静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2024年01月21日 | 天のマナ
「主なる神が支配しておられるのでより良くなる」
 2024年の第一回目のゴスペルのレッスンが先週の水曜日に行われ、新しい曲に取り組み、主なる神をほめたたえる歌詞を信仰告白としてささげた。その曲のタイトルは「Beter(より良い、より優れた)」で歌詞の1節を以下に記します。
「人が来て 人は去っていく 人生は思い通りにいかない 時には迷い気がめいる 
でも心配しないで 良くなるから 良くなる 大丈夫だから 良くなるから 良くなる 
神がコントロールしているから」
 なぜ、ベター(より良く)になるのでしょうか?それは神が支配しておられるからです。そう、すべては主なる神の御手の中にあり、世界も、私たち自身も、主なる神が支配しているからです。アーメン!ハレルヤ!
「キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます。」(ペトロの手紙一3章22節)。
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講壇生花

2024年01月14日 | 生花
新春、春がそこまで来ています
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天のマナ

2024年01月14日 | 天のマナ
「教区新年聖会の恵み」
 8日(月)の成人の日に今年も教区新年聖会が開催された。今年はその枝教会で対面でもたれ、同時にライブ配信もされた。数週間、ユーチューブに録画がアップされているので、ぜひ視聴いただきたい。
 午後は宣教大会で宣教のメッセージが、テモテへの第二2章9節の箇所から、「神の言葉はつながれていない」と題して語られた。そのメッセージの内容は、「宣教の主体は神であること。神が宣教を進めること。私達は平和の子を送ってくださるように熱心に祈ること。神の宣教の業のお手伝いを福音を伝えることすること」でした。(平和の子とは、神に心が備えられて神を信じようとしている人)。青く熟していない実はすぐに収穫することはできません。熟するようにさらに水を栄養を与えます。しかし、すでに熟している実は収穫することができます。エチオピアの高官(使徒8章)やコルネリオ(使徒10章)のような者がすでに熟している実です。フィリポとペトロは遣わされ福音を伝え洗礼を授けたのです。
私達も「主が備えておられる平和の子と出会わせて下さい」とまず熱心に祈りましょう。そして出会わせていただいたらなら、宣教のお手伝いをいたしましょう(福音を伝えましょう)。
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天のマナ

2024年01月07日 | 天のマナ
 「生かされている恵み」
 年末年始に我が家は、風邪やインフルエンザの中にありました。私は年末の5日間、クリスマスを終えた週は大人しくしておりました。その後、主に癒されて、なんとか12月31日の年末感謝礼拝式と1月1日の新年礼拝式の御用をすることができほっとしました。五日間の最初の三日間は、のどの痛み、熱、体の倦怠感があり、食欲はなく、薬、スポーツドリンク、栄養ドリンク、冷えピタのお世話になりました。健康の時とは全く違い、熱がある時は体を動かすのもひと苦労、何かしようとする意欲もなくなり、ただ寝て回復するのを待つという感じでした。病気になると普段意識しないでも、できていることができなくなります。食べること、着替えること、トイレにいくこと、風呂に入ること、料理に、掃除洗濯など。つくづく「健康って感謝だなあ」と感じました。時々、自分で生きていると勘違いする私、生きているのではなく、主なる神に生かされている私であることも再認識ささえていただきました。「苦しみ遭ったのは私に良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした」(詩編119篇71節)。
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天のマナ

2023年12月31日 | 天のマナ
 「感謝は具体的に」
 静岡教会の祈祷会においては21日に、伊東教会の祈祷会においては27日に、詩篇136篇を通して、年末感謝祈祷会を持ち、一年の感謝を具体的に一人一人が挙げ、主なる神に感謝をささげた。
「感謝とは、漠然としたものではなく、具体的なものである」という言葉があるように、主の恵みを一つ一つ数えていく、この詩篇はまさしくそうである。1~4節は、主なる神の性質(恵み深い主、神の至高性、唯一の神)、5~22節には、業をなされる主なる神に感謝をささげている。具体的には5~9節は、水、光、昼(太陽)と夜(月と星)を造られた神に感謝している。さらに10~22節には、歴史を通して恵みを与える神に感謝している。具体的には、出エジプト、紅海徒渉、荒野の旅、約束のカナンの地の相続と生活である。「紅海を二つに分けられた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(詩編136篇13節)。
 私たちも、漠然と感謝しますではなく、しばしひとり静まり、一年を振り返り、主の恵みをひとつずつ数えてみよう。主の恵みと感謝の心で満ちるに違いありません。
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クリスマス書集会のご案内

2023年12月24日 | イベント案内
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天のマナ

2023年12月24日 | 天のマナ
 「神の究極の自己犠牲により開かれた人類の救いの道」
 
 人生で初めて、大河ドラマ「どうする家康」をじっくり見ました(といっても後半からですが)。私ながら今回の大河ドラマの魅力を二つ上げますと、一つは主人公の成長でしょう。弱虫な主人公がたくましく育っていくのです。二つ目は、私利私欲を捨てて自己犠牲をする主人公とこれまた命をかけてまでどこまでも従っていく家臣たちの生きざまでしょう。この二つが視聴者の心を打ちとらえるのでしょう。ドラマですので脚色が入っていることはご承知の通りです。
 しかし、史実(歴史上の事実)として起こったクリスマスの出来事は、脚色なしでドラマをはるかに超えています。神の独り子・無限で永遠の方が、神の御座を置いて有限の世界へ、それも受肉され(肉体をとり)て人となり来られたのです。さらに人を救うために十字架に掛かられたのです。世界史上最大の出来事であり、最大のサプライズであります。万軍の主の熱心がこれを成したのです。
「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章6~8節)。

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天のマナ

2023年12月17日 | 天のマナ
 「救い主を迎える心」
 メシア(キリスト:救い主)を待ち続けていた神の民でしたが、いざメシアである救い主イエスが来られた時、この方に気づいたのはほんの一握りの者達でした。当時、ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、「住民登録をせよ」との勅令が出され、多くの者達が移動し故郷へ帰っていたので、誰もが忙しくし、町は混雑し、宿屋は満室でした。忙しさのあまり、救い主イエスをお迎えする心を持ち合わせていなかったのです。「忙しい」とは、よく「心」を「亡くす」と言われます(「りしんべん」は、「心」の字を立てて偏にしたもの)。忙しさの中に身を置き続けますと、人は大切なものを見失うのです。  
 このクリスマス、人生の忙しい歩みを少し止め、クリスマスの箇所を開き読み、み言葉に聴き、み言葉を黙想し、主イエスの愛を深くおぼえたいのです。それが救い主を心に迎えることだからです。「私の心の部屋はあなたのために空けております。どうぞお入りください」と。
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エンジョイ・クリスマス(子供クリスマス会)

2023年12月17日 | イベント案内
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天のマナ

2023年12月10日 | 天のマナ
 「はい、信じます」
 昨日、ある姉妹のお父様が、85歳でこの世での使命を全うし、神の御許に召され葬儀が行われました。故人は静岡市に来られてから、幾度か第一礼拝式、第二礼拝式にご家族と共に参加され、共に神をほめたたえ、共にみ言葉に耳を傾けておられました。
 葬儀の中で故人の略歴が読み上げられ、故人が優秀な大学を出られ、社会貢献を多くなされたことを知りました。特に卓球を通して、学校で地域で指導し、国体で活躍するほどの若い世代の育成に尽力されました。故人の人生でどの働きも輝いておられましたが、一番の輝きは説教者が語られたように、まさしくその晩年、「主イエスを救い主と信じますか」の問いに、明確に誠実な心をもって「はい、信じます」と答え洗礼を受けた時でありました。洗礼を受けた時の写真が会場にまわされ、写真にある故人の顔は希望と平安とで輝いていました。
 私は新聖歌302「恵みある主」3節の歌詞を思い出しました。「君まさずば この世の 物事みな 意味なし わが慕う主よ ああ恵みませ 今はがもとに 行く身を」。故人をして「はい、信じます」の信仰告白をさせた聖霊なる神をほめたたます。
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