「さあ、起きなさい」 マルコによる福音書5章21~24、35~43節
主イエスは、命を付与する方であることを、ヤイロの娘をよみがえらされることによって示している記事であります。
Ⅰ ゆれる人の心
会堂司ヤイロには愛娘がありましたが、彼女は死にかかっていたのでありました。父のヤイロは、必死になって主イエスのもとへ行き、ひざまずいて「娘に手を置いて癒してください」と懇願いたします。主イエスが引き受けてくださったことで、喜びます。しかし、途中、主イエスが他の女性の癒しをします。一刻を争う時なので、彼の気持ちは複雑になります。けれども癒されたその女性の事実を見て、自分の娘も癒される期待と信じる思いを深めます。そんな時に、家から来た者が娘の死を知らせを受けます。今度は絶望へと落とされます。彼の心は大いに揺れているのです。私達の心もそうではないでしょうか。
Ⅱ 主イエスへの信仰に根ざす幸い
そんな彼に主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるのです。これは「今恐れていることをやめて、今までのように私(イエス)が救い主であると信じ続けなさい。命が与えられると信じ続けなさい」という継続的な内容です。そして、主イエスは、彼の家に入り、娘の手をとって「少女よ、さあ、起きなさい」と言い、命を付与されたのでありました。少女はすぐに起き上がって歩き出しました。
私達が、主イエスの御業を体験するために必要なのは、信仰です。そして、どんな状況でも信じ続けることが必要なのです。問題や困難の中にありますが、私達に語られている主の言葉を信じ続け、主に信仰を増していただいて、主の御業を体験していきましょう。
2007・6・17 説教者 杉本守
主イエスは、命を付与する方であることを、ヤイロの娘をよみがえらされることによって示している記事であります。
Ⅰ ゆれる人の心
会堂司ヤイロには愛娘がありましたが、彼女は死にかかっていたのでありました。父のヤイロは、必死になって主イエスのもとへ行き、ひざまずいて「娘に手を置いて癒してください」と懇願いたします。主イエスが引き受けてくださったことで、喜びます。しかし、途中、主イエスが他の女性の癒しをします。一刻を争う時なので、彼の気持ちは複雑になります。けれども癒されたその女性の事実を見て、自分の娘も癒される期待と信じる思いを深めます。そんな時に、家から来た者が娘の死を知らせを受けます。今度は絶望へと落とされます。彼の心は大いに揺れているのです。私達の心もそうではないでしょうか。
Ⅱ 主イエスへの信仰に根ざす幸い
そんな彼に主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるのです。これは「今恐れていることをやめて、今までのように私(イエス)が救い主であると信じ続けなさい。命が与えられると信じ続けなさい」という継続的な内容です。そして、主イエスは、彼の家に入り、娘の手をとって「少女よ、さあ、起きなさい」と言い、命を付与されたのでありました。少女はすぐに起き上がって歩き出しました。
私達が、主イエスの御業を体験するために必要なのは、信仰です。そして、どんな状況でも信じ続けることが必要なのです。問題や困難の中にありますが、私達に語られている主の言葉を信じ続け、主に信仰を増していただいて、主の御業を体験していきましょう。
2007・6・17 説教者 杉本守
っていう感じなっちゃってるときにも「希望は失望に終わらない」という御言葉を信じ続けることが大切なんですね。
望みのないところに望みを持つのが信仰ですもんね
なのに、なんでこのまちがいを・・・って思いながら、削除しようとしたら、できないですけど。
管理者しか削除できないんっすか?
あーー恥ずかしい
なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が今も注がれ続けているからですよね。
ただ、自分としては「信じる」という言葉を使おうと思っていたのでちょいとショックでした~
まっいいね、それぐらい