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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

情熱

2011-09-19 16:37:12 | 教会
昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き14:20-27でパウロの第一回伝道旅行の最後のところでした。8/7のメッセージの続きで、前回のメッセージについては8/8のブログに書いています。一部を紹介させていただきます。(青字がメッセージ。緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です)


パウロとバルナバはテルベという町に行き、そのあとルステラとイコニオムとピシデヤのアンテオケに引き返したことが14:21に書かれています。
それらの町は、以前迫害にあい殺されそうになった町です。そこへ引き返したのは、その町のクリスチャンたちを励ましたいという情熱からでした。

それらの町は、新しいクリスチャンが生まれた町です。パウロはマイノリティーの人たちに信仰にしっかりとどまるようにすすめ、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」と言いました。

信仰にしっかりとどまるとは、クリスチャンであり続けることです。

パウロとバルナバはアタリヤの港からアンテオケに戻り、2つの報告をしました。
ひとつは、
「神が彼らとともにいて行われたすべてのこと」と聖書(使徒14:27)に書かれています。パウロとバルナバがしたことと思ってしまいますが、彼らは自分たちの働きではなく『神の業』であると報告しています。
もうひとつは「異邦人に信仰の門を開いて下さったこと」です。

キリスト教はユダヤ教から生まれました。ユダヤ教は民族の宗教なので、キリスト教がどんな民族にも信仰を提供するとは思われていませんでした。
しかし、キリスト教は、どんな文化圏の人間にも提供される宗教です。インドネシアで日本人の宣教師から福音を聞いてキリストを信じた少年は、インドネシアで牧師になりました。

どんな文化圏の人でも福音を聞いてクリスチャンになるのは当たり前のことです。キリスト教は普遍的な力があります。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)」


命の危険を顧みず引き返したパウロたちの情熱には圧倒されます。
わたしはキリストを多くの人に伝えたいと思っていますが、困難があると自己保身の体制になってしまいます。自分が傷つくことを恐れ、疲れて具合が悪くなるのを恐れ、他者のために犠牲を払うことを厭っている自分にはっと気づくことがあります。

そんな自分が情けなくなります。どこまでも自己中心である自分が悲しくなります。
パウロはなぜ自分が傷つくことを恐れなかったのでしょう……。十字架のキリストをいつも思い、感謝にあふれていたからでしょう。

パウロとバルナバが自分たちのしたことを誇りとせず、謙遜な思いを持って「神の業である」と言ったことに心打たれました。

また、人間はみな神様によって造られたのですから、国や文化が違っても魂の深いところに共通した部分あるのだと思います。誰でも創造主キリストを求める思いを持っているのです。絶対に信じないと言っている人も、教会に行くことを拒否し続けている主人も・・・・・・。

信じる者の人生は祝福で満たされることをあかししていきたいです。



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