静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年03月13日 | 天のマナ
 「神の介入必要性」                               

 なぜ、神の独り子で ある主イエスは、人となり十字架にかかる必要があったのでしょうか。これは「罪」がどんなに恐ろしいものかを理解しなければわかりません。「罪」とは、神が人間を造られた本来の目的からそれ、神に従わず神に背を向け、自分を神として自己中心に歩み、そして数々の悪の思い、行いをすることであります。人は、他の人と比べることによって、自分には罪が「ある」とか「ない」とかと判断しますが、聖書は、人と比べてではなく、きよい神の前にあなたはどうあるのかと問います。1滴の猛毒も、100敵の猛毒もどちらも飲めるものではありません。小さな一つの罪であっても、罪の支払う報酬は死であります。人の意志や知識や経験によって真の平和が訪れたら、人の努力や修練や鍛練によって罪の解決ができたら、神のひとり子である主イエスは、わざわざ肉体をとって人となることはなかったでしょうし、十字架で死ぬ必要もなかったでしょう。人間の何かでは罪は決して解決できず、罪に染まった自我があるままの人間には真の平和は訪れません。それほど罪は恐ろしく、その罪に人間は汚れていて人間の内に深く入り込んでいるからです。人間の心には罪の泉が湧いています。自分の心、自分の口、自分の行動を見れば明らかです。だから、罪の全くない主イエスの命が払われる十字架の犠牲によるゆるし、きよめの泉が必要なのです。
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