王様の耳はロバの耳

横浜在住の偏屈爺が世の出来事、時折の事件、日々の話、読書や映画等に感想をもらし心の憂さを晴らす場所です

めぐみさん捜し続け43年…「会いたい」願い届かず、眠るように天国へ

2020-06-06 09:43:11 | 北朝鮮関連
昨日5日「北朝鮮に”娘のめぐみさんを拉致された”横田滋さんが87歳で逝去された」とtvニュースで聞きました。
さぞ無念だったろうとお察しします。 
謹んでご冥福をお祈りしたします。 合掌

ここ数年体調を崩された様で家族会の要職もお引きになって街頭での映像を見ることもまれになりました。
浜爺は数年前林市長の2期目だったと思いますが、上大岡の京急駅まででご夫妻が支援を要請しているところに出会いました。 偶然とはいえ、それだけ全国を回って支援を訴えていたことが思いだされました。

北朝鮮による「国家規模の陰謀」に親御さんによる「娘の行方不明」がついに小泉総理に取り上げられ、2002年9月「日朝平壌宣言」にまで行き、5名が生還しましたがその後の一手が及びませんでした。
そう、その後ウランバートルで,ここをクリック⇒孫娘さんと非公式面談があったと思いました。
憲法9条の戦争放棄の誓いは「尊いものですが国家的不法にはなすすべもありません」非合法活動を支援して、軍系(日本なら陸海空3自衛隊)による敵地に踏み込み拉致被害者を奪い返すなんて事は「発想も含め、作戦の手順や詳細は首相の手許にある」なんて事は無い。清く正しい国なのでしょう!

極東アジア地域の安全保障の問題で「日朝間会談の再開があっても‘拉致問題の解決’は日本国民の心に刺さった棘である」ことを忘れてはいけません。

写真:雨の中、拉致被害者の救出に向けて署名活動を行う横田滋さんと妻の早紀江さん(1997年10月、東京都内で) 

読売新聞:
「めぐみに会いたい」。そう訴え続けた父の願いは届かなかった。1977年、北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(拉致当時13歳)の父、滋さんが5日、87歳で亡くなった。妻の早紀江さん(84)と二人三脚で80歳を過ぎるまで全国を駆け回ってきた滋さん。拉致問題解決を訴える家族らの中心的な存在だった滋さんの死に、悲しみが広がった。
 「主人は眠るように天国に召されました」
 横田夫妻の支援団体「あさがおの会」の森聡美さん(58)は5日夜、川崎市にある夫妻の自宅マンション前で報道陣の取材に応じ、早紀江さんからこう連絡を受けたと明かした。森さんは「夫婦以上の戦友のようなご主人を亡くされたばかりなので、今は静かに過ごさせてあげたい」と語った。
 滋さんが45歳になった77年11月14日の誕生日のことだった。「お父さん、これからはおしゃれにも気を付けてね」。勤務先の日本銀行新潟支店から帰宅すると、めぐみさんがプレゼントの「くし」を用意して待ってくれていた。「大人になったんだな。周囲にも気を配る年頃になったんだな」。思春期の女の子らしい気遣いに、顔をほころばせた。
 しかし、翌15日、幸せな日々が一転した。
 バドミントン部の練習を終えためぐみさんが、帰らない――。滋さん、早紀江さんたちは自宅近くの海岸を捜し回った。行方不明者を捜すテレビ番組にも出演。情報を求め続けてきた。
 それから約20年。脱北者の証言でめぐみさんが拉致され、北朝鮮で生きているという情報が滋さんにもたらされた。「これで、めぐみは帰ってこられる」。97年3月、他の拉致被害者の7家族と「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を結成し、代表に就いた。
 「横田めぐみの父」と書かれたたすきをかけて街頭に立ったが、ビラをたたき落とされたこともあった。「拉致なんて本当にあるのか?」。冷たい言葉を浴びせられたこともあったが、地道な活動は少しずつ理解を広げ、2002年9月、当時の小泉首相が訪朝。初の日朝首脳会談で金正日キムジョンイル総書記は拉致を認めて謝罪したが、めぐみさんら8人は「死亡」と伝えられた。
 残酷な現実を突きつけられ、滋さんは記者会見で言葉を詰まらせると思わず涙をこぼした。この時、早紀江さんがとっさにマイクを握ると「いつ死んだかさえわからないものを、信じることはできません」と訴えた。こうした夫妻の姿は共感を呼び、拉致問題への関心は一気に高まった。
 02年10月には5人の帰国が実現したが、その後は拉致問題に進展はなかった。それでも、滋さんは各地での講演や政府関係者との面会などで精力的に動いた。
 優しい性格を表すようなソフトな語り口で知られた。05年11月からは、滋さんがあさがおの会メンバーと趣味で撮りためた家族の写真の展示を始めた。「めぐみがお嫁に行く時にでも持たせたい」。そう願う滋さんが撮影しためぐみさんの写真は一人娘への愛情にあふれ、見る人の心を打った。
 体力の衰えを理由に家族会の代表を退いたのは、07年11月。その後も各地で講演は続けた。しかし足腰が弱り、16年3月、京都での講演を最後に遠方に出かけることはなくなった。18年4月以降、入院生活を送っていた。

 横田滋さんの訃報ふほうに、ともに救出活動をしてきた家族会や拉致被害者らは悔しさや悲しみを口にした。
 「仲間がまた一人いなくなってしまった」。5日午後8時20分過ぎ、埼玉県上尾市の自宅前で取材に応じた家族会代表の飯塚繁雄さん(81)は肩を落とし、「長年にわたって拉致問題の中心人物として活動してきた横田さんが亡くなり、非常に残念」と言葉を絞り出した。
 拉致被害者の有本恵子さん(当時23歳)の父・明弘さん(91)は神戸市の自宅前で「横田さん夫婦が最初に全国を飛び回って、拉致被害を訴えてくれたからこそ、解決に向けた運動が始まった」と感謝した。今年2月、妻の嘉代子さんを亡くしたばかりで、「寿命が残り少ないのは自分も同じ。政府は北朝鮮と話し合いの場を作って、拉致問題を解決してほしい」と語った。
 北朝鮮でめぐみさんと一緒に生活したこともある新潟県佐渡市の拉致被害者、曽我ひとみさん(61)は、「滋さんが亡くなったとの一報をもらった時は、一瞬頭の中が真っ白になり、今は何も考えられません。ただ、ご冥福めいふくをお祈りするばかりです」とのコメントを出した。新潟県柏崎市の拉致被害者、蓮池薫さん(62)、祐木子さん(64)夫妻は「悲しさと悔しさを抑えることができない。当然な親子の再会を最後まで阻んできた北朝鮮当局への憤りを鎮められない」との談話を発表した。
 めぐみさんの小中学校時代の親友で、千葉市在住の真保恵美子さん(55)は自宅のテレビで滋さんの訃報を知り、「めぐみちゃんが北朝鮮で滋さんが亡くなったことを知ったら、どんなに悲しむことか」とやり場のない気持ちをあらわにした。真保さんは1月に母節子さん(88)と滋さんを見舞った。滋さんは寝ていて、ほとんど会話ができなかったが、目を覚ました時の少し笑ったような柔和な表情が忘れられない。節子さんは「悲しみで胸がいっぱい。早紀江さんをどうやって慰めればいいのか言葉が見つからない」と話した。


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