仏教で「無常」あるいは「無我」というとき、私が考えることは、
「この世ははかないなあ」などという詠嘆でも、
「一切のものは一瞬もとどまることなく、移り変わっていく」という諦念でも、
「あらゆるものには実体はなく、様々な要素の寄せ集めである」という見解でもありません。
私が考えていることは、そのような物言い、判断や考え方には、その正しさを無条件的に保証する根拠が欠けている、ということです。
つまり、私がいう無常とは、「すべては無常である」という判断も含めて、一切の判断それ自体に確実な根拠はなく、その反対の考え方、たとえば、
「無常と見える現象の背後には、それを成立させている普遍的で絶対的な何か、理念や法則が存在する」
という考え方を、頭から否定する理由はない、ということです。
ということは、事実上、私は、「無常」「無我」を、形而上学的な命題に対して判断を停止する「無記」のアイデアと同様に解釈していることになります。
すると、肯定であれ否定であれ、なんらかの判断を下すという行為は、事実認識の問題ではなく、信念の問題になります。確実な根拠がないにもかかわらず、一定の条件を仮設した上で判断を下し、それを「正しい」と信じることが、要するに我々の「認識」というわけなのです。
竜樹祖師(ナーガールジュナ)が有名な『中論』で行ったことは、私に言わせれば、この「無記」の考え方の徹底的な論理化だったと思います。 この本の中で、彼は別に「三世両重」の「小乗的」縁起説を「相依相関」の「大乗的」縁起説に改訂したかったわけではないでしょう。そんなことは、どこにも書いてありません。ましてや、「妻がいるから夫がいる」とか「世の中すべてお互い様」程度の世間話をしたかったのではありますまい。
『中論』において大規模に展開されているのは、とにもかくにも徹底的な言語批判を通じて、我々の持ちやすい「常に同じで変わらない何か」があるかのごとく思う錯覚を、排除することです。
この場合、何事であれ判断とは、要するに「何か(A)をそれ以外の何か(非A)から分ける」ことですから、Aの実存は、「非Aとの違い」という在り方において、非Aに根拠を持つことになります。そして、この「違い」として現象する関係性を、「縁起」と呼ぶわけです。
そうすると、「縁起を見ることが空を見ること」と言うなら、常に同一な「Aそれ自体」の存在を無条件に肯定する判断は間違いだと考えることが、「空」の実質的な意味であり、したがって、「空」は「無記」の論理的展開だと言えるだろうと、私は思います。
この考え方すれば、イスラム教圏のみならず、アメリカ空軍でも持ち出されていた「聖戦」論は、意図的に曲解するか、お目出度い誤解でもしないかぎり、何をどうごまかしても、仏教からは出て来ないはずです。
追記:9月の「仏教・私流」は9月15日(木)午後6時半からです。前記で曜日を間違えました。すみません。
なにか一歩進んだ気がします(これも錯覚かな)。
端から身も蓋もない脱構築的な認識。
スマッサラナー師の面構えなんかにはっきりと表れていますよね。
私流に考えますと飢餓や医療、そして戦争などに関する諸問題は、それ自体にあるのではなく解決を図るための第1課題は「お金の仕組み」にある。
住居を喪失すれば、住居を建設する技術や材料、土地はあるのだから、建設することでそれ自体は解決する。
社会は一部の権力者の欲望によって、実におめでたい仕組みで動きそれも知らず大多数は踊らされている。
揚げ足取りではありませんが、「お互い様」と言う言葉自体は、社会通念上は人間同士の関係性を指し示すものですがその言葉の根源には、分子も原子も生命も空間も互いに関係性を有していると言う自覚がなければ、それもまたおめでたいことでしょう。
難しく敷居が高く感じるのも「理屈」と思うからでしょうか...
たしかに理屈っぽいかもしれません。
ところで
>「無常と見える現象の背後には、それを成立させている普遍的で絶対的な何か、理念や法則が存在する」
という考え方を、頭から否定する理由はない、ということです。
私の今までの知識では「摂理」という言葉が浮かんでまいりました。
もちろん基盤は神学ですが、自然発生的に生まれ、
よく均衡が保たれているシステムを指しています。