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飴山實を読む(33)

■旧暦8月10日、木曜日、

日焼け止めが欲しいくらいの日差しだった。午前中、自律訓練法を受けるために国府台病院。症状は、安定しているが、運動と昼寝の後に若干、強くなる。今日は、睡眠が上手く取れなかったので、ややきつい。帰宅後、終日仕事。




送行のひとりは雲を見上げをり


■送行(そうあん:行をアンと発音するのは唐宋音)で秋。送行とは、夏安居を終えた僧が自分の寺に帰ること。夏の期間(陰暦4月16日‐7月15日:ちなみに、2007年だと新暦では6月1日‐8月27日に当たる)、僧が外出しないで、一室に籠もって修行することを夏安居というらしい。その実態はよくわからない。しかし、この期間は、梅雨と梅雨明け後の蒸し暑い期間にあたり、当然、クーラーも扇風機もないであろうから、身体的にきついはずである。しかも、丸2ヶ月外出しないというのは、メンタル面でも参ってしまうのではないだろうか。一人ではなく集団で夏安居はするらしいことも句からうかがえる。そんな修行がやっと終って、晴れて自分の寺に帰る日が来た。空には、雲の峰ではなく、秋の雲が漂い始めている。そんな一瞬を詠んだ秀句だと思う。「送行のひとりは」という措辞の上手さには驚く。空を見て解放感を実感したのだろうか、これからのことを思ったのだろうか。
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琉球と沖縄:沖縄の文学(4)

首里城は、赤一色と言っていい。瓦から柱から壁から、ことごとく赤い。そんな中、園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん:世界遺産、写真)は、石だけで構築されていて印象的だった。国王が出御のとき道中の安泰を石門前で祈願したという。琉球王国は、1429年に成立した。それまでは、三つの国が争う戦国時代だった。琉球は、明国に朝貢していたが、その貢物とは、硫黄と馬だった。硫黄に中国産の硝石、木炭を混ぜると、火薬ができる。中国には、火山がないので、硫黄が取れず、最新兵器の火薬は戦乱の絶えない中国には貴重な物資だった。那覇から北に二百キロの海上に硫黄鳥島がある。琉球王朝は、この硫黄を那覇・泊の洞窟内で輸送しやすいように固めて、年間7、8トンも中国に運んでいた。馬は、レンガ状に固めた硫黄を福州から北京まで運ぶトラックとして利用した。その後は、明国が増築した万里の長城の駄馬として使われたという。(参考文献:『琉球歴史の謎とロマン』その一 亀島靖著 沖縄教版2006年、首里城のパンフレット)




島桜咲くがはなむけ出郷す
触覚の力で蟻は焦土這ふ
草蝉や島の十万鎮もれり
機高鳴る合掌ほどく福木の葉
斑猫や島には島の詩の系譜


矢野野暮(1907-1990)大分県生まれ。戦後、沖縄で数田雨篠らと句会「みなみ吟社」を結成。伝統俳句の立場から風土性を掘り下げることを提唱し、戦後の沖縄俳句界の支柱として活躍した。編著に『沖縄現代俳句集-タイムス俳壇十二年』がある。

■野暮さんの方向性は、共感できる。俳句の良いところを活かしつつ風土性を深めている様子が伝わってくる。島に生きる誇りと哀しみ、怒りが、声高ではないだけに、余計に響いてくる。
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