アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

火車

2008-03-15 23:19:45 | 
『火車』 宮部みゆき   ☆☆☆☆☆

 再読。何度読んでも面白く、感慨深い。やはり宮部みゆきの最高傑作はこれだろう。

 ミステリ好きでこの小説を読んでない人はあんまりいないと思うが、野暮を承知で説明すると、本作のテーマは多重債務者である。クレジットカード破産とか一昔前のマイホーム・ブームがもたらした借金地獄とか、そういう題材をうまく料理してある。かなり取材もしてあるようだが、宮部みゆき本人の弁では「探しに探した人が最後に出てくる話にしよう」というアイデアからこの小説は始まり、「探す人が途中で入れ替わってた方が面白い」になり、じゃあそんなに探さなくちゃいけない事情は何だろう、というプロット上の都合でクレジットカード破産を思いついたらしい。だから社会派の傑作とか言われるのが申し訳ない、と言ったとか。

 でもこれを聞いて私は非常に納得できた。これはある女が逃げに逃げ、人生を賭けて必死に逃げ、それをまたある人物が探しに探し、そのどんづまりに現れてくるドラマが核心となった、非常に物語的な物語、小説的な小説なのである。決してクレジットカード破産という社会問題の啓蒙のために書かれた小説じゃない。そこんとこ見誤ると、「多重債務問題は実際はこんなに単純じゃない」なんて見当違いの批判が出てくる。

 しかしながら「逃げに逃げる」口実として持ち出されたカード破産が、この作品の真のテーマである「孤独」と絶妙にマッチし、また現代人の寂しさをあぶり出す仕掛けとしても実に巧妙に機能している。小説のパーツが二重にも三重にも生きてくる。それはもちろん宮部みゆきの力量だろうが、この作品においては成立過程でなんらかの幸運なマジックが働いたと感じさせる。要するにそれくらいこの作品の出来は素晴らしい。

 なんといっても唯一無二、使いまわしのきかないこの大胆な構成がとても美しい。この小説における最重要人物は最後まで登場しない。ついに登場した、その瞬間に小説が終わるのである。読み終えた瞬間深いため息をつきたくなる。宮部みゆきの小説にはエンディングに凝ったものが多いが、余韻の深さという意味では他の作品と比べても本書がダントツだ。宮部みゆき作品に限らなくても、これと同じくらい力強いラストを持ったミステリはちょっと思いつかない。そしてもちろんそのエンディングが単なるギミックに終わらず、この作品が持つ豊かな感情を鮮やかに昇華している。

 それからこの作品の最重要人物、真の主人公、つまり最後まで姿を現さない新城喬子の独特の存在感がすごい。出てこないわけだからキャラクターというのとはちょっと違う、読者は彼女の影を感じるだけだ。だから存在感というか、もっと正確にいうと「不在感」である。本書を通して読者は彼女の不在を強烈に感じ続けることになる。彼女を追うのは休職中の刑事。彼が表向きの主人公だ。彼女は逃亡者であり、犯罪者である。かなり凶悪といってもいい。だから決して善人ではない。しかし悪人と呼ぶのも躊躇する。少なくとも、小説のキャラ分類でいうところのいわゆる「悪人」ではない。同情すべき事情がある、けれども許される一線は越えてしまっている、でもだからこそますます哀れに思ってしまう、という複雑な堂々巡り。善とも悪ともつかない立体的な存在感、非常にユニークな主人公だ。東野圭吾の『白夜行』と雰囲気が似ているが、やはり違う。

 それからまた、この小説が持つ陰りもまた独特だ。宮部みゆきにはこういう肌寒くなるような、イヤーな感覚を描く才能があるが、この小説でもそういう瞬間があちこちにある。小説が進むにつれ、寂寞とした孤独感がじわじわと募っていく。読者は休職中の刑事と一緒に、ある壮絶な人生をだんだん発見していくことになる。

 本書の真の主題は「孤独」であり、「寂しさ」である。「寂しい女」とは宮部みゆきが松本清張のアンソロジーで使っていた言葉だが、宮部みゆき自身も「寂しさ」を描くのがうまい作家だ。そして本書の主人公・新城喬子は「寂しい女」像の極北ともいうべきキャラクターであって、その肖像を描き出すことがこの小説の核心である。ジェットコースター的スリラーでもトリック先行のパズラーでもない、じわじわボディーブローが効いてくる人間ドラマ。だからメインのプロットを追うことだけにフォーカスせず、サブキャラのエピソードも豊富だ。休職刑事の家庭や、その友人のエピソード。入れ替わった女・関根彰子の人生模様もかなりの比重で描かれるし、彰子の幼馴染の青年、その妻、などみんなが厚みを持ったキャラクターとして登場する。それらはすべて本書のテーマ、「孤独」や「寂しさ」を掘り下げるディテールとして機能している。『模倣犯』や『理由』など後年の大作では書き込み過ぎで冗長だと思う部分もあるが、この小説ではそうしたサブキャラの書き込みが最大限に効果を上げていて、決して冗長に流れていない。

 まあそれにしても、この小説を読むとクレジットカードのキャッシングが怖くなることうけあいだ。私も社会人になりたての頃気軽にキャッシングを使っていたし、だんだん丸井や楽器のローンが増えてキャッシングで埋め合わせたこともある。アメリカに来る時に全部清算したが、この小説に書かれているような、だんだんエスカレートしていく感覚はなんとなく分かる。みなさん借金には気をつけましょう。


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