いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

手塚治虫「ブッダ」

2014年06月13日 | 極楽日記(読書、各種鑑賞)

 手塚治虫入魂の長編です。もちろん主人公はブッダである釈尊なのですが、ブッダ自身の悟りに至る道とか、悟ってからの教義とかは真面目に扱うと難しすぎるためさらりと扱って、ブッダを映し出す鏡である弟子たちの様々な苦悩や煩悩、解脱をうまく取り上げて描いています。これは映画でもオーソドックスな手法だと思います。例えばイエス・キリストが主役の映画でも、イエスその人よりも周りに光を当てることで、ドラマの中では消化しにくい教義の実例を、いわば等身大で視聴者に図示することができます。手塚さんは映画から大きな影響を受けた人なので、コミックでブッダを描くためには間接法をうまく使うのがいいと考えたのでしょう。成功していると思います。

 例えばルー・ウォレスの小説「ベン・ハー」は2回の映画化でいずれも大成功を収めましたが、副題に「キリストの物語」とあるように描きたかったのはキリストの迫害と復活です。それを直接的に描くのではなく、生身の人間であるベン・ハーを通すことで、当時の民衆の苦難や救いを求める気持ち、キリストによる救済がより実感されるわけです。手塚さんのブッダではストーリーがより複線的であり、ブッダを取り巻く人々にそれぞれ魅力的なキャラクターを持たせることで飽きさせない展開を実現しました。

 反対の例が、宗教映画では萬屋錦之介の「日蓮」かな。日蓮本人を正面から描こうとしすぎて、却って悟りに至るまでの道筋がわかりにくくなってしまった印象が強いです。日蓮宗のバックアップを受けたいわば公式映画なので、肩に力が入ってしまった感があり、例えば日蓮が両親を説得して、自分こそが国家の柱とならねばならないことを理解させるシーンがあるのですが、恐らくは最も困難で意義深かったであろうその説法を描くことが不可能だったのか、中身をほとんど省略。奇跡そのものを直に描こうとする試みは失敗するものです。これなら間接的にその教えの素晴らしさを示した方がいいでしょう。この肝心の説法がないために、錦之介の力みぶりもあって、その後の日蓮の強引な布教ぶりに納得できなくなってしまいました。一般の視聴者は教義の内容までよく知らないのですから、悟りに至る道をもう少し丁寧に描いてくれないと、あれでは日蓮がデマゴーグの怪僧に見えかねません。実際に当初は幕府からそのように受け止められたのですね。

 ブッダを巡るエピソードはたくさんあり、伝奇的なものや不確かなもの、後世の作り話もあって、その取捨選択には手塚さんも苦労したようです。連載時や初期の単行本で採用された野ブタの話などサイドストーリーのいくつかは手塚さん本人の判断でばっさり切られています。またブッダの重要な弟子(十大弟子と言われる)もほんの数人に絞られ、役柄も大胆に変えられています。ですから資料としての価値は決して高くないのですが、単行本化されてからも推敲を重ねた甲斐があって、物語としては大いに楽しめるものになりました。この文庫版では各巻末に有名人による書評があるのが特徴なのですが、第2巻の大沢在昌さんは的確な評価でさすがと思わせてくれる一方、本当に作品を読んで書いているのか、あるいは比較するべきほかの作品を見て書いているのか疑わしいものがかなりありました。特に某文豪のお孫さんのはかなり酷いですね。
コメント
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