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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■心のうめきを祈りに  / 岩井基雄

2011年10月07日 | Weblog
2011/10/7放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。 今日もご一緒に旧約聖書の詩篇を味わいたい思います。今日の詩篇は55篇の1節と2節です。早速お読みします。

 「神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。」 詩篇55篇1節と2節

 私たちの人生において様々な苦難を受け、苦しみのあまり心がうめき、深い嘆きやため息をついてしまうことがありますね。その苦しみや悲しみを誰かに知って欲しい。聞いて欲しいと願うゆえに、うめきは時として祈りへと変わることがあるのですが、あなたはいかがでしょうか。

 そんなうめきのような私たちの祈りを、いやあなたの祈りを聞いていてくださる方がいらっしゃいます。それは聖書が語る神様です。

 天地万物すべてのものを造られた神様は目には見えなくてもあなたの祈りを聞き、そしてそれに答えてくださいます。それは神様があなたを創造しあなたのすべてのことを御存知のお方だからです。

 そして神様はあなたが悲しみや苦しみの中で途方に暮れているときにも傍らにじっと共に居てあなたを支えてくださいます。なぜなら、神様はあなたをかけがえのないものとして愛してくださっているからです。

 先ほどの詩篇はこう続いています。

 「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」 詩篇55篇16節、17節

 あなたの心には現在他の人には到底理解できないような深いうめきや嘆きがあるかもしれません。その解決策など今はとてもないように見えて絶望していらっしゃるかもしれません。しかし、あなたの苦しみや痛みのすべてを受けとめてくださり、あなたをその患難から救い出しくださる方がいらっしゃいます。その方に本当の信頼を置いて心のすべてを全部表してみませんか? 本当の平安はそこから始まります。 聖書が語る神様は生きていらっしゃるからです。

   (PBA制作「世の光」2011.10.7放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■わたしの心だ。きよくなれ / 福井 誠

2011年10月06日 | Weblog
2011/10/6放送
 

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。す。今日のバイブル・メッセージは「わたしの心だ。きよくなれ」です。それではマタイの福音書8章2節、3節から読んでみましょう。

 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。

 新改訳の聖書ではツァラアトに侵された人とあります。ツァラアトってなんだろうって思う人もいるでしょうが、ま、重い皮膚の病を負った人と理解してくださいね。で、その人がイエスのそばにやってきて、ひれ伏して言ったと言います。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。

 その昔、ツァラアトに侵された人がこのようにイスラエルの教師の前に出てくるということはありませんでした。(相手が)教師にしても誰にしても人が近づいてきたなら自分たちを風下に置いて遠くから、自分たちは汚れている、と叫んで人を近づかせないようにしなくてはいけませんでした。

 ところがこの人はイエスを見るや否や、みもとに近づいてきて、その足元にひれ伏したと言います。当時の感覚からすれば、常軌を逸したもので、人々を驚かせ、おびえさせもした行為です。人々はこのあつかましく自分の置かれた状況をわきまえない行為にさぞ眉をひそめる思いであったことでしょう。それだけにイエスの間発を入れない即座の反応に教えられます。

 彼の「きよくしていただけます」と言うことばに対してイエスはすぐに手を伸ばして触り、「わたしの心だ。きよくなれ」という対応をしました。人々の怒りとヤジを引き起こす間もなく、この男を救ったのです。この男は体を癒されたばかりか、人々の非難からも救われました。

 あなたはただ「自分は汚れている。自分には幸せがない。」と神を遠目に肩を落としているだけの人になってはいませんか? 

 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」 ヤコブ 4章8節

「神よ、救ってください。」と神の懐に飛び込んでみましょう。神があなたを救ってくださいます。

  ( PBA制作「世の光」2011.10.6放送でのお話より )

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■最初の殺人  / 板倉邦雄

2011年10月05日 | Weblog
2011/10/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「最初の殺人」という題でお話ししましょう。人類最初の殺人事件が旧約聖書創世記の4章に出てきます。兄のカインは弟アベルに言いました。「さあ、野原へ行こう。」 彼らが野にいた時、カインは弟アベルに飛び掛かってこれを殺した、と書いてあります。

 最初の殺人は兄弟殺人でした。兄カインは弟アベルを野原への散歩へ誘います。農業を仕事にしていた兄にとっては通い慣れた道でした。土地勘もあったでしょう。ですから殺害後直ちに弟を土の中に埋めてしまいました。

 兄カインが弟アベルを殺害した動機は一体何だったのでしょうか。それは兄カインの弟アベルに対する嫉妬と憎しみでした。弟が受け入れられ、兄貴の自分が受け入れられない。いつも人と自分を比べてばかりの毎日でした。弟を見ると兄は劣等感に苦しむのです。やがて憎しみと嫉妬は激しい怒りと憤りに増幅していくのでした。そして殺意へと変わって行きました。あの弟さえいなくなれば、こんな妬みや怒りと憤りの炎に焼かれることはない。そして兄は悪魔にチャンスを与えてしまいました。

 新約聖書にこのような警句があります。「怒っても罪を犯してはならない。憤ったままで日が暮れるようであってはならない。悪魔に機会を与えないようにしなさい。 」 エペソ人への手紙の4章の26節と27節 (参照)

 ですから、私たちにとって大切なことは憎しみや憤りを溜めこまないと言うことではないでしょうか。憤ったままで日が暮れてはならないのです。一日の憂さは一日のうちに晴らせと聖書は言っています。

 ではどうやってですか? ある人は酒、ある人はギャンブル、ある人は異性、ある人は食事だったりします。ではあなたはどうしますか? 一日の終わりに神様に祈ることによって、すべてのごみのような憎しみや憤りを吐き出すのです。神様が心配しておられることを私たちは知っているのですから。

 聖書のことばです。
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
 第1ペテロの手紙 5章7節

 ( PBA制作「世の光」2011.10.5放送でのお話より )

 

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■それに触れる者は  / 山中直義

2011年10月04日 | Weblog
2011/10/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。

 ある時、一人の婦人がこうおっしゃいました。「神様を信じたいとは思います。ですが私は神様から離れた生き方をしているので神様を信じて生きることはできないと思います。」 ご自分のことをよーく見つめた上での正直で謙遜なことばだと思いました。ですが神様と共に歩めるほど最初から強い人など一体いるのでしょうか。聖書はもし私たちが神様を信じて歩みたいと願うならその人自身ではなく、神様がその人をふさわしく整えてくださると教えています。きよいから神様と共に歩めるということではなくて神様と共に歩むから徐々にきよくしていただけるということです。

 さて旧約聖書レビ記6章には神様と特別に親しい関係にあった祭司たちに関する教えがあります。18節にこうあります。
 「それに触れるものはみな、聖なるものとなる。

 ここで言われている「それ」というのはこの祭司たちに与えられていた日々の務めをさしています。神様が与えていてくださる務めを日々大切にしているうちに祭司たちはますます聖なる者、神様と親しい交わりを持つ者として整えられていったのだと聖書は言うのです。

 これは私たちについても同じことが言えます。もし私たちが神様からいただいている務めを大切にするなら、私たちもまた聖なる者、神様と親しい交わりを持つ者として少しずつ整えられていくというのです。

 神様が私たちに与えていてくださる務めとは何でしょうか。新約聖書ヤコブの手紙4章8節にはこうあります。
 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

 神様に近づくっていうこと、神様と少しでも親しい交わりを持とうとすること、それが大切な務めなのだ。そしてそれが私たちを神様に近づけるのだと聖書は教えています。

 「神に近づきなさい。」 具体的には神様のことばである聖書を読むこと、そして神様に心を込めて祈ることを聖書は勧めています。「それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」 聖書のことばに耳を傾け、神様に祈ることであなたも神様と親しい交わりを持つことができるのです。

    (PBA制作「世の光」2011.10.4放送でのお話しより )

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東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)


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■人生の土台  / 関根弘興

2011年10月03日 | Weblog
2011/10/3放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。イエス・キリストはある時こんな例え話をお話しになりました。賢い人と愚かな人が家を建てたという話です。

 一人は岩の上に、一人は砂の上に家を建てました。しかし何日かすると嵐が襲ってきました。風が吹き雨が降り激しくなってきたんですねえ。すると砂の上に建てた家は土台が砂ですからだんだんだんだん崩れてしまい、ついに倒れてしまったと言うんです。でも岩の上に立た家はどうでしょう。しっかりとした岩の上に立っているので嵐が襲ってきても大丈夫だったと言うんですねえ。

 イエス・キリストはこの例え話から、私たちの人生も土台が肝心なんですよということを教えられました。

 それでは一体私たちの人生の土台、何でしょうか。聖書はこう教えます。第一は聖書のことばこそ土台となるのだと教えます。

 イエス・キリストはこう言われました。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24章35節、マルコ13章31節、ルカ21章33節) 

 確かに私たちの周りの目に見えるものはいつかは失われてしまいますよね。しかしイエス・キリストはご自分が語られたことばは決して滅びることがない。無効になることなどないのだと断言されたんです。ですから、決して変わることのないイエス・キリストのことば、そのことばこそ私たちの人生の土台となるんですね。

 そして第二は信仰です。信仰とは単に思い込むことではありません。理性を殺して盲目的に信じ込むことではありません。決して変わることのないイエス・キリストのことばを信じ、キリストご自身を信じ生きていくことなんです。イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)と約束なさいました。ですからイエス・キリストが語られるそうした約束のことばを信じ生きていくのです。そこに本当の重荷わ降ろすことできる平安とそして豊かな愛を知ることができるんですねえ。

 ですから三番目は、人生の土台それは愛ということです。人は愛されて安息し、愛することによって本当の満足を得ることができると言われます。新約聖書の中の多くの手紙を書いたパウロは「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(1コリント13章13節)と記しています。愛はいつまでも残るんですね。そしてその愛の原点は一体どこにあるのでしょう。それはイエス・キリストが私たちの罪のために身代わりについてくださったあの十字架にこそ愛の姿が溢れているんです。あなたの人生の土台、何ですか?

 (PBA制作「世の光」2011.10.3放送でのお話しより)

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■災いの中で 神に心を向けるヨブ  / 羽鳥頼和

2011年10月01日 | Weblog
2011/10/1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。今日も聖書に出て来るヨブという人物を通して「苦しみ」について考えてみたいと思います。

 ヨブは良い人でした。聖書はヨブのことを「この人は潔白で正しく神を恐れ悪から遠ざかっていた」と記しています。そんな彼が一日にして自分の財産を失い、自分の子供たちを事故で失ってしまいました。ヨブ本人は全身に悪性のできものができてしまい、大いに苦しみます。
 そんなヨブに友人のビルダデが厳しいことばを言いました。「あなたの子たちが死んだのは彼らが神に罪を犯したからだ。ヨブよ、自分の罪を告白しなさい。そうすれば神はあなたの義しさを回復される。」
 ヨブは答えます。「そうだ神の義しさの前に人は何も言い訳を言うことはできない。でも私はずうっと神を恐れ、悪を遠ざかっていた。それなのになぜこのような災いに遭うのか、問わずにはいられない。」 そしてヨブは神様に訴えます。「神様、あなたは私を造られたお方です。それなのにあなたは私の罪を暴き、私を滅ぼそうとされるのですか。」
 ヨブは混乱していました。冷静さを失っていました。けれどなお神様に心を向けたのです。

 災難に遭うと多くの人は、神も仏もない、と思います。しかしヨブは災難にあっても神はいないとは思いませんでした。自分の身に降りかかった災いは神様によってもたらされたと確信していましたが、それと同じくらい、この苦しみから自分を救い出してくれるのも神様である、と確信していたのです。ヨブはなぜ自分が苦しむなければならないのか分りませんでした。しかし神様が自分を哀れんでくださるなら自分は救われると信じていたのです。苦しみにあう時、神様を求めましょう。一人どうすることもできない苦しみの中から私たちを救う事ができるのは神様しかいないのです。

 もう一つ覚えておいて欲しいことがあります。それは旧約聖書のイザヤ章63章9節のことばです。

 「彼らが苦しむ時にはいつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、抱いてこられた。

 人が苦しむときに神様も共に苦しまれるのです。そして神様は愛と哀れみによって苦しむ人を背負い、抱いて、救い出してくださいます。

  ( PBA制作「世の光」2011.10.1放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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