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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

服部半蔵と西念寺

2012年04月19日 05時35分07秒 | 墓所巡り
須賀神社さんの次は今度こそ西念寺さん。でも…。どう行くべきか?というのも、須賀神社さんの前にある道は片方が下り階段なんである。しかも大分長い。
四ッ谷の中は細い道が多い。行き止まりも多いし、坂道も多い。散策には天敵とも言える迷子になれと言わんばかりの地図です。でまあ…、高低差は無視して、地図で見て近道を選んで階段を降りる。
と。地図で西念寺さんを検索してみると分かるんですけど、この辺りはいくつも寺があるんですよ。もう~~~っ!!一体どれが西念寺さんなんだ~~。
坂を登っていちいち確かめるのは嫌だ。そこで頼りにしたのは坂の名前です。「東福院坂」にあるのは東福院さん。「観音坂」は…。忘れた。とにかく、西念寺さんに到着!
と。入り口に説明板発見「服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また伊賀ものの指導者として知られている。
主君、家康の長男信康が切腹のおり、半蔵は介錯することを命ぜられたが、ついに果たせずが出来ず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。
天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った。文禄2年(1593)家康より寺院を建立するように内命を受けたがこれを果たせず、慶長元年(1596)11月14日、55歳で死去した。
その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は半蔵の法名から「専称山安養院西念寺」となった。
寛永11年(1634)江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため西念寺は現在地に移転した。
う~ん。やっぱなあ。なんか四ッ谷に西念寺があるのって変だと思ったんだよね。
江戸城跡の皇居、千鳥ヶ淵の南に半蔵濠ってあるじゃないですか。半蔵濠と桜田濠と分ける所に半蔵門があるんですよ。半蔵門の由来が、服部半蔵の屋敷が近くにあったから。だったと思うんですが、四ッ谷では半蔵門から遠いと思うんだよね。伊賀ものの指導者だから近所に伊賀ものの家もあれこれあったんだろうけど、その場合お頭の半蔵の屋敷より外側にあると思うの。調べてないけど、「半蔵門」の名前が出来たのって、移転する前じゃないのかな?四ッ谷と半蔵門駅の間に麹町駅があるから、元々はそっちにあったんだろうし…。あ。ちょっとすっきりした。
西念寺さんの本堂です。
西念寺さんには「槍の半蔵」の異名を持つ半蔵が徳川家康より拝領したと伝えられる槍が残っています。ただし、穂先と柄の一部が欠けてしまい、全長258センチ分しか現存していません。それでも戦国時代の槍ですから貴重な歴史標本です。ただし、建物の中にあるから見れませんでした~。残念。
でもいいの。ここへ来た目的は服部半蔵の墓ですから。
またまた墓探しか!?と及び腰だったんですが、思いのほかあっさり見つかりました。

感慨深いです。服部半蔵って業績云々じゃなく、テレビや映画に出て来る有名人だもの。やっぱ、伊賀忍者の頭領というのが今どきの私のイメージだったからね。
たとえ本当は家康の三河以来の旧臣で、家康16将の一人に数えられていても、三方原の戦い(1572)や小田原攻(1590)で戦ってても、そんなん『伊賀もの』の頭領って方がインパクトあるものね。
ってことでなにはともあれ手を合わす。
さて…。
ん??
奥にある墓石もなんか古いぞ?
あれはなんだ~?
と、行ってみたらこれがっ!!
岡崎三郎信康供養塔
殿~~っ!!っていうか、殿家康の息子だから若殿ですね。半蔵の主人です。信康の遺髪を埋めた麹町清水谷の庵は半蔵の死後寺となり、その後の江戸城の外濠建設の為移転したから供養塔の下に遺髪は埋まってないんでしょうが、供養塔は作ってあってこれも移転したんですね。
なんか、感無量です。半蔵の心の主人は信康だったんだろうなあ…。その殿の切腹を回避出来ず、あまつさえ介錯を命じられた半蔵の心中やいかにっ!!ってなもんだ。

あ、説明板発見「西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提を弔うため、文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で、高さは269、7センチ。
信康は、永禄3年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。
永禄10年(1567)岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)岡崎城主となったが、天正7年(1579)武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。」だそうです。
wikiによりますと、岡崎信康は天成7年(1579)10月5日、享年21歳。う~ん、若いのう。
信康くんの初陣は17歳で長篠の戦い。勇猛果敢のいくつも軍功を挙げてます。
で、切腹の経緯ですが、これ…。酷いなあ。つーか、嫁姑問題のとばっちりじゃん。
嫁、つまり織田信長の娘ね。んで姑は今川の血を引く築山殿。つーか家康の正室です。この二人の仲が悪かったんだね。んで、嫁が「義母築山殿は武田と内通している」とか織田へ手紙を出してるんだね。まあ、戦国時代、女性はスパイも仕事のうちですが…。だからってダンナの母親が嫌いだからって「夫の信康とも不仲です」とか書くってあんた…。そんで織田信長が存命(織田信長の死亡は1582年6月)してる時に、徳川家康がたとえ長男であってもかばえるハズねえじやん!!
んで、具体的に嫁姑問題ってどんなんだ?
更に調べましたよ。
岡崎信康の嫁、織田信長の娘徳姫は永禄2年(1559)に生まれ、8歳の永禄10年(1567)に嫁ぎ天正4年(1576)と翌5年(1577)に娘を出産。しかしいつまでも嫡子が生まれないのを心配した姑の築山殿が側室を迎えさせた。
これが原因か~
つーか、昨年のNHKの大河ドラマ『江』でも主人公が苦しんでいた問題ですね。
や。真相はわからないよ?でも徳姫って8歳で嫁がされてます。遠くからどんどん偉大になっていく父信長を見てたんだろうなあ。そんで徳姫の側にいた女性があれこれ吹き込んでたら~。ケッケッケッとか、ついつい下世話な昼メロドラマな展開を想像しちゃうぜ…。
史実では、家康も信長も息子・娘の夫婦仲が悪いのを心配して見に来てるという史料が残ってるんだって。
でもなあ、徳姫と信康って同じ年だったんです。だから信康が切腹を命じられた時は共に20歳。勇猛果敢な信康に、嫁姑問題が解決出来るハズがないぜ。なんか、夫婦仲云々だけでなく裏にいろんな人のいろんな思惑があったんだろうけど、なんか信康くんはハメられたんだろうなあ。御愁傷様です
ちなみに、信康くんの母、築山殿も信康くんが切腹する数日前に死去してます。彼女は家康の家臣に切られてます。
築山殿は今川義元の姪でした。既に織田に倒された今川の出です。利用価値はないものね。この辺にも何やらきな臭い真実が歴史の闇に隠されてそうだ。
でも歴史では結局徳川家康が覇王だからね。真実は今更分からないよね。都合の悪い真実なんか消してますって!
ああ、諸行無常なり。(最近こればっか)

西念寺にしだれ桜が見頃でした。
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墓の特定に挑戦!

2012年03月28日 04時58分34秒 | 墓所巡り
人間年を取ると、神社・仏閣に興味を持つようになるんだって!
そんでもって行く就く先はお墓なんだって!!
これはタモリさんがNHKの「ブラタモリ』の中で言ってたのですが、なんだか私最近まんまとタモリさんの意見に乗っかってるような~…。
墓所巡りも複数回繰り返し、このあたりで墓所の特定に挑んでみることにした!
おいおいおい
練習に選んだのはトップ画像のお墓です。
麟祥院こと春日局のお墓の左隣にあるお墓です。
手がかりとなりそうなのは…。
家紋・院号・亡くなった日。
家紋は…。五三の桐。
院号はコレ。
亡くなった日は、わからなかったの~。
伝通院で見かけた墓石に刻まれていた院号から探すのは失敗したんだよね。
ならば、院号と埋葬した寺の名前のダブル検索ではどうだろう?
「麟祥院・正厳院殿」
これがズバリ!!
ヒットしたのは寛文14年(1674)5月20日に亡くなった正厳院伝さん。
彼女は、毛利秀元の息女で、稲葉正則の正室でした。
名前が万菊さん。寛永2年(1625)5月生まれ。
彼女の父親・毛利秀元とは毛利輝元の一時期養嗣子となった人で、長府藩主です。ちなみに、毛利秀元は、品川の泉岳寺に葬られてます(他2カ所)。
母親は毛利秀元の側室、織田氏。
正厳院伝さんの旦那さんの稲葉正則って人は、春日局の嫡孫で、稲葉宗家三代、小田原藩主です。稲葉正則は小田原の紹太寺にお墓があります。
1)麟祥院の墓所には稲葉家のお墓が複数ある。
2)墓が春日局の墓と隣接してることから、両者の墓の出来た年代は近い。万菊さんの死亡が寛文14年(1674)ならば、春日局の死亡が寛永20年(1643)だから、わざわざ隣接して建てたのはあり得る。
3)五三の桐の家紋は~?…もしかして母方の織田氏の流れかもしれん。格式はあるからな。毛利家の家紋は有名な一に三ツ星なので絶対違う。でも五三の桐の謎は現時点で特定できない。
3)が確定させないですが、1)2)を考えると、おそらくこのお墓の主は、万菊さんではなかろうか?
と結論づけてみる。墓石には没年を刻んであることが多々あるのですが、この時自分で確認してなかったんです。(痛恨!)
やってみて墓の主人の特定には、法名・没年・家紋・埋葬寺院名が必要と思いました。墓石に生前の名前が刻まれてたらもっと確実です。
春日局は大人気で、墓参に次から次へとやってくる。その隣でくるくる墓所を回って調べる度胸が私にはなかったんですよ。でもwebで大概の疑問を解決出来る時代って素晴らしい~。必要なのはWEBで検索するキーワードを知ってるかどうか?のみだもん。
あっこさんもお墓に深入りするな!って言うし、私も調べてみて結構大変だったので、お墓巡りってそこそこで充分だなと1回やってみてこりちゃったよ。
や。一辺挑戦してみてだいたい分かったし、これからは深入りしないようにしよう~。
だって~…。お墓についてこの所立て続けに記事にしてるからか、トラックバックにやってきたのは、墓石のサイトだったのよ~。へ、凹む。んで、その前が盆栽のサイトでした。
あまりに私と遠いアイテムだから、トラックバック記事を公開してませんが…。
や。盆栽は見るのは好きなんですが、育てたい人じゃないんで。だって、盆栽って作り始めても自分が生きてる間に完成しないっていう…。究極に時間がかかるアイテムは、気が短い私には不向きだもん。

麟祥院さんの墓所をもう少し見学。

これって、鎌倉でよく見かけた古いタイプの墓石です。よ~く見ると、墓石に風とか空とか刻んであるんですよ。

この日はピーカンでして、まるで真夏の様な日差しとなり、風情が台無しだったんですけど、時代を帯びた墓石に白椿の木。地面には朽ちるを待つ白椿の花びら。なかなかに良い構図です。
そんなこんなで麟祥院を堪能した後、お茶の水方面へ南下。
到着したのは、霊雲寺さんです。

山号:宝林山
宗派:真言宗霊雲寺派
寺格:総本山
本尊:2体の大日如来。
創建年:元禄4年(1691)
霊雲寺は、徳川幕府の永代祈願所として設けられた。江戸城から見て北東の方角は鬼門であり。鬼門を鎮めるため、国家鎮護のため柳沢吉保を通じ、徳川綱吉が建立を許可。
しかし、安政4年(1857)、大正12年(1923)、昭和20年(1945)に火災・関東大震災・戦災で殆ど焼失した。
ちなみに、霊雲寺の軒丸瓦はサンスクリット!!
これ、珍しいよね。
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コメント (2)
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春日の局のお墓?

2012年03月27日 05時30分01秒 | 墓所巡り
湯島天神は出入り口が多いと常々思ってました。だって、境内狭いのに入り口が4つもあるんですよ。んで、鳥居も複数あるんだよね。
そんな鳥居の一つが、春日通りに向かってあります。神明鳥居です。でかいです。その鳥居を出て春日通りの信号を渡り本郷の方へ歩いてすぐ、麟祥院があります。

院?
これはもしやせんでも伝通院と同じパターンかも?
そうなんですよ。お寺の名前が歴史的に有名な人の法名の場合ってあるんですよね。ちなみに前出の伝通院は、徳川家康のお母さんの於大の方の法名が伝通院でして、そこから寺の名前も伝通院となった場合です。
では麟祥院はどうなのか?
麟祥院さんも歴史上の有名人の法名から来てるんですよ。その人とは??ってブログの記事でバレバレですね。そう春日局です。
文京区が立てた看板発見。『春日局…幼名は福。父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり。正勝・正定・正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)三代将軍徳川家光の乳母として召し出され3000石を賜りました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の精度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永5年家光公25歳の折り、疱瘡(ほうそう)にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が快復しました。そのため局は身の終わるまで鍼灸薬餌を一切用いなかったという事です。
寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。」だそうで。
ん~~。少し説明不足!
調べました!いつものWIKIで。
寛永元年(1624)、春日局の隠棲場所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが。春日局の法号をもって麟祥院と号するようになった。
宗派:臨済宗妙心寺派
開基:春日局

もう一つ、麟祥院は東洋大学の前身である「哲学館」が創立された場所でもあります。
さて。そもそも麟祥院は春日局の隠棲場所だったのですが、彼女が亡くなった後、春日の局の墓が立てられます。ってなことで、現在麟祥院を訪れる人の目的は、春日局の墓を拝見すること!な訳で…。
さ~てと?どこだろう??
実は、行けばすぐ分かると思ったんだけどね、麟祥院の墓域は思ったより広かったのね。し~か~も~。古い時代の墓石があちこちに点在してます。こりゃあ参ったなあ~?と思ってたら、案内板がありました!

ありがたいが…。案内板は卒塔婆ってどない??
………。
気づかなかった!(自分に言い聞かせる)
さ~てと??
んん??

稲葉氏の墓発見!あ。あっちにも稲葉氏のお墓がある~~。
稲葉氏は春日局の旦那さん&息子達です。家光の乳母になる時に離縁されましたが、春日局のおかげで出世してるんだよね。つーかぁ。旦那の稲葉正成って豊臣秀吉の家臣で、秀吉の命じられ小早川秀秋の家臣となった人。まあ関が原の戦いでは徳川方について、小早川秀秋を寝返らせた張本人とも言えるので、徳川の天下になっても肩身が狭いって程じゃなかったんだろうけど、だからといって大名って…。出世し過ぎでしょう~。
ちなみに、息子の稲葉正勝と言えば、相模小田原藩の初代藩主ですよ。どう考えても、春日局のおかげですよね?ってWIKIで検索かけたら、息子の稲葉正勝は家光の小性になってました。が、彼は38歳で死去。小田原藩は稲葉正勝の次男が二代藩主となってます。
更に~!!春日局の三男稲葉正則は、徳川家光と対立した徳川忠長に仕えてました。忠長と言えばあれですよ。
家光と3代将軍の座を争ったあげく、蟄居ー改易ー自害と追い込まれた人物です。家光といえば片っ端からリストラした人でもあります。なのに正則は助命されてるんですねえ。
あ。それた。稲葉氏だった。
だから~春日局の眠る麟祥院に所縁の人びとのお墓があるのは自然な流れってことです。
さて、春日局のお墓に到着しました。
あ。歴史ツアーの人びと発見。やはり語りたくなるよね。去年のNHK大河ドラマ『江』でも登場してましたからね。
ちなみに、春日局のお墓&稲葉一族の墓は小田原の紹太寺にもあります。紹太寺樹齢300年というしだれ桜があります。もう10日もすると満開かも?
右へ行くか左へ行くか(2010年4月29日)の記事長興山紹太寺を紹介してます。初訪問の方はぜひこちらの記事に目を通して下さい。楽に登るか、正式の参道を行くかの分かれ道の画像を掲載しています。
入生田のしだれ桜(2010年4月12日)の記事しだれ桜の撮影ポイントがわかります。この桜の樹形の一番良い姿を眺めるには、脇の坂を登らななきゃなんですが、下から見上げて満足して下山する人も多いんだよね。再訪する人は脇の坂を登ってしだれ桜を見下ろすんだけどね。

さて、この墓石なんかおかしいよね?
実は、墓石の上部に穴があけられてます。これは死んだ後も江戸四方が見渡せるようにってことなんだって!どんだけ家光が好きだったんだろう…。
なので、春日局の墓の扉は…。

徳川の三葉葵の御紋がついております。
ちなみに、右側の家紋は、稲葉氏の「折敷に三」つーか「隅切り角に三」でございます。
あ。そういえば麟祥院って、春日通りに面して立ってます。もちろん春日通りの名前も春日の局に由来するハズです。
ん?数画の局の左手にあるお墓も立派!つーか、これ、正直春日局のお墓より立派!誰のだろう~~。気になるう~~。
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あ~。夏目友人帳と男子高校生の日常のアニメが終わってしまった~。今期一番楽しみにしてるアニメだったのに…。この2つのアニメは放送時間が連続してるから、見るのも連続で見てました。共に次期アニメ化をお待ちします!出来れば、次も連続放送でお願いします。
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徳川家光の奥さんの墓

2012年03月21日 05時45分46秒 | 墓所巡り
伝通院の徳川家の人びとのお墓の続きです。
家康の母於大の方、秀忠・お江夫妻の娘千姫に続いて紹介するのは、徳川三代将軍徳川家光の正室、鷹司孝子のお墓です。
墓石で探しますと、「本理院殿照誉円光徹心大禅定尼」です。ええ。気づいたんですが、墓の特定するには法名を調べておかないと、とてもでないけど場所の特定は出来ません。
さて、徳川家光はあちこちの作品で取り上げられてますが、彼の正室って覚えてます?印象薄いよね?それも当たり前。家光の時代から『大奥』がでばってくるんですよ。
つーか、この所池上本門寺芝増上寺とブログを書く為に、江戸時代の特に女性の生涯をだいぶん調べました。その中で気づいたんですが、徳川将軍家で正室から産まれた将軍っていないんですよ。かろうじて、徳川秀忠・お江夫妻から生まれた三代家光が継室(後妻)の子でした。わかりにくい?お江は秀忠の正室じゃなくて後妻なんですよ。
んで、家光以外の将軍み~んな側室もしくは将軍の親戚の子です。そんで、家光と奥さん鷹司孝子さんはと言うと…。これがもう最悪!政略結婚とはいえ、酷過ぎる。どっちが悪かったんだろう…。
鷹司孝子の墓近景
WIKIで検索すると、鷹司孝子の父は京の公卿。つまり家光から徳川将軍の正室は京都の公家さんという形が出来たんですね。んで、22才の寛永元年(1624)に家光と祝言して江戸城に入ってます。が。もう結婚当初から家光との中は悪かったようで、結婚してすぐ事実上の離婚。当然二人の間に子どもはいない、
でも政策上京へ返す訳にいかないから、彼女は江戸城の片隅に造った邸宅で軟禁生活を送ってます。家光は死去する際、形見分けとして孝子にわずか50両しか送らなかったとかなんとか。更に息子達に彼女と養子縁組しないようにしていたとかなんとか…。
どんだけ嫌いだったら、生涯飼い殺しにする程の扱いが出来るのか?
ちなみに、家光は慶安4年(1651)に死去してます。んで、孝子は4代将軍徳川家綱の御代の延宝2年(1674)に死去。享年73歳。
ひええ~~~でしょ?
だからですかねえ?家光のお墓は日光にあるんですよ。この時代なら正室の墓は夫の近くにあるものなんですけど…。せめて伝通院に葬ったのは時の将軍の配慮か…。哀れな…。
徳川亀松の墓
帰宅してからwikiで調べました。
徳川亀松は三代将軍徳川家光の次男です。(1643-1647)長生きしてたら5代将軍だったかもしれませんね。法名:月渓院殿。母は側室まさ(尾張藩家老の娘)。
ちなみに亀松の兄・長男が4代将軍徳川家綱。弟・三男が徳川綱重(6代将軍の父)。弟・四男が五代将軍徳川綱吉となってます。

現地ではこんな感じなので、法名は絶対に書き控えて行って下さいね。たどりつけません。

調べて行ってもこんなことになってたりするし、江戸時代の墓の隙間に現代の墓が連なってる場所もあるのだ。
お奈津の方の墓
お奈津の方は徳川家康の側室。於奈津。法名:清雲院殿。(1581-1660)長谷川藤直の娘
他、画像撮影してませんが、作家・柴田錬三郎さんの墓、罰末の浪士組の創始者清河八郎の墓、藤井紋太夫の墓があります。
最後の藤井紋太夫って水戸徳川家の家老だった人で、水戸黄門・徳川光圀に刺殺されてるんだよね。何やったんだろう?ちなみに、徳川水戸藩の屋敷は伝通院のすぐ側にありました。今の中央大学・小石川後楽園は水戸藩の屋敷ですもん。

伝通院の墓地には古いお墓がそこそこありまして…。もうね。墓の特定は家に帰ってすることにして、取りあえず撮影。ポイントは法名。
このお墓は「雲鏡院殿国誉れ智照慧高大姉」という方のもの。
どうやって調べれば…。取りあえず「雲鏡院」で検索。
そこそこヒット!でもヒットするのはみんな男性でした。この法名は最後に大姉ってあるから女性のハズ…。ってな感じで計画は早々に頓挫しちゃいました。
う~ん。やっぱり墓所巡りは難しいなあ…。いくら古くとも墓をたくさん撮影するのもどうかと思うし…。ちょっと対策を考えないとイカンなぁ~。

さて。時刻は……。ムっ!!既に15時を過ぎてるじゃないの~~~~。て、撤収じゃ!!
善光寺坂を降りながら、あっこさんと相談する。
「この後どうする?」
「日本橋?」
「そう。今から移動すると、帰宅時にラッシュに巻き込まれるかもしれん…」
「でもここでパスしたら、いつになるか?」
そうなんだよね。1月27日の赤穂浪士散歩で既にパス1回してるのね。
「…いくか?」
「日本橋だけ」
「三越・三井本店・日本銀行はパスの方向で」
「そだね。『麒麟の翼』の旬のうちだしね」
ってな事で、都営地下鉄大江戸線へ戻ります。

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豊臣秀頼の妻・千姫のお墓

2012年03月20日 05時52分17秒 | 墓所巡り
伝通院は徳川家康の生母於大の方の法名伝通院殿から来てるのですが、徳川家の人びとの墓も一杯あります。
有名どころを紹介しますね。つーか、池上本門寺でも思い知ったんですが、墓所の所在を知ってる人と回らないと、特定はなかなかなかなか。
気づいたんですが、墓石には法名を書いてあるので、前もって法名を調べておいて特定するのが早道のようです。ま。現地で気づいても遅いんですが…。
さて、トップ画像のお墓。こちらは徳川二代将軍徳川秀忠を父に、お江を母に持ち、豊臣秀頼に輿入れした千姫の墓です。
史実をなぞると、彼女は慶長8年(1603)7歳で秀頼と結婚。慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、祖父・徳川家康の命により落城する大阪城から救出。
元和2年(1616)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚。翌元和3年(1617)本多家が播磨姫路に移封になる。」
ってことは、姫路城が修繕に入る前に見た千姫の人形、おすすめじっくりコース(2010年1月19日)の記事姫路城西の丸に暮らしていた千姫の化粧櫓の画像を確認出来ます。
これって彼女だったのか~。あ。それた。続き続き。
「寛永3年(1626)に夫・本多忠刻、母・お江も死去し、娘勝姫と共に本多家を出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は竹橋の邸で暮らす。
正保元年(1644)弟・徳川家光の側室夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになる。<家光の厄年に産まれて来る子に災厄がかからないように、江戸城でなく天樹院の元で出産した。ちなみに、この時産まれた綱重は、後に徳川第6代将軍徳川家宣の父です>
彼女はNHKの大河ドラマの常連の登場人物ですね。去年の『江』でも出て来たし~。つーか、売れっ子子役の芦田愛菜ちゃん~「家政婦のミタ」でブレークした忽那汐里ちゃんの豪華リレーが演じておった姫ですよ。
一説には、美貌で名高いお市の方に容貌が似て、とても美しい姫だったそうです。また夫を2人共に亡くしており、父母(徳川秀忠・江姫)にとてもかわいがれていたとかとか。逸話が多い女性です。
根津権現(2009年11月16日)の記事現在根津神社は、かつて徳川綱重の屋敷でした。6代将軍徳川家宣がこの屋敷で生まれました。その時の胎盤が埋められた場所が残っています。

在りし日は壮麗な建物だったんでしょうねえ~。でも現存してるのはこれです。残念無念。
こんな所にも寛永寺の灯籠が(2011年5月18日)の記事こちらの記事で、三代将軍徳川家光の側室お振の方(自証院)の霊室・慶安5年(1652)に作られたものを確認出来ます。時代も近いし、かつてはこんなのが墓石の上に建ってたと思うんだよね。格から言っても、家光の側室より、秀忠とお江の娘の千姫の方が上だし。
明日も伝通院の墓所巡り続きます。

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犬猫供養

2012年03月10日 05時36分11秒 | 墓所巡り
回向院も本堂を探してて見つかったのは、わんちゃん猫ちゃんの大量の卒塔婆だった!!
…回向院の生き物なら何でも弔います!という姿勢の為か?それともペットなら場所を取らない!という都会の事情からか??ま、とにかく卒塔婆見て私は固まった!
 
ワンちゃん猫ちゃんだけでない。
こちらは小鳥供養塔。
丸い所に金色の鳥が羽ばたいてます。
小鳥供養塔の左手にも大量の卒塔婆が立てかけてありまして、そこにオウムとかウサギとか発見しました。他にもいたような~??あれ??思い出せん。やっぱ画像は残してないとダメですね。
回向院の門
こちらが正式な入り口ですね。京葉道路沿いです。こっちから来たら場所を探すことなかったかも~。先日の増上寺の記事を思い出して下さい。
回向院の門は、かつて増上寺の大門でした。関東大震災で倒壊の恐れが生じ移転したのです。ま。どっちにしても空襲で焼けたんだか…。
そんでもう一つ、回向院にあったのはコレ。
力塚(相撲関係石碑群)
群ということは、これ以外にもあったのか??あれ?見落としたか!?
説明板発見…墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行に遡ります。以後、いくつかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人びとの姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
力塚は、昭和11年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔もこの中に移動しました。
現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年に渡り刻まれ、現在もなお相撲の町として動く両国の姿を象徴しています。
ですって。う~む。かつて国技館はここにあったのかぁ~。そう言えば、さっき訪問した富岡八幡宮でも書いてあったよね。

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猫の恩返し

2012年03月09日 05時20分13秒 | 墓所巡り
昨日の回向院の鼠小僧次郎吉の墓の画像の左手にちょっぴり写ってるのが、猫塚です。
いわれ発見!

猫の恩返し(猫塚)
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。
すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてきて魚屋を助けます。
ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、○両(光って見えない…。2か3だと思うけど)くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともに猫の遺体を回向院に葬りました。
江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられています。
ですって。
招き猫の話は、今戸神社・豪徳寺・自性院などでありましたが、猫のお墓を見たのは初めてじゃ。
だからか、回向院にはこんなんもありました。
犬猫供養塔
分かりにくい?では中央部を拡大しよう。
わんことにゃんこ
回向院の狭い一角にはほかにも古い墓石・石碑があった。
俗名 中村勘三郎 施主 中村小勘
え~と?歌舞伎役者だよね。この場合、何代目のお墓なのか?

画像左端の上が丸いのは、関東大震災供養塔。他のは何だったっけ?確か海難事故の供養塔は何本もあったから、それじゃあないかと…。
さて、何はともあれお参りしないと。
実は入り口入ってすぐ古い時代の墓石群を見つけてしまったからお参りをまだしてなかったのだ。
本堂は~~??
ん~~??
…本堂がない!つーかマジか??
や。そもそも回向院を探してた時、てっきり幼稚園だろ?と思ったらそこが寺だったと言う…。
や。ンの前に回向院の由来を書いておかねば。
回向院は今からおよそ350年前の明暦3年(1657)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には振り袖火事の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焦土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなった人の多くは、身元や身寄りのわからない人びとでした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人びとの亡がらを手厚く葬るようにと、隅田川の東岸に「万人塚」という墳墓を設け、無縁仏の冥福を祈りをささげる大法要を執り行いました。この時読経の為に建てたお堂が回向院のはじまり。
やがて安政大地震・関東大震災。東京大空襲等様々な天災・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
あ。なんかいつかのNHKのお昼の番組で、昔は遊女の投込み寺だったって言うの見たや。
ちなみに、江戸城の天守閣も明暦の大火で焼失しちゃったのだ!そして以後、江戸城に天守閣は再建されなかった。
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先日田舎の義母から塩こうじが届いた…。
ナニコレ~!!
早速検察かけつつ使ってみた。
でもこれ、塩一杯入ってるんだね。
身体にはいいらしい…。ちょびちょび使ってますけど…。なかなかなくならない~。
んで、この「塩こうじ」ってWEBで検索したら作り方は一杯載ってるんですが、保存の仕方も載ってるんですが…。
これってどんくらいの期間使っていいの?なんか、スプーンで上澄みすくって使ってるんだけど、下に沈んだお米が残る~。つーか、水足してもいいものなのか??何げに訳わからんのだが…。どっかに達人のWEBページはないのか?謎~~。
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鼠小僧の墓

2012年03月08日 04時50分53秒 | 墓所巡り
回向院はどこだっ!?
ええ。又ですよ。またっ。迷子ですぅ~~
何故?何故なの??回向院って有名なお寺なのよ。ならすぐにわかって当然でしょ?なのに何故見つからないの~~。
小路をうろうろ彷徨っていたら、道路にこんなんがあったので近いハズなのよっ。ここから100メートル以内にあるハズなのよっ!!

回向院の入り口発見!到着時刻は15時47分。
つーか、有名なお寺の入り口がコレッてマジかっ!?あり得ないだろっ!!
つーか、画像をよく見て。吉良邸跡約左へ二00M
ちっ、こっちを先にすればよかったぜ!
開門時間:朝9時より午後5時まで。(閉門時の扉の乗り越え厳禁)
回向院…突っ込みどころ多すぎる

さて、回向院には有名なお墓があります。

や。私もね最近ディープな墓所巡りをやってまして、有名人のお墓もそこそこ見てるのでお墓スキルだいぶん上昇してると思ってたんだけどね…
鼠小僧次郎吉の墓
何コレっ!おかしいだろっ
なぜにお墓の前にもう一つ、新しい墓石が置いてあるのか?しかもこれ、形が変だっ!!
む?何か書いてあるんですけど。こちらの「お前立ち」をお削り下さい
え?これって墓石削るの前提ってこと??
……何か置いてあるんですけど

墓石の基盤の石にのっかってるちっこいのは墓石を削るための石ですよね?
恐る恐るやけに白い墓石に触ってみた!
んぎゃぁぁぁぁぁああああ~~~
わあぁ~、私の指が真っ白…や。私の頭ン中が真っ白じゃ
や。鼠小僧次郎吉は有名人ですよ。水のお供えが置いてあるし、供花も新しい。
でも彼は盗人だっ。最後は貼付け獄門になった人!
そんな人の墓石を削るってどないな人がどないな理由があって?????
分けわから~~~んっ!!
あ。説明板発見…「鼠小僧供養墓 墓石の高さ100センチ 幅710センチ 奥行き55センチ
台石の高さ35センチ 幅116センチ 奥行き78センチ
石組みの基壇の高さ65センチ 幅150センチ 奥行き130センチ
碑の正面には「天保2年8月18日」「俗名 中村次良郎之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には 大正十五年十二月十五日 建立
左側には 永代法養料金 伍拾圓也 細川仁三 と刻まれている。
鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑されている。
「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため、庶民からは義賊扱いされていると記されている。
後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が権力者である大名家に自在に侵入し被権力者である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。
明治12年1月の朝野新聞によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が、狂言が当たった礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えられており、施主として刻まれ墓の横にも石灯籠を寄進している。
細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。
文学界においても、芥川龍之介が「戯作三昧」「鼠小僧次郎吉」「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており虚構の鼠小僧の人気は高い。
江戸時代犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の仏養成が生じこの供養碑が作られたと思われる。
*他方、供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。
鼠小僧の墓石を欠き、財布や袂に入れておけば、金回りが良くなる。あるいは持病が治るとも言われ、成就した人びとの奉納した欠き石は数年ごとに立て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。
発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰のことが触れられている。
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」(墨田区史より)
も、ツッコミどころ一杯です。
でも削って消えた墓石。新しく作り直す墓石の費用がどこから出ているのか?と疑問だったんですが、願い事が成就した人の奉納なんですね。
にしても~。数年毎に立て替えられ、現在までに数百基に及ぶってそれは吹き過ぎでしょう!!
だって初めて供養墓が出来たのって大正15年12月なんだよね?って西暦に直すといつだ?1926年!って事はまだ100年経ってない~~。数年毎に立て替えて数百基だと計算合わない~~。や。珍しいもの好きの江戸っ子!流行りの頃は、1年持たなかったこともあるやもしれん…。ご利益が金回りが良くなるであれば、あやかりたいと願う人も多いかもじゃ。なんだかな~。
ちなみに、大正15年といえば、大正期の最終年。ついでに調べた。大正天皇は12月25日に崩御。んで昭和と改元。それから年末までのわずか6日間しか昭和元年はなかった!!へえ~へえ~へえ~~!!
ん??
確か昭和天皇って亡くなったの1月じゃなかったっけ??
調べた。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御されてました。自動的に昭和64年は7日間だけだった。へえ~へえ~へえ~~!!
ちなみに、文中青字にした河竹黙阿弥・芥川龍之介ですが、回向院がら徒歩すぐの所に住んでました。木札も立ってることと思います。

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お江と秀忠の墓

2012年03月01日 06時00分10秒 | 墓所巡り
増上寺の徳川将軍家霊廟は、ふだんは非公開です。なのに入れたのはひとえに去年のNHK大河ドラマが『江』だったから。
なので、秀忠&お江の方のお墓は別立ての記事にしました。
トップ画像は現在の秀忠夫妻のお墓です。
さて、正直に言いなさい!や。怒らないから。
私も同意しますよ。将軍夫妻のお墓ってショボい!
もちろん最初からこんなにショボくはありません。
これにはね納得の理由があるのです。
今回の墓所特別公開は、大河ドラマの『江』のおかげなので、墓所にはこんな展示がしてありました。

こちらは在りし日のお江の方の霊廟です。

こちらは秀忠の霊廟。在りし日の霊廟を撮影していたのは嬉しい事ですが、カラー写真でなかったのがとても残念です。
 
壮麗にして華麗。当時の芸術の粋を尽くして作られたものでした。江戸・明治・大正・昭和と長らく大切に守り伝えられてましたが、これらの霊廟は太平洋戦争末期の昭和20年3月10日に増上寺にあった五人の将軍の廟があった北廟焼失、そして秀忠夫妻の廟があった南廟は5月25日に焼失しました。
配置はこんな感じでした。

わずかに焼け残ったものは、文昭院殿(6代家宣公)霊廟のうち「中門」正徳2年(1712)鋳造。旧国宝。現在は増上寺の徳川将軍家霊廟の墓所入り口に設営。
台徳院殿(二代秀忠公)霊廟のうち「惣門」寛永9年(1712)建造。国重文。現在は日比谷通り沿い、東京プリンスホテルバークタワー前に移動。
同じく台徳院殿霊廟より勅額門、御成門(天人門)、丁字門、灯籠は現在狭山湖畔ユネスコ村、狭山山不動寺に移築。
有章院殿(七代家継公)霊廟のうち「二天門」享保元年(1716)建造。国重文。日比谷通り沿い、東京プリンスホテル前に移動。
清揚院殿(三代家光公第三子、甲府宰相綱重公)霊廟のうち「水盤舎」宝永2年建造(1705) 昭和53年(1978)増上寺境内参道脇に移築。これだけしか残りませんでした。ああ、諸行無常。
かつての壮麗は霊廟群を偲ばせる地図が残ってます。
大日本東京芝三縁山増上寺境内全図
地図上の番号は1)秀忠の霊廟の惣門。2)秀忠奥院宝塔。
3)家宣霊廟の拝殿内部。4)同左右廊内部5)同奥院中門6)同鐘楼7)同奥院唐門
8)家継霊廟中門・左右廊内部9)同勅額門10)同水盤舎及び井戸屋形です。んでもってそれらの在りし日の姿がこちら。



絵葉書と地図は徳川将軍家霊廟特別公開に入場して500円を入場料として支払うと、いただけました。歴史ファン垂涎の品だと思います。
訪問日は2012年1月27日でした。今現在も特別公開が続いてるかわかりません。増上寺に問い合わせ下さい。
尚、ここにない将軍の墓はどこにあるかと言いますと…
初代徳川家康公…始めは駿府の久能山に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北にある日光東照宮へ改葬。
三代徳川家光公…初めは遺言により東叡山寛永寺に。後に日光東照宮に移動。
四代徳川家綱公…寛永寺。
五代徳川綱吉公…寛永寺。
八代徳川吉宗公…寛永寺。
十代徳川家治公…寛永寺。
十一代徳川家斉公…寛永寺。
十三代徳川家定公…寛永寺。
十五代徳川慶喜公…現在は谷中墓地。(かつては谷中墓地は寛永寺の墓地でした)
確か、6代家宣以降将軍の墓は寛永寺と増上寺と交互に造営することが慣例になりました。又、8代吉宗は財政再建に務めた将軍でして、将軍の霊廟建造も彼以降禁止してます。
寛永寺の徳川将軍家お墓は非公開です。が~、NHKの大河ドラマ『篤姫』放送で「篤姫のお墓に参拝したいとの声に答え、特定日に事前申し込みの上、当選者に限り公開されてます。希望者は台東区の観光協会のホームページをチェックしましょう。んで募集がかかったら申し込みするのじゃ!(池上本門寺でお墓を説明してくれたご隠居さんに教えてもらったばかりなんで、私もまだ未見です)

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徳川将軍家のお墓

2012年02月29日 05時31分46秒 | 墓所巡り
増上寺は上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺です。
増上寺に埋葬されたのは、二代徳川秀忠・六代徳川家宣・七代徳川家継・九代徳川家重・十二代徳川家慶・十四代徳川家茂の六人の将軍と、崇源院(二代秀忠の奥さん、つーか去年のNHKの大河ドラマ『江』)、皇女和宮(十四代家茂の奥さん)ら五人の正室、三代家光の側室桂昌院(五代綱吉の母)を始め5人の側室、及び三代家光の第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女計38名です。
壮麗な霊廟の数々はご霊廟とよばれて増上寺に立ち並んでましたが、昭和20年(1945)3月10日に北廟68棟被災、5月25日に南廟28棟被災。二度にわたる空襲で増上寺のほとんどが焼失。わずかにのこった建物も国宝の指定を解除されました。
昭和33年(1958)から詳細な学術調査が行われ、南北に配していた墓所は一カ所にまとめられ現在地に改装されました。
普段徳川将軍家の墓所は限られた日にのみ特別公開されてます。
ですが~??アレレ~??
入れるっ!!何でやっ!?
訪れたのは1月27日だったのですが、実はですね、去年のNHKの大河ドラマ『江』の主人公が徳川二代将軍徳川秀忠の奥さん崇源院だった為に「墓参したい~~」という要望が多くて特別公開されていたのでした。
ラ・ラッキー~~
普段の特別公開は入場無料なのですが、今回は入場料500円でした。
高いと思いますよね?私もそう思った!だから同行のあっこさんと相談したら「せっかくだから」と入場することに。したら~~~っ絵はがきをいただきました。
それが~~~ッ!!かつての壮麗な霊廟の写真をハガキに仕立てたもの。そしてかつて増上寺が壮麗な建物が立ち並んでいた頃の絵が大延ばしに印刷してあったんですよ。
ラ・ラララ超大ラッキーじゃっ!!!
いそいそと入ります。
まずはトップ画像。これはかつて六代将軍徳川家宣の宝塔前の唐門です。かつて国宝だった鋳抜き門でした。日陰での撮影だったので、画像が真っ暗になったので修正しました…。扉の龍の模様はさすが元国宝!でしたが、撮影に失敗しました。無念。
静寛院和宮(青銅製)の墓。
14代将軍家茂の正室。和宮は仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。この時和宮は15歳。家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)31歳で逝去。
14代徳川家茂の墓(石塔)。
家茂は11代徳川家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり13歳で14代将軍となった。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没。慶長2年(1866)、享年21歳。
…確か、直接の死因って脚気じゃなかったっけ?甘いモノ大好きな人だったとか?どっかで読んだ気がする~。すごく人望のあった人で、家茂の死を持って徳川の世が終わった!と誰ぞが言ったとかなんとか~?…勝海舟だった気がする。なんかのドラマで見た気がする。や。私の記憶は大概漫画かテレビから入ってるんで確実じゃないけど~。
六代徳川家宣公夫妻(青銅製)の墓
家宣は家光の三男綱重の子(家光の孫)として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、間部詮房や新井白石を重用し、生類憐れみの令や酒税を廃止したが、将軍になりわずか3年で病に倒れた。正徳2年(1712)享年51歳。
七代徳川家継の墓(石塔)
家継は6代家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣逝去の時、わずか3歳。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなった。
9代徳川家重の墓(石塔)。
家重は8代暴れん坊将軍吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。
成長するにつれ病がちとなり、将軍となっても政務は重臣にまかせた人。確か大河ドラマ「吉宗」の中では、どもりがある暗い男として描かれていたような~?
49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。
12代徳川家慶の墓(石塔)
家慶は11代家斉の第2子として、寛政2年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが失敗。嘉永6年(1853)に亡くなった。61歳。

分かりにくいですが、墓所に入場する時にいただいた『増上寺御霊屋』のパンフレットより転載します。
や~、去年MYMAC BOOKがクラッシュして以後、それまで普通に使ってたスキャナー読み込みやfohto shopなども使えなくなり不便です。今回ちらしを携帯電話で撮影したんだけど~。
も、読めればいいや。   
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赤穂浪士のお墓

2012年02月27日 05時55分48秒 | 墓所巡り
赤穂浪士は吉良上野介の首を取った足で、泉岳寺にある殿・浅野内匠頭の墓前に供えたのです。
んな訳で、今日は泉岳寺の赤穂浪士のお墓を紹介しますね。
まずトップ画像は、四十七士の墓所遠景です。全景と行きたかったのですが、フレームに納まりませんでした。
配置図もありました。

並べ方は、討ち入り後、赤穂浪士は複数の藩にお預かりとなって、後に切腹を言いつけられ預かりの藩邸で最後を遂げたのです。んで、そのお預けの藩毎に墓はまとまって配置してあるんですよ。
んで、有名は赤穂浪士事件ですが、実は詳しくは知らないんだよね~。なので、現場で探した墓はこれ。

画像右端が堀部安兵衛の墓です。高田の馬場であった仇討ちに助っ人として活躍。それを見込んだのが赤穂の堀部さん。安兵衛は請われて堀部家の養子になりました。
こっちが安兵衛の義父のお墓です。
墓に戒名と生前の名前。そして享年が彫ってあります。みんな戒名が「刃」の文字を冠してあるのが萌え。
大石主税吉金の墓
大石主税は大石内蔵助の息子です。切腹したのは16才。最年少の浪士でした。堀部安兵衛と同じく、伊代松山藩のお預けでした。
大石内蔵助良雄の墓
この画像ではわかりませんが、墓石の手前に石の大きな線香立てがあります。線香立てには大石家の右二ツ巴の家紋が彫り込んであります。みんな絶対見た事あるよ。
最後にこちらのお墓は?
浅野内匠頭長矩の墓
播磨赤穂藩の第三代藩主。『忠臣蔵』の大本となった江戸城松の廊下で吉良上野介に切り掛かった人。時の将軍は第五代徳川綱吉。生類憐みの令を出してる人だから、殿中刃傷は許せないこと。時のお側用人柳沢吉保は綱吉に取り次ぐこともせず、浅野内匠頭は当日切腹(元禄14年3月14日)を命じられております。享年24。短慮ですよね。赤穂藩は改易になってしまうし~。
画像右手には、浅野家の人びとの墓も並んでます。内匠頭の正室阿久里(瑤泉院)のお墓もありました。
ちなみに、『忠臣蔵』の赤穂浪士と言えば四十七士ですが、泉岳寺の赤穂浪士の墓は全部で48基あります。
さて、泉岳寺を満喫した後、門前のお土産屋さんを冷やかす。

これこれ!大石家の家紋二ツ巴紋の入った太鼓です。記念にケヤキに二ツ巴を彫った太鼓のキーポルダーを購入。
限定キューピーの大石内蔵助もありますよ。

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本門寺の墓所続き

2012年02月24日 05時31分28秒 | 墓所巡り
池上本門寺に訪れた目的は、墓巡りではなく秘密のお庭だったハズ…。でも墓巡りに持てる限りのエネルギーを注ぎ込み、更には1日に覚えられる限りの記憶力を費やしてしまったらしい…。どんなに墓巡りが楽しかろうと、ボチボチタイムリミットが迫って来ました。や。この段階で既に最終目的地の川崎大師は諦めてますが。
そんなこんなで、本門寺のお墓と歴史に詳しいご隠居とお別れし、まず向かった先はお休み処です。何はともあれ、お腹に何か入れないともう動けん…。ええ。わしらはお昼を食べるのも忘れて墓巡りに夢中になっていたのですよ。
もういい年なんだからさ~。落ち着こうよ。自分…。どっかから、友人・妹弟のツッコミが聞こえてきます。

昼食メニューはおそば。あっちゅー間にかっ込んで、スタンプ集め再開です。
ええ、そうなんですよ。秘密のお庭に入るには本門寺を巡って5つのスタンプをコンプリートしないと入れないんです。どこのRPGゲームじゃっ!!時間がないんじゃっ!
などとぼやく時間も惜しんでコンプリートして駆けつけた秘密のお庭という名前の松濤園。
でも…。時既に遅く、太陽がお山の向こうに入ってしまい、採光加減がよろしくない。あまつさえ、本来の紅葉散歩の目的だった松濤園のモミジ群はまだ色づいてないというダブルコンボ!!うう…。気力が尽きそうよ。
そんなこんななお庭の画像はこちらの記事豪徳寺から池上本門寺紅葉散歩(2011年11月24日)の記事で確認していただくことにして、一つだけ。トップ画像の説明を。
設置してあるっ説明板には「西郷隆盛・勝海舟会見の碑慶応4年(1868)3月、倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の首席参謀であった西郷隆盛と、幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、江戸城無血開城の交渉を行った。会見は松濤園内の四阿で行われているが、建物は現存しない。この石碑は昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。なお、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた
確かね、池上本門寺は空襲に合って殆どの建物を焼失してるから、会談した建物も大概その位でなくなってると思うんだよね。
ちなみに、日本史とか歴史の本では、西郷と勝海舟の会見は、品川の薩摩藩邸って書かれてると思うのね。あれは本門寺の会見の後の出来事です。ンでもって、西郷と勝海舟の本門寺の会見前にある程度道筋をつけてたのって、勝海舟じゃなくて、もう一人の舟の人の方じゃないかと…。名前名前…。鉄舟?
んな訳で早回しで秘密のお庭を見物。次に目指したのは本門寺の西側の斜面にある墓所です。
多宝塔
こちらは以前訪れた時に修復工事をしていた場所です。
天保2年(1831)の日蓮聖人550遠忌を記念して、日蓮聖人御荼毘所跡(火葬に付された所)に建立された。屋外に建つ宝塔形式の木造塔としては日本唯一の遺構。
なかなかに色鮮やかです。多宝塔に向かい降りて行く階段もこうワクワク感が盛り上がりいい感じなんですが、多宝塔の背後にある紀州徳川家墓所も凄いです。

この墓所は家康の側室お万の方をはじめ紀州徳川家奥方の墓塔が立ち並ぶ。…あれ?昨日もこの文章書いたような~?本門寺の墓域のあちこちに紀州徳川家のお墓ってあるのね。
実は紀州徳川家墓所の背後の崖の上にもお墓があります。そこは歴代聖人様の墓所。歴代貫首のお墓です。撮影し忘れましたよ…。も、ダメダメ。
狩野探幽の墓。
狩野探幽は狩野永徳の孫。幕府の御用絵師として活躍し、狩野派を大きく育てた人。延宝2年(1674)10月没。
墓の形は瓢箪型で、墨壷をかたどっている。総高2、95メートル。碑高2、8メートル。
その上部に「妙法」と刻む。傍らに一代記を刻んだ供養碑が、狩野探信によって建立されている。
付近に妻や一門の墓もある。

お、終わった~。お墓巡りの記事を今まで放置してた理由をブログを書き始めて分かったよ。大変なんだね。まあ、歴史を検索しつつ記事を書くのは楽しいと言えなくもないが…。せめて当日と言わず、翌日には書いておくべきでしたよ。溜めてちゃあイカンのですね。次から気をつけよう。つーか、墓地巡りはやり過ぎると危険なんだね。歴史の波に弄ばれてしまう。一つ賢くなったよ。
んなこと言ってますが、明日もまだ池上本門寺です。明日はねえ、日蓮のご臨終地の紹介です。   人気ブログランキングへ
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万両塚

2012年02月23日 05時29分10秒 | 墓所巡り
トップ画像は余芳心院墓所です。別名万両塚。
万両塚に埋葬されているのは「芳心院殿妙英日春大姉」。彼女は徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家藩主頼宣の娘。鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。確か生前は茶々姫と呼ばれていた人。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。(説明文より)
ご隠居の言うには、とても美人だったそうで。そして蛇が嫌いだったそうで。だからお墓の廻りに濠が巡らせてあるんだって。かつては濠に水を貼り、蛇が渡ってこれないようにしてあったと言い伝えられて来ましたが、ちょうさの結果、濠はもとから空堀だったんだって。ちなみに、万両塚の名前は、このお墓を作るのに一万両のお金がかかったそいう俗説からだそうで。

今は墓の周りに四季折々に咲く植物が植えられています。

ちなみに、万両塚の側にあるこの古いお墓は、彼女に仕えていた侍女のものですって。
さて、万両塚があるならば、千両塚だってあるんじゃあ?と思われた方はいます?
スルドイっ。
実は池上本門寺の墓所には千両塚の別名を持つ墓もあるんですよ。それがコレ。

こちらも鳥取池田家のお墓です。確かねえ、ご隠居が元禄年間に作られたお墓だって言ってたような…。殿様の生母だったって言ってたような~?因幡氏の娘って言ってたような~?メモが残ってるんですが、あやふやですので確信が持てません。
ちなみに、上の画像の背景に映り込んでいる五重塔、見覚えありませんか?

これってTBSドラマで「南極大陸」の作中で、木村拓哉がちょいちょい墓参りする場面があったんですが、キムタクくんの後ろにあったのコレだと思うんだよね。
都内って以外と五重塔が残ってなくて、後は上野の寛永寺ともう1個確か3つくらいしかないハズなので、当たりだと思う。ちなみに、五重塔は2代将軍徳川秀忠の乳母・岡部局の発願により、秀忠が慶長13年(1608)に寄進建立しました。五重塔の側に幸田露伴の墓もあります。幸田露伴の著書に『五重塔』って言うのがあるんで、だから五重塔の側に墓を作ったんだとしたらそれも面白い。ちなみに、両雄の尾崎紅葉の墓は青山霊園にあります。乃木希典の墓を探してたら近くにあったんだよ~。ええ。最近妙にあちこちで墓を探してます。でも流行りの墓マイラーではない~~~んで。
細川家清高院の墓。
彼女は肥後熊本藩第三代藩主細川綱利の母です。実は彼は赤穂浪士事件後に大石内蔵助始め計17名を預かった人でした。ちなみに、大石内蔵助ら預かった赤穂浪士達が切腹を命じられた後、彼らの葬儀代・お布施を泉岳寺の送ったそうですよ。あ。逸れた。
細川家の墓所は区画が広いです。清高院の墓の隣にはこんな墓もある。
更にこんなのも。
更に更にこんな墓も。
河上彦斎(げんさい)の墓。
これは以前記事にしたから覚えてる人もいるかも?
河上彦斎は幕末期に人斬り彦斎と呼ばれた人で、佐久間象山を斬った人。それがなぜにこんな所にお墓があるのかというと、彦斎は熊本藩士だったから。ちなみに彼は斬首されてます。
画像の墓は実は後の世の彦斎ファンが建てたもので、本物の墓はその背後にある小さな墓がソレ。
で~も~。『銀魂』ファンなら鬼兵隊の河上万斉の名前のモデルと言ったほうがピンとくるかも?
さて肥後熊本藩細川家。
肥後細川家の墓。
同じ様な古い時代のお墓が当たりにいくつもある中で目当ての墓を特定するポイントをご隠居に教えてもらいました。
「墓にはね、家紋が彫ってあるんだよ。肥後熊本藩細川家の家紋は細川九曜紋。この墓にも九曜紋があるだろう?」
九曜紋。とっても分かり易い家紋です。
「NHKの大河ドラマを見てたらね。九曜紋が映ったんだよ。何故だ?と思ったら、細川ガラシャだったんだ」
細川ガラシャは明智光秀の三女で細川忠興の正室なので、家紋が九曜紋だったのは納得出来ます。
そういや、『坂の上の雲』で秋山真之と結婚した季子さん。花嫁衣装には家紋が染められてます。彼女の家紋が分からなくて、あの広い青山霊園を駆け巡ったとか逸話があります。ドラマのぼ~っと見てちゃイカンという話。歴史の萌えは思わぬ所に転がってるんですよ。

最後にコレ。もうねえ。気力の尽きた時にまわった墓なんで記憶がグダグダなんですが、どっかの大名の重臣のお墓だったハズ。隣に奥さんの墓もありました。誰だっけなあ~??…徳川家斉の懐刀?や。もう思い出せんすみません。歴史 ブログランキングへ
すみません。今日の記事は文章もぐだぐだですね。何がこの記事書いてた時、いっぱい一杯だった。
今朝、起きたらくしゃみを連発。水のような鼻水が垂れてきた。
今年も遂にやって来ました。花粉の季節。や。昨日は暖かかったからね。今日は朝から雨だけど、止んだら花粉が本格的に飛び出すのか?
って!!
今年の梅!まだ満開になってません。例年に比べ1カ月遅れですよ。開花情報待ちのお散歩になかなか出かけられない~。あっこさんと御徒町で待ち合わせー旧岩崎邸庭園ー梅の湯島天神ー神田明神ー湯島聖堂ーニコライ堂巡りとか予定してるんだけどね。いつになるんだ~。

コメント (2)
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有名人が一杯な池上本門寺の墓所

2012年02月22日 05時40分26秒 | 墓所巡り
歴史上の有名人も多いけど、芸能人や今でも有名人の墓も多いんだな。
トップ画像と左の墓は狩野常信(父)・周信(子)・養信のお墓です。
江戸幕府に仕えた御用絵師ですね。時代的には常信は徳川家光・家綱の御用を務めました。水戸黄門さまもごひいき筋だったらしい。
さて、この墓の名前を見て欲しい。

これ、誰が書いた字を彫ったのかわかるんですよ。
記名部分を拡大してみましょう~。ハイ、ポン!

読めます~??「中曽根康弘」とあるんです。ええ、ロナルド=レーガンと「ロン!」「ヤス!」と互いに呼び交していたかつての日本の首相です。まだまだ元気に政治に携わってらっしゃいます。
よく神社仏閣を巡っていると、扁額を揮毫した方は今でも名を知られる有名人の場合があります。かつての交流に思いを馳せて感動しますが、これも長く残るんだろうなあ。だって石に刻んであるんだもん。
…私も大概悪筆なんですが、中曽根さんには勝てるかもしれん…。

これもご隠居さんが教えてくれました。墓の主の名前は存じ上げなかったんですが、朱色のついたてにあったのはビッグネームでした。高倉健さんの控えめな性格を現すように、名前はついたての裏に小さく記されてました。
また、携帯電話の電池の残量が怪しくなってきて撮影してませんが、以前紹介した石の虎の彫刻があったお墓の持ち主もご隠居さんが教えて下さいました。
本門寺にある有名人のお墓(2009年10月7日)の記事こちらの記事で石の虎の画像を確認出来ます。
墓の主は政治家だった(確かかつての自民党大物議員)んですが、墓所内に2つあった墓石に刻んだ名前が凄かった。私がわかったのは2人だけ。一人は巨人軍になにかあるとニュースになる渡辺恒雄さんで、もう一方は昭和のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫でした。
また五重塔の近くにあった横澤家のお墓は、フジテレビの伝説のお笑い番組「ひょうきん族」の初代プロデューサーの横様さんのお墓でした。
そして五重塔の北側にあった細川家の墓所に隣接していたのは、歌舞伎の松本幸四郎さんちのお墓でした。側面に「松本白鸚」と刻まれてたから間違いない。
さて、ボチボチいっぱいいっぱいです。携帯電話の電池残量も怪しいんですが、仮覚え出来る記憶の残量も残りわずかとなってしまったのだ!
この散歩は2011年11月22日だったので、既に3ケ月前の出来事を思い出しつつ書いてるんですけど、大概当日もこの辺りで記憶の限界を迎えてたんですね。どうがんばっても由来の思い出せん画像がまだまだ残ってるんですよ。どうすんだよコレっ。
あ~れ~~??せっかく幸運な出会いによりご隠居さんに色々レクチャーしてもらったのに…。このザマかよっ!!がっかりじゃ~~~っ
以後、だいぶん曖昧な記憶でお届けします。ええ。明日もまだまだ墓地巡りです。ついてこれてる??つーか、当日の同行者のあっこさん、チェックしてくれ~~~。私もう限界ですよ。   
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力道山のお墓

2012年02月21日 05時42分52秒 | 墓所巡り
どのお墓が誰のものか?おびただしい墓石に諦めそうになりますが、中に誰でも見れば分かるお墓があります。
それが力道山の墓です。
力道山を知ってますか?伝説のプロレスラーです。私は彼のファイトは見たことないんですが、白黒映画で見た事あります。映画のタイトルは思い出せないんですが。
分かり易い目印の銅像です。
 
銅像の台座に彫られた名前です。ビッグネームが目白押し。ちなみに、左手の画像、プロレス・ノアの右手に上がる名前百田光雄氏は力道山息子さんですね。
トップ画像の銅像と石碑の間の奥に墓があります。
左の画像で女性が手を合わせてる墓がソレ。
ちなみに、力道山のお墓の背後には、肥後藩…大村藩だっかかもしれん。の古い墓地に隣接してまして、ご隠居曰く、力道山の墓が作られたのは彼が長崎県大村市出身となってるからかもしれない…。と。それはうがち過ぎな見解じゃないかな~?と私は思ったけどね。

さて、力道山のお墓の近くに、紀州徳川家の墓所があります。

徳川家康の側室で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の生母であった養珠院妙紹日心大姉(お万の方)をはじめ、頼宣公正室の瑤林院(加藤清正の娘)、2代光貞公正室の天真院、8代将軍となった吉宗公正室の寛徳院以下、江戸藩邸で逝去した夫人達の墓所です。
前回もここだけはわかったのですが、入れませんでした。
 
でも今回はご隠居さんが入れてくれました。いいのか?と躊躇したのですが、この機会を逃すと二度と近くで見えないっ!!入る~。
墓の個々の形状は、大型&中型の宝塔、少しの宝筺印塔。
亀。これって、中国の墓にあっては亀の背に石碑が置いてあることは多いんですが…。これは壊れちゃったかな~?
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