goo blog サービス終了のお知らせ 

あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

池上本門寺で墓所巡り

2012年02月20日 05時26分21秒 | 墓所巡り
池上本門寺の墓所は少し変わっている。大概のお寺で墓所は仏殿の裏とか裏山とか「裏手」に隠すように固まってあるのが普通なんだけど、ここは墓所が主役!といわんばかりにあっちにもこっちにも墓石が立ち並ぶ。そして墓石が古いのは江戸の初期のもの。新しいのだと昨日作ったんだよね?とピカピカの墓石が混在しているのだ。ちょっとナイ感じだよ。
さて、まずはトップ画像のお墓より紹介。
前田利家室の層塔
うまい具合に説明板がある。「この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和8年(1622)に、自身の逆修供養のために建てた11層の層塔である。このことは当寺15世日樹の銘文でわかる。
寿福院は、三代加賀藩主、利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。(徳川秀忠の御代ですね。時代から察するに幕藩体制を固めようとする頃ですから、ありがちなことです。もう少し突っ込んで調べたら、寿福院の湖、前田利常の奥さんは、徳川秀忠とお江の次女珠姫(天徳院)でした。ということは、徳川と近い縁戚にあったんですね。ならもう徳川の世にあって勝ち組じゃん。だって、秀忠の娘に「お義母上」と呼ばれていたハズですから。ちなみに寿福院は寛永8年(1631)死去。)
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋のそり具合からみて様式的に古い形を示し、注目される。
なお天保4年(1833)の修復銘もある。『大田区教育委員会』」
左の墓は、前出の前田利家の室の層塔の左手にあったもの。
仔細は分かりませんが、同時期のものじゃないかな~?もしかしたら、前田利常が建てたやつか?

こちらの墓所は、墓所の前にあった木の根が、石を持ち上げてしまったのですね。この場合修復するとしたら誰…どこだろうか?東京都?大田区?それとも本門寺か??墓石の形から推察するに、このお墓は随分古そうです。普通なら墓の修復は子孫の役目です。でもこのお墓はどうみても江戸時代の古さは充分の風格。もし子孫が絶えてしまってたら、放置?それとも取り壊し?青山霊園なんかは更地に戻して再び販売してますが。何げに考えさせられるなあ~。

………。この画像がどこの誰の墓を写した奴だかわからない。確かぁ~?前田家浩妙院の墓を探しててこれじゃないかな~?と写したんだけどな。それっぽいお墓が多すぎて、名札がないととてもじゃないけど特定出来ない。しかもっ!!墓地の隙間を埋めるように墓がどんどん建ててあるから、古い墓には近づくのも大変。どっからどう行けば目的の墓石に近づけるんだろう~。
んで、墓地をぐるぐる回る回ってたら、足下の確認がおろそかになってしまい、階段を踏み外して転けてしまいました。なぜに墓地の中に石段があるのかっ!!ほんの数段だったんだけどね。同行のあっこさんを驚かせちゃったよ。
そんなこんなでお墓の前でうなっていると、年配のご隠居が声をかけて来た。
「あんたら、お墓を探してるんかね?」
「ハイ(即答)。地図に書いてあるお墓がどれがどれだか特定出来なくて~」
「そりゃあ、知ってる人と行かないと無理だよ。来なさい」
と。この方、すんごく物知りで、絶対お墓の観光ガイドやってたでしょう!!という。
もうね、墓の特定からお墓に葬られた人の特定はもちろん、その人がどこの誰で、誰の奥さんとなって誰を生んだ人かスラスラと教えて下さりました。
大概女性が多かった。つまり江戸期、藩主の妻や側室は江戸で没するのが普通だったんですね。だから墓も江戸に作った。生地はそれぞれであっても、死地は江戸。気軽に里帰りなんか出来なかったんですね。徳川の人質ですから。でもこれはたとえ将軍の生母であっても同じこと。

これは紀州家の本徳院のお墓。生前はおこんさんと呼ばれてた方。

んでこっちは紀州家深徳院の墓。生前はおすまさん。
確かね、二人は姉妹で、どっちかが徳川9代将軍家重の母だったと…。(WIKIで調べた。深徳院が家重の母でした。ちなみに徳川家重の墓は増上寺にあります)ってことは暴れん坊将軍の側室ってこと?
今では宝塔造りの墓部分しか現存してませんが、かつては周囲を塀で囲った廟があったようです。基礎の石組みは現存してます。かつては入り口に観音開きの木扉があったようです。その痕跡が地面に残る石に刻まれてました。
讃岐松平家の永昌院の墓。
そう紀伊徳川家の二人の墓もかつては周囲にこういうのあったのかも?ここは子孫が手入れしてるようですね。だって画像に真新しく<松平家>と刻まれた石塔があるものね。お墓に石碑が建ってます。

読んでみる。
『永昌院殿妙壽日量大禅尼 天明5年10月26日没(西暦1785)
四国讃岐守六代高松藩主 松平頼真卿正室 紀州大納言徳川宗直卿息女薫姫』
石碑に西暦が刻まれてるので、これを建てたのは近年かも?
明日もまだ墓所巡り   歴史 ブログランキングへ
3月18日に同人誌即売会、HARU・C・CITYに参加します。
会場:東京ビッグサイト東1-6ホール・西1-4ホールの全館開催
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふ-35a 
開催時間:10:00-15:00 です。
申し込みが遅く、受付番号は9000番台だったから、てっきり「満了に付きごめんなさい」かと思ってたらスペース取れてました。おそらく参加サークルの総数は10000サークルを上回ってるんじゃないかな~??
でも~~。よりによって創作サークルは西ホール2階に配置。こんなん人来ないぜっ。と既にぼやいてます。
でも当日は楽しく過ごしたいですね。イベント会場でしか会えない方もいますしね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野陵って?

2012年01月26日 05時08分44秒 | 墓所巡り
武蔵野陵の名前は聞いた事あったけど、場所はいま一つ分からなかったんだよねえ。
場所はここ。JR中央線高尾駅から徒歩数分。秋と言えば高尾山が一番賑わうのですが、起点となる高尾駅で途中下車してついでに武蔵野陵の参拝することも出来ます。

まず御陵の総門を入ると、参道両側にキタヤマ杉の並木が300メートル程続いています。
参道をまっすぐに抜けると、一つ目の陵が見えてくる。
それがこれ。多摩陵です。
お墓には大正天皇が葬られています。この画像だけじゃちょっとわかり辛いですね。
お墓の形はこんなです。上円下方形なんですね。
大正天皇にならんであるのは大正天皇の奥さん、貞明皇后さま。
女性のお墓の方が小型です。多摩東陵って名前がついてます。
位置関係はこんな感じ。

画像左手が大正天皇、右手は貞明皇后。両陛下に参拝…違った。手を合わせて次へ。
次の陵は大正天皇両陛下とは区画が違うんですよ。

…似た様な陵の形です。大正天皇のものと比べると、こちらの方が小ぶりです。
こちらは昭和天皇のお墓です。これが武蔵野陵なんですね。
隣にあるのはもちろん香淳皇后の陵です。武蔵野東陵といいます。
位置関係はこんな感じ。

武蔵野陵の中には日本庭園もあります。ここのモミジは既に色づき初めてました。

まだ時間が早い。せっかくなんで武蔵野陵に隣接して、多摩森林学園があります。調べてないけど、森林公園って言うくらいだから、何か紅葉してるだろうと、気軽に向かったんですが、これが山有り谷ありの里山ハイキングだとはこの時知るよしもなく…。

武蔵野陵の敷地沿いに移動していたら、こんな看板を発見!   歴史 ブログランキングへ
え~と、この場合侵入者を阻むのはのこぎり形の塀か?それともまむしか??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早川口遺構と大久保一族の墓

2011年11月14日 05時43分58秒 | 墓所巡り
次に目指すは箱根板橋の古稀庵の庭なんですが、移動途中にもあれこれあったんで紹介しますね。
つーか、その前に腹ごしらえだ。さっきの山角天神社のベンチに腰掛けて、いつものアンパンとお茶で一息。いや~、9月に入ったら散歩もしやすくなるかと思いましたが、暑いです~。もう体力がだいぶん目減りしてるんですけど…。
さて。地図を片手に次なる場所は。
人車鉄道 小田原駅跡。
…往時を偲ぶものはこれだけ~。石碑を撮影してて気づいた!
歩道橋に道路の行き先案内板がかかってます。そういや、コレ国道1号線だったわ。

次、次々。もう30度を超えてるピーカンの炎天下、そんなに元気に歩けるか~~っ!!
ぼやきが入り始めました。早っ!!
到着したのは「早川口遺構」です。小田原城の現存する数少ない総構えの一部です。
それって、明治の邸宅巡りと関係ないんじゃないの?と思われましたか。
そんなことないんですよ。この場所はかつては因藤成光の旧邸でして一時期庭園として使われていたのです。小田原城の豪快な土塁や堀を上り下りして体感出来ます。

ちょっと規模が大きすぎて画像ではなんだかよくわからない感じになってしまいましたが、トップ画像も早川口遺構を選びました。画像右手が土塁。左手が空堀です。
説明板発見…。「小田原城は、戦国時代に後北条氏の本城として関東支配の拠点であり、政治•経済•文化の中心を担っていました。
小田原城は、永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)には武田信玄に攻め込まれましたが、三代氏康は籠城戦により退けました。これ以降、小田原城では相次いで改修工事が進められ、天正15年(1587)なでには丘陵部を取り込んだ三の丸外郭を造営したと考えられます。
さらに、天正18年(1590)、全国統一を進める豊臣秀吉との戦い(小田原合戦)の際しては、城下をも取り込んだ土塁と堀からなる周囲訳キロメートルに及ぶ「総構え」を造営し、小田原城の強化を図りました。
この早川口遺構は、小田原城総構の南西に位置する虎口(城の出入り口)で、その遺構は、二重戸張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっています。この場所は明治時代以降に屋敷の庭園として少なからぬ改変を受けており、本来の遺構の姿を留めておりませんが、外側の高さ2、8メートル程の土塁や堀状の窪地などは当時の遺構の姿が残されたものといえます」だそうで。
………。かつて土塁だったと思われる場所のてっぺんに登り、かつて堀だったと思われる場所に降りてみた。
…なにげに楽しい。でも土塁と堀を堪能したければやはり冬にこないと!草に埋もれて状態がわからん。

続いてサクサク移動です。
陸橋の下をくぐってると、変わった貼板を発見!

この上は東海道本線が通っているのです。

陸橋を抜けると南側に大久寺があります。こちらは大久保一族のお墓があるそうなので、見学に。
あれ?東海道本線になぜに小田急のロマンスカーが走ってるんじゃ??
地図で確認。すると、JRに隣接して箱根登山鉄道が通ってました。画像のロマンスカーは小田急の相互乗り入れで箱根湯本まで行くやつですね。
 
説明板発見「大久寺…大久寺は宝聚山随心院と号法華宗8現在は日蓮宗)の寺で、小田原大久保の初代七郎を開基とする寺である。
天正18年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後論行賞によって小田原城4万5千石が与えられた。この時忠世は日頃から帰依していた僧自得院日英を二俣から招請し、しばらくは石垣山三の丸(古称聖人屋敷)に仮住いでいた。そして忠世が開基となって寺の建設をすすめ、翌天正19年堂字が完成すると、日英を開山とする大久保家の菩提寺とした。
慶長19年(1614)二代相模守忠隣の時、大久保家が改易になると寺も衰退したので、寛永10年(1633)石川主殿頭忠総(忠隣二男、石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷に移した。その後、大久保新八郎康任が石塔、位牌を戻して大久寺がこの地に再建された。
墓石は、正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勘三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これらは前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。
大久保氏の墓所は、法華宗陣門流の大本山京都の本禅寺、愛知県岡崎市の長福寺、東京青山の敬学院にもある。」ですって!
このお墓って、小田原城の城主の一族のものなんですね。
以前、JR小田原駅近くにある北条氏政、氏照の墓所北条早雲像(2010年4月30日)の記事こちらに北条氏政、氏照の墓所の画像があります。
や入生田駅近くの稲葉一族の墓所にも訪れたことがあります。これらの墓所も小田原城主のお墓でした。なんだか不思議~~。
ちなみに、稲葉一族は、今年のNHKの大河「江」でも出てくる徳川三代将軍、徳川家光の乳母を務めた春日局の一族でうす。入生田の長興山紹太寺には春日局のお墓もあります。
さて次だっ!!
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり青山霊園

2011年04月03日 04時18分36秒 | 墓所巡り
地図ではわからないもの~。それは傾斜~。
青山霊園は緩やかに傾斜する場所に広がっています。
国立新美術館から徒歩で青山霊園に移動。『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』にぶらり、日露戦争の英雄たちの菩提を弔う!というのがあったので寄道です。
頼りは本にあるお墓の番地だけ。でもこれがあまり頼りになりません。同じ番地にお墓がいくつもあるんですよ。
まずは南へ。
トップ画像はNHKのドラマ「坂の上の雲」第2部で壮絶な最後を遂げた藤本隆宏さん演じる広瀬中佐のお墓です。ここにあったんですね。到着時間は既に正午を回って12時2分。
場所は1種イー21-9。分かりやすい場所にありました。

続いて常陸丸殉難近衛後備隊将士の墓。所在は1種イ22-1。
大きめなのでわかりやすいです。
そして絶対ハズせないと思っていた秋山好古さんのお墓は、だいぶ真剣に探したのですが辿りつけませんでした。青山霊園の南端近くだった。所在は1種イ19-2です。
本物の秋山好古氏がNHKの「坂の上の雲」に出て来る秋山兄弟兄の人となりそのままだとしたら、絶対質素な墓石のハズなんだよね。青山霊園にはそびえ立つ墓石に●●男爵とか●●少佐と書かれた墓が一杯あるんですよね。
探す時間がないのできっぱり諦めます。
次いで北上&坂を上ります。
見つかるといいなあと思いつつ、見つからなかった伊地知幸介氏のお墓。三笠の艦長だっけ?や。違ったか??あ。違った。伊地知幸介は参謀だ。ドラマでは村田雄浩さんが演じてました。
見つかったのは、変った形の墓石の山本権兵衛氏のお墓。所在は1種イ9-26。

この方はとても優秀な人。日本の海軍を造り上げた人です。写真を見てたら、ありし日の山本権兵衛さんは、世界の三船に面差しがよく似ています。ドラマでは石坂浩二さんが演じてました。第二部では中尾彬さん演じる日高壮之丞と緊迫のやり取りをしてました。今でいうリストラの鬼。
更に北上。
着いたのは警視庁墓地です。
ここでぜひとも探したかったのは、八代六郎氏のものと小村寿太郎氏のもの。NHKの「坂の上の雲」では、八代六郎氏を片岡鶴太郎さんが、小村寿太郎氏を竹中直人さんが演じてました。が。見つかりませんでした。

この区画全部警視庁墓地なのね。広いのね。見つからないのね。時計を確認すると既に12時24分。ヤバいです。永田町に13時半には到着しとかないとっ!
…なんか、変なもの見つけちゃったよ~。

なぜにここに忠犬ハチ公なのか??や。急ぐんだった。
どうしてもここだけは~~っ。あ。なぜが尾崎紅葉のお墓発見。

12時33分。乃木大将一家のお墓に到着。手前から乃木大将の子息、乃木保典氏乃木勝典氏のお墓。奥に乃木夫妻のお墓があります。区画は柵で周囲を囲ってあって、入口は施錠してあります。所在は1種ロ10-26。
目的を達成し、ホッとしたのか、気づいたら私、乃木坂散歩の地図を持ってませんでした…。う~む。この辺りを散歩するの始めてなんだよね。取りあえず北へ行って青山通りを見つけたらなんとかなるハズ~~っ。んでもって赤坂御用地を見つけないとっ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪徳寺へお散歩

2010年10月03日 04時53分49秒 | 墓所巡り
松陰神社から西へ。途中で国士舘大学を右手に歩くと、こんもり森が見えて来る。
そこは豪徳寺なのです。ええ、去年&一昨年の秋にモミジの赤に染まる豪徳寺を紹介済みです。以前の記事はこちら。豪徳寺紅葉散歩2009年12月6日の記事です。
今回訪れたのは、同行の友人にもこのお寺を紹介したかったから。

この金のサッカーボールを転がす狛犬を見ると、豪徳寺へ来たなあ~と思うんだよね。
さて、豪徳寺には招き猫発祥の昔話があります。
招き猫に招かれたのは彦根藩のお殿様。

という訳で墓地には彦根藩のお墓群があります。

彦根藩と聞いて一番有名なのはひこにゃん~ですが、ちょっと前までは桜田門外の変で暗殺された時の大老井伊直弼でした。
その井伊直弼のお墓もここにあります。
上の画像は彦根藩の墓地群なのですが、なんだか綺麗~。なぜだ~~。
綺麗過ぎるとお墓って風情がまるでないっ!
と罰当たりなことをつぶやきつつ、一応画像を抑えて置きました。
あ!
訪問日は9月15日。もうすぐ秋のお彼岸というタイミングでした。

ついでに絵馬も確認。絵馬の絵柄は毎年変るんですね。今年の干支、虎が描かれてます。

虎もネコ科~。や、冗談~~。
豪徳寺のあちこちに招き猫が潜んでいます。
あれっ!?
豪徳寺はお寺なのに、絵馬があるのっておかしくないか??
絵馬って普通、神社にあるものだよね??
あれれ?違ったっけ~?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田松陰と桂太郎

2010年10月02日 04時27分15秒 | 墓所巡り
今日の記事はタイトル付けに悩みました。だって「吉田松陰のお墓」と「松下村塾」と「桂太郎のお墓」の3つがあるんだもん。

参道の案内図には松下村塾の名前が…。
あれ?
あれって確か、萩市にあるんじゃなかったっけ?昔、行ったことあるから間違いないんだけど…。
でも世田谷にもあった。

ほらね。
つーてもコレ、レプリカっぽい。その上内部は見れない!入れない!
ちっ!!萩市の松下村塾は入れたのにな。(今から30年位前のお話ですけど。現在も入れるかどうかは知らない)

ところで松下村塾って知ってる?
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞、木戸孝允など明治維新のビッグネームが学んでいた学習塾なんですね。
でもよくよく説明文を見ると、吉田松陰が教えていたのは1856年8月から1858年末までのたった2年半なんですね。塾生の総勢は90名前後だったそうです。幕末とはいえ、江戸時代にあって身分に関係なく誰でも塾生になれたという素晴らしい塾です。そんな松下村塾で吉田松陰はなんで2年半教えられなかったのか?
それは松陰先生は安政の大獄で刑死したから!

松陰先生は26歳から29歳まで教えてたんですね。幕末から明治維新に名を残した人って結構早死にしてるんですね。
確か高杉晋作って沖田総司と同じ結核で亡くなってたような…。

松陰神社には石灯籠が沢山ある。
奉納者のメンバーが凄いですねえ。教科書で見かける名前が一杯!!

さて、吉田松陰先生のお墓の周りには、他の人のお墓もあります。
…神社にお墓があるのって珍しい~。
写真を撮らせていただいたのでお参りをして礼儀を通す。
んでもって次は~、豪徳寺!
実は結構近いんだな。
参道まで戻り西へ。
ってあれ?

桂太郎のお墓がここにあるのっ!?
な、なんでじゃ??

何はともあれ桂太郎のお墓が本当にあるか確認する。
と、ありました!
帰宅してから調べる。いつものwikiで。
松下村塾のスポンサーだった中谷正亮が桂太郎の叔父だったんですね。でも桂太郎自身は入門していない。理由は吉田松陰が刑死した時、13歳だったから。
あ、日露戦争とも関連あるや。当時桂太郎が首相だったのね。んでもって、お墓が松陰神社に隣接しているのは、桂太郎本人の遺言だったんだって!へえ~へえ~へえ~~!!!
…ちなみに、幕末期に登場する桂小五郎は後に改名して木戸孝允になりましたので、桂太郎とは別人です。私うっかり記憶が混じってました。

カテゴリーに「旅順・大連旅行記」を新設しました。これに伴い、「旅々しい」内の旅順・大連旅行記の記事は移動になります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北条早雲像

2010年04月30日 05時31分40秒 | 墓所巡り
コンビニで傘ゲット~!!
早速目指すは北口。
北条早雲像です。
これ、出来いいです~~!!
大きさがわからないかもしれませんが、おそらく地上からてっぺんまで3メートルは軽くあるんじゃないかな~?
早雲の足元に角に松明をつけた牛がいますね。
あれですね。
北条早雲が小田原城を手に入れた時の戦法。
もしかしたら創作の話かもしれないそうですが…。だってコレ、三国志で諸かつ孔明さんもやってたような~。
ちなみに1495年頃のお話です。北条早雲は結構謎の人なので、深く突っ込まずスルーさせて下さい。

小田原駅構内にある観光案内所で周辺まっぷをゲット!
次に目指すは北条氏政・氏照の墓所です。

なんか、唐突に出現しました。
階段を上がってみる。

一応、大事にはされてるようです。
取りあえずお参り。

なる程奥さんのお墓もあるのか~?
関東大震災の時には墓石が溝に落ちてしまったのを、地元有志の青年団が元通りにしたそうです。
さて北条氏政・氏照とは…。
彼等が生きたのは戦国時代から安土桃山時代。
豊臣秀吉が台頭すると優柔不断な外交が災いして小田原征伐を招いた人達。有名な小田原評定はこの時のこと。
数ヶ月の籠城の末降伏した北条氏政は、弟の氏照とともに切腹。戦国大名北条氏の関東支配は終焉を迎える。(WIKIより)
ちなみに奥さんは武田信玄の娘ですが後に彼女とは泣く泣く離縁してます。
更に、武田信玄に対抗する為か、弟を上杉謙信に養子に出してます。この時謙信の養子となったのが後の上杉景虎です。
と言っても私は詳しい所はよく知らないんですが…。戦国時代って色々敵味方がくるくる変るし、思惑が交錯してて難しい~~。
でも秀吉相手に徹底抗戦したのは凄いような…、時世の見極めが出来ずに北条を滅亡させたのは愚か者のような…。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小栗判官の墓

2010年03月15日 06時47分51秒 | 墓所巡り
遊行寺の裏に小栗判官のお墓があります。
他にもあります。
ところで、小栗判官と照手姫のお話って知ってますか?
実はこのお話ってバージョンが多彩なんですよ。
おそらく!
もともと庶民受けするお話を、語り継ぐ上で語り手が手を加え創作を重ねた結果何が真実で何が創作だかわからなくなってしまったと思われます。素の話が跡形もないのはヒーロー&ヒロインの名前まで違ったり、お話の舞台の場所すら違う辺りにも伺われます。
さて…。
ここは一つ。
WIKIに書かれているお話を紹介しますね。
『1415年、上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(小栗判官自身)は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、相模横山家(横山大膳)の娘、照手姫を見初め、結婚の約束をかわす。
横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。照手姫は本来上皇や法皇の御所をまもる武士である北面の武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた。
小栗の行為に怒った横山親子は、小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に乗せかみ殺させようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗。
しかしついには権現堂にて酒に毒を盛り、家来もろとも殺してしまう。横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来11人の屍を上野原に捨てさせる。
この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける。
危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが、最後まで小栗への貞節を守り通す。
一方、小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし異形の餓鬼阿弥の姿で、癩病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺の大空上人の助けを蒙り、地車に乗せられて東海道を西上する。
小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち、「上野原に11人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの身体に戻すために力を貸せ」と告げていた。上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともに、まだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった。
小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが、2人はお互いの素性に気づかない。小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情けを受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する。
小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。
常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち。家来の菩提を弔う。
更に小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた。小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、1429年に遊行寺内に草庵を結んだという』
はあ、長かった。
でね。
トップ画像は小栗堂。
続きまして、名馬「鬼鹿毛」のお墓。

小栗判官と毒殺された家来10人のお墓。

照手姫のお墓。

照手姫が建立したと伝わる厄除地蔵尊。
物語の登場人物達のものが小栗堂の裏にありました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太田道灌の所縁の地なの?

2009年11月29日 06時57分54秒 | 墓所巡り
東京&神奈川のお散歩を繰り返すようになったのは、去年の秋から。
目的地は設定して出かけますが、道々ふらふらと寄り道をするのもお散歩の醍醐味です。
と、何度も出合う名前があるんですよ。
その一人が「太田道灌」
ダンナ曰く、地方のスター。全国区の武将には名前が弱い。
でもさ~。今年の直江と比べたら、太田道灌の方が有名だよね。

さて、大山寺を後に、こま参道まで戻って来ました。
行きにはまだ開いてなかった参道の店も、ほぼ営業が始まってます。
道々冷やかしつつ、自分土産も買い込んで来た時に利用したバス停へ。
今度は座席確保出来まして、参道にあった伊勢原観光協会でいただいた伊勢原の観光名所の地図を見る。
う~ん、やっぱりここって…。
実は、来る時に気になるバス停があったんです。
その名前も『道灌塚』!
それってやっぱり「太田道灌」のことだよね?
そうだよね??
つーことで、押してしまいました~
「降りま~す!」
「ええっ!!奥さ~ん」と、道灌塚の場所も知らないのにバスを途中下車してしまいました。
取りあえず観光協会でいただいた地図をたよりにバス停を東へ。
途中で、目的が同じそうな旅人を発見し、場所を確認。
あったのがトップ画像。
田舎道に突然大きな杉の木がにょっきり生えているのですぐにわかりました。
でもこの塚には特別な建築物はない。
ただ、小さな石柱があるだけ。

でもこれが太田道灌のお墓なんですよね?そうですよね??
あれ?
なんか…。ここの塚の造りおかしいよね?
なぜにトップの入口から右手に参道らしきものがあるの?
お~やぁ?
参道の先にあるのは、お寺かな?
もしかして??
と、引かれるように行くと、

『太田道灌公霊廟』と書かれてます。
う~と?
ここはどこだ?
「洞昌院」というお寺でした。
疲れたので、お寺の石で出来たテーブルと椅子にこしかけて自分土産でおやつ。(昼食は大山阿夫利神社下社でいただき済み)

こうして本日のお散歩は終了です。
家から大山阿夫利神社まで思いの外近かったので、散歩も早めに終了しましたが、気になるのは「太田道灌」のこと。
なので、調べました~。
いつものWIKIで。
その前に。
だんなが道灌塚で「太田道灌って家康の家臣?」と尋ねるので
「生きていたらたぶんね。そうだったら、それこそ全国区だったと思うよ」と答えたのですよ。
「へえ。なんで死んだの?」
「う~ん。優秀過ぎて主君の嫉妬を買っちゃって暗殺されたんじゃなかったっけ?」
「…それって今TBSでやっている『JIN-仁』みたいな?」
「ああ。そうそうそんな感じ。あれ?殿誰だっけ?確か聞いたことある有名な感じの名前だったハズ??」と知ったかぶりをしたのですが、私、思いっきり太田道灌の生きていた時代を間違えてました。
だって太田道灌って言えば、江戸の街の基礎を作った人でしょう?
なら戦国時代の人だって思うじゃん!したら、思いっきり違ってましたよ。
ではWIKI調べで。
『道灌の生きた時代:室町時代
生誕と死没:永享4年(1432)-文明18年7月26日(1486.8.25)享年55歳。←これがどんな時代かと言うと、応仁の乱があったのが、1467-1477です。ちなみに、、室町時代は15代足利義昭が織田信長に京都から追放される1573年まで続きました。
へえ~。
マジに太田道灌って室町時代の人だったんだぁ…。
武蔵の国守護代。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。
扇谷上杉家家宰太田道真の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
江戸城を築城した武将として有名である』
へえ~へえ~へえ~~。
そうだ。確か、鎌倉散歩でも彼の名前をみかけたな。
wikiによりますと。
『扇谷上杉家は鎌倉公方を補佐する関東官領上杉氏の一族で、道灌の父は扇谷上杉家の家宰。道灌は鎌倉五山の一つ建長寺で学問を修め、足利学校)栃木県足利市)でも学んだ』
あ、やっぱり~。
あれ?でもなんで、道灌が江戸城作ってるの??
いや、調べましたら道灌が作ったのは江戸城のみならす、岩槻城と川越城も作ってましたよ。
でもこれが道灌の命を危険にさらしてました。
なんつーか関東管領をまかされていたのは上杉氏とは言え、4家あったんですね。
で、家はそれぞれ覇権を執るべく争っていたのです。
そこへ才気煥発な太田道灌が現れた訳だ。
これは上杉他家にすると脅威だった訳です。
なんとか、排除するべく知恵を絞り、妙案をひねり出したのが「道灌の殿への諫言」
つまり「道灌は殿の謀反をたくらんでいます」と。
それに乗せられ、殿は道灌を騙して謀殺したと。
それがここ伊勢原の地だったのですよ。
時は文明18年、道灌は主君上杉定正の招かれ上杉館へ。そして暗殺。道灌は最後に「当方滅亡(扇谷上杉家はこれで滅びる」と叫んだと言います。
確かに、阿呆の諫言に乗せられ、臣下をだまし討ちにした殿に未来はない訳だ。事実、道灌暗殺後、多くの家臣が主君を見限って他家へ移ってます。
やがて、扇谷上杉家は北条早雲の孫の氏康によって滅ぼされました。
まあ、昔の武将は美化されがちで、史実と異なる歴史もあれこれねつ造・勘違いされて残ってます。
道灌の逸話も虚実入り交じって残ってるので、上記のうち全てが本当ではないかもしれません。
でもロマンはあるよね。
そのうちNHKが大河でやってくれないかなあ~?

道灌塚はこの辺りに上杉定正の糟屋館があったから。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平林寺の史跡

2009年11月25日 06時28分03秒 | 墓所巡り
昨日に続き、今日も埼玉県新座市にある平林寺です。
今日は紅葉紹介から離れ、歴史についてですね。
平林寺さんは臨済宗妙心寺派のお寺です。
本尊は釈迦如来様。
訪れた時、何人もの作務衣に坊主頭の男性がいらしたので、現在もお努めしている僧侶が何人もいる大きなお寺なんじゃないかなあ~。
さて平林寺の歴史は…。
「平林寺は今から約600年前、岩槻(埼玉県)に岩槻城主太田道真(道灌の父)が創建した。
その後、江戸前期に川越城主、松平信綱・輝綱父子によって現在の埼玉県新座市野火止の地に移された。
松平家の菩提寺です。かつてはお殿様が江戸に登る時にはここを宿坊として利用されていたとか。
寺域一帯は、野火止塚や松平家の墓所などの文化財をはじめ、天然記念物の雑木林など、武蔵野の面影を色濃く残している」
境内を奥へ行くと、川越の松平家の歴代(現大河内家)の墓所が並んでいます。

1基1基が石柱で囲い込んだ柵と、石で作った門を持っていて、とても立派です。先月紹介した池上本門寺にある紀伊徳川家の墓所や去年紹介した豪徳寺の井伊藩の墓所より立派です。そして数も多い。
墓所への参道はこんな感じ。
他に有名所のお墓は、

これ。●武田信玄の娘のお墓です。
他に、なぜか島原の乱の碑がありました。(写真撮ってないけど)
また、境内奥は武蔵野の原野が保存されていて、これがまるごと国の天然記念物となってました。
植物の植相が好きな人はたまらないんだろうけど、まだ炭焼きや柴に利用されていたブナやナラの木はさして黄葉してなく、感動は薄かったなあ。
でももう少しすると、散歩道にずっと植えられているカエデ類は紅葉してきれいだと思う。
昨日紹介したモミジとは種類が違うようで、こちらは延々青い葉っぱのままでしたが…。
この散歩道に「野火止塚」がありました。
そもそもこの塚はこのあたり(野比)の見張り台として使用されていたようです。平地にはこういう塚があちこちにあったんでしょうねえ。…時代はいつだ?そんでもって利用していたのは農民なのか??
どうしてもそれが気になる歴史オタクのサガですね。
さて、新座駅から平林寺を徒歩で訪れると、西側の縁を南下しがちです。
なぜなら、そこに緑道が整備されているから。
緑道は古風な川の流れに沿って延びています。
この川自体、歴史の遺産です。
その名も野火止用水。
有名な玉川上水が成功し、それを見てこの辺りの高台を選んで用水路を作ったんですって。その長さ25キロ。
この用水が完成して、水の確保が難しかった高台に田んぼを作れるようになり、大変貢献したそうで。
時折、用水に降りれる石段も残っていて、かつての庶民の生活が想像されます。
野火止用水を開削した指揮官は松平信綱の家臣で、彼のお墓も平林寺の境内に残っています。

本堂裏の長い長い散策路から境内へ戻ってきました。
入口にこんな昔風の建物が残され活用されていました。
フォトジェニックです。

ついでに、境内に湧き出る池から江戸時代に作られたお堂を望む。

ありゃ?
何かヘンなんついてる木があるな。

これは宿り木ですね。
今年の2月下旬、曽我梅林散歩をした時に、宗我神社の境内に一杯あったのと同じだ!
でもあるのが真っ赤なカエデだとフォトジェニック度が上がるなあ~。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本門寺にある有名人のお墓

2009年10月07日 05時33分40秒 | 墓所巡り
歴史有る池上本門寺には歴史上の有名人が眠るお墓も多々あります。
でも事前に調べていたお墓は一個だけ。
●トップの画像「狩野探幽の墓」
狩野永徳は徳川幕府の御用絵師として活躍した人です。淡麗な画風で狩野派の「中興の祖」と言われる人物。そんな探幽が存命中に建てたといわれる墓は、周囲からひと際目立つひょうたん形。酒とっくりにも見えるが、墨つぼを模して作られたという説が有力です。『大田区ウォーカー』より
隣接して供養碑が建ててあり、探幽の事績が刻まれています。そっちも込みで画像を撮りたかったのですが、なにしろ現役の墓地なので通路が狭くて…。
この池上本門寺は思いっきり歴史があります。でもあなたの近所にあるお寺と同じ墓地もあります。墓地は本門寺がある小山の周囲にぐるりと展開していて、とても広い。その上、お墓を守る人がいなくなると撤去されてしまうのです。そして空いた場所に新しく墓を建てる。つまり、墓地は時代毎に整然と並ぶなんてことはなく、江戸時代に建てられた墓の隣に今年建てたばかりの墓があったりして、探すのはとっても大変。
狩野探幽のお墓は特徴的な形をしていたので、根性さえあれば見つけられます。つーか、もし一般的な形だったら探せなかったと思う。
お参りしときました。ついでに「絵がうまくなりますように」とも。
次行ってみよう。
●加藤清盛一族のお墓

画像の背後に見えるのは本門寺の本堂です。
池上本門寺も関東にある神社仏閣ですから、関東大震災もしくは太平洋戦争で被災しています。
日本の建築物は燃え易い木材や紙を多量に使ってますから、燃えると灰燼に帰す。
昨日紹介した松涛園の歴史的会見の行われた茶室が残ってないのもおそらく…。
池上本門寺は浅草の浅草寺と同じように、神楽坂の毘沙門天と同じように、鉄筋コンクリートで再建されました。
なので、建物の写真は撮らなかったのね。
加藤清盛一族のお墓も石塔が一部壊れてました…。
●紀州徳川家のお墓

いや~、探した探した。探す気になって墓所をくまなく探してもそれっぽいのがあちらこちらにあってね。これがそうっ!てわからない。
どうやって確定したのかと言うと、なんか池上本門寺歴史ツアーをやっているオバサマ達を案内している物知りな年配のおじさんを見つけたんです。
おじさんが言うには「ここ、昔は周りを鉄柵で囲って鍵なんかつけてなかったんだよ。いたづらする不届きものがいてねえ…」どこにでもいるよな。迷惑な人って!
ここに暴れん坊将軍8代徳川吉宗の奥さんのお墓もあります。
●力道山のお墓

実は本門寺で一番参拝者の多いお墓だと思う。
だって、お参りに来た人の為に『力道山のお墓はこっち』の札があちこちにあるんだもん…。
右の胸像はプロレスの団体の制作したもののようです。
制作者が裏にズラズラと書かれてます。プロレスの好きな人なら選手の名前をいくつも見つけられると思います。
●その他のお墓

お墓を探して墓地をうろうろしてる途中に様々な時代のお墓も見たのですが、上の画像のお墓は異彩でした。もしかしたらその道では有名な人かもしれませんが、私は存じ上げない方でした。
ち~な~み~に~…。
紀州徳川家の一族のお墓に隣接してみかけた「チロのお墓」というのもありました。
どうみても、愛犬のお墓だろう…。つーか、一般庶民のお墓より立派な石材の基壇を組んであるぞ?
田舎のお墓に比べるもんじゃないんだろが…。あんまり多種多様なので、ここの墓地は見応えがあります。
お墓マニアという人が世の中にいるならお薦めかもしれん…。
ちなみに池上本門寺は日蓮宗の総本山です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将軍墓所特別公開

2009年04月05日 09時09分22秒 | 墓所巡り
今現在、東京も神奈川も桜見物びよりなんである。
待ってました
どこから紹介しようかと悩みましたが、東洋史学出身としては、ここは一つ、桜と歴史の両取りと行きましょう。
東京都の南JR浜松町から徒歩10程北上した所にある「増上寺」で徳川家霊廟特別公開が4月2日から8日までやってます。
上の画像を見てわかる通り、拝観無料です。
かつてはいつも公開されてたそうですが、現在非公開なので、この機会に見ないと!
増上寺にある徳川家霊廟、そこにお墓があるのは時代の古い順に
2代秀忠公夫妻(石塔)
6代家宣公夫妻(青銅製)
7代家継公(石塔)
9代家重公(石塔)
12代家慶公(石塔)
14代家茂公(石塔)
静寛院和宮(青銅製)
将軍生母側室等合祀石塔)となっています。
入口は6代家宣公宝塔前の唐門(旧国宝で鋳抜き門)となっています。
ちなみに、昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行なわれた後、東京・桐ケ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されたそうです。
正面右側に2代秀忠公の宝塔があり、焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでした。しかし木造の為戦災で焼失。現在は内室崇源院と共に合祀されています。
と、配布してた紙にかかれてました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川家重の墓と桜

2009年04月05日 09時00分51秒 | 墓所巡り
上の画像は徳川9代将軍、家重のお墓です。
撮影日は4月3日、先週金曜日です。桜が綺麗に咲いて、霊廟に風情を加えてました
歴史好きなみなさんへ霊廟内で配布していた用紙を抜き書きしますと、
『徳川家重は8代吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。
成長するにつれ次第に病気がちになり、将軍になっても政務は重臣にまかせた。
調査によれば、重度の歯ぎしりによる発音障害があったようである。が、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。
49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川家茂と和宮のお墓

2009年04月05日 08時51分54秒 | 墓所巡り
徳川将軍達のお墓は東京は上野と芝増上寺と谷中霊園にある。
かつては日光東照宮と同じく壮麗かつ絢爛豪華だったらしい。
でも焼けたのね。
第二次世界大戦の時に東京が空襲をうけ、その時に徳川家の墓もお寺も焼失したのだ。
焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでした。
が、現在はご覧の通り。
上の画像は左が静寛院和宮こと皇女和宮様のもの。
右は徳川14代将軍、徳川家茂公のものです。
二つは上の画像のように仲良く並んでます。
本当は1枚の写真で写したかったのですが、霊廟内は人で一杯で、せめて写真の中に人を写り込まないようにするので精一杯でした。
配布の紙によりますと、
『静寛院宮(和宮)の宝塔は当時のもので、実際家茂公と並んで祀られてました。宝塔はご夫妻同じ物でしたが、家茂のが石塔に対して青銅製であり、明治になってから作られた墓は、将軍の墓に対し、すべての点において荒削り、不揃いであることからこんなところにも時代の変遷を感じることができるでしょう。特徴として菊のご紋章が掘り出されています』とある。
ちなみに、歴史好きなアナタに解説。
14代家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。
しかし、世継ぎ問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾の為に公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没した。
慶長2年(1866)、享年21歳であった。

静寛院和宮は14代将軍家茂の正室。
和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって前述した公武合体策により降嫁。時に15歳。
和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。
明治10年(1877)、31歳で逝去。
この辺、去年のNHK大河ドラマでやってましたね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比企一族のお墓

2009年02月12日 05時31分53秒 | 墓所巡り
NHKの大河ドラマで鎌倉の北条氏にスポットを当てた時に見なかったので、せっかくの鎌倉を散歩しても盛り上がりに欠けるのが残念。
上のお墓の画像は、源頼朝の乳母「比企禅尼」の一族のお墓です。
比企禅尼は頼朝が伊豆配流中も何かと援助し、頼朝は禅尼の養子である能員に特別な扱いをしていた。二代将軍になった頼朝の長男頼家は比企の館で誕生している。頼家は比企能員の妻を乳母とし、能員の娘若狭局を側室としたことにより、母北条政子やその実家である北条氏より頼りにしていた。
やがて北条氏と比企氏は対立する。
頼家が病気になり、跡継ぎ問題が起る。
その時北条氏は比企能員を暗殺。北条時政の子、義時は比企館を攻めて一族を滅亡した。
その比企能員の屋敷があった場所が現在の妙本寺。ちなみに、妙本寺の開山は日蓮。開基は比企能本(能員の末子。比企の乱当時2歳)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする