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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

勝海舟夫妻のお墓と西郷隆盛の留魂祠

2017年06月24日 05時30分15秒 | 墓所巡り
3度目の訪問でようやく撮影できた画像です。(撮影失敗の訳は昨日の記事をご覧ください)
2017年4月2日に洗足池を訪問。桜広場の一角に勝海舟夫妻のお墓があります。

説明板発見:勝海舟夫妻のお墓
勝海舟、諱は嘉邦、初め麟太郎。後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米。海軍奉行となり、明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟、山岡鉄舟と共に幕末の三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌を詠まれた。
『千束村の別所に 楓樹数株を植えて うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも 秋はにしきを 織りいだすらむ 染めいづる 此の山かげの 紅葉は 残す心の にしきとも見よ』(飛川歌集より)
洗足池駅から西廻りに散策路を進むと、壁に説明板がある。
 
勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823−99)の別邸は戦後間もなく焼失しましたが、茅葺器の農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けた渡され、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通りかかった洗足池の深山の趣ある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治24年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、楓、桜、松、秋の草々などを移し替え次のようにも読んでいます。
うゑをかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ
明治32年(1899)77歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
勝海舟夫妻のお墓に隣接し、西郷隆盛の祠があります。

説明板発見:『留魂祠(りゅうこんし)
祭神:南洲西郷隆盛
例祭:毎年9月24日
由緒:明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが、勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治10年(1877)の西南の役により、故郷鹿児島において子弟3000余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑され、さらに明治16(1883)年、この魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」野「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魂祠は、元東京南葛飾郡大木村上水下川(現、葛飾区東四つ木1−5−9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生のご意思により、大正2(1913)年、石碑と共に現在の地へ移されました。右となりには勝先生ご夫妻の奥津城(墓所)があり、維新の両雄は今なお相並んで我が国の将来を見守っておられるのです。 南洲会』
石碑が留魂祠の側にあります。留魂碑です。

説明文発見:西郷隆盛敗死後1周忌を記念して、海舟が私費を投じて建てたものです。海舟の没後、その墓の側に移された。
留魂碑の表面には、隆盛の漢詩一首が故人の書体で刻まれ、その背面には、海舟の自筆で碑建立の動機が記されている。
海舟が留魂碑にえらんだ隆盛の漢詩は、文久3年(1864)、薩摩藩国父島津久光の怒りを蒙り、沖永良部島に流罪とされた時の作で、「獄中に感あり」と題する七言律詩であった。
表面:
洛陽知己皆魂為鬼 洛陽の知己 皆鬼となり、
南嶼俘囚独窃生 南嶼の俘囚 独り生をぬすむ
生死何疑天附与 生死何ぞ疑わん 天の附与なるを
願留魂魄護皇城 願わくば魂魄を留めて皇城を護らん

意味:洛陽、ここでは京の都。そこにいた知友はすでに鬼籍に入ったが、
私は南海の小島に囚われの身となって、独り生きながらえている。
生くるも死ぬるも、天が与えたさだめであることを、なんで疑うことがあろうか。
できることなら、死んでも、私の魂をこの世に留めて、天子さまの皇城をお護りしたい。

海舟が留魂碑にこの詩を選んだのは、隆盛の揮毫したものが遺っていたことにもよるが、なんといっても<死後もこの世に魂魄を留めて、天子の皇城をお護りしたい>という隆盛の忠誠心を人々に広く知らしめ、それによって逆賊の汚名を晴らしたいという切なる願いによるものであった。

裏面の海舟の文章を刻んだ部分:慶応の戊辰の春、君は大軍を率いて東下す。人心は鼎沸(ていふつ)し、市民は荷担す。我は之を憂えて一書を屯営に寄す。君は之を容れ、更に令して、兵士の驕傲(きょうごう)を戒め、府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめざるなり。是れ何等たる襟懐(さんかい)ぞ。何等たる信義ぞ。たまたま往時の書する所の詩を見るに、気韻高爽として、筆墨淋漓たり。恍として其の平生を視るが如し。之を欽慕して自ら止むを能わず。石に刻み、以って記念碑をつくる。ああ、君は我をよく知り、而して君を知ること我に若くはなし。地下にもし知る有らば、きんぜんをもって一笑せんか。
意味:慶応戊辰、明治元年の春、君は大軍を率いて東海道を下り、江戸に迫ってきた。そのため、人心は動揺し、市民は荷を担いで逃げ出すありさま。私はこうした人民のことを心配して、君のいる軍営に手紙を届けた。君は私の手紙の趣旨を受け入れてくれたばかりでなく、更に命令を下して兵士たちに狼藉を働かないように戒告した。これは何という広い心であろうか?なんという厚い信義であろうか?たまたま私は、君がこの昔書いた所の詩を見たが、高く爽やかな気韻があり、鮮やかで勢いのある筆墨の跡があり、平生の君の姿を見るようであった。ために、君を敬慕して、自ら選んでこの詩を石に刻み、記念碑を作った。ああ、君はよく私のことを知り、そして君を知ることでは、私にかなうものはあるまい。地下にて君がこの記念碑を知ることができたならば、きっと君は頬ひげあげて一笑するであろう。』
な、長い〜。でもこの石碑はあちこちにある石碑の中でも秀逸です。歴史好きなら涙してもおかしくないっ!だって、表面が西郷隆盛筆。裏面が勝海舟筆。しかも石碑自体を勝海舟が自腹で作成し、自分の墓の隣に移すって大概でしょ?よっぽど江戸無血開城を実現させた英雄が、西南の役により評価が地に落ちて江戸(東京)に住んでる人々に悪し様に言われるのが悔しかったんだろうなあ〜。男の友情ですかね?「最後のあたりの君はよく私のことを知り、君を知ることでは私にかなうものはあるまい。」の部分が涙を誘うよねっ。初回に知って、ぜひとも記事にしたい!と思ったのに、撮影に失敗し、1年で都合3回も通ってしまいました。あれだ。この石碑は、高幡不動の新撰組の石碑に通じるものがあるわ〜。あれも感動的ですよ。
近藤勇・土方歳三殉節両雄碑(2010年6月6日)の記事
高幡不動はアジサイの名所でもあります。今からアジサイを見に行こうと思ってる方、高幡不動を訪問した際は、ぜひとも新撰組の石碑をご覧ください。所在は、土方歳三の立像の隣にあるでっかい奴です。



所在地は上の地図の右端中央です。
コメント (2)
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勝海舟のお墓の隣にあるものは?

2017年04月04日 05時31分58秒 | 墓所巡り
幕末から維新へ。徳川幕府が終わる時、徳川幕府の代表が勝海舟で、官軍の代表が西郷隆盛で会談が行われた。歴史的にも稀な前の時代の首府の江戸の町が、焼け払われる事なく丸ごと新政府へ受け継がれました。歴史の教科書に必ず登場する江戸城無血開城です。
ちなみに、過去その会談の舞台を訪問した事があります。
秘密の名園で散歩(2009年10月6日)の記事 池上本門寺にある小堀遠州作の名園松濤園。

非公開の秘密の庭の奥に会見場がありました。池上本門寺に官軍の本陣が置かれてたのです。
ちなみに、小堀遠州作のお庭でおススメなのがこちら。
スカイツリーと五重塔(2013.3.27)の記事浅草伝法院のお庭から、浅草寺の五重塔とスカイツリーの2本の塔を伝法院の庭から1枚の画像に納める事が出来ます。
今ならしだれ桜と伝法院の建物も同じ構図に納まるんじゃないかな〜?
ちなみに、浅草駅から隅田川を超え、スカイツリーに向うと、上流側に石像が見えます。

この石像は勝海舟像なので、浅草周辺で桜散歩するついでに見物してみるのも一興。勝海舟が指さす先にアメリカがある。

旧島津公爵本邸(清泉女子大学本館)の見学を終え、東急池上線五反田駅へ戻りました。ふと?島津薩摩藩西郷隆盛勝海舟と連想が繋がり、去年の6月初めに洗足池を訪問し、そこで見た勝海舟のお墓の隣に西郷隆盛の石碑があったのを思い出しました。あの時は携帯電話持参で散歩してたのですが、目黒不動尊のあと洗足池に行ったら後の画像が消えてしまいまして〜。洗足池の記事に出来なかったのね。洗足池なら東急線沿いです。よってみよう!ってな事で予定変更です。
東急池上線洗足池駅下車。駅から見て右手の信号を横断したら目の前の細い道を直進します。しばらくは洗足池が見えません。道なりに進むと左手にこども公園が見えてきます。そこの左奥に唐突にお墓が2つ並んでいます。それがトップ画像です。お墓は勝海舟夫妻の墓です。洗足池の風景を気に入った勝海舟がここに庵を構え、ここにお墓を作るように遺言しました。
墓所巡りも折りにふれ散策コースに入れていますが、ここで歴史好きの萌えを大いに刺激してくれたのは、勝海舟夫妻のお墓の左側、池側にある石碑でした。

最初見た時は大きな石碑だなあ〜?程度だったんだけどね。正体が分かった所で変な叫び声を上げてしまいましたよ!だってこれだもん〜。

勝海舟こそ武士に終止符を打った人だと思うのね。幕府を倒した官軍についていた下級武士はさあ今から自分達の時代だ!と思ってた人も多かったと思うけど、実際始まった明治時代は彼らの希望を打ち砕くものでした。不平不満を抱いた男達は西南の役を初めてしまいます。西南の役の行く末を知りながら担ぎ上げられたのが西郷隆盛。西郷は新しい時代の禍根を断つ心づもりだったと私は思ってる。
幕末を維新に変えた立役者の一人だったのに、数年後には西郷隆盛は新政府の敵になった為、西郷の石碑は破壊撤去される運命にありました。それを阻止したのが勝海舟だったんですよっ。
江戸城無血開城という歴史の一大イベントで対峙した二人。その幕府方の代表だった勝海舟が、敵方の東征軍の将でありながら、明治政府の敵の立場になった西郷隆盛の石碑を、自分の庵の側に移転させたんですよ!勝海舟の心のうちはどうだったんだろうなあ〜。この記事の冒頭にあえて池上本門寺の江戸城無血開城の会見場の話題を持ってきたのは、実は洗足池から池上本門寺は徒歩圏なんです。すごく近いのね。洗足池駅から数駅先が池上本門寺の最寄駅なのだ。歴史好きなら訪問の価値があります。今なら日本人が大好きな桜も見れます。そういえば、洗足池も桜の名所なんだよね。…目黒川の桜を見に行こうと思ってるんだけど、ついでに見てこようかな?体力次第ですが。なぜに今風邪を引いてしまったの?自分…。

さて、この後この日の散策は、目黒駅へ向いました。徒歩8分で国立科学博物館付属自然教育園があるのです。ここの紅葉が素晴らしいって!
実際素晴らしかったんだよね〜。自然教育園の土地の歴史も讃岐香川出身者としてはチェックしたい場所だったし(江戸時代、この地は讃岐高松藩主松平頼重の下屋敷でした。私のまあ故郷の所縁の地です)現在は隣接する東京都庭園博物館(旧朝香宮邸)の方が有名ですが。
んで、なんでそちらの画像がない?いや、洗足池の記事の画像も手薄だったのか?と言いますと…。撮影に失敗しました。そもそも旧島津公爵邸の記事がここまで遅れたのも実は携帯電話のマイクロSDカードに画像が撮れてなかったから!それに気付いたのが五反田駅から洗足池駅へ移動の車内で再生した時でして…。最近撮影画像が携帯本体に残ってるのを気づき、風邪ひきで動けなかったんで、携帯本体からマイクロSDカードに移動出来るの?と触ってるうちに出来るのに気づきあらためて記事にしました。
洗足池に到着した時にあれこれ設定を変えたり、SDカードを取り出して再挿入したりあれこれやってみた結果、少しだけ撮影画像が残ってたのね。んで記事立てしましたが、う〜〜〜記事の出来に不満が残るわ〜。
んん??そういえば、西郷隆盛の石碑に何を書いてあるか?まだ紹介してなかったっけ?

これです。たぶん内容から西郷隆盛が仕える主はただ一人と決めていた殿、島津斉彬を失い、奄美大島に島流しされてた時のものじゃないかな〜?その後の西郷の一生を知って読むと涙が出そうな内容ですよね?勝海舟がこれを壊すのに忍びなく手元に引き取ったのもさもあらんですよ。勝海舟が幕府より咸臨丸でアメリカへ行け!といわれ、断食修行した時にも似た気持ちを抱いたのではないか?とか思っちゃったわ。

両国で江戸巡り(2012年3月6日) この記事に勝海舟生誕の地を訪問しました。この時の散歩の目的は、吉良上野介の屋敷跡&回向院だったのでついでに訪問しました。

東叶神社(2014年12月29日)の記事 こちらの記事は横須賀の浦賀にある神社です。ここは勝海舟断食の場です。安政6年(1859)、幕府は日米修好通商条約批准の為施設を派遣。随行艦として咸臨丸を派遣します。勝海舟は咸臨丸の船長の職を受託。航海と渡航の守護を祈願し東叶神社で断食修行を敢行しました。へえ〜へえ〜へえ〜でしょ?ここの勝守は航海安全・旅行安全とかスポーツ必勝のお守りで人気です。

*記事の出来と記憶力に自信がないので、4月2日に目黒川桜散歩のついでに洗足池に寄って来ました。
記憶があちこち間違ってたよ。例えば、西郷隆盛が島流しになったのは奄美大島。これは正解だったけど、一端薩摩に戻った西郷は、島津斉彬の次の殿様と折り合いが悪く、今度は沖永良部島に島流しになってまして、石碑の文章はその時のものらしい。
あと、この石碑はそもそも勝海舟が自腹で作ってお寺に納めたものを洗足池の別邸(庵じゃなかった)に引き取ったんだって。
その辺りを詳しく書いて(画像も取り直してきた)この記事を書き直したいんだけども、今は桜散歩を優先したいので後日!後日に推敲し直します。
疲れてしまって何を書いてるんだぁ〜〜!!目黒川の桜があないに人出を集めるとは…。目黒川は既に見頃になってました。
んで、洗足池では桜も咲いてないのに、あっちでもこっちでも花見の宴会やってました!もう呆れるばかり。私は花を愛でながらお昼ご飯したかっただけなのに…。その後、4月1日&2日限りで池上本門寺の重要文化財の五重塔のご開帳目当てで移動したら、そっちはまだ桜が2〜3分咲きでしたが。ダンナが「池上本門寺は何度か来た事がある!」と豪語したから、ちょいと突っ込んで聞いてみたら、墓所巡りも池上本門寺歴史巡りもやってない事が判明!急遽墓所巡りにダンナを連れ歩いて紹介してしまい、日蓮上人入滅の地で気付いたら15000歩超え!先週風邪ひきでへばってたのに、復活一つ目の散歩で無理するとかっ!もうくったくた。おまけに思いがけず数年前の記憶を脳みその奥から引っ張り出して、あの広大な本門寺の墓域を西へ東へと移動して脳みそが疲れてます。本当にダメダメ。いや、こんな文章を書いてる場合じゃなかった!桜が私を誘ってる〜お出かけしなくっちゃ〜〜!!
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多摩霊園、坂の上の雲の登場人物の墓所巡り

2015年04月12日 00時34分59秒 | 墓所巡り
多摩霊園はとても広い。ようやく着いたものの、空模様はますます怪しい。これは~私でも知ってる人に限ってまわろう!
ついでに周る順番も最短コースでっ!!

山本五十六のお墓。(所在:7区ー特種ー1側ー2番)
山本五十六は、日本海海戦で負傷した若き日の名将。 彼が生まれた時、父親が56才だったから「五十六」と命名された。
日露戦争では、少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に乗艦。敵砲弾の炸裂により、左手の人差し指と中指を欠損。左大腿部に重傷をおう。

東郷平八郎のお墓(所在:7区ー特種ー1側ー1番)
東郷平八郎は、日露戦争の連合艦隊司令長官として旗艦の「三笠」に乗艦。ロシアのバルチック艦隊を撃破。
当初は青山霊園に埋葬する予定だったが、広い敷地が見つからず、急遽多摩霊園に変更。それ以降、元帥と同じ場所に眠りたいという者が増え、多摩霊園の人気が急上昇した。
ちなみに、山本五十六と東郷平八郎の墓は隣り合わせにあります。探すの簡単でしたっ!

西郷従道(さいごうつぐみち)のお墓。(所在:10区ー1種ー1側-1番)
西郷隆盛の実弟で、名は「じゅうどう」とも呼ばれる。第一次伊藤博文内閣の海相に就任以降、海軍の整備や改革に尽力。海軍大臣時代、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜粋して大いに腕を振るわせ、結果的に日本海軍を日清・日露の勝利に導いた。
ところで…。記事を書くにあたり、iPhotoで画像を拡大して気付いたのですが、上の画像は西郷家のお墓ではありますが、従道のお墓しゃなかったかも?墓石に名前が刻まれてません。ここは敷地の入口に鍵扉があって中に入って確認出来なかったのね。つーか、この時前のメガネをかけてたからして、墓石が読めなかったんだよね。失敗でした。たぶん西郷家の墓石の90度隣に従道のお墓もあったと思うんだ。
次は…。

黒木為禎(くろきためもと)のお墓。(所在:8区-1種-2側ー15番)
日露戦争では、第1軍司令官として鴨緑江から奉天まで連戦し、ロシア軍からはクロキンスキーと畏怖された。猪突猛進の気質が禍いして、長州閥の軍中央部のうけが悪く、鹿児島出身の黒木は元帥になれなかったそうです。

高橋是清のお墓。(所在:8区ー1種ー2側-16番)
共立学校路ダイアの正岡子規や秋山真之の英語教師。
日露戦争前後は日銀の副総裁で、イギリスに駐在して戦費の調達に奔走。苦心の末、8億2000万円の外貨募集に成功。
たしか、以前小金井の江戸東京たてもの園を訪問した時に、是清の屋敷を見学しました。
高橋是清邸(2011年5月19日)の画像
その時に、主屋部分は多摩霊園の休憩所に移築された後、たてもの園に移築されたというのを知りました。
ちなみに、黒木為禎と高橋是清のお墓も隣り合わせに立っていて、見つけ易かったです。

西園寺公望のお墓。(所在:8区ー1種ー1側ー16番)
日露戦争後、軍部が推す桂太郎と立憲政友会を基盤とする西園寺が交互に首相につく「桂園時代」が到来。
京都出身の公卿で、フランスのソルボンヌ大学で法律を学ぶ。軍部の台頭を危惧した最後の元老。

児玉源太郎のお墓。(所在:8区-1種-17側ー1番)
陸軍大学校の設立に尽力した。日露戦争では、前任の田村怡与造(たむらいよぞう)の急死にともない、内相から異例の降格人事となり参謀本部次長に志願。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀課長も務め、満州軍総司令官の大山巌を補佐した。
旅順攻略にてこずっていた第3軍の乃木希典から指揮権を代わり、内地から搬送した28サンチ榴弾砲を用いて203高地をわずか半日で陥落させた。
彼のお墓だけは絶対に参拝したかったのだっ!広い多摩霊園では一番東にあってそれ以外の人を諦めても後悔しないっ!
こんな所に203高地の石が(2012年1月14日)の記事江の島にある児玉神社の記事です。
ラッキー入れた~(201年8月28日)の記事中国・旅順にある児玉グラウンドと呼ばれた旧旅順運動場の記事です。
時刻は12時32分。たったこれだけしかお墓めぐりが出来なかったのに、30分もかかってた!まあ、多摩霊園も要再訪物件ですが。

多摩霊園の外国人墓地区画です。多摩霊園の東の道を南下してたら、桜の下の墓石が見えた。園内にも桜が多く咲いてました。墓参り客も多かったな~。
東から多摩霊園を出て今度は人見街道を東へ。
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多摩御陵の参道のケヤキ並木が剪定&一部撤去

2014年11月16日 01時31分54秒 | 墓所巡り
一昨日、2014年11月14日に八王子市の甲州街道のイチョウ並木の黄葉を見にゆきました。JR西八王子駅下車。イチョウ並木を西へ。並木の終盤に多摩御陵へ続くケヤキ並木があります。これは参道なのです。

道の両側にそれぞれ、多摩御陵・武蔵御陵の石碑が立っており、ここが参道の入口です。参道に入ってすぐ、何やら大きな立て看板がありました。

計画剪定及び街路樹撤去のお知らせ
え~と?何だって??
多摩御陵線のケヤキ並木は、樹齢が90年を超えています。近年、大径化・老朽化したケヤキ並木の大枝が、強風などにより落下する等の事故が頻繁に発生しています。これは、樹高が樹木間に比べ高いため、枝や根が輻輳し、生育を阻害していることが原因です。
このため、昨年度に引き続き景観に配慮しながら、段階的に樹高を低くする計画剪定を実施します。計画剪定では、樹高を低くするための基本剪定と、前年度以前に基本剪定を終えた樹木に対し、樹形を整え、落枝を防止するための軽い剪定を実施します。
現段階で撤去樹木は1本ですが、今後の診断結果により撤去本数を変更する場合があります。
う~む。木がコンパクトになるのは見やすいけど、そう簡単に出来るのかな?技って奴なのかな?

川を渡る橋は、立派な石の欄干で出来てます。画像右奥に見えるのは、綾南公園。11月15日・16日開催のイチョウ祭のメイン会場で、急ピッチで準備が進んでいます。

さて。御陵見学の前に、綾南公園でお昼ごはんタイムです。
このメロンパンの皮という名前のパン。メロンパンのおいしい所だけを商品にしてあるんだけど、これ一個とメロンパン1個の値段がほぼ一緒なのが謎です。
さて。ケヤキ並木の参道を抜けると、多摩御陵の駐車場に到着です。私3回目の参拝です。
ところが…。あれ~~??進入路に立ち入り禁止テープが貼ってあるぞ~~??
行けるのか??
恐る恐る進んでいると、案内の人が「ただ今工事中です。右の道からお進み下さい」とのこと。
工事~~??多摩御陵で~??
不思議に思いつつ進むと、見えてきました。
まずは昭和天皇陛下の御陵です。

右隣には昭和天皇の皇后陛下の御陵。

少し歩いた所に、大正天皇の皇后陛下の御陵。

多摩御陵で一番豪華な大正天皇陛下の御陵です。
ところで。工事個所ですが判明しました。

大正天皇御陵
の奥で、ただ今絶賛工事中です。
なのですが…。
え~と?これって、もしやせんでも今上天皇陛下の御陵を作ってるんですよね?併せて美智子妃殿下の御陵も作ってる気配です。

そっか~。こういうのって作るの時間がかかるものなあ。
まあ。事情は分かるけど、今上天皇皇后両陛下にはまだまだ出来るだけ長くお過ごしいただきたいわ~。
お墓を作ってる所なんかあんまり見たくなかったな…。

御陵と駐車場を繋ぐ道沿いに、池と見頃のモミジがありました。

高尾駅への道々、紅葉の綾南公園が見えました。

そろそろ高尾駅です。甲州街道のイチョウ並木に戻ってきました。
さて。右へ行くとJR。直進すると京王です。

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北条政子と源実朝の墓

2014年09月23日 05時59分53秒 | 墓所巡り
海蔵寺さんで見事なハギを楽しんだ後、目指すは浄光明寺さんへ行こう…。
道を間違えた~~
や。この日はもう何度も行った事あるお寺さんばかりなので、地図はいらないや!と。それで横須賀線の線路をくぐる場所を間違えて線路に沿って直進してしまった~~。
しょうがない。今日の所は浄光明寺さんはパスじゃ!んで、次に目指したのは鶴岡八幡宮です。
あ。ここ寿福寺さん。ダンナをちらりと振り返る。
「寿福寺さんに北条政子と実朝くんのお墓があるんだけど、お詣りした事あったっけ?」
「ン~~??どうだったかなあ…」
「行ってみる?場所分かるよ」
ってな事で寄り道です。

参道が素敵。
さて寿福寺さんは、鎌倉五山第三位です。北条政子が夫の菩提を弔うため源氏家父祖伝来の地で頼朝の父・義朝の屋敷があった所に建てたお寺です。頼朝が当初幕府を構えようとした場所でもあります。
宗派:臨済宗建長寺派
創建:招治2年(1200)
開基:北条政子
開山:明庵栄西
お墓:源実朝・北条政子・高浜虚子・大佛次郎
なのですが~残念ながら境内は基本非公開です。たまに開催される歴史ウォークなどに参加すると入れるんだけどな。
さて。墓地は裏手へぐるりと迂回した場所にあるのだ。

ここは途中、崖をくり抜いた鎌倉駅方面の近道です。
さて、まず一番近い高浜虚子のお墓に到着です。

「高浜虚子ってさ~。『坂の上の雲』に出てた人だよ。確か正岡子規の近くにいた人のような~?」記憶が曖昧。NHKのドラマからもう何年も経つからな。
虚子の周りの小さな墓はお子さんかな?早逝したのかしら?
虚子のお墓はやぐらの中にあります。
次に向かったのは北条政子のお墓です。

一基だけポツンとあるんだよな。なんか寂しい感じだわ。なぜに北條一族のお墓の円覚寺の所に作ってないのか?や。政子的には源氏の父祖伝来の地に眠りたかったのか?つーか、源頼朝の墓が大蔵にあるのもな~。まあ、幕府が見下ろせる地に建てた?という事か??
そういや、政子さんってば、夫の頼朝に先立たれ、4人の子ども全てに先立たれてるんだよな…。尼将軍とか言われてるけど、幸せな女ではないよな~。
ちなみに、亀が坂切り通しから海蔵寺の道沿いには、岩舟地蔵堂があります。ここは頼朝と政子さんの長女大姫(婚約者の木曾義仲の嫡男、義高を父、頼朝に殺されて嘆き20歳で死亡)がここで野辺送りされた場所。
つらつらと他愛もない事が浮かんでは消えていく。
そして最後。源実朝くんのお墓です。

実朝くんのお墓も小さなやぐらに一基だけ。
源実朝くんは頼朝の四男でした。(政子の子としては第4子で次男)
兄頼家が追放されると12歳で征夷大将軍につく。
頼家の子、公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された。死没は建保7年1月27日(1219年2月13日)26歳
以降、鎌倉幕府は北条氏の執権政治となる。
う~む。色々無情だよな。
そういえば、実朝くんって、公暁に鶴岡八幡宮で殺害された時、公暁に首を取られてるんだよな。
ん~?実朝の首塚ってどこかで見たような…。伊勢原?や??秦野だっけ??

さて。次は鶴岡八幡宮です。や~。大イチョウが現在どうなってるか?確認しときたいんだよね。
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佐藤彦五郎夫妻の墓と井上源三郎の墓

2014年02月08日 05時58分53秒 | 墓所巡り
日野市は新選組所縁の地が多くあり、休日ともなると『新選組』ファンが市内各地を巡ってる訳ですが、ここで注意せねばならない事があります。
新選組の資料館の内 井上源三郎・佐藤彦五郎・土方歳三各資料館が開館するのは第一・第三日曜日限定だという事です。
個別に書き出しますと、井上源三郎資料館 開館時間12:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円

佐藤彦五郎資料館 開館時間11:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円
*トップ画像は佐藤彦五郎資料館です。日野宿本陣の裏手にあります。

土方歳三資料館 開館時間12:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円

ちなみに、市内に点在する新選組ゆかりの地で他に入館時間があるのは、
日野宿本陣 開館時間9:30-17:00(月曜休館) 入館料200円
新選組ふるさと歴史館 開館時間9:30-17:00(月曜休館) 入館料200円
高幡不動尊 新選組ゆかりの品を展示してある奥殿<月曜休館>開館時間9:00-17:00 入館料300円。と土方歳三の位牌を祀る大日堂 拝観時間9:00-16:00 拝観料200円
等がある。
散策を1日で全部巡りたい方は作戦を立てて下さい。なにしろ入館時間の関係のない、八坂神社・土方歳三の墓がある石田寺・井上源三郎の墓がある宝泉寺・佐藤彦五郎夫妻の墓がある大昌寺もコースに組み入れねばならんからして。散策はJRと多摩モノレールとミニバスを組み合わせるのが一般的。

さて。日野宿本陣を見学した後、佐藤彦五郎資料館のある道をかつての日野用水沿いに西へ。大昌寺さんに向かいます。

かつての桜の参道も現存してます。本殿で手を合わせた後、左手の墓地へ向かいます。

こちらが佐藤彦五郎さんと奥さん、土方歳三の姉のぶさん(前名とく)のお墓です。代々墓でした。
さすがにちょいと疲れたので、この後日野用水の途中に設置してあったベンチであられをつまみつつ長めの休憩を取りました。
次は井上源三郎の墓所。JR日野駅ほど近い、宝泉寺さんにあります。

こちらは井上源三郎之碑です。駐車場にあります。碑の後ろは里山。幟があるのですぐ分かりました。
ちなみに裏側は…。

根性で読んでみて下さい。ファンなら出来る!私は途中で挫折した。
そしていよいよ最後のお墓なんだか…。見つかるんか~~??
今まであちこちで墓所巡りしてて、たどり着けなかった事も多いので心配だったんだけどね。心配の必要は全くありませんでした!

ほらね。

到着です。

裏側です。
お墓は井上家の墓所の一角にあり、源三郎の墓の向かいに墓碑がありました。

これ、目を皿にして読みました!真ん中あたりにある誠願元忠居士 明治元年とあるのが井上源三郎のこと。注目するのはその左隣の泰岳宗保居士 昭和2年のほう。この方は、先日天然理心流奉納額でも登場した、井上松五郎氏の次男で、井上源三郎の甥っ子井上泰助くんの事です。
慶応3年(1967)に11歳で新選組に入隊。局長、近藤勇の刀持ちを勤めた。
井上源三郎が慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで戦死した後、源三郎の首を日野まで持ち帰ろうとしましたが、11歳にはあまりにも重く、仲間から諦めろと諭されて近くの寺院の境内に首と刀を埋めたそうです。それでもちゃんと日野にたどり着き、戦死の報告をしてます。昭和まで生きてたんですね。若くして死亡した隊士が多い中大変だったのでしょうねえ。
さて、11月14日の散歩はこれにて終了です。
日野駅に近い日野宿本陣と京王線高幡不動駅は何度か立ち寄ってるんですが、多摩モノレール万願寺駅近くの土方歳三所縁の地めぐりはなかなか行くチャンスがないんだよな。
いつかそのうち!って又同じ事をつぶやく私でした。
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天妙国寺

2014年01月30日 06時46分25秒 | 墓所巡り
旧品川宿文化財ウォークラリー、チェックポイント5つ目は、天妙国寺です。受付時刻は14時から15時半です。私が到着してのは、14時50分でした。

観光案内所でいただいたコピーによりますと、「鎌倉時代の弘安8年(1285)に、日蓮の直弟子・天目上人が開いたといわれています。創建以来、品川地域の有力者の保護を受け、寺域もかなり広くなりました。江戸時代には、日蓮宗日什門派の寺院で、塔頭が4院あり、江戸触頭三カ寺<妙国寺・本光寺(南品川4丁目)慶印寺(浅草)>の一つとして日什門派の寺院をまとめる大きな寺でした。現在の本堂は18世紀中頃に再建されたもので、今もどうどうとした佇まいを見せています。」だとか。
参拝をすませ、見所は…と見回すと、人だかりが。もちろん寄って行く。

ウォークラリーのスタップさんがいました。「説明お願いします~」
「はい。皆様集まって下さい。後ろにある石は、天妙国寺五重塔礎石(品川区指定文化財)です。
天妙国寺の五重塔は室町時代中頃に建立され、江戸時代初期の慶長19年(1614)秋に大風のために倒壊しました。寛永年間(1624-44)、徳川家光の命により再建されましたが、その後、元禄15年(1702)に四ッ谷塩町より出火した大火により焼失しました。
五重塔には、1本の心柱(塔の中心の柱)ち1本の柱があり、それぞれの柱は礎石と呼ばれる大きな石の上に建てられます。特に心柱を受ける礎石を心礎といいます。中央にくぼみのある石が当時の五重塔の柱の礎石です。3個のうち中央の花崗岩製の礎石が心礎と考えられます。
なおこの礎石は後世に写されていて、五重塔のあった性格な場所は不明です」
う~む。やはり石ならば残るのか…。

隆盛していた頃の天妙国寺の図絵です。

絵を解説したのがこちら。右手に「大猷院殿御建立□塔」とあります。大猷院は、家光の院号です。
「あの~、説明の下にある男性はどなたですか?」

「こちらは明治・大正時代の浪花節(浪曲)に名手、桃中軒雲右衛門の34歳の時の写真です。」
誰それ~??
なんかね。当時、レコードの普及と相まって大人気だったんだって。ま。な。まだテレビもラジオもなかった頃だしな。
WIKIによりますと、日本初のラジオ放送は、1925年(大正14)3月22日です。民間普及したのは昭和に入ってからだね。
「本堂の右手に墓所の入口があります。今日は文化財ウォークラリーの一環で、彼の墓が公開されています」
丁寧な解説ありがとう~。
ってな事で、早速墓所へ向かいます。
見つかるのか?という心配は、ウォークラリー参加者を発見して消えました。

こちらが桃中軒雲右衛門の墓です。すんごく立派!だってねえ。墓域がこれだよ?

どこのお殿様やねん。つーか、桃中軒雲右衛門さんのお墓単独でなく、一門のお墓も周りにあります。こんな感じです。
桃中軒雲右衛門さんは、明治6年(1873)10月25日に生まれ、大正5年(1916)11月7日に43歳で亡くなりました。
若いなあ…。
ウォークラリー遅れ気味なので、先を急がねば…。
ン?

何やらレトロ建築があります。

現役の病院でした。凄いや。
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板垣退助の墓

2014年01月28日 05時26分07秒 | 墓所巡り
品川神社の宝物殿に納められたお神輿を、ボランティアガイドさんの解説付きで拝見。BGMはちょっと変わったお神楽の生演奏です。もうね。これだけで旧品川宿文化財ウォークラリーに参加したかいがあります。
宝物殿の後は、手水舎で清めて参拝しました。

上の画像はピンボケで申し訳ないのですが、手水舎にあった板絵です。これよく出来てるんだよね。品川神社さんの所縁の徳川将軍家の葵の御紋。葵のお神輿。品川拍子の音曲。葵のお神輿の屋根に天下一嘗の面と、みるべきものが全部描かれてるのだ。

本殿に参拝。こちらにも葵の御紋がありますね。
さて、ここで品川神社さんの見物はおしまいなのですが、文化財ウォークラリーの最初に品川観光協会でいただいたコピーには、こんな境内図が挟まってたのだ。

ポイントは、見取図の左上にあるお墓です。
ン~???神社にお墓~~??何でやねんっ?
ともあれ、行ってみる。

右、板垣退助の墓。左、奥様の墓。

明治時代って、個人個人で墓なのね。今みたいに、一家に一つじゃないのね。
板垣退助って誰?という方にはこの言葉を言った人です。

この石碑をよく見ると、左に自由民主党総裁 佐藤栄作って書いてあるんだよね。
実は板垣退助夫妻のお墓がポツンとあるのではなく、周囲に一族のお墓もありました。

これ全部板垣さんち関連のお墓です。でもお花とか全然ないのな。所縁の人が近くにいないのかな?つーか、なぜに神社の境内にお墓があるのか?と思ったので聞いてみた。
そうなのね。ここにも歴史ボランティアガイドさんがいらっしゃって、ラリー参加者に蘊蓄を教えてくれるのだ。うわ~。いっつもこんなんだと歴史散歩も楽しいのに~。
さて疑問ですが、実はかつてこの場所はここから西へ300メートルにある東海寺さんの塔頭で、高源院さんの墓地でした。関東大震災のあと高源院さんが世田谷に移転した時に墓所だけここに残されたのだとか。う~む。それでも寺が移転したら墓所もなんとかするんじゃないか?と思うんだけど、そこまで詳しくは聞けなかったよ。まあ板垣退助といえばもう歴史の偉人扱いだからして、お墓も文化財扱いなのやもしれんが。
ちなみに、東海寺さんは沢庵和尚の寺です。文化財ラリーは11月9日に開催されたのですが、1週間前の11月3日は北鎌倉の円覚寺・建長寺の宝物風入れを見物してました。そこに沢庵和尚が寄贈した品々が沢山展示してありましたが、沢庵さんは品川にいた人だったのか~。つーか、なぜ私は沢庵さんを知ってるのだろう??たぶん小さい頃にどっかの誰かに教えられたと思うんだけど…。いや、悩んでる場合ではない。今回は旧品川宿文化財ウォークラリーに参加してるのです。チェックポイントの受付時刻に全部回らないとイカンのだ。時刻は既に14時過ぎ。先を急ぎましょう。

上の鳥居は品川神社にある鳥居の中で一番古いもので、慶安元年(1648)東海寺を建立した徳川家光の側近、堀田正盛寄進です。
堀田正盛は春日の局の義理の孫です。ちなみに主君家光の死の際に44歳で彼は殉死してます。墓所は品川神社さんの西側にあり、沢庵和尚のお寺・東海寺さん。
ちなみに、私のブログで以前堀田正盛さんが登場したのはこちらの記事>仙波東照宮の狛犬(2011年6月22日)の記事 川越歴史巡りをした時に立ち寄りました。

ついでにいつもの狛犬チェックです。品川神社には狛犬が何体もいてましたが、ここは私好みのを撮影して。
ウォークラリーコースは通りに第一京浜に沿って京急新馬場駅の交差点を左折して旧東海道へ戻ります。
ン~。でもこのコースだと、虚空蔵尊の出店は素通りしちゃうよな~。って、脇道をうっかりナナメに進んだら、迷った!!

あ。看板建築の長屋や!珍しい。パチリ。とか写してる場合じゃなかった!
あれ~~??出店に行き合ったので、取りあえず直進したらば…。ぬわんと!!品川神社に戻ってしまった!
何でや~~っ!!
慌てて道を修正。到着したのはかつての品川宿本陣跡です。
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長寿寺に足利尊氏の墓が

2013年11月16日 05時43分48秒 | 墓所巡り
鎌倉に、足利尊氏のお墓があるのをご存知ですか?
知ってはいたけど、なかなか訪問出来ませんでした。なぜなら、拝観に制限があるからです。

しばりは、季節・曜日・更には天候と、何気に大変。でも本日、明日ならば拝観可能です。場所は北鎌倉駅から徒歩。建長寺からほど近い長寿寺さん。

訪問日は、2013年11月3日です。この日は円覚寺の国宝・舎利殿並びに宝物風入れと、建長寺の宝物風入れがありました。何度も鎌倉を訪問してるわりに、一度も見た事なかったので、この機会に行って来ました。そのついでに長寿寺を訪れたのです。や。予定では、入間基地で航空祭だったんだけどね。風邪っぴきが今一よくならず。ダンナからダメ出しが出てしまいました~。ンでも鎌倉なら近いしって事で。マスク装着&防寒着着用で無理しない行程での訪問です。なので、本来なら円覚寺の紹介から記事を書くべきなのですが、長寿寺の拝観しばりがあるので、本日記事アップです。

長寿寺縁起:建長寺の塔頭寺院。
足利尊氏の邸跡に1336年(建武3年)に創建し、諸山第一位の列に定めた。
尊氏は1358年(延文3年)4月29日、54歳で京都において死去。
法名を京都では等持院殿。
関東においては長寿寺殿と称す。
尊氏没後、父の菩提を弔うため、第四子関東管領足利利基によって、七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。
境内裏山には、足利尊氏公の遺髪を埋葬したお墓がある。
という事で、トップ画像が尊氏のお墓です。ずいぶん小さいよな。あ。立て札があるのが尊氏のお墓です。
 
入山料300円を支払うと、順路に進みまずは本堂にて参拝です。
本堂でお参りした後は、書院・小方丈で座る。これ、どこでも出来そうで、出来るお寺は鎌倉ではここだけじゃないかな?建長寺とか、お庭を望みつつ、ベンチに腰掛ける事は出来るんだけど。時間が合うなら、外国人の観光コースに入れたら喜ぶかも?訪れた時も、嬉しそうに緋毛氈に座る西欧人を見かけました。

西欧人観光客が見ていたのはこの景色。彼等が立ち去った後、気になって同じ場所に座ってみたのだ。

長寿寺さんは、お庭も素敵です。モミジの木も多いので、訪問出来る時はぜひぜひ立ち寄ってみて下さい。損はないよ~~。
 
上記の2枚は、尊氏公のお墓周辺の画像です。観音堂裏にあります。忘れずに回ってみて下さい。

観音堂は、上の画像左奥に写ってます。この建物は奈良県の古刹忍辱山円成寺より、室町時代に建立された多宝塔を大正時代に改造移築したものです。
今年の拝観日は、12月第一週金・土日まで(12月1日まで)かな?
2013.12.2訂正:今年の公開は、12月6日(金曜)・7日(土曜)までだそうです。
拝観時間は、午前10時から午後3時まで。時間を繰り合わしてお出かけ下さい。
なぜこの地に墓があるのか?と言えば、長寿寺が経っている場所に、その昔この地に足利尊氏の館があったからだとか。いや。知らなかったんだけどね。
長寿寺さんの軒瓦は、○に二の足利の家紋です。
長寿寺訪問の後、建長寺の宝物風入れを観賞してたらば、長寿寺関連の書類があれこれあったのですよ。それがもう歴史上のビッグネームが目白押しで、さすがは建長寺!と歴史の長さにうなりました。
ちなみに、建長寺といえば、名物はけんちん汁。って事で、お昼はけんちんうどんをいただきました。

鎌倉は観光地価格です。そこそこ満足したけど、これで1200円は今どき高過ぎる…。
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桂昌院と清揚院の名前ばっかり~

2013年07月30日 05時26分51秒 | 墓所巡り
これを「墓所巡り」のカテゴリーに入れていいのか?それとも神社・仏閣?いやいややっぱ歴史散歩??と。随分迷ったのですが、本日紹介する石燈籠は、そもそも芝増上寺の徳川将軍家の墓所に奉納された石燈籠だったという由来から、「墓所巡り」に分類してみました。
そもそも、芝増上寺にあったハズの石燈籠が、埼玉県所沢市の狭山不動尊にある訳は昨日の記事で確認していただくとして、今日は石燈籠の見方をまず書きますね。
まずはトップ画像右端、ここに「増上寺」の文字が確認出来ますか?
この位置に石燈籠が奉納されたお寺の名前が入ります。
中央「桂昌院殿 尊前」の文字。
これが奉納する墓所のあるじの名前です。戒名が入ります。桂昌院の場合、生きてる時から桂昌院の名前を使用していたので、名前に馴染みがありますが、墓所巡りの場合、「徳川なにがし」とかの名前で探しても絶対見つからないので、事前に探す人のおくり名(法名)を調べた上で探さねばなりません。
続いて、日時。これは石燈籠を奉納した日が刻まれています。
「宝永二年(干支が入ります)六月二十二日」とあるのは、西暦1705年のこと。桂昌院は、宝永2年6月に病没してるので、この石燈籠は桂昌院が亡くなってすぐに献納されたと思われます。
最後、左端。ここに石燈籠を奉納した人物の冠位と名前が入ります。
小さく刻んであって、一番確認しづらいのもこの部分。この場合「従四位下侍従兼…~~大概ここに○○の守とか知行場所が入ります。ん「佐倉」とあるのは読めるけど…。その後、最後に奉納者の名前が入ります。
~~~~現場でもっと保存状態のいいのを探せばよかったぜ。
ギブアップです。旧字体で刻まれてるのは確実なんだけどな~。よ~め~な~い~~っ。
撮影した石燈籠は丁字門近く、本堂裏のもの。
あ!
桂昌院が誰か書くまでもないか…。でも念のため、桂昌院は徳川家光の側室にして、5代将軍徳川綱吉の生母です。夫である家光が亡くなった時に落飾し、お玉の方から桂昌院になりました。
ちなみに、一説によると、西武グループが徳川将軍家墓所跡にホテルを建設する時、1万基の石燈籠が放置されてたとか。んで、「欲しいお寺手を挙げて」と希望者に配りまくったそうなので、関東の仏閣を散策してると、あちこちに元増上寺の石燈籠があるのですね。
変だと思ったんだ~。今までにあちこちにあるから、「何でだってばよっ!?」って。ずっと疑問だったのだ。
ちなみに、狭山不動尊には当然一杯ある!

ちなみに、本堂周辺はぐるりと石燈籠が置いてあります。意味ないよな。
あ。
本堂右手にある青銅の宝塔。

上の画像右手前のね。これは桂昌院の宝塔です。
たくさん石燈籠があるので、名前を確認して歩いていると、桂昌院以外の名前が刻まれてました。

読めます?
右から「増上寺」
中央「清揚院殿 尊前」
清揚院とは、徳川家光の三男、徳川綱重の事です。
5代将軍徳川綱吉の兄であり、6代将軍・徳川家宣の父でもあります。
綱重には縁があるなあ…。
綱重の母は側室お夏の方(順性院)。綱重を懐妊した時、父の家光は厄年でした。災厄を避けるために姉の天樹院(千姫=流転の生涯を送った千姫は、豊臣秀頼の妻であり、姫路城の城主の妻でもありました)にお願いしたの。
んで、天樹院は当時江戸城の竹橋近くに住んでまして、お夏はここで出産したのだ。
既出記事に、千姫とお夏の方の墓地を訪問した話もありますので、興味がある方はぜひ記事を見て下さいね。豊臣秀頼の妻・千姫のお墓(2012年3月20日)の記事  こちらに千姫のお墓の画像があります。
さてそれたので元に戻ります。
清揚院と刻んである左手には「寛永7庚寅年9月14日」とあるのは、1630年のこと。
ってアレ??寛永年間って…。
寛永7年に綱重は生まれてませんでした。
「寛」じゃなくてコレ「寶」ですかね?なら宝永7年だから1710年です。
え~と…。徳川綱重が死んだのは、延宝6年9月14日だから1678年のこと。
あ。命日が同じだから、これ追善法要の時に奉納された石燈籠ですね。しかも33回忌の折り。誰が奉納したか気になるなあ…。
そんで左端にある誰が奉納したか?ですが、これは…。判別は全く出来ませんでした!撮影の角度がイカンかった模様。反省。次回から撮影する時に気をつけよう。
あ。疲れた。も限界なので、続きは明日の記事で。
ちなみに、オークラホテルの庭に残る、旧井伊家江戸屋敷の庭の石燈籠は…。
近江彦根藩井伊家屋敷跡(2012年9月2日)の記事 こちらに井伊家の殿が、徳川家光に献納した石燈籠の画像があります。家光の墓所は、ご存知のように日光にありますが、日光の前に一旦寛永寺に葬られていた事があるので、その隙間に献納されたのかな?
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岩崎家廟

2013年01月14日 06時01分18秒 | 墓所巡り
旧小坂家住宅の瀬田四丁目広場から静嘉堂文庫へ移動。
ですが~、これが場所がなかなかなかなかわかんない。それもこれも高低差のせい!旧小坂家住宅は国分寺崖線の縁に沿ってあるので、敷地の中は斜面が半分。なので敷地の外に出ても坂があります。んでも地図では高低差がよくわからない。目指す静嘉堂文庫へはどないしていけばいいのだろうか?
そこへやってきた男子高校生。ここはひとつ道を聞いてみよう。
ってな事で無事に静嘉堂文庫の正門に到着です。

なにげに綺麗な紅葉が私を招いてます。(気のせい)
あまりの晴天に明暗がくっきりとなってしまったので、振り返ってもう一枚。

道の奥へ進むと、また出た!高低差っ!!マジか~。

しょうことなしに道に沿って坂を上ります。

発見した見取図。これって…。まさかせんでもこの丘全体が岩崎家の私有地なんかいっ!!金持ちって嫌いだっ!!つーか、金持ちは自分の足で坂なんか上らないのよ~~。ぼやいてばっかりですが、まずは見取図にある岩崎家の廟へ向かいます。
トップ画像が廟の建物です。
廟の前には左右に狛犬。

中央には青銅の鼎。

青銅には有名人の名前が多数刻まれてました。が、撮影忘れた~。やっぱ岩崎家の廟だもんな。錚々たるメンツです。
さて、何度の出て来る岩崎家。まさか解説いらないと思ったけど、一応軽く説明しますと…。
「静嘉堂文庫は、岩崎弥之助(1851-1908 弥太郎の弟、三菱第二代社長)と岩崎小弥太(1879-1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の小典籍(漢籍12万冊、和書8万冊)と6500点の東洋古美術品を所蔵しています。」
つまり岩崎家というのは、三菱財閥を作った家系なのですね。明治期の西欧文化崇拝の時代に、軽視されていた日本の文化財を収集した弥之助は偉いっ!!
さてトップ画像の説明に戻ります。
岩崎家廟は、納骨堂です。この廟は明治の巨匠、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計により、明治43年(1910)に建てられました。
鹿鳴館の設計で知られるコンドルは、岩崎弥之助の深川邸洋館(現・清澄公園内、現存しない)や高輪邸(現・関東閣)、三菱一号館(2009年復元)など、岩崎家ゆかりの建物も数多く手がけてます。
廟は現在も墓所として使用されているので、本日の記事のカテゴリーは『墓所巡り』に分類しました。
墓所は丘の尾根にあって、尾根には参道もあります。つーか、そもそもそっちから丘を上がればよかったのですが、正門を突き当たった時、右折して丘を上っちゃったのが敗因。あれを左折すればよかったのですが、高級自動車が停車中でそっち側に道があるのを気づかなかったのだ。
だからしてそっち側も見に行ったの。

立派な青銅製の燈籠がありました。見頃の紅葉も素敵です。
さて、廟所を見学した後は、静嘉堂文庫の建物に戻ります。

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大倉喜八郎と山縣有朋の墓

2012年08月18日 05時27分16秒 | 墓所巡り
探す探す探す~~~っ!!
護国寺には有名人のお墓が一杯あるハズなのに。なかなか確定出来ません。本当に墓所巡りは初見だと大変です。マジに有識者が欲しい。
護国寺の広い墓所を右往左往して、特定出来たのは大倉喜八郎のお墓です。やはり立派です。
トップ画像にお墓の左側が大倉喜八郎のもの。右側が夫人のもの。
墓所には、他の一族の皆さんのお墓もあります。こちらも入口には施錠がなられており、これ以上近づけません。
WIKIによると大倉喜八郎さんとは「天保8年9月24日生まれ。昭和3年死去。日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。とあります。戊辰戦争・台湾出兵・日清・日露と戦争軍需によって大もうけしたことから死の商人、政商と呼ばれた。
晩年は公共事業や教育事業におしみなく私財を投じた。澁澤栄一らと共に、鹿鳴館・帝国ホテル・帝国劇場などを設立した。凄い人だったのですね。
山縣有朋の墓
WIKIによると山縣有朋は天保9年閏4月22日(1838)生まれ。大正11年(1922)死去。
長州藩士・陸軍軍人・政治家。階級は元帥陸軍大将。爵位は公爵。内務大臣。内閣総理大臣。枢密院議長。陸軍第一司令官。陸軍参謀総長。
凄いですね。私的には「坂の上の雲」で江守徹さんが演じてた人で、作庭が趣味だった人というイメージが強いです。小田原の古稀庵とか椿山荘の庭が有名。
古稀庵は以前訪問したことがある~。小田原古稀庵庭園(2011年11月16日)の記事こちらは日曜日に公開されています。
椿山荘はこのあと訪問するので、後日公開しますね。
ちなみに、大倉喜八郎と山縣有朋の墓は隣接してます。画像ではわかりませんが、どちらも敷地の周囲は柵が巡らせてあって、外から覗く形になりますので、今流行りの墓参ら~(ハカマイラー)ならば、ここで双眼鏡を取り出すレベルです。私はコンパクトカメラを最大望遠にして墓石に刻んだ文字を読み取りました。大変だった!

と。まだまだ有名人のお墓は一杯あるけれど、見つからない。
せめてジョサイア・コンドルの墓は見つけたかったけど。梶原一騎も差が見たかったけど。まあ、墓所巡りはこだわらないのが良いのです。
護国寺では東側でお葬式の最中だったので、この辺りで次へ向かいます。
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三条実美と山田顕義の墓

2012年08月17日 05時51分38秒 | 墓所巡り
大隈重信の墓は護国寺の本堂に右手に分かり易くあったけど…。
次は誰だ??
よくわからない~。●●家の墓と墓石に書いてあれば推察出来るのだけど、昔の墓石って法名を刻んであることも多く、そうなるとまず法名を知らないと探しようがないんだね。
う~む。仰々しい墓があるから、それなりな方のお墓のハズ。手がかりは石碑の碑文か?

読んでみる。『故内大臣…元帥陸軍…明治中興…藤原三条氏曽祖右大臣従一位…』。
名前が出て来ない。でもこれ…。
三条実美じゃないかな~?
三条実美はどういう人かと言うと。WIKIで調べた。「天保8年2月7日(1837年3月13日)生まれ。明治24年(1891)死去。日本の公卿。政治家。位階は正一位。爵位は公爵」とあります。「右大臣・太政大臣・内大臣・内閣総理大臣兼任、貴族院議員を歴任。明治政府の最高首脳人物の一人」だそうで。「長州と密接な関係があったようです。国葬を持って送られた。」だそうで。
………。あんまり知らない~。つーか、「新選組」と「坂の上の雲」と「仁-JIN-」どれにも出て来なかったよな~??
せめて墓石が読めたらと思うんだけど、墓所は鍵がかかっていて近づけない。

う~む。念のため、柵の家紋を撮影して次へ。

墓所巡りのコツは、こだわらないこと~。案内してくれる詳しい人がいればいベストですが、そうそう物知り博士はいないんである。
次に見つけたのはこれ。
山田顕義の墓
なぜに山田顕義だと特定出来たかというと、墓所の前にそう書いてあったから。
山田顕義をwikiで検索。「天保15年10月9日(1844)生まれ。明治25年(1892)死去。長州藩士。政治家。陸軍軍人。明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに新日本の建立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした」だそうです。あと、日本大学・国学院大学の創設者でもあります。
そういえば、世田谷の吉田松陰神社にも山田顕義の名前があったような…。松下村塾の塾生出身なのですね。
ん?なんか変わった形のお墓が…。
故権典侍正五位橋太夏子とあります。
お墓のこの形って、皇室に近いお墓だよね。そういえば、護国寺の東側って、皇室関係の墓域になってるんだった。何か関係あるのかな?
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大隈重信と大山倍達の墓

2012年08月16日 05時13分47秒 | 墓所巡り
護国寺には有名人が多数眠っている。
三条実美(明治の政治家)
大隈重信(佐賀藩出身。明治の政治家・早稲田大学創設者)
山縣有朋(長州出身。明治の政治家&軍人)
山田顕義(明治の政治家・日本大学&国学院大学創立)
大倉喜八郎(明治・大正期の実業家。大倉財閥設立者)
團伊玖磨(作曲家)
益田孝(益田鈍翁)<三井物産設立者。日本経済新聞の前身中外物価新報創刊者>
ジョサイア・コンドル(建築家)
梶原一騎(小説家&漫画原作者)
大山倍達(空手家)
團伊玖磨(作曲家)
野間清治(講談社初代社長)
そうそうたる面々です。
彼等のお墓が、護国寺本堂の右手から背後にあるのはわかっていたんだけど、場所がわからない。
つーか、大概の寺院では、どこに誰が眠っているか?なんて書いてありません。そこは根性と運で探すほかありません。
では早速…。
まず建っていたのは石碑です。
報国六烈士碑棋聖宗印之碑
そして何やら…。大層な鳥居付きのお墓発見。
大隈重信の墓でした。
なぜに大隈重信のお墓と特定したか?といえば、鳥居に早稲田大学と刻んであったから!!
これがないとわからなかったかも?何しろ、墓所は鍵が閉めてあって近づけないんだもん。
あ。トップ画像が鳥居付きの大隈重信のお墓です。
次に見つけたのは…。
大山倍達のお墓
子ども時代、日曜の朝はテレビ朝日系列では梶原一騎のアニメを放映してました。
記憶にあるのは「徳川家康」「空手バカ一代」です。そんで空手バカ一代って、大山倍達の人生アニメでした。

極真カラテって、あちこちに道場がありますよね。K-1の選手も極真空手の人多いし。昔からアニメってあったから、随分前の人だろうと思っていたけど、永眠されたのは、1994年のことでした。1994年って平成じゃん~。まさか護国寺にお墓があるとは…。分かり易いお墓だったのですぐに発見出来た。こういうのは珍しいです。
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先月、たまたまNHKにテレビのチャンネルを合わせてたら、ラジオ体操をやってたので、自分もしてみたら、ラジオ体操が出来なかった!とぼやいてたの覚えてる方います?
鎌倉へ蓮見に(2012年7月22日)の記事 この記事に惨憺たるラジオ体操の様子を愚痴ってます。
私はあれから、朝NHK Eテレで朝6時25分から放送中のテレビ体操を録画して閑な時にラジオ体操をやったりしてます。それと平行して、NHKにラジオ体操のピアノ楽譜送付を希望してたのです。
ご存知です?ラジオ体操のあの耳慣れた音を作曲したのって結構はビッグネームなんですよ。
ラジオ体操第一の作曲は、服部正氏
ラジオ体操第二の作曲は、團伊玖磨氏
なのです。
團伊玖磨といえば、オペラや交響曲の作曲など堅い曲ばっかり書いてる人だと思ってたのですが…。まさか、国民皆がこの曲を聞けば踊れるというラジオ体操第二の作曲家だったとは!知りませんでしたっ!!
ちなみに、團伊玖磨のお墓も護国寺にあるのですよ。(発見出来なかったけどっ)
ラジオ体操のピアノ楽譜はねっ、思いがけない程難解でしたよっ。なんつーか、和音だらけっ。その上五線譜の上にはみ出る音のオンパレードっ。初見で鍵盤のどこに指を落とせばいいかわからないっちゅーねんっ。さすが御大っ!!ラジオ体操ごときに技を駆使し過ぎっ。
コメント (2)
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護国寺と桂昌院

2012年08月14日 05時21分47秒 | 墓所巡り
トップ画像は護国寺の本堂です。
護国寺とは…天和元年(1681)2月7日、徳川綱吉の母、桂昌院の願いをうけ建立。本尊は桂昌院の念持仏の琥珀如意輪観音(絶対秘仏)。山号は神齢山悉地院護国寺、寺領300石。翌2年、堂宇が完成。
元禄7年10月、綱吉公と桂昌院が共に護国寺に参詣し、寺領を加増。600石となる。
元禄10年正月(1696)観音堂を新営の命があり、半年の工事を経て8月落慶供養。これが現在の本堂(観音堂)です。元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下随一のものです。







以来、綱吉公と桂昌院はしばしば参詣し、護国寺界隈は隆盛。寺領も1200石に加増。境内には様々な建造物が立ち並ぶ大殿字となった。
宝永4年(1707)、寺領は1500石へ。上野寛永寺と並び称される巨刹となったが、享保2年正月(1717)火災で焼失。
明治16年・大正15年の火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)はそのまま。
鐘楼(付梵鐘)
鐘楼形式の中では、格式の高い袴腰重層入母屋造りの形式で、江戸時代中期の建立です。
袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げです。この鐘楼は、天保7年(1836)刊行の「江戸名所図絵』に描かれており、天保年間には存在していたそうです。
説明板発見:鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもの。
銘文には、綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が将軍家の祈願寺として、幕府のあつい庇護を得ていたことを示す貴重な歴史史料である。

最近、石灯籠にも興味があって、あちこちで見て回ってますが、護国寺には西国の石燈籠が何基も並べてあります。
江戸は世界に誇る庭園都市でした。大名は競って屋敷に庭を作りました。そして庭のアクセントになる石燈籠は人気だったんですよね。東京都内には今でも数多くの庭が点在しています。これらの大部分はかつては大名の上屋敷だったり中屋敷だったり下屋敷の一部名残りです。日本庭園には石燈籠がつきもの。ってなことで、石燈籠にも関心が高くなってきた。
画像をとり忘れたんですけど、上の画像は石燈籠の一部です。これを見て、出典の寺院の名前がわかる人は凄いです。

さて、桂昌院って誰ぞや?について少し書いておきますね。
桂昌院は寛永4年(1627)ー宝永2年(1705)の人。江戸幕府3代将軍徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母です。名前は玉。
彼女は京都の大徳寺の近くで生まれました。詳しい事は不明ですが、西陣織屋の娘・もしくは畳屋の娘。更には大根売りの娘などという記述が残ってます。ま、つまり正確にはわからない。この時代の女性は身分の高い男性との間に子どもをもうけて立身出世というのは多々ありました。お玉さんもこれに当たります。
お玉さんは寛永16年(1639)に御小姓として家光の側室お万の方に仕えました。その際、春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となり、正保3年(1646)に綱吉を産みました。
綱吉は家光の4男です。
余談ですが、今でも残る”玉の輿”という言葉は、お玉さんこと桂昌院のことというのが通説です。
京都の今宮神社というのがありまして、この神社は大徳寺に隣接してあります。門前の店の名物が「あぶり餅」。これは玉のような餅を食べ、玉(桂昌院)にあやかろ、という言い伝えがあるそうです。大学時代、今宮神社&大徳寺の近くに住んでまして、あぶり餅は何度も食べましたが、そんな言い伝えがあったとは知りませんでした!へえ~へえ~へえ~!!
次いでなので家光の奥さんと子どもについて少し解説。
家光の正室は鷹司孝子(本理院)…子どもなし ちなみに彼女のお墓の記事はこちら。 徳川家光の奥さんの墓(2012年3月21日)の記事
家光の側室振(自証院)…長女:千代姫 ちなみに彼女の霊廟の記事はこちら。 こんな所にも寛永寺の灯籠が(2011年5月18日)の記事
家光の側室楽(宝樹院)長男、徳川家綱<4代将軍>
家光の側室まさ…次男、亀松(早世) ちなみに、亀松のお墓も伝通院にあります。鷹司孝子の墓の記事に合わせて画像があります。
家光の側室夏(順性院)三男、徳川綱重<甲府藩主>
ちなみに、徳川綱重の下屋敷は根津権現にありました。根津権現(2009年11月16日)の記事 根津権現には綱重の息子・6代将軍徳川家宣が産まれた時の胎盤を埋めた場所が残っています。
家光の側室玉(桂昌院)四男、徳川綱吉<5代将軍>
ちなみに、桂昌院のお墓は芝増上寺にありました。お江と秀忠の墓(2012年3月1日)の記事。 こちらの記事の中に、戦災で焼失する前の増上寺御霊屋の見取図が掲載してあります。これにかつての桂昌院の宝塔の位置が確認出来ます)
家光の側室里佐(定光院)…五男、徳川鶴松(早世)
家光の側室万(永光院)
家光の側室琴(芳心院)
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皆様、今日早朝に発生した金星食見られましたか?
神奈川の空は…雨でした!!
頑張って起きたのですが…。外からは不吉な音か…。
雨かよっ!!
今回みたいに夜間に金星食って久々なのに…。なぜに久々の雨と金星食の発生時間が重なりやがりますか…。
諦め悪く待ってたら、雨が降ってるのに茜色の空になった!なかなかに珍しい現象で驚きました。道路は雨で濡れてるし、向かいのビルの屋上も濡れてて、茜色が反射して美しい~~。
これはこれで儲けた!気がする…。早速携帯カメラを取り出して撮影したのですが…。目で見えてるのになかなか再現出来ないんですね。色が違う~~。
ンな訳はない!とコンデジを取り出してみたのですが…。
やっぱり色が違う。こんなに明るくないっ。つーか微妙な色が。ファンタジーの空が映らない~~。
がっかり…。なので心の眼に焼き付けました。
次の夜に見える金星食は51年後か…。生きてるかしら?
コメント (1)
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