静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年06月24日 | 説教要約
「へりくだる者への神の恵み」 マルコによる福音書6章1~6節

 先々週の長血の病の女の癒しの記事を通して「信仰」を見、先週の会堂司ヤイロの娘のよみがえりの記事を通して「信仰の継続」を見てきました。今日は、主イエスの育ったナザレの地の人々と領主ヘロデ王の姿から、「不信仰」を見ていきます。

Ⅰ 先入観や偏見による不信仰
 主イエスは、故郷のナザレの会堂で教えられ、奇跡をなされました。ナザレの人々は、主イエスの知恵と奇跡に驚嘆いたしましたが、主イエスを救い主と信じる信仰へはいたりませんでした。それはなぜでしょうか。彼らは、主イエスの両親、兄弟を良く知っていて、主イエスはあの家族の一員であり、もと私たちが知っている大工ではないかと言いました。これは、救い主は私達と変わらない家族から、またこんな田舎町から出ないし、もっと由緒ある家柄からエルサレム地域から出ると考えていたからであります。それはまさしく、自らが作りあげた先入観や偏見における救い主像でありました。そうしたものが、信仰に彼らを歩ませず、信仰から遠ざけ、滅びに向かわせたのでした。

Ⅱ 自分のプライドによる不信仰
 14~29節には、ヘロデ王がバプテスマのヨハネを殉教に至らせた記事がります。ヘロデ王もバプテスマネのヨハネから、神のメッセージを聞いていました。しかし、自分の地位や名誉、プライドを守るために、正しさを曲げてしまい、神を恐れずに神の器であるバプテストのヨハネを殉教に至らしめたのでした。彼のプライドが、信仰に歩ませず、救いを逃し、永遠の滅びに向かわせたのでした。

 第二コリント5章16節には、「肉によって主をもう知ることをしない」とあります。それは、人間の標準によって知るのではなく、聖書の語られるままをそのまま、主イエスの語られるままを「アーメン」といって信じることであります。偏見や先入観、自分のプライドによって信仰からもれ、救いを逃すことのないお互いでありたい、もっと積極的に「アーメン」という信仰を持ち続けていこうではありませんか。

2007/6/24 説教者 杉本守
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月24日 天のマナ

2007年06月24日 | 天のマナ
「神の子としての誇り」            
 
 主イエスを救い主と信じた者は、神の子供とされています。なぜなら、御言葉がそう言っているからであります。「しかし、彼(主イエス)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。
 
 この世の中にも国も王子がいます。王子は良き誇りをもって生きているでしょう。自分は王子だという自覚のもとに、低俗的なものとは一線を隔して歩んでいるのです。そして、王族として王子として相応しくなろうと高尚に努めています。王子にそれをなさせるのは、自分は何者か、自分は王子であり王族なのだという深い深い自覚です。      
 
 もう一度いいますが、私達キリスト者は神の子であります。あなたはそれをどれくらい自覚しているでしょうか。私達は世の中に身を置きますが、決して世に流され、世俗に巻き込まれ、世の人と同じ歩みをしてはいけないのです。神の子とされたのですから、世の人とは違いがあって当たり前なのです。世の人と全く同じことをしていたなら、自分を吟味する必要がありましょう。神を愛し、人々を愛する神の子として、良き自覚と良き誇りをもって歩み、歩んでいることを忘れてはいけません。世の光は、闇とは異なるのです。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2007年06月24日 | 生花

担当 J・S姉
                                          投稿 S・I

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする