「へりくだる者への神の恵み」 マルコによる福音書6章1~6節
先々週の長血の病の女の癒しの記事を通して「信仰」を見、先週の会堂司ヤイロの娘のよみがえりの記事を通して「信仰の継続」を見てきました。今日は、主イエスの育ったナザレの地の人々と領主ヘロデ王の姿から、「不信仰」を見ていきます。
Ⅰ 先入観や偏見による不信仰
主イエスは、故郷のナザレの会堂で教えられ、奇跡をなされました。ナザレの人々は、主イエスの知恵と奇跡に驚嘆いたしましたが、主イエスを救い主と信じる信仰へはいたりませんでした。それはなぜでしょうか。彼らは、主イエスの両親、兄弟を良く知っていて、主イエスはあの家族の一員であり、もと私たちが知っている大工ではないかと言いました。これは、救い主は私達と変わらない家族から、またこんな田舎町から出ないし、もっと由緒ある家柄からエルサレム地域から出ると考えていたからであります。それはまさしく、自らが作りあげた先入観や偏見における救い主像でありました。そうしたものが、信仰に彼らを歩ませず、信仰から遠ざけ、滅びに向かわせたのでした。
Ⅱ 自分のプライドによる不信仰
14~29節には、ヘロデ王がバプテスマのヨハネを殉教に至らせた記事がります。ヘロデ王もバプテスマネのヨハネから、神のメッセージを聞いていました。しかし、自分の地位や名誉、プライドを守るために、正しさを曲げてしまい、神を恐れずに神の器であるバプテストのヨハネを殉教に至らしめたのでした。彼のプライドが、信仰に歩ませず、救いを逃し、永遠の滅びに向かわせたのでした。
第二コリント5章16節には、「肉によって主をもう知ることをしない」とあります。それは、人間の標準によって知るのではなく、聖書の語られるままをそのまま、主イエスの語られるままを「アーメン」といって信じることであります。偏見や先入観、自分のプライドによって信仰からもれ、救いを逃すことのないお互いでありたい、もっと積極的に「アーメン」という信仰を持ち続けていこうではありませんか。
2007/6/24 説教者 杉本守
先々週の長血の病の女の癒しの記事を通して「信仰」を見、先週の会堂司ヤイロの娘のよみがえりの記事を通して「信仰の継続」を見てきました。今日は、主イエスの育ったナザレの地の人々と領主ヘロデ王の姿から、「不信仰」を見ていきます。
Ⅰ 先入観や偏見による不信仰
主イエスは、故郷のナザレの会堂で教えられ、奇跡をなされました。ナザレの人々は、主イエスの知恵と奇跡に驚嘆いたしましたが、主イエスを救い主と信じる信仰へはいたりませんでした。それはなぜでしょうか。彼らは、主イエスの両親、兄弟を良く知っていて、主イエスはあの家族の一員であり、もと私たちが知っている大工ではないかと言いました。これは、救い主は私達と変わらない家族から、またこんな田舎町から出ないし、もっと由緒ある家柄からエルサレム地域から出ると考えていたからであります。それはまさしく、自らが作りあげた先入観や偏見における救い主像でありました。そうしたものが、信仰に彼らを歩ませず、信仰から遠ざけ、滅びに向かわせたのでした。
Ⅱ 自分のプライドによる不信仰
14~29節には、ヘロデ王がバプテスマのヨハネを殉教に至らせた記事がります。ヘロデ王もバプテスマネのヨハネから、神のメッセージを聞いていました。しかし、自分の地位や名誉、プライドを守るために、正しさを曲げてしまい、神を恐れずに神の器であるバプテストのヨハネを殉教に至らしめたのでした。彼のプライドが、信仰に歩ませず、救いを逃し、永遠の滅びに向かわせたのでした。
第二コリント5章16節には、「肉によって主をもう知ることをしない」とあります。それは、人間の標準によって知るのではなく、聖書の語られるままをそのまま、主イエスの語られるままを「アーメン」といって信じることであります。偏見や先入観、自分のプライドによって信仰からもれ、救いを逃すことのないお互いでありたい、もっと積極的に「アーメン」という信仰を持ち続けていこうではありませんか。
2007/6/24 説教者 杉本守