ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

話が長い

2019年01月22日 | ノンジャンル
「今日は時間がないので、
 手紙が長くなってしまいます事、ご容赦下さい。」

海外との取引がメインの仕事であることから、
いわゆるコレポンは簡潔明瞭にという癖がついている。

従って、結局何が言いたいのか、焦点がぼやけた
長文あるいは長い話は、殊の外苦手である。

その傾向は、韓国、中国において顕著であるが、
国内は最たるものである。

電話や会議、商談において、長々と繰り返される話を
辛抱強く聞かねばならないことはよくある。

心の中ではいつも問いかけている。
「で、何が言いたいのか?」と。

主題の話は、昔読んだことのあるコラムである。
時間がないから、手紙が長くなるというのは一見、
矛盾しているが、伝えたい内容をしっかり絞って
文章を推敲し、簡潔化するのに必要な時間がなく、
よって文章が長くなってしまうという事である。

そうしてみれば、私の記事も長文のきらいが
あるので、他人の事はとやかく言えないが、
要するに時間が無いのである。

記録、伝達、交信と、目的は違っていても、
文章化するというのは、それが第三者を
想定しての事であれば、主眼は相手に
十分伝わるかどうかという事である。

そこにどれだけの時間と考察を費やしたかで、
文章や、会談の長短は決まる。

なにせ、自身も他の人達も、読む、聞く、見る
という事における集中力は、驚くほど短い時間しか
継続維持できないのである。