「主イエスに従う幸い」 マタイによる福音書10章21~28節
父なる神の働きによってペテロが、「主イエスが生ける神の子キリストである」と告白したことを機に、主イエスはエルサレムに顔を向けたのでありました。
Ⅰ 主イエスの歩む道
主イエスは、エルサレムで起こること、自らが十字架につけられ殺されること、三日目に復活されることを弟子達に語りました。それは、救い主イエスが、この世に来れられた使命(人間の救い)を、十字架と復活によって果たすためであります。人間の最大の問題は、「罪と死」であります。主イエスの十字架は、人間の罪を負い、人間が受けなければいけない神の裁きを人間の身代わりに受けることにより人間の罪に対する解決をなし、次に主イエスが復活されることによって死に対する勝利をなすからであります。しかし、ペテロはこの永遠の救いを理解できずに、主イエスをいさめた(強くしかる)のでありました。彼の間違ったこの世的なメシヤ観と人情的なものがそうさせたのでありましょう。けれども主イエスの道は、ペテロの思う道ではなく、十字架と復活への道でした。
Ⅱ 主イエスに従う者たちの歩み道
そのペテロに対して主イエスは、「引き下がれ」と叱責したのでした。主イエスに従う弟子であるペテロの立ち位置は、主イエスの前ではなく、後ろであるのです。さらに主イエスは続けて言われました。主イエスに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って従うようにとのことです。「自分を捨てる」とは、きよめられた主体性でということです。我力(自らの考え、力)で従うのではありません。「十字架を負う」とは、自分に与えられている使命に生きることです。それこそ主イエスに従う者の歩む道です。
主イエスのあとに、主イエスの背を見て従う者であらせていただきましょう。
2011/9/18 説教者 杉本守