文学と私・戦後と私(江藤淳)(新潮文庫、1974年刊、今年9月に久しぶりの再刊)
ここに収められている文章のほとんどについて、読んだ記憶がない。
多くは短い随筆で、本のタイトルにあるとおり「私」を語ることを常に前提に、そして借り物でない「私」が思い、考え、書く、という姿勢は、著者のより重いテーマの評論と変らない。
似たような題名の「アメリカと私」は読んだことがあるが、そのときこのタイトルに随分自信に満ちたものを感じた。この自信が「自分の頭で考え書く」ことの責任と同値であることがわかるまでに、著者と違って私はかなりの歳月を要したのである。
多くの文章は、家族、犬に割かれている。ここまで「私」を書くものだろうかと思うのだが、それは書き出したらそうならざるを得なかったものだろう。その中で、両親、祖父母などと比べると夫人についてあまり書かれていないのが不思議である。
夫人に先立たれての著者の死であるけれども、このような文章が書かれているときに、もう少し夫人について書いていたら、その後どうなったのか。
江藤淳を始めて知ったのは、二十歳そこそこで「夏目漱石」を書いた人がいるということ、そして朝日新聞の「文芸時評」(1959~1963)、これらによる。その後「成熟と喪失 母の崩壊」では納得させられながらも、このこだわり方に対し少し敬遠気味であったかも知れない。当時も犬や紅茶について書かれた文章があることは知っていたものの、あまり読みたいと思わなかったのは、この感覚であった。
がしかし、それらは今となってはもっと落ち着いて読むことが出来る。
おりしも日本経済新聞の日曜版で江藤淳についての記事が連載されている。ようやく再び焦点があてられたということだろう。新潮文庫ではこの他に「夏目漱石」があるのみであり、もっと文庫で復刊されるとよい。
考えてみるとこの人が文芸時評を担当していたのは、ちょうど高校時代と重なる。思い切ったことをズバッと書いていたし、それを機に論争もあった。わくわくして読んだものである。
江藤淳のあとは林房雄だから、朝日新聞もその政治的論調と文芸時評書き手の起用とは対照的であった。