ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

大義

2015年09月10日 | ノンジャンル
人はその行動において、常に大義というか、
意味を求めたがる。

その根本には、自身がこの世に生れ出た意味と、
生きる大義を見出したい願望がある。

なぜ今の時代に、意識ある自分自身として
この世に生れ出たのか。

結論から言うと、これは一生かかっても
誰にもわからない。

自分探しなど、所詮は無駄である。
本当の自分は探さなくても自身の内にある。
それを直視するか、ごまかすかの差にすぎない。

人は死ねば、生まれ変わるという。
あるいは、それで終わりともいう。
または別の世界で永遠に生きるともいい、
同じく連続して転生を繰り返すともいう。

だがそんなことは誰にもわからない。
死んだ者もそれを認識することはできない。

つまり、生まれ出た意味など知ることはできないし、
その意味すらあるのかどうかも分からない。
よってそこにあるのは自身の意志である。

この世に生れ出た以上、どう生きていくのか。
その人生の主題はなんなのか。
それを自身で決めて、信ずることで、初めて
その人の生まれ出た意味に置き換えることができる。

要するに自分で決めるということだ。

大義とか意味とかに縛られずに、人は自身の
生き方を自身で決め、それを自身の意味と
信じて生きていく。

そしてそれがもたらすものが、建設か、破壊か、
人を幸せにするのか、不幸にするのか、
喜びをもたらすのか、悲しみをもたらすのか、
希望を導くのか、絶望をもたらすのか。

それを善と悪というのである。

人にとっての最も大きな課題は、この善悪の
認識と判断と行動なのである。

どれほどの大義があろうと、仮にそれを誰もが
正義と信じようと、それがもたらすものが
破壊と悲惨と犠牲と不幸ならば、断じてそれは
悪なのである。

死というものが決定している以上、生もまた
決定している。
あとは、生の時に、どう考え、どう行動して
いくのかのみなのである。