屋根の構造がよくわかる部分。作り方も書いてあります。
道具もよく保存されていますね。生活道具は近年になってやっと資料的な価値が認められたので、いい状態のものがまとまって残っているのは貴重です。
何でも自分で作らなければいけなかった山村で、道具類は生きるための必需品でした。しかしこの種類は凄いですね。村の鍛冶屋も忙しかったでしょう。
牛を入れていた区画。手前の階段は本来なかったもので、ここから出入りしていました。積雪量が多いため、独立した牛小屋では大事な牛を守りにくかったのでしょう。
風呂も内風呂になっています。庶民の家では外風呂が一般的だった時代に、これも雪の里ならではの仕様だと思います。
さて、相変わらずの雨の中を宮津までやって来ました。風情のある町、と言えば聞こえはいいですが、江戸時代に北前船の寄港で賑わったとは思えない寂れっぷり。
でも旅行者としてはこういう風情はいいものです。都会を求めてここに来たわけじゃありませんので。
細川ガラシャ夫人の生誕450年を記念する幟がいくつか立っていました。食堂のメニューにも「元祖ガラシャそば」とありますが詳細不明。
丹後は守護大名である一色家の領地でしたが、織田方の武将である細川藤孝に滅ぼされました。藤孝は明智光秀と親しく、跡継ぎの忠興にも光秀の娘たまを迎えていたため、光秀謀反の後は立場が非常に悪くなり、たまを幽閉。わが身のはかなさを気に病んだのか、たまがキリスト教に改宗。その洗礼名がガラシャ。元々明智と縁があるだけに、細川家の西軍への寝返りが期待できると見た石田光成はガラシャを人質に取ろうとしますが、ガラシャは細川家に殉じて自害。辞世は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。
宮津駅に来た目的はこれです。
北近畿タンゴ鉄道宮津線の普通列車、悠遊12号。
宮津から西舞鶴方面の四所まで乗車。この路線は宮津から海岸線に沿って東に走り、丹後由良からは由良川の東岸を四所まで遡ります。この由良川が台風18号の影響で氾濫して、国道175号線の冠水により通行できなくなるとは、この時点ではもちろんわかりません。