恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

それは私だ

2018年12月20日 | 日記
「『感応道交(かんのうどうこう)』って仏教語があるよな」

「うん。道元禅師も時々使う。有名なのは、中国留学中の、本師の天童如浄禅師との出会いの話だな」

「そう。辞書的な解説だと、一方が感じると、他方がそれに応じる、そういう相互の交わりが自然に行われること。いわば宗教的次元の意気投合みたいなことかな。それが仏と衆生の間、あるいは師匠と弟子の間で起こること。そんな感じかな」

「まあ、その程度だろうな」

「これね、素人が聞いてもよくわからない話でさ。具体的にどういうことなの? 君は感応道交したことあるのか?」

「いやあ、いきなりそんなこと訊かれてもなあ。ただ、・・・」

「ただ、何だ?」

「こんな感じかな、と思った経験はある。それほど高尚でもロマンティックでもない話だけど」

「へえ、あるのか」

「中学3年のとき、『諸行無常』という言葉に出会ったとき、『あ、これはおれのことだ』、って思ったな。

「ほほう」

「これは言葉との出会いだが、人でも同じじゃないかと思うんだ。『あ、このひと、自分と同じだ』という感覚。それはおそらく、目指しているところ、抱えている問題、取り組んでいるテーマ、そういうものが深いところで一致している感覚なんじゃないかな。ぼくは、感応道交はそれに近いと思っている」

「まだあるか?」

「もう一つある」

「どんな」

「出家したとき。ぼくは親父に連れていかれて、後に師匠になる和尚と会った」

「それが感応道交?」

「まあ、聞けよ。実は親父は、ぼくが出家したいと打ち明けたとき、いきなり反対しないで、『じゃ、ひとり坊さんを紹介してやるから、会って話を聞いてみろ』って言ったんだ。いきなり反対したらもっと頑なになるだけだと知ってたんだな」

「さすが、父親」

「で、息子の出家希望を電話で聞いた親父は、電話をきってすぐ、その和尚のところに駆け込んで、『息子がおかしくなった。永平寺に行きたいなんて馬鹿なことを言ってる。とても務まるはずがないから、和尚、息子を止めてくれ』と頼んだんだ」

「二人は友達だったの?」

「そう。当時父親が教員やってた学校の裏山に寺があって、そこの住職と仲良かったの。それがぼくの師匠になった人」

「じゃ、師匠は依頼を断ったのか?」

「違う違う。二つ返事で引き受けたんだと」

「だったら、どうして?」

「いや、それがさ、実際寺に連れていかれて、住職に引き合わされたらね、彼がしばらくじっとぼくの顔を見て、『君か、和尚になりたいと言うのは?』と訊くから、『そうです』、って言ったんだ」

「うん」

「そしたらさ、いきなり、『そうか、じゃ、いつからこの寺に来られる?』と言うのさ」

「それは出家させてやる、弟子にしてやる、って意味だろ?」

「そう」

「で、君はすぐに、お願いしますとでも返事したのか?」

「結果的には、そう。いや、ぼくも初めはさ、最初のひとりを師匠にする気なんぞ、さらさらなかったんだ。当初の予定では、勤めていた会社から出たわずかな退職金を使って全国を行脚し、これは思う高僧を選んで弟子にしてもらおうなんて、夢見たいなことを妄想してたな」

「それが、なんで・・・・・?」

「いや、それがさ。ぼくも住職の厳つくてでかい鬼瓦みたいな顔を見てたらさ、なんか、ま、いいか、コレで、みたいな気になっちゃったんだな。これから色々探すのも面倒だな、みたいな」

「えっ、それだけ?!」

「そう。そのとおり。もういいや、みたいな感じ。それで、『東京のアパート引き上げて、月末までにはお世話になります』、って返事しちゃったの」

「お父さん、びっくりしただろう」

「そう、おそらく内心はパニック。だけど、『和尚、話が違う』とは言えないよな。ぼくが目の前にいるんだから」

「で、どうなった?」

「親父は咳き込みそうな早口で、『お、和尚、それでいいんかい?』とだけ、言ったんだ」

「それでどうした」

「そうしたら、住職が即座に、『先生、なにもヤクザになろうというわけじゃないんだから、いいじゃないか』、って言って、話を決めちゃったんだ」

「へええ。よく言ったよなあ。だって、断るはずで会ったんだろ?」

「ぼく、出家して4、5年経った頃、訊いたんだ、それ。『師匠、あのとき、本当は親父に、出家なんて諦めるように説得してくれ、と頼まれてたんでしょ?』とね」

「そしたら?」

「『そうだ。そう頼まれた』と言うから、『じゃ、なぜ弟子にしてくれたんですか?』と訊くとさ」

「うん」

「『なんだか、お前の顔を眺めていたら、こいつ、出家させてやらんと可哀そうだなって感じがしたんだ』と言うんだ」

「それだけなの?」

「そうなの。ぼくは、これでいいや。師匠は、なんとなく可愛そう。それだけ」

「そんなものなの?出家って」

「そういうわけじゃないと思うんだけどさ。ただ、師匠が家族や親族ではない、完全な一般人から出家すると、師匠と弟子の関係も微妙で相性があるんだ。これがよくないと、あと大変だ。破綻することさえある」

「なるほど。で、その『ま、いいか』『可哀そう』を感応道交と言いたいの?」

「すまん。話が卑近になって。でも自分の実感としてはそうなんだな。ちなみに、師匠も係累に寺関係はいない。あまり家族に恵まれなかった人なんだ」

「これは、人それぞれの実感で語るしかない話かもな」

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134 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2018-12-20 00:32:58
先日、先生の講演で出家の時の話を聞きました。師匠と弟子との相性は結婚に似ているとの事だったと思います。出会いも俗に言えば「ご縁」みたいなことを仏教用語にすれば「感応道交」という事でしょうか。聴衆は皆先生と「感応道交」だと思って熱心に聞いていたように思います。青森はもうすでに雪が降っているようですが、どうぞご自愛下さい。
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Unknown (Unknown)
2018-12-20 05:53:02
俗っぽい言葉になりますが、運命、ですね。それを含めての縁起、なのかもしれません。
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Unknown (Unknown)
2018-12-20 06:02:40
美空ひばりじゃないが、人生って不思議なものですね。
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Unknown (浅野)
2018-12-20 06:57:58
南さんも、気合は入ってたんですよね、出家希望時。
力の抜けた感じが結果的によかったんですよね。
また、全くの知らない他人でもなかったのも、よかったと思いますよ。お師匠の背景も、南さんの孤独と相性が合ったのだと思います。
いざ、全国を行脚して探すのも、当てがないですし、途方もなく、お金も尽きます(20代ならそう意気込みますが)。
偶然か仏縁か。
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Unknown (Unknown)
2018-12-20 12:34:56
「直哉さん、まず永平寺のお坊さんに相談というか、伝えてほしいです。お守りとか…」
インターネットのことは難しいけど、調べてみてください。
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それはアレだ (Unknown)
2018-12-20 17:18:03
無我なら、それは自我なる私でしかない。

でしょ?

まあ、
他者なしに自己もない。
他者も、他己なしの自己はない。

でしょ?

つまり、
アレなしのコレはない。
コレなしのアレもありゃしない。


アレコレ日記より。
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家系が寺族 (Unknown)
2018-12-20 18:00:43
参禅して感じるのが、寺族の緊張感の無さに、不安を覚えてしまうところでしょうか。

緊張感が無い、とは言い切りません。

そこには、「俗な」取り引きが絡んでいる、と「感じる」からです。

また、こちらは住職に「用」があるのに、お手伝いさんやら奥さんなどが、その寺の「顔」のような所がありますが、住職もそれをヨシとして、寺(住職?)が機能してない事に気付いてさえいない、という「可哀想」な面を見受ける事もあります。

あるとき、

住職が、「妻の実家は、○○の寺なんですよ。」と自慢気に話されるので、その奥さんに、「お寺出身なんですね。」と言ってみると、「モチロンです!」と、ドヤ顔で返答された事がありました。

ふ~ん。

モチロンって「何だ?」というツッコミは、モチロン控えておきました。


「コイツら」と、「感応道交」は程遠い、と思ったまでです。
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中3の時 (Unknown)
2018-12-20 18:14:44
南さんが「感応道交」を学んでいたら、「憎むべきカップル」などと、思うこともなかったのかもしれませんね。

つまり、師匠が「可哀そう」となることもなかったのでしょう。
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昔ばなし (民間人)
2018-12-20 18:27:27
南さんが昔話に浸るとき、何を「欲望」されているかを考えてしまいます。

「感応道交」は、ちょっぴり恥ずかしい話でもありますかね。
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Unknown (ZIP)
2018-12-20 19:43:11
ヘーゲルがいう「感覚的確信」のこととほぼ同じですね。
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