生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

異なる価値観

2011-08-23 13:43:40 | 聖書から
涼しくなってほっとしていたら、また暑さが戻ってきました。


15年ぐらい前まで、わたしはキリストを信じていながら、世間の価値観に影響されていました。

結果がすべてである。社会的地位や学歴、仕事の能力が人間の価値を決める。夢は自分の力で努力して勝ち取っていく……。という価値観は、聖書の価値観と全く異なります。

聖書の神様は、どんな人間であっても、その人の存在そのものが尊いと言われます。無条件で人を愛し、その人の努力によらず、恵みを与えてくださる神様です。

わたしは、どちらかといえば前者のような価値観に縛られていました。

わたしには大きな悲しみがありました。それは体が弱いということです。
当時は、今と比べればまだ専業主婦が多い時代でしたが、子どもが小学生になると働く主婦が増えてきました。

わたしは喘息という持病もあり、非常に疲れやすい体質なので働けませんでした。専業主婦だと言うと、「それじゃ、暇で暇でしょうがないでしょう」と馬鹿にされたように言われました。
健康な人は、家事をこなし、子育てもし、外に出て働いてお金も稼いでいる。

働きもせず、家事すら十分にできないわたしは何なんだろう……。

体が丈夫だということは一つの能力であって、それが欠けているわたしは、人間としての価値が低いのだと思っていました。

体の弱いことは悪いこと、マイナスのことと考えていたのですが、その考えは間違っていました。
また、世の価値観を子育てにも適用して、よりレベルの高い学校へ行くように願ったため、子どものよいところをつぶしてしまった気がします。

神様は、ある人には丈夫な体、すばらしい体力を与え、ある人には病弱を与え、ある人には障がいを与えられました。
それは不公平でしょうか……いいえ、神様は何らかの目的があってそのように人を造られたのです。

病気も神様から与えられた能力であり、贈り物(ギフト)です。
病弱だからこそ感じられること、理解できることがあり、横になっているしかない時間が与えられていることが、色々思い巡らすことのできる貴重な時間になったりします。
それがわかったのは40代になってからでしょうか。


一昨日の礼拝メッセージでは『二種類の種』について語られました。
聖書には「ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。(申命記22:9)」と書かれています。

たくさん収穫したいと思って2種類のぶどうの種を混ぜて蒔くと、実がならず、殆ど収穫できないそうです。

2種類の種に続いて、「牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。」と書かれています。これは律法として神様から与えられたものです。

2種類の異物を混ぜると、お互いの良いところをつぶしてしまうので良い結果が得られないことを意味していますが、生活上の注意事項にとどまらず、深い意味があることを教えていただきました。


『神様と自分との関係で混ぜ物をしてはいけない』ことを示しているそうです。世の価値観と聖書の価値観を混ぜてしまったたら、よい実を結ぶことはできません。


「神様が望まれる実を人が結ぶためには、主なる神に結びついていなくてはなりません」

と牧師先生が言われました。

「わたしにとどまりまさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネ15:4)」とイエス様は言われました。イエス様にとどまっていれば、実を結ぶことができるのです。

かつてのわたしは、混ぜ物をしていました。あるときは聖書の価値観で、あるときは世の価値観で考え、迷ったり悩んだりしていました。イエス・キリストにしっかりとどまっていませんでした。その結果、真実を見失ってしまいました。

「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」と言って下さるイエス様にとどまり続けたいです。


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