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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(7)

■今日は、涼しくて、新涼という感じだった。一日、ボーっとすごす。新聞を読んで、いつもの喫茶店にでかけて本を読んで、買い物して、掃除して終った。



jetzt hält sie inne‐
kein Zirpen mehr! Still ist es...
und schon längst dunkel


ふと彼女は手を止めた。
蝉はもう鳴いていない。静寂…
もう、さっきから日は落ちていたのだ。


■この三行詩は面白かった。それは、die Zirpe(複数でZirpen)という名詞に関わる。これは、「蝉」という意味なんだが、実は、「蟋蟀」という意味でもある。ドイツ人は、この二つに区別がないのだ。この名詞の動詞形zirpenになると、もっと面白い。蟋蟀、蝉、小鳥などがリンリン、ピーピー、チュンチュン鳴くという意味になり、みんな一緒くたである。これは、擬音語から来ているらしい。英語では、chirpに相当する。ドイツ人も英米人も、虫の声の違いに無頓着すぎないか。しかし、小鳥の声とも区別しないとは! こうなると、何様だあ! 人間様だあ! と叫びたくなるのですね。
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芭蕉の俳句(150)

■旧暦7月21日、日曜日、

「金毘羅宮展」に行く。書院の襖に描かれた応挙、若冲、岸岱の絵が中心。若冲好きの家人が、数ヶ月前からチェックしていて、やっと時間を合わせて行くことができた。とにかく、面白かった。日本絵画、恐るべし。際立っていたのが、やはり若冲で、「花丸図」という部屋の四方の襖をすべて花で埋め尽くした絵が凄かった。植物図鑑のように精密で生き生きし、対象に対する観察の鋭さと愛情が感じられる。描かれた花は、すべて身近なもので、草花系が多い。若冲は、赤と緑がとくに美しい。絵にも驚いたんだが、実は、もう一つびっくりしたのは、複製技術の高さである。右側に配置された花丸図の襖は全面キャノンのカラーコピーなのだが、寸分、本物と違わない。絵の具の醒め具合、花の赤や緑、白。複製だと断りがなければ、まず素人にはわからない。

若冲は、有名すぎるほど有名だが、隠れた天才ではないかと、ひそかに期待していたのが、岸岱(がんたい)だった。この画家、確かに、只者ではない。柳を描いた「水辺柳白鷺図」の柳の枝の大胆な省略と緑の美しさ。たぶん、夏ではないか。この部屋に入ると、四方から、柳を揺らす涼風を感じることができた。また、「群蝶図」の目もくらむ華麗さ。これは、複製だったが、充分に堪能できた。

一番、可愛かったのは、応挙の描いた「遊虎図」の虎たちだろう。どう見ても猫である。猫をモデルに描いたのは間違いないだろう。だれも虎を見たことがないのだから、想像で描くしかなかったのだろうが、何頭も描いた虎のうち、水を呑む虎だけ、やや虎らしく見えた。虎を知っている現代人の目から見ると、顔の大きさの違いや、四肢の逞しさの違い、体表面の色の違い、躍動感の違いなどがあるが、決定的に違和感があるのは目である。応挙の虎の目は完全な猫目。猫の昼間の細い目なのである。

金毘羅宮は、たしか、仏教ではなく、ヒンドゥー教の神が入り込んでいると、司馬遼太郎の『空海の風景』で読んだ記憶があるが、昔の人の金毘羅宮に寄せる信仰の厚さには驚いた。というのも、「金毘羅狗」なるものがいたんである! これは、東国に住み遠方でお参りできない人が、自分の代理に犬を参詣させたのだ! 首に金品とお札を入れた風呂敷を巻いて、金毘羅参りと描いた札を付けて、東国の家を送り出すと、街道街道で旅人たちが、一緒に連れて歩き、金毘羅宮まで、導いてくれたのだった。ここで犬が参詣し金品を奉納し、お札になにか書いてもらって、また、関東まで、同じように、街道や宿場の旅人の世話になって、送られてくる。これには、驚いた。




木枯らしに岩吹きとがる杉間かな
   (笈日記)

■元禄4年作。木枯らしの凄まじさが「岩吹きとがる」と表現されていて、惹かれた。杉林の間に切り立った岩がある実景なのだろうが、「杉間かな」と終ると、杉の木立が強く出てきて、吹きとがった岩の存在や位置づけが像を結びにくくなる。「木枯らしに岩吹きとがる」で、木枯らしに吹きさらされた荒涼とした岩肌を想像してしまうからだ。その点で若干違和感があった。

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