新年早々、思いつき禅問答シリーズ。
昔の中国で、雲門という禅師が旅の雲水に訊ねました。
「どこからやって来たんだね?」
「西禅老師の道場からです」
「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」
すると、雲水は両手を開いて差し出しました。
とたんに、雲門禅師は雲水に平手打ち一発!
雲水、あわてて
「自分にはまだ言うことがあるんです!」
雲門禅師、すかさず両手を開いて差し出す。
雲水、びっくりして無言。
ここで、雲門禅師また雲水の横っ面に一発!!
この話を、私はこのように考えています。
雲門禅師の「どんなことを言ってるんだ?」という問いは、「西禅老師は悟っているのか? その悟りをどう語っているのか?」という意味です。
これに対して、雲水が両手を差し出したのは、悟りは体験として把握されるもので、言語化はできないということを表しているのでしょう。ですから、行為としては何でもよかったのであって、手を差し出そうが逆立ちしようが、構わない話です。
これに対する雲門禅師の平手打ち一発は、悟りだろうが何だろうが、体験それ自体は無意味だと言っているのです。問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。その語りによってのみ「意味ある」事象になるわけです。
「悟り」として語られる経験は、心理学などの文脈で語られれば「変性意識」とでも呼ばれるでしょうし、禅や仏教に興味も関心も無い人に言わせれば、「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。つまり、「意味ある」何かになるためには、語られなければならないのです。
そこで雲水は「まだ言うことがあるんです」と弁明します。
すかさず雲門禅師が手を差し出したのは、体験は語られなければ無意味だが、どう語ってもそれは、体験そのものを「正しく」言語化することはできないと教示するためです。
事ここに至って、雲水は進退窮まって言う言葉を無くします。
雲門禅師の平手打ち二発目は、「言語化できない」でとどまってはいけないことを示しているます。とどまれば、それは「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されてしまいます。
したがって、「言語化できない」事象を言語化し続け、かつ言語化に失敗し続ける行為以外に、「悟り」体験を語る方法はないということになるでしょう。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。
昔の中国で、雲門という禅師が旅の雲水に訊ねました。
「どこからやって来たんだね?」
「西禅老師の道場からです」
「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」
すると、雲水は両手を開いて差し出しました。
とたんに、雲門禅師は雲水に平手打ち一発!
雲水、あわてて
「自分にはまだ言うことがあるんです!」
雲門禅師、すかさず両手を開いて差し出す。
雲水、びっくりして無言。
ここで、雲門禅師また雲水の横っ面に一発!!
この話を、私はこのように考えています。
雲門禅師の「どんなことを言ってるんだ?」という問いは、「西禅老師は悟っているのか? その悟りをどう語っているのか?」という意味です。
これに対して、雲水が両手を差し出したのは、悟りは体験として把握されるもので、言語化はできないということを表しているのでしょう。ですから、行為としては何でもよかったのであって、手を差し出そうが逆立ちしようが、構わない話です。
これに対する雲門禅師の平手打ち一発は、悟りだろうが何だろうが、体験それ自体は無意味だと言っているのです。問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。その語りによってのみ「意味ある」事象になるわけです。
「悟り」として語られる経験は、心理学などの文脈で語られれば「変性意識」とでも呼ばれるでしょうし、禅や仏教に興味も関心も無い人に言わせれば、「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。つまり、「意味ある」何かになるためには、語られなければならないのです。
そこで雲水は「まだ言うことがあるんです」と弁明します。
すかさず雲門禅師が手を差し出したのは、体験は語られなければ無意味だが、どう語ってもそれは、体験そのものを「正しく」言語化することはできないと教示するためです。
事ここに至って、雲水は進退窮まって言う言葉を無くします。
雲門禅師の平手打ち二発目は、「言語化できない」でとどまってはいけないことを示しているます。とどまれば、それは「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されてしまいます。
したがって、「言語化できない」事象を言語化し続け、かつ言語化に失敗し続ける行為以外に、「悟り」体験を語る方法はないということになるでしょう。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。
ブたれるなら本望です!
(ρ`З´)ρ
願われていますからねー
私が!願っていますからねー
私にはわかりませんが、観無常からはじまらない文脈での禅問答はどうなのでしょうか。
『「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。』
「馬鹿じゃないの」で済むのならいいのですが、「張り飛ばす」などの強烈なインパクトを与える事柄こそが「禅」だという話になってしまうとどうなのでしょうか。これも私にはわかりません。
質的に大きく異なるのですが、大学受験シーズンを控え、こんな奇妙な話を思い出しました。
大学受験合格後、物理の教科書、問題集などを盛大に燃やした人の話を聞いたことがあります。その燃やした理由が、「物理が自分をいつも悩ませたから」。
最初はノイローゼの一種かと思って同情すら覚えましたが、よくよく聞いてみると、その彼にとっては「大学受験」のための苦役としての「物理」であって、学問としての「物理」がほとんどないことがわかりました。
世の中の出来事をこんなに簡単な数式で表すことができるなどの、心が震えるような感動がないまま物理を学んだのでしょうか。
別の意味で同情を禁じえません。
その後、物理の教師になったという驚愕するような話を聞いております。
(なぜその道を選んだのかはわかりません。まあ「大学受験」のための物理ならば、プロなのかもしれません・・・)
今度は、このような先生に物理を学ばなければならない「生徒」に対して深く同情しております。
目端の利く生徒ならば、同時に個別に学んでいるとは思うのですが・・・。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」の「最近」というのが禅らしさ、でしょうか。確かに自分の知る老師方も、とらわれの無いよう、常に固定化しないようにされているように思います。
固定化された絶対の真理を得ようとする思想とは一線を画す、ってところでしょうか。それを言語化するって至難の技ですね。誤解や非難を恐れず、語るしかないのでしょうね。
「空とは?」は自分で体験しなければ解らない、とおっしゃって、
体感したという方が「自分の経験した『空』は言葉では表せない」と言うならば、
「ばっかじゃないの!!」というそしりを免れない、と読みました。
今こそ自らの言葉で体験談を語るべきでしょう。いくら言葉がつたなくても構いません。語る人の心に誠実な思いが籠っていれば、
聞く人の心にも響くものです。