先日、日本クリスチャン・ペンクラブで出版した本「花鳥風月」を紹介しました。
本に掲載されている文章の中から、わたしの書いた「月」をテーマにしたエッセイを紹介させていただきます。
祭りの夜
「会長のせいで山車が壊れた!」わたしは町内の人達に取り囲まれ、責められていた。
育成会長がお祭りの実行委員になると知っていたら、会長を引き受けなかった。神社の神様を山車に乗せるのだと聞いて、山車をひくのは他の本部役員に任せ、わたしは公民館で掃除やまかないの手伝いをすることにした。
真夏の3日間、朝7時から夜11時までの奉仕はきつかった。真っ青な顔をして働いていると「帰って少し休んだら」と声をかけられた。その言葉に甘えて家に帰った。
その僅かな間に山車が壊れたと連絡が入った。「会長はなぜ公民館にいなかったのか?」と責められた。山車は直って事なきを得たが、それからは針の筵の上にいるようだった。
最終日の夜は満月だった。「よくやってくれた。意地悪して悪かった」と町内の人が言った。涙でぼやけた月の明かりが嬉しかった。
『昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました』
クリスチャンはお祭りに参加してはいけないという決まりがあるわけではありません。
山車やお神輿も宗教的意味を感じなければ、かついでも曳いてもいいのかもしれません。
同じクリスチャンでも、ひとりひとり考えが異なります。キリスト教でも教派、教会によって異なります。
当時わたしが住んでいた町内の山車は、神事を行ってから曳くもので、宗教的要素が強かったのです。わたしはキリストを信じる者としてどうしたらいいのだろうかと悩み、必死に祈りました。
祈った末の決断は、山車は曳かないけれど、育成会役員として下働きのお手伝いはさせていただくことでした。(お手伝いも拒否することはできたのですが・・・)
この文章を読まれた方から「町内の人に対する恨みや怒りはなかったのか?」と質問されました。
そんな気持ちは全くと言っていいほどなかったです。(もちろん、今もです)
キリスト者でない方にとって、わたしが山車を曳かない理由がわからないのは当然です。
育成会長の責任を果たせない者として腹ただしく思われたでしょう。山車が壊れたことをわたしのせいにしたい気持ちは十分わかります。
もし、わたしがクリスチャンではなく、町内の人の立場だったら、真っ先に育成会長をののしっていたかもしれません。
わたしにとって過酷で、夜のように暗い3日間でしたが、夜空を照らす月があるように神さまは暗いときでも共にいて守ってくださり、光となってくださいました。
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「会長のせいで山車が壊れた!」わたしは町内の人達に取り囲まれ、責められていた。
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真夏の3日間、朝7時から夜11時までの奉仕はきつかった。真っ青な顔をして働いていると「帰って少し休んだら」と声をかけられた。その言葉に甘えて家に帰った。
その僅かな間に山車が壊れたと連絡が入った。「会長はなぜ公民館にいなかったのか?」と責められた。山車は直って事なきを得たが、それからは針の筵の上にいるようだった。
最終日の夜は満月だった。「よくやってくれた。意地悪して悪かった」と町内の人が言った。涙でぼやけた月の明かりが嬉しかった。
『昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました』
クリスチャンはお祭りに参加してはいけないという決まりがあるわけではありません。
山車やお神輿も宗教的意味を感じなければ、かついでも曳いてもいいのかもしれません。
同じクリスチャンでも、ひとりひとり考えが異なります。キリスト教でも教派、教会によって異なります。
当時わたしが住んでいた町内の山車は、神事を行ってから曳くもので、宗教的要素が強かったのです。わたしはキリストを信じる者としてどうしたらいいのだろうかと悩み、必死に祈りました。
祈った末の決断は、山車は曳かないけれど、育成会役員として下働きのお手伝いはさせていただくことでした。(お手伝いも拒否することはできたのですが・・・)
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そんな気持ちは全くと言っていいほどなかったです。(もちろん、今もです)
キリスト者でない方にとって、わたしが山車を曳かない理由がわからないのは当然です。
育成会長の責任を果たせない者として腹ただしく思われたでしょう。山車が壊れたことをわたしのせいにしたい気持ちは十分わかります。
もし、わたしがクリスチャンではなく、町内の人の立場だったら、真っ先に育成会長をののしっていたかもしれません。
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