数年前に倫理関係の本を出し、昨年は同様のテーマで講演もし、最近は雑誌の「倫理」特集でインタビューを受けました。
すると、知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。
そこで、年の瀬にもう一度、倫理についての私の考えを述べておこうと思います。
同じものだと考えられがちですが、倫理と道徳は別物だと、私は考えます。
道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。
当の共同体において、「人を殺してはいけない」「困っている人は助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」「正直であるべきだ」などという道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。
したがって、倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。
なぜなら、「自己」は「他者に課され」て始まるからです。我々の身体は「他者」に由来し、命名を通じて最初の社会的人格を一方的に与えられます。「自己」は「他者」に被曝することで始まるのです。
「自己」がそのように開始されると、次は「他者」による「躾け」や「教育」を通じて、共同体の道徳が浸透してきます。「自己」はもちろんそれを拒否できません。それどころか、浸透を通じて我々は「自己」に仕立てられるのです。我々の実存が「他者に課された自己」として構造化されていくわけです。
倫理が最初に起動するのは、この「他者に課された自己」という構造を自覚したときです。そして、自覚は「課す他者」を規定する共同体の弱体化や動揺に、多く由来します。それは現象的には、共同体の行為規範たる道徳の揺らぎを招きます。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いがあからさまに出現する所以です。
動揺は「他者に課された自己」という構造全体に波及し、それが実存する当事者に構造の自覚を促します。
したがって、道徳的であることは、社会的存在である人間すべてに強制されますが、倫理的であることはそうではありません。倫理的であることは、実存が危機に瀕した人間にとってのみ、テーマとなる(なることがある)のです。
かくして、「課された自己」全体の動揺は、あらためて「他者」に対して態度を決め直すことを要求します。
「自己」として実存する限り、「他者」を不可欠の条件とする構造からは逃れられません。ということは、この上さらに「生きる」とは、実存構造を自覚した上で、これを「引き受ける」と決意することなのです。倫理的な実存が立ち上がるのはこの局面です。
それは具体的には、「他者」への態度の転換として現実化します。「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。
その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。
宗教が入信に当たって戒律を課すのは、教義に基づいた行為規範(戒律)を入信志願者に改めて選択させることを通じて、新たな「自己」を課すためです。
「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。最終的に宗教を方法とするかどうかは別として。
今年も当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。皆様の新年のご多幸を心より祈念申し上げます。
すると、知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。
そこで、年の瀬にもう一度、倫理についての私の考えを述べておこうと思います。
同じものだと考えられがちですが、倫理と道徳は別物だと、私は考えます。
道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。
当の共同体において、「人を殺してはいけない」「困っている人は助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」「正直であるべきだ」などという道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。
したがって、倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。
なぜなら、「自己」は「他者に課され」て始まるからです。我々の身体は「他者」に由来し、命名を通じて最初の社会的人格を一方的に与えられます。「自己」は「他者」に被曝することで始まるのです。
「自己」がそのように開始されると、次は「他者」による「躾け」や「教育」を通じて、共同体の道徳が浸透してきます。「自己」はもちろんそれを拒否できません。それどころか、浸透を通じて我々は「自己」に仕立てられるのです。我々の実存が「他者に課された自己」として構造化されていくわけです。
倫理が最初に起動するのは、この「他者に課された自己」という構造を自覚したときです。そして、自覚は「課す他者」を規定する共同体の弱体化や動揺に、多く由来します。それは現象的には、共同体の行為規範たる道徳の揺らぎを招きます。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いがあからさまに出現する所以です。
動揺は「他者に課された自己」という構造全体に波及し、それが実存する当事者に構造の自覚を促します。
したがって、道徳的であることは、社会的存在である人間すべてに強制されますが、倫理的であることはそうではありません。倫理的であることは、実存が危機に瀕した人間にとってのみ、テーマとなる(なることがある)のです。
かくして、「課された自己」全体の動揺は、あらためて「他者」に対して態度を決め直すことを要求します。
「自己」として実存する限り、「他者」を不可欠の条件とする構造からは逃れられません。ということは、この上さらに「生きる」とは、実存構造を自覚した上で、これを「引き受ける」と決意することなのです。倫理的な実存が立ち上がるのはこの局面です。
それは具体的には、「他者」への態度の転換として現実化します。「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。
その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。
宗教が入信に当たって戒律を課すのは、教義に基づいた行為規範(戒律)を入信志願者に改めて選択させることを通じて、新たな「自己」を課すためです。
「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。最終的に宗教を方法とするかどうかは別として。
今年も当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。皆様の新年のご多幸を心より祈念申し上げます。
最後にカーンと、早目の除夜の鐘を頂いたようです。
今年も、多岐に渡る記事を有り難うございました。
寒さ厳しき折、御自愛と共に、よきお年をお迎え下さいませ。
教えて下さい。
道徳とは、「その程度のもの」と把握しておく必要がある、という事でしょうね。
そのうち、アップデートもできるのかなあ。
「何故」と問わずにいられない成人もいる。
彼等には小児・未成年者を教える
「道徳・倫理」教師の役割が自己の生存の根拠になるだろう。
一般成人たるわたくしは、
フワッと認識した(道徳・倫理の)概念の内に、
他者に害毒を及ぼせば、
結局、人間共同体が成り立たなくなるよとか、
罰せられるとか恥であるとか因果応報になるとか、
由って、心が不安となってざわつくとか・・・
だから基本的には
八正道に照らし合わせて生きて居れば
心のやすらぎを得られるとかの、
実践(=何故ではなく如何に!!)で
生きるを持って良しとするのみである。
小難しい理論はあまり必要としないのである。
「何故」と問わずにいられない成人もいる。
彼等には小児・未成年者を教える
「道徳・倫理」教師の役割が自己の生存の根拠になるだろう。
一般成人たるわたくしは、
フワッと認識した(道徳・倫理の)概念の内に、
他者に害毒を及ぼせば、
結局、人間共同体が成り立たなくなるよとか、
罰せられるとか恥であるとか因果応報になるとか、
由って、心が不安となってざわつくとか・・・
だから基本的には
八正道に照らし合わせて生きて居れば
心のやすらぎを得られるとかの、
実践(=何故ではなく如何に!!)で
生きるを持って良しとするのみである。
小難しい理論はあまり必要としないのである。
自己が他者に課され、他者を受け入れる自己に転換するのは、その通りです。
これは、社会人になれば、誰もが倫理的自己に迫られることと思います。その先に欲望としての、自己からの離脱、逃避も(他者を受け入れるとは善的行為の自己責任と志)。
よく、「自分を受け入れなさい」、とは、こういう構造になっているんですよね。ここまで、論理的に説明できるのは、南さんくらいですよね。
今年もありがとうございました。
ありがとうございます。
この度のお話はすべての箇所について引用したい・コメントしたいのですが、あえて1箇所のみをコメントなしで引用いたしました。
今年も様々にありがとうございました。
心より深く御礼申し上げます。
今年も10日ごとの楽しみにさせて頂きました。
南さんの言葉が読めて、こちらこそ有難いです。
南さんの場合『道徳』と『倫理』に分けて考えられていたのですね。
私も以前から『正義』と『善』の区別について考えていました。
この発想を初めて知った時は戸惑いましたが、
なるほどそうすると≪正義が何故争うのか≫について
説明することができます。
正義とは『ルールまたはルールを守ること』であり、
それそのものは善性を持たない。
例えば≪仲間を守るべし≫というルールが発動すれば
二つの勢力が互いの仲間を守るために戦っても不思議はありませんよね。
ただルールには根拠が必要となりましょう。
ここに『善』が関わってくる。
それが『善いこと』であるから、そのルールを守らなきゃいけないのであって。
南さんは『倫理』という視点で捉えたんですね。
それを『他者を受け入れる自己』によって説明されている。
確かに「自分がされたら嫌なことは他人にしないようにしよう」という倫理は
他者を受け入れなければ成立しませんよね。