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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(11)

■旧暦8月11日、金曜日、だったように思う。今日は、なんだか、急激に疲れが出て、終日眠ってしまった。起きたら、3時だった。急いで、雑用を済ませて、買い物に行き、蛍光灯などを仕入れてくる。

Sabine Balzerさんに拙いドイツ語でコンタクトを取った。ときどき、ここを覗いてくれているらしい。写真を入れたことで、ドイツ人にも、伝わるものがあるのかもしれない。感想はできるだけ、ドイツ語でも書いてみたいと思っている。


unsanft zerrt der Wind
ergriffen taumeln Blüten
die Schönheit verfliegt



吹き荒れる風
はかなく揺れる花々
美は一瞬のさだめ


■この作品は、一つの真理を示している。その意味では、哲学的で美しい。だが、「美は一瞬のさだめ」と言わなくても、最初の2行でそれは十分に感じ取れる。何か、別のフレーズ、上の2行と直接関連はないが、響きあう何かを持ってくれば、もっとずっと作品は深くなると思う。

Das Werk zeigt eine Wahrheit, "die Schönheit verfliegt". Es ist philosophisch und schön darum. Aber ohne den geschlossenen Ausdruck, könnte man die Wahrheit durch die ersten und zweiten Zeile fühlen. Gibt es enen aderen Ausdruck, der in keiner direkten Verbindung mit steht und mit den zweiten Zeilen harmoniert, zeigte das Werk Tiefere.
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琉球と沖縄:沖縄の文学(5)

食は人なり。古のフランス人の言葉である。その人が何を食べているか。そこにその人が現れる。その意味で、その土地の市場と料理は、どうしても見ておきたいポイントだった。残念ながら、時間の関係上、食べたい沖縄料理をみな食べられたわけではない。けれど、沖縄に着いて、何に、始めに衝撃を受けたかと言えば、「そうきそば」だった。「そうきそば」は、たいして旨くない、という人もいる。残念ながら、店を間違えたのである。煮込んだ軟骨付豚肉を載せたそうきそばに衝撃を受けた(写真)。こんな旨い豚肉、生れて初めて食った。ちなみに、店の名前は、「うるくそば本店」(電話 098-857-8047)。那覇に着いたら、まず食べてみて欲しい。写真右上にある小皿に盛られた葉は「よもぎ(ふうちばあ)」である。これを薬味にする。そうきそばとなかなか相性がいい。

食いしん坊なので、食の話になると止まらなくなるのだが、このほかに印象的だった料理は、意外にも、ゴーヤの天ぷら。これがいけた。輪の形に薄くスライスしたゴーヤを天ぷらにしただけなんだが、美味しかった。家でも作ってみたいと思っている。天ぷらと言えば、「島らっきょう」の天ぷらが最高に旨かった。どう表現したらいいのか。砂地で栽培されるので、「島らっきょう」は、こっちの「らっきょう」より、はるかに癖がなく、あっさりしている。淡白な味わいなので、天ぷらにして、塩で食すとさくっとした食感があり実に旨い。何個でもいける。

当然のことながら、ゴーヤチャンプルは美味だった。こっちで入手できるゴーヤとは色からして違う。はるかに濃い。苦いことは苦いが、癖になる旨みを伴っている。このほか、有名なところでは、豚足の「てびちー」があるが、ぼくには、今ひとつだった。これは基本的に、おでんと同じで、冬瓜やこんぶと薄い出汁で煮込んである。言ってみれば、肉のゼリーみたいなもんであるが、味がちょっと薄すぎて、脂肪に出汁が沁み込んでいない感じがした。むしろ、冬瓜の方が出汁が沁み込んでいて美味だった。

「みみがー」は、ちょっと海月に食感が似ているが、海月よりも数倍旨い。ドレッシングだと思うんだが、実に相性が良かった。また、沖縄名産の黒豚「あぐう」は、網焼きとトンカツで食してみた。結果は、網焼きの方が断然旨い。店が違うので、素材の違いかもしれないが、網焼きされた「あぐう」は、これまで食べたどんな豚肉とも違っていた。やや野性味がある肉質で、旨みが詰まっている感じがした。

ぼくは、あまり酒をのまないので、泡盛は2種類だけ試した。古酒と言われる酒と通常のものと。やはり古酒の方が味わい深い。これがタイ米から作られるというのは初めて知った。

デザート系では、やはり、国際通りの「ブルーシール」は外せないだろう。マンゴーアイスは、クリームとマンゴの斑になっていて、さわやかで、しかも、コクがある。

牧志公設市場の話になると、また、別枠で書かなければならないくらいなのだが、強く印象に残ったのは、やはり人情である。試食させてくれるおばさんたちとの会話が実に楽しい。金儲け主義じゃなく、以前からの知り合いみたいに、気さくに勧めてくれる。そして、食べさせてくれるものが、本当に旨いのだ。なんというか、沖縄の人は、市場のおばさんにしても、お店の人にしても、タクシーの運ちゃんにしても、宿のご主人にしても、全体的に、味のある人が多い気がした。東京じゃ、下町に行っても、もうこういう人情はないんじゃないか。




沈む鎖の端の沖縄夜の豪雨
手のひらにふかき弾のかげりの男舞
とおくより紅型明りのははの空
三味線(さんしん)の棹立ちあがる梯梧闇
ゆっくりと核戦争がくる白い便器


井沢唯夫(1919-1988)大阪府生まれ。戦前、座間味村屋嘉島の鉱山に滞在中、俳誌『谿涼』発行。反戦反核の運動を通じて生活に根ざした無季俳句を多数発表。「核戦争の反対する関西文学者の会」代表。俳誌『聚』主宰。

■形は二つのことを詠む取り合わせになっているが、俳句としては、季感が響かず、一行詩の趣以上を出ない。同じ社会批判をするにしても、底が浅い気がするのであるがいかがだろうか。
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飴山實を読む(33)

■旧暦8月10日、木曜日、

日焼け止めが欲しいくらいの日差しだった。午前中、自律訓練法を受けるために国府台病院。症状は、安定しているが、運動と昼寝の後に若干、強くなる。今日は、睡眠が上手く取れなかったので、ややきつい。帰宅後、終日仕事。




送行のひとりは雲を見上げをり


■送行(そうあん:行をアンと発音するのは唐宋音)で秋。送行とは、夏安居を終えた僧が自分の寺に帰ること。夏の期間(陰暦4月16日‐7月15日:ちなみに、2007年だと新暦では6月1日‐8月27日に当たる)、僧が外出しないで、一室に籠もって修行することを夏安居というらしい。その実態はよくわからない。しかし、この期間は、梅雨と梅雨明け後の蒸し暑い期間にあたり、当然、クーラーも扇風機もないであろうから、身体的にきついはずである。しかも、丸2ヶ月外出しないというのは、メンタル面でも参ってしまうのではないだろうか。一人ではなく集団で夏安居はするらしいことも句からうかがえる。そんな修行がやっと終って、晴れて自分の寺に帰る日が来た。空には、雲の峰ではなく、秋の雲が漂い始めている。そんな一瞬を詠んだ秀句だと思う。「送行のひとりは」という措辞の上手さには驚く。空を見て解放感を実感したのだろうか、これからのことを思ったのだろうか。
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琉球と沖縄:沖縄の文学(4)

首里城は、赤一色と言っていい。瓦から柱から壁から、ことごとく赤い。そんな中、園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん:世界遺産、写真)は、石だけで構築されていて印象的だった。国王が出御のとき道中の安泰を石門前で祈願したという。琉球王国は、1429年に成立した。それまでは、三つの国が争う戦国時代だった。琉球は、明国に朝貢していたが、その貢物とは、硫黄と馬だった。硫黄に中国産の硝石、木炭を混ぜると、火薬ができる。中国には、火山がないので、硫黄が取れず、最新兵器の火薬は戦乱の絶えない中国には貴重な物資だった。那覇から北に二百キロの海上に硫黄鳥島がある。琉球王朝は、この硫黄を那覇・泊の洞窟内で輸送しやすいように固めて、年間7、8トンも中国に運んでいた。馬は、レンガ状に固めた硫黄を福州から北京まで運ぶトラックとして利用した。その後は、明国が増築した万里の長城の駄馬として使われたという。(参考文献:『琉球歴史の謎とロマン』その一 亀島靖著 沖縄教版2006年、首里城のパンフレット)




島桜咲くがはなむけ出郷す
触覚の力で蟻は焦土這ふ
草蝉や島の十万鎮もれり
機高鳴る合掌ほどく福木の葉
斑猫や島には島の詩の系譜


矢野野暮(1907-1990)大分県生まれ。戦後、沖縄で数田雨篠らと句会「みなみ吟社」を結成。伝統俳句の立場から風土性を掘り下げることを提唱し、戦後の沖縄俳句界の支柱として活躍した。編著に『沖縄現代俳句集-タイムス俳壇十二年』がある。

■野暮さんの方向性は、共感できる。俳句の良いところを活かしつつ風土性を深めている様子が伝わってくる。島に生きる誇りと哀しみ、怒りが、声高ではないだけに、余計に響いてくる。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(10)

■旧暦8月9日、水曜日、

6時起床。早寝早起きである。朝から、仕事に入る。息抜きにバルツァーの3行詩を眺めていた。今日は、朝のうち、ちょっと晴れたので、シーツも洗ったが、午後から曇ってきた。涼しくていいのではあるが。




keine Well schlägt
windstille...und eisflächenglatt
der See zeigt Tiefe



波はない
風もない…そして一面の滑らかな氷
湖は深い


■北国ですね。透明感溢れる静寂な時が流れている。音といえば、雪折れの音だけ。そんな世界を感じた。
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琉球と沖縄:沖縄の文学(3)

■旧暦8月8日、火曜日、

今日は、朝から、仕事に入る。心はまだ島にあるが、気分的にすっきりしたせいか、仕事が進む。午後から、カイロに行く。

沖縄の屋根瓦は首里城に代表されるように赤い(写真)。この赤の由来には諸説ある。昔は板葺きの屋根だったものを、防水加工するために動物の血を塗っていたことから、瓦も赤くするようになったという説。琉球王国の国王は、中華帝国の皇帝から、国王に指名されるという形で就任していた。そのため、琉球のバックには強大な中国が控えていた。その中国で、赤は、高貴な色だったところから、中国文明の影響を受けた琉球でも赤い瓦を用いるようになったという説。でも、ぼくが、琉球焼きのプロ陶芸家に聴いたところでは、秘密はその素材の土にあるようだ。沖縄の島は、珊瑚の堆積からなっており、沖縄で取れる土を使って焼き物を焼くと、赤くなる。これが、ベースになって、中国の価値観と結びつき、いっそう赤くしたのではないだろうか。琉球焼きは、確かに赤いけれど、首里城などの屋根瓦ほど鮮烈な赤ではないからだ。




大蛍海のほてりをほぐし飛ぶ
破れ芭蕉星ふるわして巻葉解く
義足のきしみ夜半も曳きずりきりぎりす
枯れ音を一途に抱き冬の蜘蛛
製糖期の日がどつしりと村つつむ


遠藤石村(1907~1977)糸満市生まれ。写実的ロマンチシズムを提唱し、有季定型の立場から後進の育成と沖縄の俳句界の発展に尽くした(出典『同書』)。

■ぼくは、帰ってきて思ったのだが、沖縄は、広島・長崎、北海道とともに、現代日本の歌枕になるべき土地だと。石村の句は、すんなり季節感が響いてきた。沖縄は、12月まで泳げるというが、そこには、微妙な季節の変化があるに違いないし、そうした微妙な変化こそ、俳句で詠むべき対象なんだと思う。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(9)

■今日は、何してたのか、よく覚えていない。旅で溜まった洗濯物を洗濯し干してたたんだ記憶はあるが。あとは、ボーっとしていたような気がする。風が強くて日差しのきつい一日だった。旅の間、ライトの英語に付き合っていたので、ドイツ語が恋しくなりバルツァーを訳してみた。




Gesicht zur Sonne
am Baum gelehnter Rücken
Moment der Stille



顔を太陽に向け
背中を木にもたれて
静寂の時


■太陽が貴重な北国の詩だなという感じは受ける。また、静寂と北国は親和性が高いのではないか。南国の自然は、海も空もとにかくダイナミックで饒舌である。
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琉球と沖縄:沖縄の文学(2)

■旧暦8月7日、月曜日、敬老の日

沖縄本島は、西海岸からビーチとして開けてきた。南東の風が吹くので、東海岸は荒れていても西海岸は穏やかな場合が多いからだ。山に多く生えている琉球松などの樹木も風のせいで、西に傾いている。このため、東海岸は、西に比べ、開発が遅れた分だけ、水質はきれいだと言われてきた(写真)。だが、それでも、20年前を知る人に言わせると、本島はもう相当に汚れてしまっているという。ぼくなどは、関東と関西の海しか知らないので、始めてみた沖縄の海の色には感動した。その海は、意外に冷たくて新鮮な果実に触れたような気がした。しかし、「資本」という奴は、どこにでも食い込んできて、人間の欲望を限りなく増殖させて、貧困を作り続けながら、地球を食い物にしていきますな。このシステムの暴走は止められないのか。いや、どうしたら止められるのだろうか。




しんしんと肺碧きまで海の旅
泣きじゃくる赤ん坊薊の花になれ
蟻よバラを登りつめても陽が遠い
荒波に這へる島なり鷹渡る
瞳にいたき光を踏みて働ける


篠原鳳作(1906-1936)鹿児島県生まれ。昭和十年代、「新興俳句運動」を推進した。「花鳥諷詠」に対し、「機械諷詠」「詩魂高翔」を主張し、無季俳句の理論と実作の旗手として俳誌「天の川」を舞台に活躍。1931年から3年半、旧制宮古島中学校で公民・英語の教師を勤めた。(出典『高校生のための副読本/近代・現代 沖縄の文学』)

■昔は飛行機がなく、船の旅だったから、島に至るまでは、海の細道を通らねばならなかった。その細道は、鳳作が描き出したように、まことに青かったのだろう。沖縄には、伝統系の俳人が少ない気がする。一つには、沖縄の抱える現代史的側面(戦争、基地、貧困)に、5・7・5の伝統系では、うまく拮抗できないという考え方があるのかもしれない(ぼくは、拮抗できると思うのだが)。むしろそれ以上に、自然が雄大で季節が本土の概念とは異なることも大きい気がする。沖縄の人は、今の季節、「通り雨」が多いというけれど、熱帯性のスコールとしか思えない。明るくて、気持ちのいい雨だからだ。

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琉球と沖縄:沖縄の文学(1)

■旧暦8月6日、日曜日、強風

昨日、帰宅した。呆然としている。沖縄に圧倒されて、ただ、呆然。今も、窓の外は、エメラルドグリーンの海があるような気がするし、出会った人々の声が聞こえてくる気がする。水道水は、若干粘り気のある島の水のような気がしてくるし、空には雲の峰よりもスケールの巨大な立ち雲があるような気がしてくる(写真)。

今日は、そういうわけで、一日、ぼーっとすごす。滞在中に那覇の書店に注文していた琉球の歴史関連の本が3冊、早速届いた。少し、琉球・沖縄関連の資料も集まってきたので、徐々に紹介していきたいと思っている。



沖縄の牧志公設市場の中に、色とりどりの魚やこんぶ、島らっきょうなどの中に埋もれるようにして、日本一小さな古本屋がある。その古本屋で買った、『高校生のための副読本 沖縄の文学/近代・現代』は、沖縄の詩や俳句、短歌や散文が、バランスよく紹介されている。その中から、まず俳句を紹介してみたい。


烈風に敗戦ニュース乗せてくる
芋の葉を喰って生きよと蝉鳴けり
朝の冷水を飲むユウナの花が暗い
みんな出てゆく一人淋しい冬の太陽
かすかな音立てて焚火燃え終わる私も寝よう


比嘉 時君洞(1884-1960)那覇市生まれ。沖縄における自由律俳句の草分けとして活躍。始めは伝統俳句を作っていたが、大正末期より昭和初期にかけて新傾向俳句を学び、自由律俳句を作り「石くびり句会」立ち上げた。その後、第二次大戦の戦争経験を経て、戦後の心身の飢えを吐露した作品を残した(『同書』解説から)。

■自由律だが、季節感を大事にしているような印象を受けた。いつの作品か、判然としないが、心身の飢えは確かに感じられる。今の牧志公設市場の圧倒的な豊かさを目の当たりにし、雄大な自然を体感すると、沖縄で詠まれたのではないようにも感じられてくる。戦争中や戦後の沖縄の状況を具体的に知りたいように思った。
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台風と沖縄

■旧暦8月5日、土曜日、

今、那覇空港にいる。台風11号の関連で、空港に足止めを食って、一日、多く宿泊するはめに。空港から20分の糸満市の民宿に宿を確保して、朝一番で予約変更の手続きを取り、なんとか、搭乗券を確保した。地元の若い女性が、バンで大雨の中を空港まで迎えに来てくれた。びっくりしたのは、台風に対する沖縄の人々の感覚で、台風が直撃するのに、まったく動じない。地元では、台風が来ると、その晩は、遊んで遅くに帰るという。翌日休みになるのをあてこんでのことである。関東では、ずっと、遠くに台風がいるころから、台風情報をしきりに流して、進路予想をして戦々恐々だが、沖縄では、テロップで台風情報が流れるだけである。もっとも台風が近づいた午後8時に、県道はクルマの列であふれている。まったく動じないのである。若い女性の運転するバンは、ときに橋の上で横風に大揺れになりながらも、しっかり、糸満市まで、運転。たいしたもんである。今朝の明け方は、かじかのような鳴き声で目を覚ました。あれは、なんの動物だろう。

今回の旅では、沖縄の高校の副教材になっている沖縄文学ガイドとマイケル・モラスキーが編集した英訳版の沖縄文学、1冊100円で売っていた室町時代の物語集などをゲットした。俳句関連も探したのだが、なかなか見つからなかった。琉球大学近辺まで行かないとだめなのかも知れない。いずれにしても、家族との約束が果たせて良かった。大学に合格したら、沖縄に連れて行くという約束である。
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