恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

他者への開け

2018年12月30日 | 日記
 数年前に倫理関係の本を出し、昨年は同様のテーマで講演もし、最近は雑誌の「倫理」特集でインタビューを受けました。

 すると、知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。

 そこで、年の瀬にもう一度、倫理についての私の考えを述べておこうと思います。

 同じものだと考えられがちですが、倫理と道徳は別物だと、私は考えます。

 道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。

 当の共同体において、「人を殺してはいけない」「困っている人は助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」「正直であるべきだ」などという道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。

 したがって、倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。

 なぜなら、「自己」は「他者に課され」て始まるからです。我々の身体は「他者」に由来し、命名を通じて最初の社会的人格を一方的に与えられます。「自己」は「他者」に被曝することで始まるのです。

「自己」がそのように開始されると、次は「他者」による「躾け」や「教育」を通じて、共同体の道徳が浸透してきます。「自己」はもちろんそれを拒否できません。それどころか、浸透を通じて我々は「自己」に仕立てられるのです。我々の実存が「他者に課された自己」として構造化されていくわけです。

 倫理が最初に起動するのは、この「他者に課された自己」という構造を自覚したときです。そして、自覚は「課す他者」を規定する共同体の弱体化や動揺に、多く由来します。それは現象的には、共同体の行為規範たる道徳の揺らぎを招きます。「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いがあからさまに出現する所以です。

 動揺は「他者に課された自己」という構造全体に波及し、それが実存する当事者に構造の自覚を促します。

 したがって、道徳的であることは、社会的存在である人間すべてに強制されますが、倫理的であることはそうではありません。倫理的であることは、実存が危機に瀕した人間にとってのみ、テーマとなる(なることがある)のです。

 かくして、「課された自己」全体の動揺は、あらためて「他者」に対して態度を決め直すことを要求します。

「自己」として実存する限り、「他者」を不可欠の条件とする構造からは逃れられません。ということは、この上さらに「生きる」とは、実存構造を自覚した上で、これを「引き受ける」と決意することなのです。倫理的な実存が立ち上がるのはこの局面です。

 それは具体的には、「他者」への態度の転換として現実化します。「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。

 その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。

 宗教が入信に当たって戒律を課すのは、教義に基づいた行為規範(戒律)を入信志願者に改めて選択させることを通じて、新たな「自己」を課すためです。

「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。最終的に宗教を方法とするかどうかは別として。

 今年も当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。皆様の新年のご多幸を心より祈念申し上げます。
 

 

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139 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「キュリケゴールの日記」 哲学と信仰のあいだ (Unknown)
2019-01-14 20:50:43
「信仰する」という語は、根拠がない事象がその対象となっているのである。端的に言って、キュリケゴール=キリスト教的には、信仰とは不合理なものなのである。思想に通底する「情熱」としての信仰観なのである。信仰とは、客観的な根拠を欠くキリスト教の教えを、あえて信じるということなのであり、その「あえて」の背後に燃え盛る情熱なのである。

あえて全面的に受け容れようとする情熱のことなのである。

「信仰とは、内面性の無限の情熱と、客観的不確かさとの矛盾を、そのまま受け止めることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。

もし私が神を客観的に把握できるなら、私は信じてなどいない。だがまさしくそれができないからこそ、私は信ずるところへと追い込まれるのだ。

そしてこの信仰を貫き通すためには、私は客観的不確かさを眼前に見据え、この客観的不確かさの゛七万尋の深淵
゛の上を漂いつつ、しかもなお信じるという冒険に、絶えず身を曝さねばならないのである。」(非学問的あとがき)


「ー信仰とは、『自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力(神)のうちに透明に自己を基づけるーことである」(死にいたる場所)


彼の信仰の在り方をめぐる思索と苦悩
。宗教的転機を3部構成で展開。

如何に信仰するか?
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Unknown (Unknown)
2019-01-14 16:58:20
著書のイメージが変わりました。

https://toyokeizai.net/category/tetsugakujuku

面白い方ですね。
院代様と話が合いそうな?感じがしました。

https://toyokeizai.net/articles/-/56587?display=b
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「時間と死」――不在と無のあいだで (Unknown)
2019-01-14 15:59:23
中島義道 著

<七歳のころから「私(ぼく)が死ぬとしたら人生には何の意味もない」という叫び声が私の体内に響いていた。
私はこの叫び声と共に、その後60余年を送ってきたと言っていいだろう。

いかなる人生の大問題も、この問いの前では吹き飛んでしまい、実際その後の長い人生において、これ以上の重要な問題を見出だすことはなかった。死ぬのが怖いという感じではない。

いかに一生懸命に生きても死んでしまい、その後が永遠の「無」であるとしたら、私の人生には何の意味もない、私が生まれてきたことにも、いや世界そのものにも何の意味もないという実感であり、この実感は「そんなはずはない」というもう一つの呟きに裏打ちされていた。そんな理不尽なことがあるはずはないのであり、あってはならないのである。

そこに、あると思っている客観的世界も、流れてやまないと信じられている時間も、「不在」なのではないか──常識の骨組みを、一つ一つ抜き去ってきた哲学者が、ついに「私」の死の問題に挑戦する。

客観的な世界が仮象なら、死は世界からの消滅ではない。死とは、不在から無への転換、不在である「私」がほとんど失うもののない転換なのだ。>

まだ読んでないが、五歳頃からが一番きつくて、何やってもダメで、小学校低学年で自殺を考えていた。だが大人になるにつれ、楽になっていった。今でも、「大人の悩み」というものは、一切信じない、とのこと。


「明るく死ぬための哲学」

<私が住んでいる世界、私が見ている世界は「このようにある」のではない。
客観的世界のあり方と、「私がある」というあり方はまったく異なるのだ。
「私がある」とは、私がこの世界には属さないということである。
では私が死ぬ、とは果たしてどういうことなのか?

私が死ぬとき、私は新しい〈いま〉に直面する――。 >

今から読んでみようか。
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「明るい哲学の練習」 最後にささえてくれるものへ (Unknown)
2019-01-14 05:56:10
<マインドフルネスは、なぜハヤルのか>

ざっくり読んでいると、この項目で何故か、道元禅師が出てきた。

「道元の『正法眼蔵』を読んでいる。以前に、最近大古典とされている本を読み返したり、初めて読んだりしてみると、意外にチャチなのに驚くことがあると書いたことがあるが、これもそれ。

有名な『現成公案』なども、諸解釈者の諸深読みの方が面白い。原文は『若書き』という語がぴったりで、しかも予想通りのことしか書いてない。

しかし、私は疑う余地なくこの本が好きである。このようなことを熱意をこめて、舌足らずに語ろうとする著者に好感を感じる。がんばれ、道元!

ついでに坐禅もしている。無念無想の境地には簡単になれて、すぐに宇宙と一体化できるが、そうすると呼吸が細く長くなって、1分近く吐き続けていられるようになるのは、不思議な感じがする。

くらくらして酔っぱらったような感じになってしまうので、とても悟りは開けそうもないが、とても気分がいい。」
(哲学の賑やかな呟き) 永井均


この人、何様のつもりなんだろう。
もしかして、俺様?


「・・瞑想が他の信仰などより若干いいと私が思うのは、いわばそれ自体が娯楽だという点なんです。自分にとってお酒を飲むのと同じぐらいの快楽があるわけです。・・」(永井)


出た~、快楽発言。
こんなことを、著名人が言うから厄介となる。というか、道元禅師に好感をもつ人で、こんな嫌悪を感じたことないな。


からの~、香山リカ氏と中島義道氏との対談。これもなかなか強烈(苦笑)


中島氏は、お坊さんや神父さんとは、話としては通じる感じがするが、だからこそ話したくないと。そちら側の目で全てを解釈されると困るからと。

哲学者なら、そちら側というメガネは外して貰いたいとこだが。この人たぶん、言語のもつ無明さを言いたいんだろけど、残念ながら出て来ない。

あともう少し、といったところだけど、これが哲学の限界というか、仏教以外では表現できない点というか。
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Unknown (たかはし)
2019-01-13 10:03:42
>「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること


自受用三昧。

自らを受け入れて、それを用いる。

それをちゃんと行うこと、それが三昧。

なんて思いました。
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経験から (リーゼント頭)
2019-01-12 15:34:11
俺様がセブンティーンの時、他者から開けられたドアによって、俺様のナイスなリーゼントが挟まれた。

どれほど俺様が絶望し、ドアを憎み恨んだか、オマエにわかるか?

あのままずっと挟まれていたら、俺様は死んでいたかもしれない。

だが、開かずのドアは開かれた。
やけに世界が眩しかった。

次の日、頭を丸めた。

他者に俺様の頭を開いたんだ。
ずいぶん世界が変わった。


「自由になれた気がしたセブンティーンの夜」仮より。
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Unknown (Unknown)
2019-01-12 14:50:42
>なお、他者に転換してもらわないと、自分が被害を受けるから、それは困る、ということが道徳の根拠とも言えると思いますね。

これは、「善の根拠」でしょうかね。

釈迦は元々、人々に教えを説きたかった訳ではない説もありますよね。悟った事は、自己完結で終わってもよかった、と。

では、何故か?

如何に生きようか、と考えたからでしょうかね。

その後、釈迦は布教活動する上で、人の苦の有無に関わらず、説法されていたのではないでしょうかね。
ただ自分の苦しみに気付いていないだけ、苦しみを経験していないだけの人もいたでしょうから、自覚を施したこともあるのではないでしょうかね。
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善きサマリア人の法 (Unknown)
2019-01-12 14:38:03
<「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。
誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。

アメリカやカナダなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている。>


自己責任なのか他者責任なのか、それとも自他責任なのか、道徳では判断しようがない部分を、その根拠を倫理から問い直してみる事で、間違った見方を修正できるかもしれない。さらなる問いを立ち上がてみる姿勢が大事、ということでしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 07:42:42
それから、釈迦は、望んでいない相手にまで教えを強要はしなかったようです。

苦しくなって相談してきた人や、苦しんでいる人を見た時に、教えを紹介して、その実践は、本人の選択に任せたようです。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 07:32:48
釈迦は、全てを捨てて出家しました。

在家のままで、釈迦と同じ境地に至ろうとするのは無理だと思っています。

在家は、その理論を理解した上で、それを出来る範囲で無理なく、というのがいいと思っています。

もちろん、向上心は捨てずに。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 07:28:53
苦しみに対処するために、転換する必要があるのでしょう。

転換しなくても苦しくないなら、転換する必要はないでしょう。

また、無理して転換することが耐え難い苦しみになるとしたら、本末転倒でしょう。

なお、他者に転換してもらわないと、自分が被害を受けるから、それは困る、ということが道徳の根拠とも言えると思いますね。
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Unknown (Unknown)
2019-01-12 07:18:24
>「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。

他者とは、気に入っている人だけのことではない、というより、気に入ってる人は既に受け入れ済みでしょうから、気に入らない他者の方を、問題にされてるのではないでしょうかね。

釈尊は、実存苦に対し「構造転換」する必要性を感じ出家され、全てを受け入れ尽くした時に、悟られたのではないでしょうかね。

受け入れ満タン=執着消滅
こんな図式でしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 06:59:04
経典の言葉が心に響かずに、誰かを殺したとしたら、それを原因にした結果が生じるのは道理でしょうね。

当人にとって、どんな結果が引き起こされるかは、よく分かりませんが、後悔することになる確率は高そうに思えます。
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Unknown (Unknown)
2019-01-12 06:42:01
ダンマパダやスッタニパータを引用されても、無常という危機的状況に危機感のない人には、通用しない話なのでしょうかね。

>『かれもわたしと同様であり、
わたしもかれと同様である』と思って

これも無常であり、
彼を殺せば私が死に、私が殺されれば彼が死ぬ、という実存に食い込んでくる事態となることでしょう。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 05:54:01
それから、自分を引き受けるということには、私の場合は、仏教の自業自得がその一助になっています。

仕方ないだろう、これも自分で蒔いた種だろうからと。

それはまさに、

>その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。

ということですね。

まあ、賭けというほどに大袈裟に意識はしてないですが。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 05:45:34
>人を殺すことでそれらの人達との関係を断つことができるかどうかということです。


他の誰かを殺すことが、自分が自己を開いている人との関係を断つ意志と直結するとは思えません。

その人から関係を絶たれることは予想しますが、自分から断つつもりは無いと思います。
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Unknown (ZIP)
2019-01-12 05:32:41
>自分で満足できるほどに自己を開く相手が数人います。

人を殺すことでそれらの人達との関係を断つことができるかどうかということです。
自己という原因以外によって倫理が成立するとすればそれ以外にはあり得ないと思うのです。
返信する
Unknown (たかはし)
2019-01-12 05:30:43
なお、道徳の根拠については、

130 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
(ダンマ ・パダ)

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

(スッタ・二パータ)

という言葉に納得していますから、それ以上、深く考える必要性を私は感じていません。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 04:32:29
それから、実生活において、自分で満足できるほどに自己を開く相手が数人います。その点は、まあ、それで十分だと思っています。

そして、気に入らない相手にまで無理して自己を開く必要は無いと思っています。その場合は、相手にしないけど、こちらから迷惑も掛けないようにしています。
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Unknown (たかはし)
2019-01-12 04:21:59
虐め被害も自覚していないし(過去に加害者だったかもと思うことはありますが)、他者を本気で殺したくなるというな事態にも遭遇していません。

もしそうなったら、どうするか。

精神に異常を来さなければ、殺す度胸は無いかも、と思っています。

その時に気が狂うかどうかは、大丈夫な気もするし、もしかしたら、とも思うし。

考えても仕方ないかな、と思っています。
返信する
Unknown (たかはし)
2019-01-12 04:04:21
>倫理的であることは、実存が危機に瀕した人間にとってのみ、テーマとなる(なることがある)のです。


実存の危機とは、どういうことだろうか。

南さんは、生存の危機と存在の不安ということに言及したことがあったと記憶しています。

生存の危機は、生活基盤の危機、つまり収入が無くて生活できないというようなことで、存在の不安は、自己の存在の根拠が分からないことによる不安ということだと私は理解しています。

私は、生存の危機を想起する事態に直面したことがありますが、それも今は、餓死しない程度の見通しは立っていますし、存在の不安は、特に自覚していません。
返信する
Unknown (たかはし)
2019-01-12 03:39:41
南さんが気が向いた時に記事にされることがあるかも、と思っています。

それでいいです。
返信する
院代様へ (OLD)
2019-01-12 02:42:45
>知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。

その後、知人の方達は此方の記事で、肝心なところが「よくわかった」のでしょうか。

高橋さんのような勤勉な方向きの記事も、しばしば必要かと思いますが如何でしょうか。


高橋さんへ
今度の15日にあるサンガ講座へ、行かれてみてはどうでしょうね。

ちょうど倫理の話題のようですし、直接、質疑応答も「可」のようです。

倫理的行為として、「NEW高橋」を作るキッカケと成るやもしれませんね。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-11 13:50:47
人を殺すという選択をした場合の根拠と、
人を殺さないという選択をした場合の根拠を
比べてみることです。
明確な意志を持って人を殺すということは因果律で説明がつくわけです。
同じ様に、人を殺さないという選択は因果律では説明がつかないわけです。
即ち、因果律が適用できるのは、自己という原因から結果を導き出すことであって、その適用範囲は限られているということです。

殺してやろうかと思う人を受け入れる、などと言ったことが、自分にできるとはとても思えないわけです。
殺さない選択をするのが精一杯ではないでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2019-01-11 13:24:13
>換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。

ここを読み取れないと、高橋くんのような方には、「謎」ばかりとなりそうですね。

ただこれも、万人が問う必要性もないことでしょうが、道徳を課されている、道徳社会で生きている以上は、問題は問題として、提起しておく必要性はあることではないでしょうかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2019-01-11 04:31:15
虐められた人が、自分を虐めた人を殺さないと自分が生きていけないという状況になった時、なぜ人を殺してはいけないのか、とその根拠を問うのが、倫理。

それが、その人に、根源的な問いを提起することになるとしたら、その根源的な問いとは何か。それは、自己の存在の根拠を問う、ということか。

そして、自己は他者に課せられて始まるのだからと、他者に虐められる自分を引き受ける決意をして、そんな自分を他者に開いて、虐めた相手をも受け容れる自己に転換するのが、倫理的行為という意味だろうか。

それが、

>「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。

ということにおける、倫理的行為の意味だろうか。

しかし、文章の初めに、

>道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。

と言っているので、

倫理は道徳の根拠を問う、

ということから、

倫理的行為とは、道徳の根拠を問う的な行為、ということになって、それが文章全体の意味を分かり難くしている。

そう思います。
返信する
ZIPくん明けましておめでとう (Unknown)
2019-01-10 14:48:47
それに付け加えると、自己においての実存の危機なら、自死予防・抑止・防止として、死なない工夫が倫理的行為となるのでしょうかね。

ただ一個人だけでは揺らぎやすいので、自分から宗教などの戒律を取り入れる事で、内部から強化される新な自己を作り出そう、ということですかね。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-10 11:46:56
実存が危機に瀕することとして、その要件を充分に満たしている場合
例えて言うなら、本気で人を殺してやろうかと思ったことがあるかどうか、ということです。
殺すに値する理由の根拠を問うわけです。
返信する
今年も宜しく。高橋殿 (Unknown)
2019-01-10 03:44:28
思い込みの根拠もなく、問うしかなかろう。
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明けましておめでとう高橋くん (此岸)
2019-01-10 02:23:58
高橋くんは、ブログでも他者を閉じているようなので、意味を理解するのは困難かもしれませんね。

恐らく知識は豊富なのでしょうが、知識だけでは全体を読めない、という事を提示されたようでもありますかね。
返信する
もう一度。 (Unknown)
2019-01-10 02:14:29
「変性意識」をぶっちゃいましょうか。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/46bfdf86bde89d94498dc433e2081a31
返信する
倫理的行為とは (Unknown)
2019-01-10 01:44:42
キリスト教でいえば入信で、
仏教でいえば出家を意味するのではないですかね。
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Unknown (Unknown)
2019-01-10 01:40:56
「道徳に課された自己」としてみると、どうですかね。
道徳は、強制的に我々に要求しますが、社会が変われば、内容が揺らぎ変わる事もあるでしょう。
それらを総合的に問う視点が、倫理的行為という事でしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2019-01-10 01:37:30
>倫理はその道徳の根拠を問うのです。

>倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。

>「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、これこそが、根源的な倫理的行為なのだと、私は思います。最終的に宗教を方法とするかどうかは別として。


倫理的行為とは、どういう意味だろうか。

根源的な問いとは何だろうか。それは、根源的な倫理行為とどう関係するのだろうか。

そういうところが私には分からなかったので、全体の意味がうまく掴めませんでした。


>「自己」は「他者に課され」て始まる

>「自己」として実存する限り、「他者」を不可欠の条件とする構造からは逃れられません。ということは、この上さらに「生きる」とは、実存構造を自覚した上で、これを「引き受ける」と決意することなのです。

>それは具体的には、「他者」への態度の転換として現実化します。「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。

>「自己」は自らの選択においてその新バージョンの「自己」を受け容れ、再起動します。「自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始すること、

それは意味が分かりました。

ただ、それが根源的な倫理的行為である、ということの倫理的行為の意味が分かりません。
返信する
「たかはし」です。 (Unknown)
2019-01-10 01:25:48
「自分の名前」ということも、思い込みに過ぎない。
返信する
Unknown (たかはし)
2019-01-10 01:21:42
>‥道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、内容の根拠を問題にするのです。

>したがって、倫理は「自己」という様式で実存する人間にとって、根源的な問いを提起することになります。

>なぜなら、「自己」は「他者に課され」て始まるからです。我々の身体は「他者」に由来し、命名を通じて最初の社会的人格を一方的に与えられます。「自己」は「他者」に被曝することで始まるのです。


道徳の内容の根拠を問うことが、なぜに、根源的な問いを提起することになるのか。その理由が、自己は他者に課されて始まるからだ、というのは、私には分かりません。

自己は他者に課されて始まるものだから、道徳の内容の根拠を問う自己には、根源的な問題が提起される、ということだとしたら、そこをもうちょっと説明してほしいです。
返信する
南流 (Unknown)
2019-01-10 01:06:58
絶対的な正とか善とか真理とかは無くて、
要するに全ては自分の思い込みに過ぎないのであるが、
自分は自分流の思い込みで生きるのだという「自分の覚悟」に賭ける事が大事なのである。
返信する
虚構(フィクション・ストーリー) (Unknown)
2019-01-10 00:57:45
南流仏教論で言えば、

人は只管打坐という特殊な身体操作で、
或る「変性意識」を得るが、

その変性意識に自分好みの虚構(ストーリー)を乗っけてイデオロギー化したものが禅定(9段階の概念化・差別化)だ。。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-10 00:40:08
ZIPさんの命題は私には難しくて理解不能ですが、
この前テレビでやっていたコヴァル・ノア・ハラリ氏(イスラエル人歴史学者)の衝撃の書『サピエンス全史』、
及び続編の(神になろうとするサルたち、テクノロジーとサピエンスの未来)『ホモ・デウス』では面白い視点を提供してるようですね。

肉体的な脆弱性を補うためにサピエンスは共同体を造ったが、
大勢が協力できるように「虚構(フィクション)を信じられる力」を持つようになった。

「虚構(ストーリー)」を信じる事に依り、見知らぬ人同士の協力が出来るようになり、社会性・文明が発達して行って、社会の巨大化が可能になった。

虚構(フィクション・掛け声・スローガン)を通して(=フィクションを信じる力によって)、利他・自己犠牲が出来るようになった。

人は超人的(超越的)な何かを設定して、その元に集団的に集まれるイデオロギー、すなわち宗教というモノをフィクションして作り出し
巨大な集団化を成し遂げた・・・とかなんとか。
(超越的神を信じて集団化しない仏教でも、結局の処は釈迦を超人化する事に依って仏教集団を形成していったわけですよね。)


また『ホモ・デウス』(人間がデウス神となる)では、
生命工学を用いて、ゲノム編集をして、全く新しい生命体(=親と言う起源を持たない生命体)を生成した科学者の実験も紹介していましたね。
返信する
コトバ (Unknown)
2019-01-10 00:39:37
言葉は色と空の間、くらいに考えておけば宜しいのでしょうか。
返信する
モノ即コト (Unknown)
2019-01-09 23:52:17
色即是空の色はインド論理学では
基体(ダルミン)といい
空は属性(ダルマ)という。

つまり、色は「もの」であり
空は「こと」なのだ。


リンゴと果物は「もの」同士であり
かつ上位/下位概念に該当するが

色と空は「もの」と「こと」であり
かつ上位/下位概念に該当しない。


例えば
「ボルトは速い、速いはボルト」。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-09 23:33:31
もし、生命というものが、計算可能、記述可能であれば「物」理学です。
そうでなければ「事」理学です。
それが複雑系という学問ではないでしょうか。
物理学では「変化」という時間を含んだ記述が熱力学第二法則しかないわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-09 23:21:55
釈尊という因から、道元という縁が生じ、南という僧侶が起きた。

これ即ち、因縁生起といふ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-09 23:18:43
縁起に賭けるっきゃない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-09 23:16:48
理数式に組み立てられたとしても、反応次第な面もあるでしょうし、無常式からすると崩れ、組み立てられないのではないでしょうかね。
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Unknown (ZIP)
2019-01-09 23:04:20
生命というシステムが、何故かくも複雑な自然界に適用できているのか?

基本的に利己的であるはずの個体が、何故全体としての生存に関わる問題に協力できるのか?

これら生命の振る舞いが、プログラムとして、
または数式として物理学的に記述可能かどうか?
もし可能であるならば組み立てられるのか?

これらは人工知能を研究する人達の共通の
テーマです。
即ち、心身脱落していて始めて言えることだ
と思うわけです。
返信する
坐禅という方法。 (イエスちゃん)
2019-01-08 23:55:10
『>長い年月、「6年もかかって」、』


坐禅という方法。
そして、その体験から、「自己」「私」「I」「Ich」という言葉を、新たな意味で発見した。

そして、釈尊は、
「自己」が「死ぬ」という「苦悩」から、解放された。

「自己」が「脱落」する。
いや、
「自己」こそが「脱落」だった。
「身心、即、脱落」
「身心、是、脱落」

「坐禅」こそ「身心脱落」ということである。
「身心脱落」こそ「坐禅」ということである。

釈尊と道元和尚とは、同じ教えと考える。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-08 21:32:02
>長い年月、「6年もかかって」、
35歳の時に、ようやく抜け出すことができた。

6年もかかってと強調されますが、それが長い年月と言えるんでしょうかね。釈尊のように悟るのは、何十年かかっても、難儀な事ではないでしょうか。

イエスさんは、6年以内に悟られたんでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-08 16:17:34
>医者には、「老苦」「死苦」は治せない。

とかではなく、もし行かれたとして「診断名」は?という事です。

治せない病気なら山程あるでしょうが、通院されてる方もおられますよね。
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受け容れるとは寛容? (Unknown)
2019-01-08 16:11:39
<相対主義が寛容と両立するか否かは、倫理学における論点の一つである。

問題の所在は、事実あるいは価値観の相対性を認容した後で、「自己の意見を他者に押し付けても良い」という主張(これも不寛容という価値観の一種である)をそこから除去することが可能なのかという点にある。
つまり、相対主義の前提から言えば「寛容と不寛容は相対的関係にあり、どちらかが絶対的に正しいわけではない」と言わねばならないのかという疑問である。

(注:これは、いわゆる寛容のパラドックス、すなわち寛容主義は不寛容主義に対しても寛容でなければならないのかという論点とは異なる。
寛容のパラドックスは、寛容主義内部のジレンマであって、相対主義との関係において問題とされているのではない)。>

https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-moral-relativism.html

始めからジレンマありき⁉
返信する
医者には、「老苦」「死苦」は治せない。 (イエスちゃん)
2019-01-08 15:57:37
『釈尊がノイローゼ気質との説がありましたが』

29歳の「壮年で」、武人だから筋肉隆々で「健康体」であったのに、
(一番、男盛りの時期なのに)
「老人を見て老苦」を感じ、「死人を考えて死苦」を強烈に感じる。異常な気質。

南師が少年のころから「喘息の苦しみ」「肉体の死ぬほどの苦痛」で「死」の事を「考えて」いたのとは、まったく異なる。精神上の話。

それを解決するために「妻と子供、家族を捨てる」。
家庭は悲劇だろう。夫、父親の突然の蒸発・家出。無責任な行動である。

社会から脱落していく。
「出家」して、乞食して、修行する。
長い年月、「6年もかかって」、
35歳の時に、ようやく抜け出すことができた。

『もし病院へ行かれたとして、「どのような診断」が下されるでしょうね。』

医者には、「老苦」「死苦」は治せない。
返信する
しょうがない存在 (正月明けの生姜)
2019-01-08 15:49:13
=これからも、我々はがんばらないわけにはいかない。だが、「がんばる」ことには、がんばらない。がんばりの成否は問わない。人事を尽くして、天命は待たない。

 積み重ねた努力の結果、失敗も挫折も喪失もある。悲哀も苦難もある。喜びや楽しみや成果よりも、それらがずっと大きいかもしれない。そう覚悟を決めて、がんばる。たとえ報われなくても、がんばりそのものを受け入れ、敬う。昨日のことは「しょうがない」と呟いて、それでも今日また歩くのだ。=


生まれた時から、しょうがない存在。

しょうがなくガンバり
しょうがなく受け入れ
しょうがなく敬虔する。

そして、しょうがなく死んでゆこうか。
返信する
寒中お見舞い申し上げます。 (Unknown)
2019-01-08 14:55:52
言語的実存の苦悩⁉

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/d58088f75b2fba9bc3d6a9a97aeb1826


<カウフマンによれば、他者の意見に対する態度には三つの種類がある。

一つは、無関心な態度であり、このような人にとって、全ての意見は相対的に「等しく妥当する」(gleich gültig)がゆえに「どうでもいい」(gleichgültig)ことになる。

もう一つは、不寛容な態度であり、そのような人は、自己の絶対的な信念に逃げ込んでしまうので、他人の意見を確かめたり、補ったり、修正したりする気持ちを持ち合わせていない。

最後の一つは、寛容な態度であり、それは、真理の獲得のために自らを他者に開き、一定の判断と答責を行うが、しかし、常に自分は間違っているかもしれないということを弁えている。そして、このような寛容の原理の背後には、真理の存在は寛容の必要条件であるという考えがある。>

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/2bdb601c60552ea8efc953ddbfe65a9b

もう一度。

<このことに改めて気づいたとき、我々は何を倫理の根拠とすべきなのでしょうか? 「必要」を超える「価値」(あるいは「幻想」)は何なのでしょうか? >


根拠が不明な中、「必要」や「生産」などという言葉は、さらに実存を傷付け、無明を顕にするようですね。
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Unknown (Unknown)
2019-01-08 03:46:55
釈尊がノイローゼ気質との説がありましたが、もし病院へ行かれたとして、どのような診断が下されるでしょうね。

尚、入院以外で。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-08 01:13:21
ある時点で得られる情報が完全であれば、未来は自然と予測が可能なわけです。
しかし、その自然であるはずの性質のいくつかは偶然に支配されているわけです。
たとえ情報が完全でも、予測通りにはならないという事実があるとすれば、自然はサイコロを振ることがあるわけです。
そういう意味では人間は自然といって差し支えないでしょう。
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天然と自然は違うのか? (Unknown)
2019-01-07 20:24:03
自然記念物は無いようだ。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/6d7755b5b99ad320b868d1e479358da1

ありま記念はあっても
ありのまま記念は無い。
返信する
如何に問うか (Unknown)
2019-01-07 20:05:50
何故と問い
何故を止め
如何に決めるか。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/436c3d59d196093c588c9ea20ff28de2
返信する
「不自然」の意味 (御坊哲)
2019-01-07 12:22:39
仏教は「自然(じねん)」ということを重要視します。「不自然」からはもっとも遠い宗教ではないでしょうか。
南さんの「超越」という概念についても、私は「不自然」または「超自然」というふうに解釈しています。
例えば「輪廻説」です。自然を観察していて輪廻が読み取れるということは先ずありません。誰かが根拠なしに導入した超自然的な考えであります。こういうのが不自然であるということではないでしょうか。
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「自然」の意味 (御坊哲)
2019-01-07 12:12:21
同じ言葉でも人によっていろんな解釈が生まれてくるのは仕方ないことかもしれませんが、「自然」とはもともと仏教用語で「はからいのない」という意味でした。江戸の末期から明治にかけて、英語の nature の訳語として割り当てられたため、新たに「山川草木」の意味が加わったのです。

「はからいのない」という原義に照らせば、zipさんの『人間の意志』的なものを「不自然である」とする考えも理解できないではありませんが、『人間の意志』そのものは人間が生み出したものではなく、自然に発生してきたものであります。

>物理学的な観点から言っても、やはり生命というものは不自然であり、その特異さ、異常さがあると思うわけです。

物理学的な観点という大局から見るなら、生命も自然法則に従って生まれてきたものであり、いささかも不自然ではありません。

プリゴジンの理論はエントロピー増大を否定しているわけではなく、宇宙全体のエントロピーは増大していくとしても、局所的にシステマティックな平衡状態が生まれるのは「自然」なことであると主張しているのです。
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Unknown (Unknown)
2019-01-07 09:46:55
「業を煮やす」って由来はなんだろう。


イエスちゃんしってますか?
改めてみると面白い言葉ですね
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Unknown (Unknown)
2019-01-06 20:59:46
「言葉」が不自然なもの?として、自己に被爆し続けていることが、不自然さから脱却できないのかもしれませんね。

言葉とは、「人工的なもの」として、位置付けられるんでしょうかね。
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Unknown (ZIP)
2019-01-06 20:39:28
物理学的な観点から言っても、やはり生命というものは不自然であり、その特異さ、異常さがあると思うわけです。
散逸構造と言いつつも、エントロピーの増大を
自らを壊して平衡状態を保つわけですから、動的な非平衡状態を自ら作り出している、さらに自らを修復し、複製するといったような事が物理法則で説明可能とはとても思えないわけです。
強いて言うなら人間という生物の勝手気ままな選択や意志などというものは、宇宙空間において他にその例を見ないという事実をもってして全くと言っていいほど物理的に孤立しているわけです。
地球という天体は宇宙空間において極めて異常な存在であり、物理学的な決定論には決して収まらない予測不可能な複雑さを、身をもって体験できるカオスの世界です。
予測できるはずの決定論が大して役に立たないカオスの世界にこそ、倫理や道徳を自らに課し秩序を維持していく必要があると思うわけです
何故なら、地球以外の天体には移り住むことが不可能なほど、地球に適応しきってしまっているわけです。
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竹下通り元旦軽自動車暴走「オウムの死刑に対する報復でやった」ふざけた供述にネット上で怒り爆発 (Unknown)
2019-01-06 10:20:03
やはり出たか・・・

https://search.yahoo.co.jp/amp/tablo.jp/amp/case/news004317.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-06 10:15:07
サツの手に負えないところを、僧侶が担っている訳で、また逆も然りだけど、謝って済むなら僧侶も要らん、となるよね?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-06 10:05:53
どちらも、「殺してはならない」とか、死や事件に関わる立場なんだから、少しは協力してもよさそうだけどね。
返信する
そうだ (Unknown)
2019-01-06 10:01:27
僧侶の送り迎えはサツにしてもらう案は?

世の中、道徳的に善くなる、かも?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-06 09:56:17
僧侶の袈裟にケチつけて、6千円の違反キップとか、ある意味笑えるけど、倫理的にはどうなの?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-06 09:19:40
個人の都合をその都度酌量していたら、法治が成り立たないだろ

「法事に行けない」なら、その宗派で解決すべき問題だと思うがね
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-06 09:13:50
僧衣で運転して事故ったらとんでもないことだ

いちいち反発せずに素直に従えよ。
返信する
伝えて下さった「日本曹洞宗」には感謝。 (イエスちゃん)
2019-01-06 06:41:55
『その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。
なぜなら、「さらに生きる」(「自己」を維持する)決意に論理的な根拠は無く、
要するに思い込み(「信」、私に言わせれば「賭け」)だからです。』

道元和尚に会った。
つまり『正法眼蔵』全87巻に出合った。
これが「理解したい」を私の中に誘発した。

これは「道元和尚の意思だ」と思う。
こころは、時代と空間を超えて、繋がる。

だから、道元和尚は懸命に遂行して執筆なさった。
「直筆や、写本」の「写真本」を見て読みながら、
筆でこれを書いている姿に思いが馳せる。

全「一百」巻には、未完となったが…
伝えて下さった「日本曹洞宗」には感謝。
返信する
頭と心の乖離 (Unknown)
2019-01-06 04:04:22
我が実存の根拠として
散逸構造説(生命自然発生説)であっても、
超越(神)創造説であっても、

我が実存の無根拠性に於ける
慢性病的「存在不安」症が
癒える事は決して無い!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-05 23:41:29
👤「袈裟を着た僧侶が、運転して法事に行ってはいけないのですか?」

👮「いいえ。いけないのではありません。規則があるのです。」

👤「その規則は正しいのですか?」

👮「正しいかどうかではありません。決められた規則に従っているだけです。

👤「では、あなたの上司宅に向かう僧侶でも、規則に従うのですね?」

👮「いいえ。上司に指示に従います。」

👤「何だそれ。」

👮「それも、規則ですから。。」

👤「何だそれ。」
返信する
そもそも (Unknown)
2019-01-05 22:52:47
運転に支障があれば、運転できないだろうに
意地でも巻き上げようとする
ヤレヤレ┐(-。-;)┌

院代様も福井で運転の際は、お気を付け下さい。

その警官家の法事で、僧侶がスウェット着て行っても文句いうなよ!
L(゚皿゚メ)」
返信する
ざわざわ (Unknown)
2019-01-05 19:10:59
<「僧衣で運転」に青切符、法事行けぬと宗派反発

 福井県内の40歳代の男性僧侶が9月、僧衣を着て車を運転したことを理由に、同県警に交通反則切符(青切符)を切られていたことがわかった。県の規則が「運転操作に支障がある衣服」での運転を禁じているためだが、僧侶の多くは日常的に僧衣で運転しており、男性は「法事に行けない」と反則金の支払いを拒否。所属する宗派も反発する異例の事態になっている。

 県警や男性の説明によると、9月16日午前10時過ぎ、福井市内の県道で、男性が軽乗用車を運転していたところ、取り締まり中の警察官に制止された。警察官は「その着物はだめです」と告げ、青切符を交付。違反内容は「運転に支障のある和服での運転」と記され、反則金6000円を納付するよう求められた。男性は法事に行く途中で、裾がひざ下までの僧衣を着ていた。20年前から僧衣で運転しているが、摘発は初めて。

 男性に適用されたのは、福井県道路交通法施行細則にある「運転操作に支障を及ぼすおそれのある衣服を着用して車両を運転しないこと」との規定だ。

 警察官は、男性が着ていた僧衣の袖や裾が運転に支障があると判断したとみられるが、県警交通指導課は「僧衣がすべて違反ではなく、状況による」と説明。基準は明確ではない。>


これでは、お坊さんの運転も肩身が狭くなりますね。
返信する
実存構造の自覚 (Unknown)
2019-01-05 15:23:40
どこまで自覚できているのだろう。
どこまでが自覚と言えるのだろうか。

自然が被爆すると不自然となる?
だが自然の治癒力でもって、無常と縁起のなせる業で、そのダメージは回復されてゆく。

だが無常をナメてはいかん。
返信する
生物を特別なもの。人間を特別なもの。それは偏見。 (イエスちゃん)
2019-01-05 08:05:21
いちゃもんをつける意図はありません。

ただ、
生物を特別なもの。人間を特別なもの。
それは偏見だと思います。

シュレーディンガーは、生物には特別な物理法則が働いているのではないか、
と考えて追及しましたが、
何も特別な法則はなかった、のです。

単純な水素みたいな原子から、複雑な原子に変化していきますが、
生物もこの「より複雑化への変化」のひとつです。

単細胞生物から、多細胞生物が生み出されてきますが、普通の物理法則の下で起こります。

神様の手助けなしで。

宇宙が誕生し、維持し、消滅する。
その変化の中の一つです。

生物を特別として見るこころは、
そのまま、人間を特別と見るこころになります。

動物と人間を区別して、酷いこともします。
動物と人間は同じだ、
というのが仏教の「観」「見方」だと考えています。

動物にも「開かれた」こころを…
返信する
生命は自然 (御坊哲)
2019-01-04 21:31:50
イエスちゃんさんの仰るように、「自然には不自然なものは存在しない。」とするのが私も妥当であると考えます。
プリゴジンの散逸構造は、生命が自然に生まれてくるということを科学的に証明した理論であります。
返信する
御無沙汰しております。 (高崎)
2019-01-04 20:45:16
ご無沙汰しております。赤坂別院で仏教私流を聞きに行っていたものです。道徳と倫理の違い考えてもみませんでしたが、なるほどという感じです。
正月明け、東京でお話しされる旨を知り申し込みをしました。
久々に南様のお話をお聞きできるの楽しみにしております。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-04 16:43:39
>自己は外界の構成物。自己と外界とが「感応道交」し合う。

自己と外界、どちらも「自然」ですかね。
どちらかが不自然では、自然ではなくなりますかね。
返信する
自然には不自然なものは存在しない (イエスちゃん)
2019-01-04 16:35:02
自然には不自然なものは存在しない。し、しえない。

人間には偏見があるので、あたかも不自然なように見えるだけ。


要は「自分の作った物差し」を、自然に当てて、測ろうとしているだけ。
自然は悪くない。物差しが悪い。それだけ。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-04 10:07:24
生命は物理学的に言って大変不自然なものです
エントロピーが増大する過程の中で、散逸構造とは違うことが起きているわけです。
エントロピーを自ら取り込みつつ、自ら自己を壊しながら自己を保存しているわけです。
バランスを保つ為にバランスを崩すというおかしなシステムです。
宇宙を構成する一部として説明のつく法則性が生命には当てはまらないというわけです。
宇宙と調和をするようなものではありません。
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自己は外界の構成物。自己と外界とが「感応道交」し合う。 (イエスちゃん)
2019-01-04 07:52:55
『生命にとっての自己は「その内側に根拠を持たない」、
外側の環境に左右された「無意味なシステム」と言って差し支えないわけです。』

自己は外界の構成物。
自己と外界とが「感応道交」し合う。
「自己」と「他己」とが響きあう世界。
それに目覚める。

それが釈尊の仏教だ、と思っています。
言葉では、「意味付け」できない世界。

つまり、これが「言葉では意味のない世界」です。
返信する
「自己」のために「仏教」を学ぶ??? (イエスちゃん)
2019-01-04 07:35:42
『揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。
揀択ノ心を放下すと云フは、我を離るるなり。
所謂 我ガ身 仏道をならんために 仏法を学する事なかれ。
ただ 仏法のために 仏法を行じゆくなり。』

「自己」を「離れる」を、「学する」なり。
返信する
「自」と「他」とを分けるのは「言葉」 (イエスちゃん)
2019-01-04 07:19:51
『仏道をならふといふは,自己をならふなり。
自己をならふといふは,自己をわするるなり。
自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり,休歇なる悟迹を長々出ならしむ。』

人間は「言葉で理解した意味空間」の中で生きる。
「外界を写し取った、別の情報空間」の中である。

そこでは「自己」と「他己」とは、分けられている。
しかし、「大脳皮質のニューロンの働く空間」の外では、
所謂「自己」と所謂「他己」とは連続している。

『…、「自己」を「他者」に開き、
「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。』
返信する
感情失禁 (Unknown)
2019-01-04 05:42:12
他者への開け、か。

日本は韓国という隣人をどう理解すればよいのでしょうかね。

もし在韓米軍が撤退するようなことにでもなれば、日本もいよいよ覚悟を決めなければならないでしょうね。
返信する
熊本の皆さん (Unknown)
2019-01-03 19:27:55
震度6との速報が入りました

帰省中の方も多い時期ですが
無理な移動は考えものです

ご無事でありますように(-人-;)
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-03 04:29:30
坐禅は価値が無く、意味が無く、従って根拠もないと説く御仁も居るが、

只管打座にはする理由(=根拠)があり、する価値が有り、そうする意味が有る事は承前である。

仏教に於いて
それだけを抑えて置けば、ほぼ充分であるとも言える。。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-03 03:20:57
>自分の思考方式をうまく調整すれば
嫌なことを嫌だと思わない様に出来るのか?

同時に、好きなことも好きだと思わない様になる、というカラクリ付きですかね。

これぞ中道?
返信する
allright (Unknown)
2019-01-03 03:15:06
大難しい理屈を考え、簡単に生きる。

できるかな?
返信する
訂正 (Unknown)
2019-01-03 03:04:17
弧・・・>孤
返信する
蛸哲学より実践女子大 (Unknown)
2019-01-03 02:59:25
自己は事故
他己は蛸(タコ)

我は蛸とは別の生き物なり。
固体(固有体)として唯一無二な弧(=一人)として立つ(=存在してる)は当たり前。
それが「生きている」という事だ。

ならば、
生きている間、なるべく嫌なことに出くわさずに済む事を願うのみ。

自分の思考方式をうまく調整すれば
嫌なことを嫌だと思わない様に出来るのか?
我が仏教を使えるかどうかと
問うのはこの点のみである。

小難しい屁理屈は不要である!!
返信する
「おっさんずラブ」少し面白い (Unknown)
2019-01-03 01:59:09
>『存在するということは、実存することによって孤立することである。』

存在がスルとか、実存がスルとか、何なん。

もともと孤立じゃないの?
返信する
本質って何? (Unknown)
2019-01-03 01:36:32
分かりやすく言うと、「現象」は外側から見える上辺のもので、「本質」は内側にある本当のもの、というところでしょうか。

例えば「なぜ勉強をするのか?」という理由を考えたとき「現象」は、「みんながやっているから」で、「本質」は「将来の夢を実現させたいから」という感じです。

これでいくと、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」

現象➡「皆がやってるから」
本質➡「近い将来捕まるから」

という感じでしょうか。
返信する
訂正 (ZIP)
2019-01-02 22:08:18
『存在するということは、実存することによって孤立することである。』
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-02 21:18:43
>生きているに際しての
自分なりの実存の根拠を
論理的に(=自分用に)創り出す事は、かなり簡単ではなかろうか。


自分用だけに創るという事なら、いかようにも設定できるのではないでしょうかね。ですが仏教は、無我や無常が絡んできますから、論理的に破綻しませんかね。

また仏教的には、根拠がない事を説明する立場でもあるでしょうから、簡単に根拠を創り出そうものなら、批判対象または、仏教以外となるのではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-01-02 20:39:25
>ネガティブ思考に沈んだままの結論ならば、言葉は無明の域をまぬがれ出ない。

ネガティブとポジティブは相対的な事柄ですし、言葉が問題なら、どちらであっても、無明の域を免れない、と言えるのではないでしょうか。
返信する
例えば結婚 (Unknown)
2019-01-02 20:30:40
①相手と一緒になると決意する。
が、気持ち的には「絶対この人」と、思い込んでいる訳ではない。

②相手と一緒になる決意は特にない。
が、気持ち的には「この人以外にいない」と、思い込んでいる。

③相手と一緒になるという事に、決意や思い込みだけは強い。
が、実行しない。

④相手と一緒になるという事に、特に決意や思い込みもない。
が、周りに流され実行する。


この何パターンかを見ると、「意思すること」と、「実行すること」でも、内実が変わると思うのですが、どうでしょうか。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-01-02 20:08:02
言語=無明ということであれば、それこそ人間の本質が無明であるという事です。
無明によって自己が閉じているということは、言い換えれば他者と関わることで自己を閉ざすことが可能だという事であり、それこそ自己の根拠の無さを指しているわけです。
生命にとっての自己はその内側に根拠を持たない、外側の環境に左右された無意味なシステムと言って差し支えないわけです。

レヴィナスはこう言っています。
『存在するということは、実在することによって孤立することである。』
返信する
決意=思い込み? (Unknown)
2019-01-02 20:01:05
決意と思い込みを、一緒くたにしてよいものだろうか?
思い込みって、決め付けや勘違い的な要素があるから、一緒くたに考えると間違うような?

何かを「する・しよう」とする決意と、「そうだ」とする思い込み、というような意味とする場合、要は、思い込みに過ぎない、という事とは「別物」だと、私は考えます。
返信する
「なぜ意識は実在しないのか」 (Unknown)
2019-01-02 19:52:22
その「実在」って何のことだろう?意識以外は、実在するってことだろうか?

「言葉」も実在しないと言えば、しない。

「感応」も実在しないと言えば、しない。

あえて、「意識」だけに絞られてるんだろうか?
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「地球圏」に目的があるのか? (イエスちゃん)
2019-01-02 13:41:53
「地球圏」そのものは生きており、その構成要素として「無生物」「生物」「無生物とも生物ともいえないもの」があり、
その中に「人類」があり、そして「自分」がある。

「言語作用・機能・機関」「頭脳と喉の構造とそれの連携」は、或る目的に向かって「造られたもの」「できたもの」ではない。

「生きようとするからくり・現象」の行き着いた「結果物」である。
流れの途中の産物であり、今後もどんどん変わっていく。

「家族愛」から「隣人愛」「郷土愛」、更には「人類愛」。

「イメージ力」で、現実の束縛、物理的世界を、超えて行く。
(頭脳の中に「自己の世界」を構築して、その中で生きる。他者にその世界を拡散する。)

外から見ると、
大きな「物質の流れ」が、変化させて、「自己自身」を出現したもの。

法華経では、この現実世界は
「人間の眼には」火事で燃え落ちる家「火宅」その中で遊び続ける子供たちに見える。しかし
「仏の眼には」穏やかな世界であり、天女が舞い、花弁を撒き、妙なる音楽が流れる「この上ない世界」である。
と教える。

人類の進化で「造り上げて来た言語」では「意味」付け「できない世界」である。

「地球」そのものに「意味」付けできないのと同じこと。

しかし、それを本当に理解すると「我の欲」で生きることから解放される。

自己と他者との境界の設定は、「言葉」「概念」「認識」「文明」「文化」…
「大脳皮質のニューロンのネットワークの構築と活性不活性の状態の伝播現象」
…広い意味での物質の流れ。

今までの「自己」と思い込んでいたものの解体に至る。

『新たな「自己」を課すためです』

この基盤の上に、新たな「自己」の再構築する事である。
前のに代わる、別の「自己」の構築ではない。
全く次元の異なるものである。

「言語」を道具として自覚して、「意味」と「価値」とを、無から創造していく行為である。

「空」とは「虚無主義」ではない。
そして「言語そのもの」への批判が、その根底にある。

南師が、「無明」とは「言語」である、という所以である。

無意味な世界だからこそ、そこに新しく意味を築き上げていく必要があります。

それの最大の阻害要因が、「自己」を実体視して、その結果、「他者」に閉じてしまう事です。

「他者」に拓いていく。

道元和尚はこの姿勢を、
「自己」と「他己」と表現なさいます。

仏教は、
「虚無主義」では、ない。
そして「密教」でも、ない。
「梵我一如」は「言語が作り出す・錯覚」です。
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Unknown (ZIP)
2019-01-02 09:42:57
思い込みで生きていけるのであれば、それはそれで大変結構なことです。
思い込めることが可能でありさえすれば、別に宗教などに頼らなくても生きていけるわけです。

生きることが無意味、ということは目的がないという事と同じことです。
そもそも生命の本質は、目的を持たない無意味なシステムです。
一般的にいって、システムとして成立させるには目的がなければならないはずですが、生命は目的を必要としない無意味なシステムです。
思い込みなど元々必要な条件ではありません。
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Unknown (Unknown)
2019-01-02 04:26:45
和尚さん自身としては「他者への開け」で、
生きる決意に論理的根拠を打ち出した訳だから、
それがたとえ、思い込みに過ぎなくても、

人はその「思い込み」によって
充分この世を生きていける。
それだけあれば充分である。
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追加 (Unknown)
2019-01-02 04:20:19
「生きる」という生物的属性に論理的な根拠は無くても、

生きているに際しての
自分なりの実存の根拠を
論理的に(=自分用に)創り出す事は、かなり簡単ではなかろうか。

ネガティブ思考に沈んだままの結論ならば言葉は無明の域をまぬがれ出ない。

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補足 (Unknown)
2019-01-02 04:12:33
少欲知足=煩悩・執着にこだわらない心
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Unknown (Unknown)
2019-01-02 04:09:28
>「さらに生きる」決意に論理的な根拠は無く、要するに「思い込み」(にすぎない)。

それならば、
「仏教に生きる」決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込みに過ぎない・・のか??

生きる者が
「仏道に生きる」と決意した時の
論理的な根拠は、
少欲知足こそが、この世に心の充実感・心の安らぎをもたらす真の力となる、
という事ではないのか??
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Unknown (Unknown)
2019-01-01 17:50:31
<意識はたまたま私秘性をもつのではなく、むしろ私秘性を実体化したものが意識である>


永井均 「なぜ意識は実在しないのか」より
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謹賀新年🎍 (Unknown)
2019-01-01 14:09:22

明けまして
おめでとうございます


お雑煮は
食べられたでしょうか


凧上げも最近はあまり
見当たらなくなりましたね


今年も宜しくお願い致します
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年が開けても (日の出前に)
2018-12-31 23:59:29
悟りは開けないし、根拠も開かない。

ではどうする?

坐禅で開き続ける!

よし、やるぞ!
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とりあえず (ゆく実存くる実存)
2018-12-31 23:24:36
皆さま、今年もお疲れ様でした。

来年は、猪突猛進
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柿の木問答 (Unknown)
2018-12-31 19:52:07
賢坊さんは、新婚なんでしょうか?

http://netabare1.com/4600.html
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柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 (賢坊)
2018-12-31 16:44:43
一年間、妻の実家にある柿の木の手入れをしてきて、晩秋に多くの実を付
けました。四本の木に300個程度はあったかと思います。そのうちの一
本が食べごろになったとき、買い物に出かけようとしている妻に収穫を頼
まれました。柿が大好物の私は、もちろんすぐにそれを引き受けました。
帰ってきた妻は、柿の木を見て、激怒しました。
「なぜ、全部収穫したの。亡くなったお義父さんが、言っていたのを忘れ
たの。鳥が食べる分として数個は残しておかないといけないでしょう。
仏教を学んでいるとは思えない。もう、あなたのことを信じられない。」
私は思わず反論しました。
「お前は一年間何もしていないから、そんなことが言えるのだ。一年通し
て、いろいろと手間がかかり、額に汗してきたのは俺だぞ。」
妻はさらに激怒しました。
「いろいろと柿の木を世話してきたのはあなたでしょう。しかし、柿の実
は誰のものでもありません。しいて言うなら、柿の木のものです。あなた
のものでは決してありません。鳥が食べ残して、地に落ちたものは虫たち
が食べていきます。皆で食べるものです。もう、あなたに収穫は頼みませ
ん。そして、あなたには柿の実を食べさせてあげません。」
結局、食べさせていただきましたが、先日、柿の木の根元に肥料のすき入
れ作業をしました。また、一年間の作業開始です。
来年の秋、私は鳥や虫たちに自己を開き、彼らを受け入れて、自己を再起
動させることができるのでしょうか。・・・・む、む、む・・・合掌
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死刑囚のような顔って・・・ (Unknown)
2018-12-31 16:41:18
我々は、囚人かもしれない。
いつ死刑囚になってもおかしくない。


というような、
講演会かもしれません。
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言葉への勘違い(=思い込みの問題) (Unknown)
2018-12-31 14:08:28
「空」一つ取っても、様々な解釈がありますからね。「真理」にしても、ワチャクチャ好き勝手に言われますからね。

そこを、「違う違う」とメスを入れることができるのは、倫理的立場の人、且つ南禅師のような人しか無理無理です。

尤もらしく聴こえる道徳は、疑う視点を持つ、ということでもあるでしょうか。
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見つけました「講演会」について (Unknown)
2018-12-31 13:37:48
僧侶が多かろうと、気にされることはないのではないでしょうか。
「僧侶のみ」という案内でもないようですし、有料ですし、「堂々と」参加されても宜しいのではないでしょうか。
テーマがテーマですので、楽しめるかは保証しませんが、仏教私流のような雰囲気かと思われます。
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教えて下さい (Unknown)
2018-12-31 11:45:22
「見つけました」とのタイトルでサンガでの講演のアドレスを書いて下さった方、ありがとうございます。
これって僧侶の方が多いのでしょうか?素人が聞きに行っても楽しめるのでしょうか?時間と場所はOKなので行きたいのですが、カルチャーセンターの講演と違って敷居が高いのです。どなたかいらした事があれば雰囲気を教えて下さい。
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大晦日 (Unknown)
2018-12-31 06:51:50
年の瀬
ありがとうございました。
楽しく読ませていただいています。(少し難しいくだりが多いですが)
来年も宜しくお願いします
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「業生」から「願生」で「生きる」へ変わる (イエスちゃん)
2018-12-31 05:13:54
『その「受け容れる」ための最も根源的な方法が宗教だと、私は思います。
なぜなら、「さらに生きる」(「決意に論理的な根拠は無く、要するに思い込みだからです。』


「業生」から「願生」で「生きる」へ変わる。
「過去の業で流されて」生きるから、
「未来へ向かっての願に」生きるへ。

衆生無辺 誓願 度 (しゅじょうむへん せいがんど)
・・・
煩悩無尽 誓願 断 (ぼんのうむじん せいがんだん)
法門無量 誓願 学 (ほうもんむりょう せいがんがく)
仏道無上 誓願 成 (ぶつどうむじょう せいがんじょう)

地上のあらゆる生き物を全て救済する誓願
煩悩は無量だが、全て断つ誓願
法門は無尽だが、全て知る誓願
仏の道は無上だが、必ず成仏する誓願


四弘誓願(しぐせいがん)
菩薩が、仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願
曹洞宗では、「行持」で何度も唱えます。
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大まかに (Unknown)
2018-12-31 02:10:12
[使い分け]

「道徳」は、人間が社会の一員として守るべき行為の基準となるものをいう。

「倫理」は、社会的な行動の規範となるものをいう。

「モラル」は、「道徳」と「倫理」両方の意味で使われる。
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50代後半 (Unknown)
2018-12-31 01:56:08
夜中のトイレ回数が増えました。おかげで、熟睡感も瀕しております。

さておき、他者に開くと言いましてもね、この年頃にもなりますと、酒の場で開けっ広げになるくらいが関の山でして、恥ずかしながら傍迷惑をかけてしまうだけですね。

普段は、仙人のように口を閉じていますが、開けたところでね、棺桶の話くらいしかできそうにありません。
宜しければ、対処法を教えてもらえませんか。
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言葉への執着(=好みの問題) (Unknown)
2018-12-31 01:32:04
「道徳(moral)」はラテン語(mores)から翻訳。
「倫理(ethics)」はギリシャ語(ethos)から翻訳。

両者とも「慣習・習俗」の意味から発して、
しだいに、或る集団の中で守られるべきルールや行動様式全般を指すようになった。
本来、全く同じ意味なのだが、
全く同じ意味の言葉が2つあるのはもったいないので、

後代の思想家は自分なりに定義して、自分の好みによって、独自風に仕立て上げ、両者を使い分けたりした。。。。
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Unknown (Unknown)
2018-12-31 01:07:49
A「なぜ、人を殺してはいけないんですか?」

B「というか、人を殺してもヨイと思ってるんですか?」

A「はい。」

B「それって、ヨイ事なんですか?」

A「ヨイとは思っていません。」

B「なら、もう少し、根拠を問うてから、質問して下さいね。」
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秩序説 (Unknown)
2018-12-31 00:53:39
社会規範、行動規範、思想規範など、
人間社会において、何を規範としているのか。支配的・独裁的、束縛的であるか否か、人としてどうなのかなどを、総合的に示すのが倫理?

https://www.rs.tus.ac.jp/makita/stellung/stell_phi_gut_j.html

臨床倫理から

http://clinicalethics.ne.jp/cleth-prj/cleth_online/part1/about_more.html

医療現場から

https://www.nurse.or.jp/nursing/practice/rinri/text/basic/what_is/index.html

中国だけではない

http://news.searchina.net/id/1609098?page=1
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Unknown (20代半ば)
2018-12-31 00:14:59
よいお年をお過ごしください。
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Unknown (Unknown)
2018-12-30 23:20:03
お写真は、死刑囚かのような雰囲気も漂いますが、大丈夫でしょうか。

同じ講演者の他の方たちが、ニコヤカなカメラ写りだからか、少し目立つだけかもしれませんが、、

カメラマンも、もう少し写真の「選択」をされても宜しかったのでは、と。
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見つけました (Unknown)
2018-12-30 20:11:22
南さん、随分と御疲れのような御写真ですが、講演会でお倒れになりませんよう、どうぞ養生なさって下さいね。

https://samgha.co.jp/samgha-club

行きたいのは、行きたいです!
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今年もお世話になりました (Unknown)
2018-12-30 18:59:42
一年間楽しませて頂きました。半分くらいは理解出来たかな?と思います。ここまで論理的に説明出来るのは南さんくらい、というコメントがありましたが、私に言わせて貰えば、ここまで難しく説明出来るのは南さんくらいだと思います。昨夜読んだ時はクラクラしました。年末の大寒波の折、どうぞお気をつけて良いお年をお迎え下さい。
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暮らしのなかで (榮久)
2018-12-30 13:51:20
世の中には犬好き猫好きがいるように、
犬嫌猫嫌いもいる
そんなことはわかっている
人にはそれぞれの好き嫌いがある
そしてこれはどうしようもない
だから人は譲り合って折り合うのである
本当は、それが社会というものだろう

人間は自由にすると悪いことをする
だから規則で規制しなけばならない
管理する側はそう思う
しかし、規則で規制したところで
悪いことをする人間は、悪いことをする
逆に、善悪とは規則のことだと思うから
自分で善悪を判断しなくなる、できなくなる
状況に応じて自分で善悪の判断のできない人間たちの社会が善い社会になるわけがない


倫理的な人は倫理とか考える以前に
否応なく生きていてる
まじめに生きている人は、
みんな気づかずに倫理的であろう
倫理は講壇にあるのではなく生活のなかにある
生活ということから言えば
何かを持とうとか、
普通の生活上の欲望を持っていると
やはり思索は、生活に災いされた思索しかできない
西行も芭蕉も、そして釈迦も、俗世界の生活を放擲した
アウトサイダーにならなければ
何かが見えて来ない
日本は生活の国だから、
感覚の向こうの思索に到達するのは難しいのであろうか
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Unknown (Unknown)
2018-12-30 12:29:11
>自己」が「自己」よって(=自己責任で)「自己」を開始る
「開始る」とはなにか?
>「課された自己」全体の動揺は、あらたて「他者」に対して
「あらたて」とはなにか?

揚げ足とりのようで恐縮だが
誤字脱字未チェック状態でアップするのは文責の観点からいって「道徳」的ではない。
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正義と善 (ノリィ)
2018-12-30 11:53:14
早いもので年の瀬ですね。
今年も10日ごとの楽しみにさせて頂きました。
南さんの言葉が読めて、こちらこそ有難いです。

南さんの場合『道徳』と『倫理』に分けて考えられていたのですね。
私も以前から『正義』と『善』の区別について考えていました。
この発想を初めて知った時は戸惑いましたが、
なるほどそうすると≪正義が何故争うのか≫について
説明することができます。

正義とは『ルールまたはルールを守ること』であり、
それそのものは善性を持たない。
例えば≪仲間を守るべし≫というルールが発動すれば
二つの勢力が互いの仲間を守るために戦っても不思議はありませんよね。

ただルールには根拠が必要となりましょう。
ここに『善』が関わってくる。
それが『善いこと』であるから、そのルールを守らなきゃいけないのであって。

南さんは『倫理』という視点で捉えたんですね。
それを『他者を受け入れる自己』によって説明されている。
確かに「自分がされたら嫌なことは他人にしないようにしよう」という倫理は
他者を受け入れなければ成立しませんよね。
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Unknown (雪月花)
2018-12-30 08:25:25
『「他者」に「自己」を「課される」のではなく、「自己」を「他者」に開き、「他者を受け容れる自己」へと構造転換するわけです。』

この度のお話はすべての箇所について引用したい・コメントしたいのですが、あえて1箇所のみをコメントなしで引用いたしました。

今年も様々にありがとうございました。
心より深く御礼申し上げます。
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お礼 (橋本)
2018-12-30 06:48:10
悩んでいる真っ只中に拝読致しました。
ありがとうございます。
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Unknown (浅野)
2018-12-30 06:32:21
サンガ出版ですね。
自己が他者に課され、他者を受け入れる自己に転換するのは、その通りです。
これは、社会人になれば、誰もが倫理的自己に迫られることと思います。その先に欲望としての、自己からの離脱、逃避も(他者を受け入れるとは善的行為の自己責任と志)。
よく、「自分を受け入れなさい」、とは、こういう構造になっているんですよね。ここまで、論理的に説明できるのは、南さんくらいですよね。
今年もありがとうございました。
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単純明快 (Unknown)
2018-12-30 05:01:56
道徳とか倫理とかの理屈を
「何故」と問わずにいられない成人もいる。

彼等には小児・未成年者を教える
「道徳・倫理」教師の役割が自己の生存の根拠になるだろう。

一般成人たるわたくしは、
フワッと認識した(道徳・倫理の)概念の内に、

他者に害毒を及ぼせば、
結局、人間共同体が成り立たなくなるよとか、
罰せられるとか恥であるとか因果応報になるとか、
由って、心が不安となってざわつくとか・・・

だから基本的には
八正道に照らし合わせて生きて居れば
心のやすらぎを得られるとかの、
実践(=何故ではなく如何に!!)で
生きるを持って良しとするのみである。

小難しい理論はあまり必要としないのである。
返信する
単純明快 (Unknown)
2018-12-30 05:01:33
道徳とか倫理とかの理屈を
「何故」と問わずにいられない成人もいる。

彼等には小児・未成年者を教える
「道徳・倫理」教師の役割が自己の生存の根拠になるだろう。

一般成人たるわたくしは、
フワッと認識した(道徳・倫理の)概念の内に、

他者に害毒を及ぼせば、
結局、人間共同体が成り立たなくなるよとか、
罰せられるとか恥であるとか因果応報になるとか、
由って、心が不安となってざわつくとか・・・

だから基本的には
八正道に照らし合わせて生きて居れば
心のやすらぎを得られるとかの、
実践(=何故ではなく如何に!!)で
生きるを持って良しとするのみである。

小難しい理論はあまり必要としないのである。
返信する
パソコンみたいですね。 (Unknown)
2018-12-30 01:07:16
初期化からの新バージョンですかね。

そのうち、アップデートもできるのかなあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-12-30 00:44:48
瀬戸内氏が、「道徳は政治が決めた事、政治が変われば世の中も変わるの」、と添付の動画で発言されていましたね。

道徳とは、「その程度のもの」と把握しておく必要がある、という事でしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-12-30 00:31:02
倫理の本とは、「善の根拠」の事でしょうかね。また、そのインタビユーとは何という雑誌でしょうか。

教えて下さい。
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倫理かぁ (マネッチア)
2018-12-30 00:23:28
むつかしいテーマですね。
最後にカーンと、早目の除夜の鐘を頂いたようです。

今年も、多岐に渡る記事を有り難うございました。
寒さ厳しき折、御自愛と共に、よきお年をお迎え下さいませ。
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