崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

野口マキ子の北朝鮮から引き上げて

2010年08月16日 06時47分31秒 | エッセイ
昨日2010年の終戦記念日の礼拝で野口氏が証しをされた。この日、日本では国家レベルでの行事は少ないが、マスコミや個人レベルでいろいろと体験から語ることが多い。なぜか私は記憶の少ない終戦直後の状況から波乱万丈の人生が始まった。それを振り返りながら証しを聞いて涙した。彼女の証は、

 昭和20年8月15日、19歳の夏、私は北朝鮮咸鏡北道城津で終戦を迎えました。よく聞き取れないラジオの放送を聴き、何がどうなったのか、理解できず戸惑い呆然とした中で敗戦したことを知りました。
 数日前に参戦したソ連軍隊が進駐して「シゲ」「マダム」といいながらドサドサと家に上がりこんできました。シゲとは腕時計のこと、みんなが欲しがりましたがこれはあるだけ持っていけばいいのですがマダムはそうはいきません。今より身長10センチ体重17-18キロも多い娘だった私が自分でも今思うとふきだししそうになりますが、頭は丸坊主、青々として顔にはかまどの黒い灰を塗り、弟の学生服を着せられた姿を父が見て「お前は何をしても男にはなれない」と嘆きました。仕方なく天井裏に上がりミシミシと音をさせないように「はり」につかまって、真っ暗な中で一日中、じっとしていました。奥さんをかばって顔面を銃で撃たれ亡くなった二人の同僚の先生、天井裏に隠れていることが分かり剣で突かれて亡くなった人の話などが伝わってきました。
 近所に住んでいた父の弟、私の叔父夫婦が日本人100人ほどの小さな会社だったのでまとまって引き上げを開始することになり、私をかくまうのに神経をすり減らしていた父は一刻も早く私を帰国させようと叔父に托したのです。
 9月のはじめ、後ろ髪を引かれる思いで父母と別れ、チャーターした荷車に乗り込んで出発しました。しかし列車は行きつ戻りつしたあとほどなく止まり全員下車させられ駅前広場で一夜を明かしました。翌朝早く1時間以内に立ち退かなければ銃殺すると脅され野のあぜで野宿しながらあてどもなく毎日歩き続けました。満天の星空そして美しく輝く月を仰ぎながら9月10日20歳の誕生日だったと気付いた日もありました。
 ソ連の進駐も少し落ち着いたらしくもと遊郭だったところが難民収容所としてあてがわれ4畳半くらいの部屋に十数人でも、とにかく雨露をしのぐことができるようになりました。家を出発してから日本の土を踏んだ翌年4月末までの8ヶ月、いろいろなことがありましたが発疹チフスにかかり高熱にうかされている間に叔父が亡くなり、むしろにくるんで大きな穴に投げ捨てられたことを聞かされました。いまだに北朝鮮の地に眠るおじをどうすることもできずにいます。すでに息を引き取っている子供を背にくくりつけ泣きながら歩く母親、朝鮮保安隊の目を恐れながらこっそり軒下を貸してくださったオモニのやさしさなどなど話し出したらきりがありません。
 4月末、ようやく叔母と故郷の山形県米沢にたどり着き、15才で予科練にいた弟直樹と再会、やがて母と6年生の弟が帰国、親戚は皆東京在住で焼け出され、頼るところもなく落穂を拾い、野草を摘み弟がとってくれた田にしなどで生活しながら父の帰りを待ちました。
 けれども皆の引き上げの世話をして最後の引き上げ船に乗った父は博多にようやくたどりついたまま、駆けつけた母、弟、私の三人に会えて喜んだ翌朝郷里の米沢に帰ることなく息を引き取りました。父の遺骨を抱え帰る途中のことです。上野の駅で列車を待っていた時弟直樹が「焼き芋を買ってこようね」といってわずかな残りのお金を握って出て行ったきりなかなか戻りません。ようやく帰ってきた彼の手には焼き芋はなく、一冊の聖書を大切そうに抱えていました。路傍伝道をしておられた田中牧師のお話にひきつけられていたようです。空腹を抱えてはいましたが、全くキリスト教に縁のなかった私たち一家でしたが今思えばはじめてイエス様に出会った大切なときでした。
 頼りにしていた父も叔父も失い、再び教職に戻らざるを得なかった私は本当に悩み苦しみました。平和のための正義の戦争と信じて疑わなかったことが一瞬にして崩れ去ってしまい、昨日まで幼い子供たちに言っていたことは何だったのか何を信じ、どう考えどう行動すればよいのかあの子供たちにどのようにわびればよいのか、本当に悩み苦しみました。
 戦争は生き残った者にも肉体的な苦しみ、生活上の苦しみと共に心の奥深く人間をとことん苦しめるのであると思います。今私たちは世界の平和を願っていますが、私はこの悲惨な体験を通してその根本が間違っていれば本当の平和ではないtことを思い知らされます。真の平和はイエスキリストによる平和、それは決して裏きられることのない、崩れ去ってしまうものではない、本当の平和であることを信じ従い、世界の真の平和を祈り続けようと思っています。。

ソウル1945

2010年08月15日 06時18分33秒 | エッセイ
 2006年KBS放映のドラマ「ソウル1945 (서울1945)」を鑑賞している。親日派の生活、終戦後の南北分断の事情の歴史ドラマで男女の愛と憎しみで繋げて続いていく。親日派の敗亡と生き残り。長い時代、植民地と解放の混乱時代を圧縮して当時の人々の生き方を見せる。まだこれから朝鮮戦争の部分が残っている。
 このドラマはへギョン(写真)、ウニョク、ドンウ、ソッキョンという代表性を持った4人の人物を通じて、混乱時代を描いている。ソッキョンとゲヒ(へギョン)という2人の女性から愛される高等文官試験にも合格したウニョクは熱情と冷酷、さらに決断力を持っている。ムン・ソッキョンは子爵の一人娘としてピアノを学び東京コンクールで大賞を受賞する芸術性をみせていた。天皇に子爵の称号と共に巨大な財産を賜った親日政治家ムン・ジャングァン子爵を父に、朝鮮人だがその美貌と鋭い才知で寺内総督の養女となったアメカオリを母に持つ幸福な小公女。一度も挫折したことが無いので万事に傲慢で自信満々。彼女の侍女をしたへギョンとの逆転、葛藤が愛という糸によってドラマが連続している。
 混乱中には貧富の逆転が激しく変化する。私は朝鮮戦争の体験からその混乱期をドラマで見て同感するところが多い。私の近い親族の一家は代々貧乏であったが、戦争中米軍部隊に抗議したハプニングで一トラク分の物質を貰って売り、立ち上がり駐屯キャンプに依存して田んぼを買い生活が豊かになる。一方伝統的な豊かな家は廃れていく。そこには倫理や愛もない、人間破壊しかない。アクションドラマでありながらピストルは飾りのようにポーズだけで、発砲することはほぼない。
そのドラマを見る私はいつもヒューマニストのようである。おそらく多くの視聴者はそうであろう。そのヒューマニストは激変の時代には犠牲になるのが普通である。時代の変化を恐れている保守主義が強いことが理解できる。

「関門海峡花火大会」

2010年08月14日 06時08分28秒 | エッセイ
 昨日13日夜に関門海峡を挟んだ北九州市門司区と山口県下関市の両側から計約1万3000発が打ち上げられ、「関門海峡花火大会」が夏の空を彩り、我がマンションからも歓声が上がった(写真は毎日新聞)。去年よりは大きく、より多様、綺麗に、夜空に色鮮やかな大輪の花を咲かせた。我がマンションの景観を自慢する時でもあった。藤田牧師夫妻を初め、教会のメンバーと留学生など10人弱で花火を見て談笑した。車で送ってから帰宅した時は深夜12時過ぎであった。
 門司港と下関港の競争、山口県と福岡県の競争とか試合のように比較したり楽しい時間であった。門司港では2箇所から上がった。下関はより派手にしたがアイディアでは福岡に及ばなかったとか、否、下関が綺麗だったとかいろいろな話が出た。しかし両側の花火を全体的に調和してみた感動の話が多かった。競争の美は調和である。それぞれの人生も競争、調和する美の世紀の花火のようでありたい。
 
 


韓国のテレビ局から

2010年08月13日 05時26分07秒 | エッセイ
 韓国の某テレビ局から何度も電話で情報提供の要請があった。シベリア・シャーマニズムのプログラム制作用に私の映像資料とカザフスタン・アルマティのソンラブリンチ氏撮影のある村での最後のシャーマンの儀礼映像が必要だとのことである。ソン氏は高麗人であり、私の紹介でソン氏とは電話で話したと言い、私が所蔵している資料を使いたいと言う。私は著作権を理由に断った。以前に比して私が韓国のテレビにこのように消極的なのは数年前韓国のMBC報道に被害を受けたことがあるからである。誠意を持ってインタビューに応えたのに悪用され、悪意のある編集に大変心痛い経験があるからである。 テレビ局の担当者は私が1988年に民音社から出版したディオセジーとホパールの著『シベリアのシャーマニズム』の訳書を基にして制作しているという。私は今から10年ほど前にシベリアのシャーマンを探して歩き、ディオセジーを案内した元イルクツク大学のロシア文学者に会って情報を得て、ナナイ族の最後のシャーマンに会って撮影に成功したのである。1年後彼女が死亡したことが新聞に報道されたので私の映像が唯一のものになった。その映像は日本で学問用の資料としてビジュアルフォークロアの神氏が編集してくれた。その資料を「郵便で送ってほしい」といわれた。しかし固く断った。どのように編集するか予測が付かないからである。

集中講義を終えて

2010年08月12日 05時21分11秒 | エッセイ
 東亜大学大学院での集中講義が終った。これで前期の講義が全部終えた。お盆休みで大学の建物には人がいない。私が一人で占有している気持ちであった。講義では死の問題、改正脳死移植法も議論してみた。日本がそれに関して 法律や規制が厳しく、患者の中には高額を払ってアメリカやオーストラリアなどの外国に行って受けた人も多かった。やっと日本でも本人の意思が家族に伝えただけでも行われることになった。一昨日にはマスコミに大きく報道された。しかし脳死の身体が死体であるか、生体であるかは区別が簡単ではない。社会や時代によって異なるからである。
 植物人間に医療的に、経済的に負担であるという認識は軽薄であろう。それは人とは一定の基準と標準があるということになる。それぞれの多様な人間であるという認識が必要である。ただ人の身体を使って命を延長するまでの倫理も再考せねばならない。法律、慣習、宗教、医療、経済などさまざまな問題で考察すべきである。特に政治家たちがよく認識しておくべきテーマであると再確認する議論をした。

国際新聞の金賛錫記者からインタビューを受けた

2010年08月11日 05時38分26秒 | エッセイ
 韓国釜山の国際新聞の金賛錫記者から日韓合併100周年に関するインタビューを受けた(写真の左端が金記者)。100年の間の歴史より未来的ことに関心があるという。意外なことである。つまり植民地や戦争の悲惨さにポイントを置くというよりそこから未来への展望といおうか、新しい日韓関係の定立への意見を求められた。
 世界の被植民地国家の中で植民地への反感がとても強いのが韓国と前提にしてアフリカや東南アジアのイギリス植民地であった諸国では植民地の負の遺産を効果的に利用し、当時の人物を記念するなど肯定的に評価する。韓国は反日感情があまりにも強く日韓関係が妨げられてきた。日本はアジアに加害した国家でありながら被爆を以って被害国家として変身している。国家間の政策をはるかに越えて民間からの文化を共有する偉大な世紀を迎えている。それは韓流であり、日流である。未来は明るいと展望した。
 帰宅してソウルのSBSテレビと東京の東洋経済日報から電話インタビューを受けた。ソウルのテレビには注意しながら話をした。以前悪意のある編集に傷つけられたことがあるからである。東洋経済日報からは私が従兄弟が私の兄として養子になっていた家族状況、そして戦後の日本文化の残滓に関することであった。今日は台風の影響の中、集中講義がある。

村山談話

2010年08月10日 05時29分09秒 | エッセイ
 今政府は8月15日に日本政府の公式見解の声明書を準備しているという。戦後50周年の終戦記念日にあたる1995年8月15日に当時の村山富市首相が発表した談話がある。日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大なる損害と苦痛を与えました」と述べ、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明した。その見解は日本の内閣に引き継がれている。以前にも書いたが日本ではお詫びの場面が多い、日常的にも「ごめんなさい」などがありすぎに聞こえるが、植民地に関して謝ることは少ない。
 この日本政府の公式見解の声明に野党の中にはなぜ繰り返すかと反対もあるようであるが、なぜ毎年広島秋葉市長はアピールするように平和宣言をするのか。日本が被害ばかり強調するより加害と被害を同時に発信するのが筋であろう。北朝鮮にも伝わるるように誠意を持って声明を発表することを願っている。

バイオリン・コンサート

2010年08月09日 06時11分31秒 | エッセイ
 下関シーモールで開かれた韓国民団主催の光復節でバイオリニストのジョン・チャヌ(丁讃宇)氏のコンサートを聴いた。日本岡山県生まれの在日2世である。パリ国立高等音楽院・大学院を卒業、韓国国立交響楽団、東京交響楽団、韓国KBS交響楽団などのオーケストラの首席コンサートマスターを歴任した。朝鮮半島の南北首脳会談を記念しての南北統一コンサートの開催もした。2001年、8月には広島と長崎で原爆犠牲者追悼コンサートを行った。
 昨日彼は日韓合併100年をユーモアにウィットに富んだトーク、曲目解説をしてから演奏した。「待っている心(기다리는 마음)」「帰りたい(가고파)」「鳳仙花」までは植民地期の悲しみ、そして日韓関係がよくなる契機のドラマ主題曲「冬のソナタ」、さらに「懐かしき金剛山(그리운 금강산)と北朝鮮の名曲「臨津江」の順で解説と演奏で、「愛」、「平和」への願いを込めた演奏を続けた。6月同じホールで開かれた私の古希記念祝賀会で野村栄氏のバイオリン演奏と自分の70歳を語ったことを思い出しながら鑑賞した。

8月15日は「8.15」

2010年08月08日 06時00分31秒 | エッセイ
 今日は山口民団主催の第65周年光復節記念式典に招待され参加する。韓国では原爆投下日を記念することはまったくない。日本では8月15日より6日(広島)、9日(長崎)が大きく記念される。日本は戦争の被害国であるかのように認識されている。「英米畜生」の言葉が復帰するかもしれない。アメリカ大使が罪人のように広島の式典に参加した。原爆ドームの負の遺産が文化遺産になっている。
 8.15を韓国と台湾では「光復節」「解放記念日」、日本では「終戦、敗戦記念日」、中国や北朝鮮では「勝戦記念日」となっている。東アジアの歴史認識の差がはっきりしている。日本の歴史認識が他の国から違っていると指摘されている。それは加害国家の日本が被害国家に変身したからであろう。(写真は花電車)
 実はどの国の国民でも被害者である。国民は国家という組織を通して福祉などを保障してもらうことがあるが、多くは国家によって苦労した。またそのような国家が絶対多数である。若いとき読んだ「西部戦線異状なし」に敵対する軍人同士が同じ塹壕に落ちてなぜ戦争するのかという疑問を投げ掛けている場面が印象的である。8.15は「8.15」である。東アジア諸国の共通認識の課題であり、国家間の対立的認識は不要である。

お知らせ2点

2010年08月07日 05時28分54秒 | エッセイ
 8月22日には二つの行事が行われる。一つは日韓合併100年記念として「地域から考える世界史プロジェクト:日本各地で考える日本と朝鮮半島の関係」会で私が講演と映像「愛と誓ひ」を上映する。

場所:山口県下関市(下関市生涯学習プラザ多目的ホール)
日時:8月22日(日)10:00~12:00「映像から考える朝鮮半島と日本」
講師:崔吉城(東亜大学教授)映画:「愛と誓ひ」(71分)上映
連絡先:磯部賢治、電話:090-7897-4894
 
 もう一つは邦楽アンサンブル奏主催の「沸きあがる音楽祭in北九州」が行われる。
 公演:こと、尺八による邦楽アンサンブル
場所:戸畑市民会館中ホール
 日時:22日(日)13時から
 連絡先:大久保裕文、TEL093-582-6714)
 
 

巨峰と棗

2010年08月06日 05時10分18秒 | エッセイ
旧職場であったあった広島大学の事務室に入っても知っている人は一人もおらず、つながる縁が完全に消えたかのように感じたが講義の学生とは延々つづいていると感じた。彼らの先生、先輩たちからつながっている太いパイプを感じた。講義は私が楽しかった。猛暑中にお茶と飲食、しゃべり、語り、笑い、映像鑑賞などが楽しかったのである。大嶺恵美さんがすぐまとめてくれた。引用する。

 その歴史教育をする際に植民地化の事実を教育する際に、その歴史を否定的に教育するか、肯定的に教育するかについて話し合った。つまり考え方や価値観の基礎が作られる段階にあたる年少者教育では「愛」と「協力」を中心に教えるべきで、それらが十分に訓練され身に付いていないと人間はいざというとき人を思いやることができず、本能や欲に負けて人を傷つけてしまい、結局この世から争いをなくすことができないとしてこの2つの重要性を強調した。平和教育は被害と悲惨を通してするものではなく、協力と愛によってなされるべきであると主張した。
 三人の学生が新幹線駅まで見送ってくれた。中国から私の好物の棗を貰った。広島駅では広島時代の友人と久しぶりに会ってお茶を飲んだ。警察の彼に私が昔外人登録を入管で済まして市役所に届けるのを知らず違反して裁判まで受けた話をしたらそれがやっと一括届けになるように変わるという。今100歳を越える高齢者の不明者が問題になっているのも死亡届と住民登録抹消届けが別であるの問題であろうと思った。つまりあわてて急いで死亡届だけ済ませて抹消届けを別に出さず生存のままのようになった人も多いだろうと思った。彼は私の本を購入してサインを求めた。そして彼の故郷の名産の庄原巨峰をくれた。満員の新幹線で帰宅したときはノックアウトであった。一晩が過ぎた今日は広島原爆記念日であり、わが夫婦の結婚記念日でもある。自祝のテーブルには巨峰と棗が飾られる。感謝である。
 

広島大学院で集中講義

2010年08月05日 04時55分15秒 | エッセイ
 数年前から続けて広島大学院で集中講義「植民地文化論」を行っている。植民地歴史を若い世代にどう伝えるべきか議論した。植民地や戦争から被害を強調しながら平和を教えるのが正しいか。明日が広島原爆投下記念日であり、広島は被爆都市として被害の主張が強く、平和へのイメージは弱い。それはトルストイの「戦争と平和」のようなイメージと似ている。被害を強調することが平和になるという漠然とした想定であろう。中国が南京虐殺をもって被害を強調するように韓国では独立記念館に日本警察から拷問を受けたことを展示して歴史を正しく教えるという。
 私は戦争を通して平和を教育する論理には反対である。多くの戦争は平和のために行われ、「正しい戦争」とも主張された。平和のためにもっと戦争しなければならないという考え方になるかもしれない。しかし戦争や敵を想定した平和教育はいけないと思っている。何をどう教えるか。アメリカの子供教育テレビプログラムの「セサミ・ストリート」のように子供たちが「遊び」ながら「協力」し、「愛する」ように教えることが望ましい。そこでは主語が愛と平和であり、被害と悲惨ではない。

北京から

2010年08月04日 05時50分09秒 | エッセイ
 北京駐在の日本人の知人に私の古希記念論文集『交渉する東アジア』を送ってお礼のメールがきた。それは次のような文である。

「久しぶりにアパート一階の郵便受けを見たら(ほとんど郵便が来ないし)いちいち鍵を開けないといけないのであまり見ていません)分厚い封筒が入っていまして何故かボロボロになっていてどうしたんだろう?と見てみたら崔先生が送ってくださった本でした。誰かが意図的に開封したようでした。(中略)早速、先生のお書きになった「大英帝国の大逆罪人となったケースメント」を読ませていただきました。確かに近隣国を植民地にしたという意味でイギリスとアイルランドの関係は興味深いものがあると思いました。その狭間で双方から裏切り者と呼ばれたケースメントのあり方は今の私たちにも実に参考になると思います。北京にいて中国人と親交を深めれば深めるほど日本人からはある種の距離感を持たれるようになります。その辺を何とかする視点はないものかといつも思っていますが先生がお書きになっているケースメントの場合カソリックとプロテスタントを両方ともつつみこむキリスト教という基盤が偏狭なナショナリズムを超える契機になっているのかもしれないと思いました。日本と韓国・朝鮮、中国の場合どこにそうしたものがあり得るのか。なかなか難しいと思いました。」

 このメールからは拙稿のケースメントの事例研究に関して好意と読みの深さが強く感じられる。日中や日韓の間に生きる立場が浮き彫りにした良い読後感だと思う。昨日から続いている広島大学院で今日の集中講義でケースメントの事例を紹介し、議論したい。

電話線地下へ

2010年08月03日 05時18分58秒 | エッセイ
 以前にも触れたように下関観光一番のわがマンションの前の通りの電話線を地下に移す工事が長かった。昨日電柱が抜かれてトラックに積まれているのを見て嬉しくなった。タンプの2倍ほど長いものが運ばれるのをみて万歳と叫びたい気持ちになった。たち止って写真を撮りたかったがカメラも携帯も持参しておらず残念だった。それによって景観が美しくなるからという意味より深い意味がある。
 電柱は近代化の象徴的なものである。子供の時には電線に並んでとまっているツバメを描いたことがあった。また高圧線で人が死ぬ事故を目撃したこともある。将来は電話線だけではなく、すべての電線が地下へ、あるいはワイアレスになることを期待する。アービン・トフラーによれば第二の波の象徴が電柱であり、第三の波がワイアレスであろうということである。日本はこれで石炭、石油、電気から新しいエネルギーの風力などへ跳躍するであろうと期待が大きい。

ミイラにも年金支給

2010年08月02日 05時19分01秒 | エッセイ
「昭和のレトロ」展を観覧して日本人が懐かしく思われるものに私が同感であるほど古いアイロンやミシンなど日韓は共通であったことを痛感した。また最高齢の111歳とされていた加藤宗現さんがミイラ化していた話も似ていると感じた。1980年代に韓国全羅南道で調査した巫女の戸籍を調べたところ、最高齢者として盧大統領から記念品などを貰う対象であった人がいた。しかし実物としての彼女の名前と生年月日が異なっているので追求すると戸籍上の人は死んだが後妻が結婚届をせずそのままにしてきていることが分かった。被差別の巫たちは役場などへ出入りすることを嫌がって、そのようになったというのであった。それは家族や戸籍係りも周知のことであった。数年前に後妻の方が亡くなったことを確認したが戸籍上では彼女が世界一長生きであったのではないだろうか。その死亡届はどのように処理されたのか疑問が残る。
 戸籍上は生きている加藤さん(ミイラ)には現在まで妻の遺族共済年金が支給されていたという。死亡しても殺人ではなく、死亡届をしなければ長生き(?)する。出生届けをしなければ生まれていないことになる。数え年では誕生日が生まれた予告日になるのか。中国では戸口一人子以外の子の出生届けを避ける傾向があるといわれている。事実と記録は必ずしも一致するとはいえない。それをよく管理、運営することが大切である。今回の件に関してはミイラに年金支給を支払った行政だけではなく、家族が閉じこもってしまう、隣に住む人をお互いに知らない社会的な問題でもあるといえる。