「『感応道交(かんのうどうこう)』って仏教語があるよな」
「うん。道元禅師も時々使う。有名なのは、中国留学中の、本師の天童如浄禅師との出会いの話だな」
「そう。辞書的な解説だと、一方が感じると、他方がそれに応じる、そういう相互の交わりが自然に行われること。いわば宗教的次元の意気投合みたいなことかな。それが仏と衆生の間、あるいは師匠と弟子の間で起こること。そんな感じかな」
「まあ、その程度だろうな」
「これね、素人が聞いてもよくわからない話でさ。具体的にどういうことなの? 君は感応道交したことあるのか?」
「いやあ、いきなりそんなこと訊かれてもなあ。ただ、・・・」
「ただ、何だ?」
「こんな感じかな、と思った経験はある。それほど高尚でもロマンティックでもない話だけど」
「へえ、あるのか」
「中学3年のとき、『諸行無常』という言葉に出会ったとき、『あ、これはおれのことだ』、って思ったな。
「ほほう」
「これは言葉との出会いだが、人でも同じじゃないかと思うんだ。『あ、このひと、自分と同じだ』という感覚。それはおそらく、目指しているところ、抱えている問題、取り組んでいるテーマ、そういうものが深いところで一致している感覚なんじゃないかな。ぼくは、感応道交はそれに近いと思っている」
「まだあるか?」
「もう一つある」
「どんな」
「出家したとき。ぼくは親父に連れていかれて、後に師匠になる和尚と会った」
「それが感応道交?」
「まあ、聞けよ。実は親父は、ぼくが出家したいと打ち明けたとき、いきなり反対しないで、『じゃ、ひとり坊さんを紹介してやるから、会って話を聞いてみろ』って言ったんだ。いきなり反対したらもっと頑なになるだけだと知ってたんだな」
「さすが、父親」
「で、息子の出家希望を電話で聞いた親父は、電話をきってすぐ、その和尚のところに駆け込んで、『息子がおかしくなった。永平寺に行きたいなんて馬鹿なことを言ってる。とても務まるはずがないから、和尚、息子を止めてくれ』と頼んだんだ」
「二人は友達だったの?」
「そう。当時父親が教員やってた学校の裏山に寺があって、そこの住職と仲良かったの。それがぼくの師匠になった人」
「じゃ、師匠は依頼を断ったのか?」
「違う違う。二つ返事で引き受けたんだと」
「だったら、どうして?」
「いや、それがさ、実際寺に連れていかれて、住職に引き合わされたらね、彼がしばらくじっとぼくの顔を見て、『君か、和尚になりたいと言うのは?』と訊くから、『そうです』、って言ったんだ」
「うん」
「そしたらさ、いきなり、『そうか、じゃ、いつからこの寺に来られる?』と言うのさ」
「それは出家させてやる、弟子にしてやる、って意味だろ?」
「そう」
「で、君はすぐに、お願いしますとでも返事したのか?」
「結果的には、そう。いや、ぼくも初めはさ、最初のひとりを師匠にする気なんぞ、さらさらなかったんだ。当初の予定では、勤めていた会社から出たわずかな退職金を使って全国を行脚し、これは思う高僧を選んで弟子にしてもらおうなんて、夢見たいなことを妄想してたな」
「それが、なんで・・・・・?」
「いや、それがさ。ぼくも住職の厳つくてでかい鬼瓦みたいな顔を見てたらさ、なんか、ま、いいか、コレで、みたいな気になっちゃったんだな。これから色々探すのも面倒だな、みたいな」
「えっ、それだけ?!」
「そう。そのとおり。もういいや、みたいな感じ。それで、『東京のアパート引き上げて、月末までにはお世話になります』、って返事しちゃったの」
「お父さん、びっくりしただろう」
「そう、おそらく内心はパニック。だけど、『和尚、話が違う』とは言えないよな。ぼくが目の前にいるんだから」
「で、どうなった?」
「親父は咳き込みそうな早口で、『お、和尚、それでいいんかい?』とだけ、言ったんだ」
「それでどうした」
「そうしたら、住職が即座に、『先生、なにもヤクザになろうというわけじゃないんだから、いいじゃないか』、って言って、話を決めちゃったんだ」
「へええ。よく言ったよなあ。だって、断るはずで会ったんだろ?」
「ぼく、出家して4、5年経った頃、訊いたんだ、それ。『師匠、あのとき、本当は親父に、出家なんて諦めるように説得してくれ、と頼まれてたんでしょ?』とね」
「そしたら?」
「『そうだ。そう頼まれた』と言うから、『じゃ、なぜ弟子にしてくれたんですか?』と訊くとさ」
「うん」
「『なんだか、お前の顔を眺めていたら、こいつ、出家させてやらんと可哀そうだなって感じがしたんだ』と言うんだ」
「それだけなの?」
「そうなの。ぼくは、これでいいや。師匠は、なんとなく可愛そう。それだけ」
「そんなものなの?出家って」
「そういうわけじゃないと思うんだけどさ。ただ、師匠が家族や親族ではない、完全な一般人から出家すると、師匠と弟子の関係も微妙で相性があるんだ。これがよくないと、あと大変だ。破綻することさえある」
「なるほど。で、その『ま、いいか』『可哀そう』を感応道交と言いたいの?」
「すまん。話が卑近になって。でも自分の実感としてはそうなんだな。ちなみに、師匠も係累に寺関係はいない。あまり家族に恵まれなかった人なんだ」
「これは、人それぞれの実感で語るしかない話かもな」
「うん。道元禅師も時々使う。有名なのは、中国留学中の、本師の天童如浄禅師との出会いの話だな」
「そう。辞書的な解説だと、一方が感じると、他方がそれに応じる、そういう相互の交わりが自然に行われること。いわば宗教的次元の意気投合みたいなことかな。それが仏と衆生の間、あるいは師匠と弟子の間で起こること。そんな感じかな」
「まあ、その程度だろうな」
「これね、素人が聞いてもよくわからない話でさ。具体的にどういうことなの? 君は感応道交したことあるのか?」
「いやあ、いきなりそんなこと訊かれてもなあ。ただ、・・・」
「ただ、何だ?」
「こんな感じかな、と思った経験はある。それほど高尚でもロマンティックでもない話だけど」
「へえ、あるのか」
「中学3年のとき、『諸行無常』という言葉に出会ったとき、『あ、これはおれのことだ』、って思ったな。
「ほほう」
「これは言葉との出会いだが、人でも同じじゃないかと思うんだ。『あ、このひと、自分と同じだ』という感覚。それはおそらく、目指しているところ、抱えている問題、取り組んでいるテーマ、そういうものが深いところで一致している感覚なんじゃないかな。ぼくは、感応道交はそれに近いと思っている」
「まだあるか?」
「もう一つある」
「どんな」
「出家したとき。ぼくは親父に連れていかれて、後に師匠になる和尚と会った」
「それが感応道交?」
「まあ、聞けよ。実は親父は、ぼくが出家したいと打ち明けたとき、いきなり反対しないで、『じゃ、ひとり坊さんを紹介してやるから、会って話を聞いてみろ』って言ったんだ。いきなり反対したらもっと頑なになるだけだと知ってたんだな」
「さすが、父親」
「で、息子の出家希望を電話で聞いた親父は、電話をきってすぐ、その和尚のところに駆け込んで、『息子がおかしくなった。永平寺に行きたいなんて馬鹿なことを言ってる。とても務まるはずがないから、和尚、息子を止めてくれ』と頼んだんだ」
「二人は友達だったの?」
「そう。当時父親が教員やってた学校の裏山に寺があって、そこの住職と仲良かったの。それがぼくの師匠になった人」
「じゃ、師匠は依頼を断ったのか?」
「違う違う。二つ返事で引き受けたんだと」
「だったら、どうして?」
「いや、それがさ、実際寺に連れていかれて、住職に引き合わされたらね、彼がしばらくじっとぼくの顔を見て、『君か、和尚になりたいと言うのは?』と訊くから、『そうです』、って言ったんだ」
「うん」
「そしたらさ、いきなり、『そうか、じゃ、いつからこの寺に来られる?』と言うのさ」
「それは出家させてやる、弟子にしてやる、って意味だろ?」
「そう」
「で、君はすぐに、お願いしますとでも返事したのか?」
「結果的には、そう。いや、ぼくも初めはさ、最初のひとりを師匠にする気なんぞ、さらさらなかったんだ。当初の予定では、勤めていた会社から出たわずかな退職金を使って全国を行脚し、これは思う高僧を選んで弟子にしてもらおうなんて、夢見たいなことを妄想してたな」
「それが、なんで・・・・・?」
「いや、それがさ。ぼくも住職の厳つくてでかい鬼瓦みたいな顔を見てたらさ、なんか、ま、いいか、コレで、みたいな気になっちゃったんだな。これから色々探すのも面倒だな、みたいな」
「えっ、それだけ?!」
「そう。そのとおり。もういいや、みたいな感じ。それで、『東京のアパート引き上げて、月末までにはお世話になります』、って返事しちゃったの」
「お父さん、びっくりしただろう」
「そう、おそらく内心はパニック。だけど、『和尚、話が違う』とは言えないよな。ぼくが目の前にいるんだから」
「で、どうなった?」
「親父は咳き込みそうな早口で、『お、和尚、それでいいんかい?』とだけ、言ったんだ」
「それでどうした」
「そうしたら、住職が即座に、『先生、なにもヤクザになろうというわけじゃないんだから、いいじゃないか』、って言って、話を決めちゃったんだ」
「へええ。よく言ったよなあ。だって、断るはずで会ったんだろ?」
「ぼく、出家して4、5年経った頃、訊いたんだ、それ。『師匠、あのとき、本当は親父に、出家なんて諦めるように説得してくれ、と頼まれてたんでしょ?』とね」
「そしたら?」
「『そうだ。そう頼まれた』と言うから、『じゃ、なぜ弟子にしてくれたんですか?』と訊くとさ」
「うん」
「『なんだか、お前の顔を眺めていたら、こいつ、出家させてやらんと可哀そうだなって感じがしたんだ』と言うんだ」
「それだけなの?」
「そうなの。ぼくは、これでいいや。師匠は、なんとなく可愛そう。それだけ」
「そんなものなの?出家って」
「そういうわけじゃないと思うんだけどさ。ただ、師匠が家族や親族ではない、完全な一般人から出家すると、師匠と弟子の関係も微妙で相性があるんだ。これがよくないと、あと大変だ。破綻することさえある」
「なるほど。で、その『ま、いいか』『可哀そう』を感応道交と言いたいの?」
「すまん。話が卑近になって。でも自分の実感としてはそうなんだな。ちなみに、師匠も係累に寺関係はいない。あまり家族に恵まれなかった人なんだ」
「これは、人それぞれの実感で語るしかない話かもな」
力の抜けた感じが結果的によかったんですよね。
また、全くの知らない他人でもなかったのも、よかったと思いますよ。お師匠の背景も、南さんの孤独と相性が合ったのだと思います。
いざ、全国を行脚して探すのも、当てがないですし、途方もなく、お金も尽きます(20代ならそう意気込みますが)。
偶然か仏縁か。
インターネットのことは難しいけど、調べてみてください。
でしょ?
まあ、
他者なしに自己もない。
他者も、他己なしの自己はない。
でしょ?
つまり、
アレなしのコレはない。
コレなしのアレもありゃしない。
アレコレ日記より。
緊張感が無い、とは言い切りません。
そこには、「俗な」取り引きが絡んでいる、と「感じる」からです。
また、こちらは住職に「用」があるのに、お手伝いさんやら奥さんなどが、その寺の「顔」のような所がありますが、住職もそれをヨシとして、寺(住職?)が機能してない事に気付いてさえいない、という「可哀想」な面を見受ける事もあります。
あるとき、
住職が、「妻の実家は、○○の寺なんですよ。」と自慢気に話されるので、その奥さんに、「お寺出身なんですね。」と言ってみると、「モチロンです!」と、ドヤ顔で返答された事がありました。
ふ~ん。
モチロンって「何だ?」というツッコミは、モチロン控えておきました。
「コイツら」と、「感応道交」は程遠い、と思ったまでです。
つまり、師匠が「可哀そう」となることもなかったのでしょう。
「感応道交」は、ちょっぴり恥ずかしい話でもありますかね。