崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

巨峰と棗

2010年08月06日 05時10分18秒 | エッセイ
旧職場であったあった広島大学の事務室に入っても知っている人は一人もおらず、つながる縁が完全に消えたかのように感じたが講義の学生とは延々つづいていると感じた。彼らの先生、先輩たちからつながっている太いパイプを感じた。講義は私が楽しかった。猛暑中にお茶と飲食、しゃべり、語り、笑い、映像鑑賞などが楽しかったのである。大嶺恵美さんがすぐまとめてくれた。引用する。

 その歴史教育をする際に植民地化の事実を教育する際に、その歴史を否定的に教育するか、肯定的に教育するかについて話し合った。つまり考え方や価値観の基礎が作られる段階にあたる年少者教育では「愛」と「協力」を中心に教えるべきで、それらが十分に訓練され身に付いていないと人間はいざというとき人を思いやることができず、本能や欲に負けて人を傷つけてしまい、結局この世から争いをなくすことができないとしてこの2つの重要性を強調した。平和教育は被害と悲惨を通してするものではなく、協力と愛によってなされるべきであると主張した。
 三人の学生が新幹線駅まで見送ってくれた。中国から私の好物の棗を貰った。広島駅では広島時代の友人と久しぶりに会ってお茶を飲んだ。警察の彼に私が昔外人登録を入管で済まして市役所に届けるのを知らず違反して裁判まで受けた話をしたらそれがやっと一括届けになるように変わるという。今100歳を越える高齢者の不明者が問題になっているのも死亡届と住民登録抹消届けが別であるの問題であろうと思った。つまりあわてて急いで死亡届だけ済ませて抹消届けを別に出さず生存のままのようになった人も多いだろうと思った。彼は私の本を購入してサインを求めた。そして彼の故郷の名産の庄原巨峰をくれた。満員の新幹線で帰宅したときはノックアウトであった。一晩が過ぎた今日は広島原爆記念日であり、わが夫婦の結婚記念日でもある。自祝のテーブルには巨峰と棗が飾られる。感謝である。