせたい。人の善い行いというものをしていたならば、それを全うさせてあげたい。悪いことをしているものには善いことをさせるようにしてあげたい。
三、ブッダと同じ悟りを得させたい。私だけではない。みんなも私と同じような悟りを得させたい。
四、ブッダの瑞相(ずいそう)を見せたい。つまり「ブッダって何ですか?」といった時に、どんなものかわからない。だけどもそれを見せて貰うと、ああいう姿に自分もなりたいという、そういう気持を起こさせたい。
五、怠惰な弟子を励ましたい。怠けている弟子たちがもしいたとすれば、もっとそれを怠けずにやりなさい、と言って、励ますように、私はいるんだよ、生きているんだよ、ということが、生きているという瞑想の中でいるブッダの願いであるんですね。
<仏の法身は不可思議である。色もなく、形もなく、比べられるものがない。しかし衆生のために種々の形を現し、衆生の心に応じて姿を見せる。
(中略)あるいは一本の毛穴から仏の化身が雲のようにわきでて、十方世界に充満し、計り知れない方便の力によって衆生を導いている。>
「華厳経」毘盧舎那品(びるしゃなぼん)
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-523.htm
この番組、動画でアップされてるでしょうかね。
私の身体は無量千万年の年月を超えている存在である。堅固で破壊することがない。人間界や神々の世界の身体ではない。おそれを知らない身体である。雑食する身体ではない。
私の身体はいわゆる身体とはいえない身体である。生ずるでもなく、滅するでもない身体である。何かを積み重ねたり、学習して出来上がった身体ではない。無量無辺の身体である。
よく知っておくべきである。私の身体はどんなことにも侵(おか)されることがないダイヤモンドのような堅固な身体である。このことをいつも心にかけて考えなくてはならない。普通の飲食する身体と考えてはならない。人々には私の身体は教えの集まり(法身)と説明しなくてはならない。
サラ樹林にはつねに花が咲き乱れ、果実がたわわに実り、多くの人々に恩恵を与えている。そのようにいつも未熟な修行者に私は教えを与えつづけている。ここでいう花とは私のことで、果実とは安楽のことである。このようにして私はサラ樹林で深奥(しんおう)な三昧(さんまい)に入る。深奥な三昧とは大いなる涅槃である。
如来そのものは満月のようだと考えたまえ。すなわち教えの集まりであり、誕生することがない身であり、衆生を教化するための方便のみである、と。
世間のあり方にしたがって現れ、計り知れない過去に積んだ善業の因縁を示して、いたるところに姿を現している。それはあの月がいたるところでさまざまな形に見られるように。
だから如来は常住不変である。>
「大般涅槃経」
如来を常住不変とするなら、無常にはなりませんが、ここは無記としないようですね。
此処の管理人さんは無愛想ですが、たま~に返答される事もあるようです。
あれやこれや、皆さんからの返答もあるかもしれませんが、「基本的には」皆さん親切なので、イジメたり拒絶するような事はなさいませんから。
たぶん。
確かにその通りですね
ありがとうございます
読んでみたいと思います
ホントウか?
https://www.jataka.info/entry/2017/07/06/215827
今回のエピソードは、「第17節 サーラ樹の林へ」の部分ですね。
www.zen-essay.com/entry/dai-parinibbana-kyou
涅槃に関しても諸説ありますが、鵜呑みにせず、耳をかさない事もせず、という態度が望ましいようです。
涅槃(生きている間の涅槃、悟り、滅尽定)
大般涅槃(究極の涅槃、完全な涅槃、無余涅槃)
というのが基本的な涅槃に関する理解で宜しいのでしょうか?最近仏教に興味を持った素人でして…
大般涅槃(究極の涅槃、完全な涅槃、無余涅槃)
大般涅槃(究極の涅槃、完全な涅槃、無余涅槃)
錯覚だった。
現実という形式が在ることが不思議なのだ。
夢も現実も、さほど変わりはないのでは?
どちらも無常には変わりないみたいだし。
ん?
夢には、「嘘と交換」や「競争と取引」が無いんだっけ?
禅定は、夢や現実の外だっけ?
人によるもんねーだ
フンッ( ̄^ ̄)
覚えるというより、考察する為の「材料」は、誰しも必要じゃん?
自分の無明な頭だけじゃ、限界もあるじゃん?
それって何?みたいなところから、考えてもエエじゃん。
https://moon.ap.teacup.com/26660606/55.html
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/pao.hamazo.tv/a5605633.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
https://blog.goo.ne.jp/rinoshiyoshihakata463/e/76f522ef41f0fe72c8c5e3fe7ced5b28
http://way-to-buddha.blogspot.com/2011/06/blog-post_03.html?m=1
www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html
誤操作といっても、「嘘と交換」が今回の記事と関係しているならば、考察する上で参考にしたいところでもありますので。
故に苦しい?
実体視まみれの我々に、無明を知らしめてくれるのが、禅定という事なのでしょうか。
夢という形式が在ることが不思議なのだ。
夢の登場人物たちは「こちら」の意志から
独立して得手勝手に動きまわる。
しかし「彼ら」の織り出す法外な物語は
その都度「こちら」にはそれとして
常に了解されている、それはなぜなのか。
こころみに醒めたまま夢を見てみよ
これはとても難しい
ときに、意志の崖縁にしがみついていようとする
最後の努力を放棄して
深い眠りの谷底へ墜ちて行く寸前に
その逆転の構図というべきものを
垣間見ることができるのであろうか
(;´Д⊂)
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-782.html?sp
https://m.facebook.com/thaimeisou/photos/a.593266047405181/666425600089225/?type=3
在家者には何のことかわかりませんが、御説明ありがとうございます。
とにかく、禅定なくして「無明」も語れまい、という事なのでしょうね。