2011/10/24放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
イエス・キリストが私たちとの関わり・絆についてお話をしてくださった中にこんなことばをイエス様は語られました。 「わたしはまことのぶとうの木だ。」(ヨハネ 15章1節参照)と言われたんですね。そして「あなたがたはその枝です。」(ヨハネ 15章5節参照)とお語りになりました。
イエス様はわざわざ「わたしはまことのぶとうの木」(ヨハネ 15章1節)と語っているんですねえ。そうすると、世の中には真でないぶどうの木がある、ということですよね。聖書には毒ぶどうや酢っぱくて食べられないぶどうも出てきます。イエス・キリストこそ真のブドウの木で、良き実を結ぶぶどうの木だと教えています。そしてこのイエス・キリストを信じ生きる一人一人はその枝だという訳ですねえ。
そしてイエス様は言われました。「あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ 15章4節)、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ 15章5節)と言われたのです。考えてみればそうですよね。枝が幹から離れてしまったら枯れてしまうだけです。
それではイエス・キリストに繋がるとかイエス・キリストにとどまるというのは具体的にどういうことでしょう。
第一に、それはイエス・キリストの約束のことばにとどまるということです。人の行動はどんな情報を受けるかによって決まっていきます。あなたはもし安売りのチラシを見た時、醤油1本50円、これは安い! このことばを心にとどまらせ、そのことばが心に繋がっていたらもうすでに店に並んでいますよね。例えばイエス・キリストは私たちの罪からの救い主だと聖書は教えていますよねえ。このことばを心にとどまらせたらどうでしょう。どういう行動が生まれますか。罪赦されたことへの感謝と賛美が生み出されてきます。人生には心配や思い煩いがあります。でも聖書には「思い煩いを委ねなさい。主イエス様が心配してくださる。」と記されているんです。このことばがとどまるとき、そこには神様の祈りと平安が生まれて来るんです。聖書の約束、キリストの約束のことば、その約束のことばにとどまり続けることです。
二番目は、イエス様の愛の中にとどまることです。イエス様の愛にとどまるとはどういうことでしょう。人は本当に愛されているということを知った時、初めて愛に生きることができるんです。イエス・キリストの愛は私たちのためにあの十字架で罪を背負う命がけの愛です。命を捨ててくださるほどの大きな愛です。その大きなイエス様の愛の中にとどまるとき本当の安息を得ることできるんです。そして互いに愛し合うという生き方の方向性まで示されていくんですねえ。
イエ様はまことのぶどうの木です。実を付けるのは幹にとどまる枝だけです。イエス様にとどまり続けましょう。
(PBA制作「世の光」2011.10.24放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***
このサイトは URL名として
http://yonohikari.biblica.info
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
イエス・キリストが私たちとの関わり・絆についてお話をしてくださった中にこんなことばをイエス様は語られました。 「わたしはまことのぶとうの木だ。」(ヨハネ 15章1節参照)と言われたんですね。そして「あなたがたはその枝です。」(ヨハネ 15章5節参照)とお語りになりました。
イエス様はわざわざ「わたしはまことのぶとうの木」(ヨハネ 15章1節)と語っているんですねえ。そうすると、世の中には真でないぶどうの木がある、ということですよね。聖書には毒ぶどうや酢っぱくて食べられないぶどうも出てきます。イエス・キリストこそ真のブドウの木で、良き実を結ぶぶどうの木だと教えています。そしてこのイエス・キリストを信じ生きる一人一人はその枝だという訳ですねえ。
そしてイエス様は言われました。「あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ 15章4節)、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ 15章5節)と言われたのです。考えてみればそうですよね。枝が幹から離れてしまったら枯れてしまうだけです。
それではイエス・キリストに繋がるとかイエス・キリストにとどまるというのは具体的にどういうことでしょう。
第一に、それはイエス・キリストの約束のことばにとどまるということです。人の行動はどんな情報を受けるかによって決まっていきます。あなたはもし安売りのチラシを見た時、醤油1本50円、これは安い! このことばを心にとどまらせ、そのことばが心に繋がっていたらもうすでに店に並んでいますよね。例えばイエス・キリストは私たちの罪からの救い主だと聖書は教えていますよねえ。このことばを心にとどまらせたらどうでしょう。どういう行動が生まれますか。罪赦されたことへの感謝と賛美が生み出されてきます。人生には心配や思い煩いがあります。でも聖書には「思い煩いを委ねなさい。主イエス様が心配してくださる。」と記されているんです。このことばがとどまるとき、そこには神様の祈りと平安が生まれて来るんです。聖書の約束、キリストの約束のことば、その約束のことばにとどまり続けることです。
二番目は、イエス様の愛の中にとどまることです。イエス様の愛にとどまるとはどういうことでしょう。人は本当に愛されているということを知った時、初めて愛に生きることができるんです。イエス・キリストの愛は私たちのためにあの十字架で罪を背負う命がけの愛です。命を捨ててくださるほどの大きな愛です。その大きなイエス様の愛の中にとどまるとき本当の安息を得ることできるんです。そして互いに愛し合うという生き方の方向性まで示されていくんですねえ。
イエ様はまことのぶどうの木です。実を付けるのは幹にとどまる枝だけです。イエス様にとどまり続けましょう。
(PBA制作「世の光」2011.10.24放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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このサイトは URL名として
http://yonohikari.biblica.info
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。