静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2024年02月18日 | 天のマナ
 「認罪、悔い改め、そして溢れる義の宣言と赦しの恵みに気づく」

 「クリスチャンになる前とクリスチャンになった後では、認罪(罪を認める)の深さはどう変わりましたか?」という質問に皆さんはどう応えるでしょうか?もし、「認罪が浅くなった」とか「認罪は変わらない」というなら困ったものです。しかし、「認罪が深まった」というなら、聖なる神の前に出て、み言葉に照らされている方でありましょう。神によって罪赦されクリスチャンになれば、良心も目覚めますし、今までのように都合の良い自分の基準でなく、聖書が基準になりますので、罪深い自らの姿に気づくに違いありません。しかし、クリスチャンに気づくのは「自分の罪深さ」だけではありません。「そんな私を愛し赦してくださって受け入れて下さっている主の大きな愛と恵み」に気づくのです。主の義の宣言と赦しの大きさ気づいておられるでしょうか?「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠のいのちへと導くのです。」(ローマ5章20~21節)。
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天のマナ

2024年02月11日 | 天のマナ
 「人を贖い、全世界を贖う神がおられる」

「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」(創世記1:31)とあるように、神が創造された世界は非常に麗しかった。病も死も災害もなかった。しかし、アダムとエバが罪を犯して以来、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった」(3:17)。豊かな肥沃の地が、苦しんで食べ物を得なければならない荒れ地となった。その後のノアの時代の洪水壊もあり、自然界も主イエスの再臨によって贖われることを待ち望んでいる(ローマ3:19~23)。

「神がいるなら、神が愛なら、なぜこのような苦しみに遭うのか」と叫び問われることがある。私達クリスチャンに出来ることは、第一に「寄り添うこと」。痛んでいる者の痛みを自分の痛みに、悲しんでいる者の悲しみを自分の悲しみにすること。これなしには始まらない。第二には「祈ること」。慰め主で癒し主なるイエスが、この方に触れて慰められ癒され立ち上がれるように。第三に「悟りがあたえられること」。神が苦しみを与えたのではなく、人間の罪が苦しみを招きもたらしたこと。そして神が万事に働いて人を助け、人を始めとするこの世界を贖ってくださること、病も死も災害もない天の御国の確実な到来に希望を持つことである。「私たちは、この希望のうちに救われているのです」(ローマ8:24)。
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天のマナ

2024年02月04日 | 天のマナ
「救いの確信を持つ」
「あなたはいつ救われたの?」「あなたは救いのみ言葉は?」と聞かれるたびに、中学生の私は、明確に答えられず困っていました。なぜ、明確に答えられなかったのかは、二つの理由がありました。
 一つ目は、クリスチャンホームで生まれ育った私は、小学生の頃から、毎年教会のキャンプに行っておりました。毎年のように、イエス様を救い主として信じる決心をし、救いのみ言葉を頂き、悔い改めの祈りと信仰告白の祈りをしていました。どれが救いの時だったのだろうかと思っていたからでした。
 二つ目は、救いの土台を自分の感情や行動においていたことでした。感情が高ぶっている時や行いが良い時には救われていると考え、感情が落ち込んでいたり思いや行動が失敗すると救われていないと考えていたからです。
 高校生のある時に、聖霊に導かれ次のように自問自答しました。「あなたはイエス・キリストを自分の救い主と信じ、自分の罪を認め悔い改めましたか?」「はい、そうしました」。「今も信じていますか?」「はい、信じています」と。そこで、一番印象の強いかった中学一年の夏の伊豆大島のキャンプでの信仰告白を救いの時とし、一番頭に残り心に響いている第一ヨハネ1章9節のみ言葉を救いのみ言葉としました。さらに、自分の感情や行動を救いの土台とすることを止め、変わらない神のみ言葉を救いの土台にしました。それ以降、救いの確信をいただいておりぶれることがありません。
 「この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。」(テモテへの手紙二3章15節)。
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天のマナ

2024年01月28日 | 天のマナ
 「主イエスに見るクリスチャンのリーダーシップ」
 「自分の能力を示したい、人気を得たい、権力を手にしたい」という欲求を人は、いかに深いく持っているかとを思います。これらが効果的な働きを成すと考えますが、これらの欲求は神の召しではなく、誘惑です。自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、人気を得ようとする気遣いから相互になされる共同の働きへ、権力を盾にしたリーダーシップから僕として仕えるリーダーシップへ、これらが神の召しであり、主イエスに見るクリスチャンのリーダーシップであります。クリスチャンの指導者がたどる道は、この世が多大な勢力を費やして求める上昇の道ではなく、十字架にたどり着く下降の道です。その道は、喜びと神の平安に至る道、その喜びと平安は、この世のものとは異なります。愛のためにはいつでも、権力を放棄することのできるようなリーダーシップです。(「イエスの御名で」ヘンリ・ナーウェン著参照)。
「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。」(Ⅱコリント3章18節)。
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天のマナ

2024年01月21日 | 天のマナ
「主なる神が支配しておられるのでより良くなる」
 2024年の第一回目のゴスペルのレッスンが先週の水曜日に行われ、新しい曲に取り組み、主なる神をほめたたえる歌詞を信仰告白としてささげた。その曲のタイトルは「Beter(より良い、より優れた)」で歌詞の1節を以下に記します。
「人が来て 人は去っていく 人生は思い通りにいかない 時には迷い気がめいる 
でも心配しないで 良くなるから 良くなる 大丈夫だから 良くなるから 良くなる 
神がコントロールしているから」
 なぜ、ベター(より良く)になるのでしょうか?それは神が支配しておられるからです。そう、すべては主なる神の御手の中にあり、世界も、私たち自身も、主なる神が支配しているからです。アーメン!ハレルヤ!
「キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます。」(ペトロの手紙一3章22節)。
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天のマナ

2024年01月14日 | 天のマナ
「教区新年聖会の恵み」
 8日(月)の成人の日に今年も教区新年聖会が開催された。今年はその枝教会で対面でもたれ、同時にライブ配信もされた。数週間、ユーチューブに録画がアップされているので、ぜひ視聴いただきたい。
 午後は宣教大会で宣教のメッセージが、テモテへの第二2章9節の箇所から、「神の言葉はつながれていない」と題して語られた。そのメッセージの内容は、「宣教の主体は神であること。神が宣教を進めること。私達は平和の子を送ってくださるように熱心に祈ること。神の宣教の業のお手伝いを福音を伝えることすること」でした。(平和の子とは、神に心が備えられて神を信じようとしている人)。青く熟していない実はすぐに収穫することはできません。熟するようにさらに水を栄養を与えます。しかし、すでに熟している実は収穫することができます。エチオピアの高官(使徒8章)やコルネリオ(使徒10章)のような者がすでに熟している実です。フィリポとペトロは遣わされ福音を伝え洗礼を授けたのです。
私達も「主が備えておられる平和の子と出会わせて下さい」とまず熱心に祈りましょう。そして出会わせていただいたらなら、宣教のお手伝いをいたしましょう(福音を伝えましょう)。
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天のマナ

2024年01月07日 | 天のマナ
 「生かされている恵み」
 年末年始に我が家は、風邪やインフルエンザの中にありました。私は年末の5日間、クリスマスを終えた週は大人しくしておりました。その後、主に癒されて、なんとか12月31日の年末感謝礼拝式と1月1日の新年礼拝式の御用をすることができほっとしました。五日間の最初の三日間は、のどの痛み、熱、体の倦怠感があり、食欲はなく、薬、スポーツドリンク、栄養ドリンク、冷えピタのお世話になりました。健康の時とは全く違い、熱がある時は体を動かすのもひと苦労、何かしようとする意欲もなくなり、ただ寝て回復するのを待つという感じでした。病気になると普段意識しないでも、できていることができなくなります。食べること、着替えること、トイレにいくこと、風呂に入ること、料理に、掃除洗濯など。つくづく「健康って感謝だなあ」と感じました。時々、自分で生きていると勘違いする私、生きているのではなく、主なる神に生かされている私であることも再認識ささえていただきました。「苦しみ遭ったのは私に良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした」(詩編119篇71節)。
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天のマナ

2023年12月31日 | 天のマナ
 「感謝は具体的に」
 静岡教会の祈祷会においては21日に、伊東教会の祈祷会においては27日に、詩篇136篇を通して、年末感謝祈祷会を持ち、一年の感謝を具体的に一人一人が挙げ、主なる神に感謝をささげた。
「感謝とは、漠然としたものではなく、具体的なものである」という言葉があるように、主の恵みを一つ一つ数えていく、この詩篇はまさしくそうである。1~4節は、主なる神の性質(恵み深い主、神の至高性、唯一の神)、5~22節には、業をなされる主なる神に感謝をささげている。具体的には5~9節は、水、光、昼(太陽)と夜(月と星)を造られた神に感謝している。さらに10~22節には、歴史を通して恵みを与える神に感謝している。具体的には、出エジプト、紅海徒渉、荒野の旅、約束のカナンの地の相続と生活である。「紅海を二つに分けられた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(詩編136篇13節)。
 私たちも、漠然と感謝しますではなく、しばしひとり静まり、一年を振り返り、主の恵みをひとつずつ数えてみよう。主の恵みと感謝の心で満ちるに違いありません。
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天のマナ

2023年12月24日 | 天のマナ
 「神の究極の自己犠牲により開かれた人類の救いの道」
 
 人生で初めて、大河ドラマ「どうする家康」をじっくり見ました(といっても後半からですが)。私ながら今回の大河ドラマの魅力を二つ上げますと、一つは主人公の成長でしょう。弱虫な主人公がたくましく育っていくのです。二つ目は、私利私欲を捨てて自己犠牲をする主人公とこれまた命をかけてまでどこまでも従っていく家臣たちの生きざまでしょう。この二つが視聴者の心を打ちとらえるのでしょう。ドラマですので脚色が入っていることはご承知の通りです。
 しかし、史実(歴史上の事実)として起こったクリスマスの出来事は、脚色なしでドラマをはるかに超えています。神の独り子・無限で永遠の方が、神の御座を置いて有限の世界へ、それも受肉され(肉体をとり)て人となり来られたのです。さらに人を救うために十字架に掛かられたのです。世界史上最大の出来事であり、最大のサプライズであります。万軍の主の熱心がこれを成したのです。
「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章6~8節)。

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天のマナ

2023年12月17日 | 天のマナ
 「救い主を迎える心」
 メシア(キリスト:救い主)を待ち続けていた神の民でしたが、いざメシアである救い主イエスが来られた時、この方に気づいたのはほんの一握りの者達でした。当時、ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、「住民登録をせよ」との勅令が出され、多くの者達が移動し故郷へ帰っていたので、誰もが忙しくし、町は混雑し、宿屋は満室でした。忙しさのあまり、救い主イエスをお迎えする心を持ち合わせていなかったのです。「忙しい」とは、よく「心」を「亡くす」と言われます(「りしんべん」は、「心」の字を立てて偏にしたもの)。忙しさの中に身を置き続けますと、人は大切なものを見失うのです。  
 このクリスマス、人生の忙しい歩みを少し止め、クリスマスの箇所を開き読み、み言葉に聴き、み言葉を黙想し、主イエスの愛を深くおぼえたいのです。それが救い主を心に迎えることだからです。「私の心の部屋はあなたのために空けております。どうぞお入りください」と。
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