崔吉城との対話

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2010年8月13日「平和への願い:韓日新時代へ」寄稿全文

2010年08月18日 05時51分17秒 | エッセイ
 私は1940年に韓国で生まれた。日本の敗戦直後、京畿道楊州にある国民学校に入学したので戦前の記憶は乏しい。ただ(私のいどこで私が生まれる前に養子となっていた)兄が広島へ徴用されて行った時の送別と帰還は印象に残っている。兄はすでに結婚していて、44年に徴用された。兄は広島の宇品の工場で働いたが、原爆投下の前に帰国した。いまは亡き兄だが私が広島で生活するようになったとき、広島をもう一度見たいと言われて道案内をしたことが、今も思い出される。
 さて戦争が終わってから、村には徴用された数人の青年が戻ってきた。私は彼らの戦争物語を聞いてびっくりしたのを覚えている。南洋のある食堂には人の肉が掛けてあり人肉を食べる話や、B29の爆弾投下の時にどう逃げ惑うのに必死になったという話も聞いた。
 8月15日によって世相は一変したが、学校の中はそれほど変わらなかった。運動会、学芸会、入学.卒業式などもほとんど同じだった。スコットランドの民謡「離別」をもとに朝鮮などの歌詞を入れかえた愛国歌として歌われたが、運動会の騎馬戦などの応援では、紅白戦で「紅がんばれ、白がんばれ」に3・3・7拍子の拍手、式次も日本式で行われていた。
 名前や物称も日本語のまま、村の青年たちが日本語で討論するのも聞いた。隣家の明子は「アキコ」であり、後に「ミョンジャ」(韓国語読み)の両方を使っていた。子供に聞かせたくない話があると、親が日本語を使う家庭もあった。3・1と8・15の記念日には日本時代のように花電車が走った。昌慶苑の桜の花見には電車の臨時駅も設けられた。このように植民地時代の影響がしばらく残っていた。今では桜の木は抜きさられ、松の木に植え替えられた。紅白戦と青白戦に変わった。
 70年代ではナショナリズムが強くなり、日本文化は「日帝残滓」とされ、「低級倭色日本文化」は禁止された。故金大中大統領が98年に日本文化を開放するまで、日本文化は長い間、軽視され禁止された。日本文化を肯定的に紹介するものは、「親日派」と指弾する政策や社会的な雰囲気があった。政治や外交の日韓関係は常にギクシャクしていた。韓国の四大国慶日のふたつ、3・1と8・15は反植民地、反日思想を強化するのに大いに効果を成したのである。
 こうして韓日関係の中で独立記念館が作られた。日本警察の悲惨な拷問場面が復元されて展示されている。その歴史は事実ではあるが、戦後60年以上過ぎた現在、どう受け止めるべきだろうか。日本に植民地にされたことと、被害が大きかったことは事実であるが、教育的には早く植民地意識からの反日思想から脱皮すべきだと思う。
 また日本へ提言したい。私は広島に10年間居住した。広島大学では数年間、「韓国人から見た広島・長崎への原爆爆撃」という「ヒロシマ学」講義を行い、その意味をもっと知り、深めようとした。被爆に関するシンポジウムを主催したこともあった。日本はアジアへの加害と原爆による被害と、2つの側面を持っていることを、きちんと伝えていかないといけない。
 戦争は非情であり、原爆は多くの犠牲を強いた。その事実を直視し、教訓としなければならない。だが、私は戦争を通して平和を教育する論理には反対である。つまり戦争や敵を想定した平和教育はいけないと思っている。何をどう教えるか。アメリカの子供教育テレビプログラムの「セサミ・ストリート」のように子供たちが「遊び」ながら「協力」し、「愛する」ように教えることが望ましい。そこでは主語が愛と平和であり、被害と悲惨ではない。
 今まで韓日は国家間の対立や文化的葛藤が長く、多かった。これからは国家や日韓のレベルを超えていくことに期待する。国家を超えるということは国家間の関係ではなく、生活や文化のレベルでの交流、「韓流」が流れるのではなく「沈殿する」ことであり、韓日を越えるということは北朝鮮を視野に入れて東アジア、アジアへとグロバール化することである。(写真は山口民団の終戦記念式で万歳する場面)