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RICHARD WRIGHTの俳句(37)

■旧暦8月18日、金曜日、秋暑し

今日は、午前中、雑用、午後、東京医科歯科大病院。その後、画家の落合皎児さんと詩人の杉本真維子さんの詩画展に行く。落合先生がいらしたので、ちょっと話をした。杉本さんの詩は、まったくわからないと先生はおっしゃるが、面白いことに、わからないながら、杉本さんに言わせると、絵と不思議に符合するのだという。それは、フランス人の詩人とのコラボでも、言えるという。絵画の懐の深さというか、不思議さというか。落合先生の絵は、たとえば、画像のような感じである。実にセンスがよく瀟洒な作品が多かった。

詩や俳句の翻訳の話に、少しなって、面白いことを言われた。スペインに留学していた先生は、それまで、スペイン文学を日本語の翻訳で読んで、自分なりのイメージを持っていたという。それが、スペインに行って、向こうの人と話をすると、自分のイメージと違うというのだ。言葉を訳すとき、翻訳者は、複数ある意味やイメージの中から、コンテキストに沿って、たいてい、一つ選択する(もちろん、一つの原語に一つの日本語ということではない。複数の日本語かもしれないし、複数の原語が一つの日本に置き換わるかもしれない)。その一つは、その時代の日本語としてベストワンであることをめざす。そうして原作者の世界をベストな日本語で再構築するのだが、再構築された世界は、もともとの世界よりも広がりに欠けることがある。それは、もともとの言葉の語源的な味わいや風味、趣、イメージの重層性まで、再構成できないことがあるからだ。つまり、論理は再構築できても、意味以外の何かは、再現することがかなり難しい。これが、詩や俳句の翻訳の不可能性/可能性という問題になるのだろう。けれど、翻訳文学という一つのジャンルがあっていいと思うし、原書で読む楽しみがあっても、また、いいと思う。



(Original Haiku)
Past the window pane
A solitary snowflake
Spins furiously.


(Japanese version)
窓ガラス
一片の雪が
舞い狂う

(放哉)
飛び込んで犬雪振ふ暖炉哉


■桜が散る様子が浮かんだ。「spins furiously(舞い狂う)」という表現は、たぶん詩的なもので、俳句ではあまりないように感じた。基本的に、存在を肯定するのが俳句だから。放哉の句、有季定型から選んでみた。よくある場面だが、まさに、こうとしか言いようがないようなピタッとはまった表現だと思う。
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