verse, prose, and translation
Delfini Workshop
RICHARD WRIGHTの俳句(36)
2007-09-13 / 俳句
■今、那覇にいる。この数日、地元の人なんにんかとしゃべったけれど、当然といえば当然ながら、本土に対して複雑なものを感じましたな。They=日本人、Our=シマンチュという枠組みを感じますね。そこには、誇りも哀しみも怒りもある。シマンチュの島というのは、自分の故郷を指し、沖縄本島内でも、自分の島は、那覇市だよとか、沖縄市だよという使い方をするらしい。沖縄は無人島も含めると160もの島からなっているので、自然、そういう認識になったのかもしれませんね。石垣島や宮古島、沖縄本島では、すでに言葉がまったく違い、方言で話されると、お互いに聞き取れないと言う。ここには、豊かな多様性があるように感じますね。沖縄県という近代的な枠組みで、この地域を見ると、ちょっと違うんじゃないか、とも感じますね。しかし、「近代」というのは、光と影を伴いながら、地上で猛烈な力を振るっていますね。
◇
(Original Haiku)
A blick tenement
Is receiving furniture
In a light snowfall.
(Japanese version)
レンガのアパートに
家具が運び込まれている
小雪舞う中
(放哉)
大木にかくれて雪の地蔵かな
■ライトはどうしても説明的になる。たとえば、最後の前置詞句をIn抜きのただの一行にしたら、この句の印象はずっと鮮烈になるのではないだろうか。面白いのは、receiveの使い方で、A blick tenementが人格をもったように感じられた。用例を調べていないので、はっきり言えないが、擬人法的かもしれない。
放哉の句は、雪の地蔵の発見がある。やはり、ちょっと息が抜けるというか、くすっと笑える感じがした。
◇
(Original Haiku)
A blick tenement
Is receiving furniture
In a light snowfall.
(Japanese version)
レンガのアパートに
家具が運び込まれている
小雪舞う中
(放哉)
大木にかくれて雪の地蔵かな
■ライトはどうしても説明的になる。たとえば、最後の前置詞句をIn抜きのただの一行にしたら、この句の印象はずっと鮮烈になるのではないだろうか。面白いのは、receiveの使い方で、A blick tenementが人格をもったように感じられた。用例を調べていないので、はっきり言えないが、擬人法的かもしれない。
放哉の句は、雪の地蔵の発見がある。やはり、ちょっと息が抜けるというか、くすっと笑える感じがした。
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RICHARD WRIGHTの俳句(35)
2007-09-13 / 俳句
■旧暦8月3日、木曜日、
沖縄の夜空は暗く澄んでいる。満天の星月夜である。
◇
(Original Haiku)
Venturing outodoors,
The children walk timidly,
Respecting the snow.
(Japanese version)
外は危険が一杯
子供たちはこわごわ歩く
雪に足を取られないように
(放哉)
みんなが夜の雪をふんでいんだ
■ライトの句、一行目に切れを入れている。こういう使い方がいいのではないか。ただ、景は凡庸だとは思う。放哉の句、シーンとした雪に囲まれた部屋が後に残った。そして、だれもいなくなった。しづかな句だと思う。
沖縄の夜空は暗く澄んでいる。満天の星月夜である。
◇
(Original Haiku)
Venturing outodoors,
The children walk timidly,
Respecting the snow.
(Japanese version)
外は危険が一杯
子供たちはこわごわ歩く
雪に足を取られないように
(放哉)
みんなが夜の雪をふんでいんだ
■ライトの句、一行目に切れを入れている。こういう使い方がいいのではないか。ただ、景は凡庸だとは思う。放哉の句、シーンとした雪に囲まれた部屋が後に残った。そして、だれもいなくなった。しづかな句だと思う。
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RICHARD WRIGHTの俳句(34)
2007-09-12 / 俳句
■旧暦8月2日、水曜日、
沖縄は雲が低い。そのダイナミックな動きを海辺で仰向けになって見ていると、鼻先に蜻蛉が止まった。びっくりして、あたりを見回すと、蜻蛉が群れをなしている。沖縄も秋である。
◇
(Original Haiku)
The sound of the rain,
Blotted out now and then
By a sticky cough.
(Japanese version)
雨音が
しつこい咳で
時々聞こえなくなる
(放哉)
一日雨音をしつとり咳をして居る
■ライトの句、雨音と咳の音は対立している。放哉の句、咳は雨音に溶けていく。面白いことにライトの句は、原文のテーマは雨音で、咳との対立的な状況を説明している。放哉の句は、切れによって二つのことを詠んでいる。にもかかわらず、雨と咳は相互浸透している。
沖縄は雲が低い。そのダイナミックな動きを海辺で仰向けになって見ていると、鼻先に蜻蛉が止まった。びっくりして、あたりを見回すと、蜻蛉が群れをなしている。沖縄も秋である。
◇
(Original Haiku)
The sound of the rain,
Blotted out now and then
By a sticky cough.
(Japanese version)
雨音が
しつこい咳で
時々聞こえなくなる
(放哉)
一日雨音をしつとり咳をして居る
■ライトの句、雨音と咳の音は対立している。放哉の句、咳は雨音に溶けていく。面白いことにライトの句は、原文のテーマは雨音で、咳との対立的な状況を説明している。放哉の句は、切れによって二つのことを詠んでいる。にもかかわらず、雨と咳は相互浸透している。
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RICHARD WRIGHTの俳句(33)
2007-09-11 / 俳句
旧暦8月1日、火曜日、
今、沖縄の名護の東海岸にいる。晴れたり降ったりの天気である。機内でやることもないので、ずっとライトの俳句を翻訳していた。
◇
(Original Haiku)
Just enough of snow
For a boy's finger to write
His name on the porch.
(Japanese version)
雪
少年がベランダに
指で自分の名前を書いている
(放哉)
雪を漕いで来た姿で朝の町に入る
■ライトの俳句は美しいが、現句では雪の状態を説明している。放哉の句は俳味があって面白い。
今、沖縄の名護の東海岸にいる。晴れたり降ったりの天気である。機内でやることもないので、ずっとライトの俳句を翻訳していた。
◇
(Original Haiku)
Just enough of snow
For a boy's finger to write
His name on the porch.
(Japanese version)
雪
少年がベランダに
指で自分の名前を書いている
(放哉)
雪を漕いで来た姿で朝の町に入る
■ライトの俳句は美しいが、現句では雪の状態を説明している。放哉の句は俳味があって面白い。
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RICHARD WRIGHTの俳句(32)
2007-09-09 / 俳句
■旧暦7月28日、日曜日、
思い立って、一週間ほど、旅に出ることにした。南への旅である。とくに目的もない。ただ、朝の海、昼の海、月の海を見て、本でも読むだけである。予報では、天気があまりよくなさそうなのだが、雨の海もまたよかろう。
◇
(Original Haiku)
Just enough of light
In this lofty autumn sky
To turn the lake black.
(Japanese version)
この秋空は
湖が黒くなるくらい
光で溢れている
(放哉)
秋風の石が子を産む話し
■放哉の句で、ライトに似たモチーフの句は手元の文庫になかったので、同じ秋の句をぶつけてみた。ライトの湖が黒くなるほどの秋の光というのは、ぼくは、ちょっと、どういう状況なのか、わからない。光が強烈で水面が黒く見えるということだろうか。放哉の句は、島のだれかから直接聴いたか、耳に挟んだ話なんだろうが、とても面白いと思う。「秋の石」としたことで、秋の実りを連想させ、石が子を産むという話しがすんなり響いてくる。
思い立って、一週間ほど、旅に出ることにした。南への旅である。とくに目的もない。ただ、朝の海、昼の海、月の海を見て、本でも読むだけである。予報では、天気があまりよくなさそうなのだが、雨の海もまたよかろう。
◇
(Original Haiku)
Just enough of light
In this lofty autumn sky
To turn the lake black.
(Japanese version)
この秋空は
湖が黒くなるくらい
光で溢れている
(放哉)
秋風の石が子を産む話し
■放哉の句で、ライトに似たモチーフの句は手元の文庫になかったので、同じ秋の句をぶつけてみた。ライトの湖が黒くなるほどの秋の光というのは、ぼくは、ちょっと、どういう状況なのか、わからない。光が強烈で水面が黒く見えるということだろうか。放哉の句は、島のだれかから直接聴いたか、耳に挟んだ話なんだろうが、とても面白いと思う。「秋の石」としたことで、秋の実りを連想させ、石が子を産むという話しがすんなり響いてくる。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(8)
2007-09-08 / 俳句
■旧暦7月27日、土曜日、
午前中、雑用、午後、病院。夕方。家族と待ち合わせて買い物。歩き疲れた。昨日今日と一気に、車谷長吉の『雲雀の巣を捜した日』(講談社)を読了。まあ、相変わらず不幸なお人ですが、愛妻家だなあと思われる箇所多数。なんというか、猛烈なマイナスパワーの中に嫁はん自慢がちりばめられていて、微笑ましい。この本は新聞雑誌に発表されたエッセイを集めたもの。本当は、『灘の男』という新刊小説が読みたかったのだが、ジュンク堂に置いてなくて、代わりに求めたものだった。最後に、俳句雑誌に発表された句が多数収められているけれど、正直言って、どれも感心しなかった。
◇
schwülwarm der Abend
Regen fällt tropfenweise
es riecht der Asphalt
蒸し暑い晩
ポツリポツリと雨が降ってきた
アスファルトが匂う
■都会の風景を切り取った三行詩が初めて出てきた。しかも、視覚的ではなく、雨音とアスファルトの匂いで表現されている。こういう経験は、だれしもあるだろう。焼けたアスファルトに雨で、季節は夏だろう。ボンの夏だろうか。
午前中、雑用、午後、病院。夕方。家族と待ち合わせて買い物。歩き疲れた。昨日今日と一気に、車谷長吉の『雲雀の巣を捜した日』(講談社)を読了。まあ、相変わらず不幸なお人ですが、愛妻家だなあと思われる箇所多数。なんというか、猛烈なマイナスパワーの中に嫁はん自慢がちりばめられていて、微笑ましい。この本は新聞雑誌に発表されたエッセイを集めたもの。本当は、『灘の男』という新刊小説が読みたかったのだが、ジュンク堂に置いてなくて、代わりに求めたものだった。最後に、俳句雑誌に発表された句が多数収められているけれど、正直言って、どれも感心しなかった。
◇
schwülwarm der Abend
Regen fällt tropfenweise
es riecht der Asphalt
蒸し暑い晩
ポツリポツリと雨が降ってきた
アスファルトが匂う
■都会の風景を切り取った三行詩が初めて出てきた。しかも、視覚的ではなく、雨音とアスファルトの匂いで表現されている。こういう経験は、だれしもあるだろう。焼けたアスファルトに雨で、季節は夏だろう。ボンの夏だろうか。
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芭蕉の俳句(151)
2007-09-06 / 俳句
■旧暦7月25日、木曜日、台風の影響で猛烈に蒸し暑い。
午前中、国府台で自律訓練法を受けてくる。耳鳴りは8割方克服できたと思う。不治の病でも難病でもない。あとは、句会のような長時間の静寂に耐えられれば、回復したと見なすことができる。ただ、睡眠が思うように取れない。夜中、長時間眠って、朝起きるというパターンじゃなく、朝早くに目が覚めてしまうので、昼長時間眠ることになり、時間的に仕事の進展に支障が出ている。
病院の待ち時間に子規の『墨汁一滴』を読みきる。苦悶していた死の前年に書かれたとは思えない面白さだ。
何でも大きな者は大味で、小さな者は小味だ。うまみからいふと小さい者の方が何でもうまい。 『同書』p.143
日本は島国だけに何もかも小さく出来て居る代わりにいはゆる小味などといふうまみがある。詩文でも小品短編が発達して居て絵画でも疎画略筆が発達して居る。 『同書』p.143
痛くて痛くてたまらぬ時、十四、五年年前に見た吾妻村あたりの植木屋の石竹畠を思ひ出して見た。 『同書』p.122
このほか、陰暦時代にも正月を春の始めとはせずに、立春をもって春のはじめとしたなど、興味深い記事がある。陰暦でも、一年十三ヶ月になることも多く、気候と月日とが一致せず、去年の正月と今年の正月の気候が変わってしまう。そこで、年の初めを春の初めとせずに、立春を春の初めとしたという。このため、年内立春という現象も起きた。
年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ 『古今集』
さらには、季語の「牡丹」について、初めて聴いた話があった。この季語は「ぼうたん」とも歳時記に記されているが、子規の時代にそういう読み方が流行り出したようで、もとをただせば、蕪村にそういう読みの句があることを正当化の根拠としている。けれど、子規に言わせると、蕪村の牡丹の句20以上あるなかに、「ぼうたん」と読むのは一句だけで、
ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶 蕪村
といった風変わりな句だけだという。子規は「ぼうたん」と4字に読むのはヘンだと断じている。
とても激痛の中で書いたとは思われない自在な筆運びで感嘆した。
◇
行脚年を重ね、東武に帰りて
ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)
■元禄4年作。江戸に帰還した折の句。「ともかくもならでや」は「どうともならないで、辛うじてこうしてあることよ」の意。逆に「ともかくもなる」は、なるようになってしまうことで、死を指す。長旅から戻った安堵の気持ちと「雪の枯尾花」という季語に自らを喩えた侘しさが、渾然一体となっていて惹かれた。
午前中、国府台で自律訓練法を受けてくる。耳鳴りは8割方克服できたと思う。不治の病でも難病でもない。あとは、句会のような長時間の静寂に耐えられれば、回復したと見なすことができる。ただ、睡眠が思うように取れない。夜中、長時間眠って、朝起きるというパターンじゃなく、朝早くに目が覚めてしまうので、昼長時間眠ることになり、時間的に仕事の進展に支障が出ている。
病院の待ち時間に子規の『墨汁一滴』を読みきる。苦悶していた死の前年に書かれたとは思えない面白さだ。
何でも大きな者は大味で、小さな者は小味だ。うまみからいふと小さい者の方が何でもうまい。 『同書』p.143
日本は島国だけに何もかも小さく出来て居る代わりにいはゆる小味などといふうまみがある。詩文でも小品短編が発達して居て絵画でも疎画略筆が発達して居る。 『同書』p.143
痛くて痛くてたまらぬ時、十四、五年年前に見た吾妻村あたりの植木屋の石竹畠を思ひ出して見た。 『同書』p.122
このほか、陰暦時代にも正月を春の始めとはせずに、立春をもって春のはじめとしたなど、興味深い記事がある。陰暦でも、一年十三ヶ月になることも多く、気候と月日とが一致せず、去年の正月と今年の正月の気候が変わってしまう。そこで、年の初めを春の初めとせずに、立春を春の初めとしたという。このため、年内立春という現象も起きた。
年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ 『古今集』
さらには、季語の「牡丹」について、初めて聴いた話があった。この季語は「ぼうたん」とも歳時記に記されているが、子規の時代にそういう読み方が流行り出したようで、もとをただせば、蕪村にそういう読みの句があることを正当化の根拠としている。けれど、子規に言わせると、蕪村の牡丹の句20以上あるなかに、「ぼうたん」と読むのは一句だけで、
ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶 蕪村
といった風変わりな句だけだという。子規は「ぼうたん」と4字に読むのはヘンだと断じている。
とても激痛の中で書いたとは思われない自在な筆運びで感嘆した。
◇
行脚年を重ね、東武に帰りて
ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)
■元禄4年作。江戸に帰還した折の句。「ともかくもならでや」は「どうともならないで、辛うじてこうしてあることよ」の意。逆に「ともかくもなる」は、なるようになってしまうことで、死を指す。長旅から戻った安堵の気持ちと「雪の枯尾花」という季語に自らを喩えた侘しさが、渾然一体となっていて惹かれた。
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飴山實を読む(32)
2007-09-05 / 俳句
■旧暦7月24日、水曜日、今にも降りだしそうで、朝から蒸し暑い。
先日、ジュンク堂の俳句コーナーでRICHARD WRIGHTの句集『HAIKU この別世界』を立ち読みした。二人の大学の先生が訳出している。原文、三行詩での日本語訳、一行の5・7・5での翻訳という形で、翻訳されていた。翻訳は、二人で意見交換しながら進めたらしく、かなり自然な日本語になっている。ただ、ぼくは、5・7・5に変換されたライトのハイクは、どこか、違うように感じた。英語の韻律やリズムについては、不勉強なので、ライトの三行詩が5・7・5に合わせて作られているのかどうか、ぼくには判断できない。けれど、訳された一行の俳句は、多くを詰め込みすぎている。ちょうど、これまで詩を書いていた人が始めて俳句を書いたときと同じように、饒舌すぎるし説明的すぎる。これを現代俳句に近いと見なすことも、ある意味では、できるとは思うが、率直に言って、俳句としてはいい俳句じゃない。英語などの欧米の言語のもつ本質的な散文性が、日本語韻文の極地である俳句の器とかなりの緊張関係を生んでいる。そこが面白いとも言えるが、ぼくは、5・7・5にあえて直さす、三行詩のままでいいような感じがしたのである。HAIKUと俳句は、やはり異なるものという気がしている。むしろ、HAIKUは放哉や山頭火などの自由律俳句に近い何かを持っている。この本の翻訳自体はいい仕事だと思うが、こんな印象を持った。
◇
らつきようの花どきといふ因幡入り 『次の花』
■らっきょうの花で秋。庶民的ならっきょうの花がいい。とくに「花どき」という日本語の美しさに惹かれた。因幡は、古代からの神話的世界であり、「らっきょう」は楽境に通じ、楽土、楽地が遠くに響いてくる。そういう国にこれから入るという。幸福な予感がしてくる。
先日、ジュンク堂の俳句コーナーでRICHARD WRIGHTの句集『HAIKU この別世界』を立ち読みした。二人の大学の先生が訳出している。原文、三行詩での日本語訳、一行の5・7・5での翻訳という形で、翻訳されていた。翻訳は、二人で意見交換しながら進めたらしく、かなり自然な日本語になっている。ただ、ぼくは、5・7・5に変換されたライトのハイクは、どこか、違うように感じた。英語の韻律やリズムについては、不勉強なので、ライトの三行詩が5・7・5に合わせて作られているのかどうか、ぼくには判断できない。けれど、訳された一行の俳句は、多くを詰め込みすぎている。ちょうど、これまで詩を書いていた人が始めて俳句を書いたときと同じように、饒舌すぎるし説明的すぎる。これを現代俳句に近いと見なすことも、ある意味では、できるとは思うが、率直に言って、俳句としてはいい俳句じゃない。英語などの欧米の言語のもつ本質的な散文性が、日本語韻文の極地である俳句の器とかなりの緊張関係を生んでいる。そこが面白いとも言えるが、ぼくは、5・7・5にあえて直さす、三行詩のままでいいような感じがしたのである。HAIKUと俳句は、やはり異なるものという気がしている。むしろ、HAIKUは放哉や山頭火などの自由律俳句に近い何かを持っている。この本の翻訳自体はいい仕事だと思うが、こんな印象を持った。
◇
らつきようの花どきといふ因幡入り 『次の花』
■らっきょうの花で秋。庶民的ならっきょうの花がいい。とくに「花どき」という日本語の美しさに惹かれた。因幡は、古代からの神話的世界であり、「らっきょう」は楽境に通じ、楽土、楽地が遠くに響いてくる。そういう国にこれから入るという。幸福な予感がしてくる。
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詩
2007-09-04 / 詩
■旧暦7月23日、火曜日、
蝉の声もすっかり少なくなった。明日から天気が崩れるようなので、洗濯を何回かした。仕事が来たのだが、9月一杯くらいは、様子を見ようと考えている。まだ、強度のストレスには耐えられない。夜から、やけに蒸し暑い。台風の影響だろうか。
◇
詩誌『COAL SACK』最新号が出た。前号から装丁が変わり、牧野立雄さんの風景写真を巻頭に掲載している。最新号の写真は、初秋の雲と青い空、森の緑で構成されていて、ぼくは、なんとなく風の又三郎をイメージした。
最新号に投稿した詩。
最後の一葉
そろりそろりと参ろうか
千々に砕けて世となるも
死屍累々の山なれど
柚の花香る三千世界
信なるぞ
千々に砕けて陸となり
おのが臍の緒どこまでも
たぐりたぐりて一万年
木となる火となるおのがじし
その一瞬の鳥の眼で
そろりそろりと参ろうぞ
来し方を行く末にして
旅一つ
は は は は
は は は は
は は は は
右の鼻にて日を息し
左の鼻にて月を息す
そろりそろり
三千世界 信なるぞ
残照の最後の一葉
ゆだねておのれ
ひととなる
蝉の声もすっかり少なくなった。明日から天気が崩れるようなので、洗濯を何回かした。仕事が来たのだが、9月一杯くらいは、様子を見ようと考えている。まだ、強度のストレスには耐えられない。夜から、やけに蒸し暑い。台風の影響だろうか。
◇
詩誌『COAL SACK』最新号が出た。前号から装丁が変わり、牧野立雄さんの風景写真を巻頭に掲載している。最新号の写真は、初秋の雲と青い空、森の緑で構成されていて、ぼくは、なんとなく風の又三郎をイメージした。
最新号に投稿した詩。
最後の一葉
そろりそろりと参ろうか
千々に砕けて世となるも
死屍累々の山なれど
柚の花香る三千世界
信なるぞ
千々に砕けて陸となり
おのが臍の緒どこまでも
たぐりたぐりて一万年
木となる火となるおのがじし
その一瞬の鳥の眼で
そろりそろりと参ろうぞ
来し方を行く末にして
旅一つ
は は は は
は は は は
は は は は
右の鼻にて日を息し
左の鼻にて月を息す
そろりそろり
三千世界 信なるぞ
残照の最後の一葉
ゆだねておのれ
ひととなる
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RICHARD WRIGHTの俳句(31)
2007-09-03 / 俳句
■旧暦7月22日、月曜日、涼しかった。
今日は用事で新宿に行ってきた。ちょっといつもと違ったルートを、と思い、南千住から都電に乗った。コミック『三丁目の夕日』の影響ですね。現在の都電荒川線は、最新車両が投入されたばかりで、かなりスマートな車体。チンチンという発車の合図は昔のまま。利用者は、かなりいるが、7割はご老人。路線は柵で囲った専用路線で、窓から見える風景は普通の電車と変わらない。乗降システムは、ワンマンバスと同じ。踏み切りもあるが、車道の信号に従う箇所も多い。一番、「らしかった」のは、王子駅から飛鳥山に至る路面走行で、昭和30年代はこんな感じの車窓風景だったのか、と嬉しかった。視界が広々として、クルマと一緒に走っている。大塚でJRに乗り換えた。
◇
(Original Haiku)
In the falling snow
A laughing boy holds out his palms
Until they are white.
(Japanese version)
降る雪に笑いながら
少年が手のひらを突き出した
両手は雪化粧
(放哉)
帽子の雪を座敷迄持つて来た
■対照的な句だと思う、ライトの三行詩は、意識や意志がある。けれど、とても静かな印象がある。夜の雪に街灯があたって、少年の周りだけ見えている感じさえする。放哉は無意識。そこに、おかしみがある。
今日は用事で新宿に行ってきた。ちょっといつもと違ったルートを、と思い、南千住から都電に乗った。コミック『三丁目の夕日』の影響ですね。現在の都電荒川線は、最新車両が投入されたばかりで、かなりスマートな車体。チンチンという発車の合図は昔のまま。利用者は、かなりいるが、7割はご老人。路線は柵で囲った専用路線で、窓から見える風景は普通の電車と変わらない。乗降システムは、ワンマンバスと同じ。踏み切りもあるが、車道の信号に従う箇所も多い。一番、「らしかった」のは、王子駅から飛鳥山に至る路面走行で、昭和30年代はこんな感じの車窓風景だったのか、と嬉しかった。視界が広々として、クルマと一緒に走っている。大塚でJRに乗り換えた。
◇
(Original Haiku)
In the falling snow
A laughing boy holds out his palms
Until they are white.
(Japanese version)
降る雪に笑いながら
少年が手のひらを突き出した
両手は雪化粧
(放哉)
帽子の雪を座敷迄持つて来た
■対照的な句だと思う、ライトの三行詩は、意識や意志がある。けれど、とても静かな印象がある。夜の雪に街灯があたって、少年の周りだけ見えている感じさえする。放哉は無意識。そこに、おかしみがある。
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