ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

追悼

2012年05月03日 | ノンジャンル
彼女に出会ったのは、アルコール依存症の
ご主人を持つ、家族の方のブログであった。

その方の記事にコメントをしていた彼女も
ブログを書いていて、その記事を読んで彼女自身が
かなり危険な状況にあることを知った。
あわてて近隣のアルコール専門医を紹介する
コメントを入れ、救急車を呼んででも、
いずれかの病院に行くように話した。

3年前の9月だったと思う。私の断酒も4年を越え、
少し安定してきた時期であった。
その時は、首尾よく入院し、事なきを得たが、
それから私と彼女との父娘の様な関係が始まった。

ひと月を乗り越えられたら、楽になる。
何度言い聞かせたことか。入院している間は
もちろん飲めないが、一人で入院しているのが
よほど辛かったのだろう。すぐに退院しては、
また飲んでしまい、身体を悪くして、
また入院ということを繰り返した。

家庭環境に恵まれず、普通では考えられないような
生い立ちというより、深い傷を持っていた彼女には、
お酒は自分を支えるためにどうしても必要な
ものだったと思う。

ただ、そのお酒自体が自分の命を削る毒となって
しまう病気に罹ってしまった。

何とか、気持ちを前向きにと腐心し、彼女の大好きな
空や飛行機の写真、曲などをブログにアップして、
エールを送った。

携帯などの連絡先も、彼女から知らせてきたのは、
求めているものに応えてくれる相手とみての
ことだったかもしれない。

なかなか、最初のひと月を越すことができなかった。
何度か、「飲んだな」と見破る私に、嘘は通用しないと
悟ったのか、失敗したときは素直に話すようになった。
電話をかけてくるときは、いつも泣いていた。

黙って泣き声を聞いていると、
「なんで何もしゃべれへんのや」と言うので、
「ちゃんと泣き声を聞いてる。ひとりで泣くよりは
ええやろ。」というと、安心してまた泣いていた。

3ヶ月頑張ったなら、ご褒美に何でも好きなもの
食わしてやると励ますと、カニが食べたいという。
吐くほど食わしてやると言うと笑っていた。

「死にたい」「消えたい」「生きていても仕方がない」
何度聞かされたことだろう。それでも、泣いてかけて
きた電話も、いつも笑って話し終えることができた。

「私なんか死んで、臓器を困っている人たちに
全部提供する方が、よっぽど人のためになる。」
何度かそんなことも言っていた。

「そんなボロボロの臓器、誰もいらんわ。かえって
具合悪くなるし。」と切り返して笑わせていた。

「ほんまにその気があるんなら、まずは健康を
回復して、提供できる臓器にすることや。」

済んでしまったことは仕方がない。
今を、これからを、絶対にあきらめないこと。
何より、自分自身をあきらめないこと。

いつも、それだけは肝に銘じておくようにと
話を終えていた。

時には父親以上に厳しく接することもあった。
というよりも、完全に突き放したことも何度かある。

「死にたい、消えたい」を繰り返す彼女に、
「黙って消えなさい」と、突き放すというより、
切り捨てたこともあった。

彼女のブログに集まる人たちからは一斉に
バッシングが浴びせられ、彼女自身も私を恨んでいた
ようであったが、そんなことは何でもなかった。

この病気を識らないものが、この病気に罹患している
ものに寄せる同情や慰めは、病気を悪化させこそすれ、
回復への手助けとはならないのである。

ましてこの病気は進行性の病気である。自分に都合の
良い環境の中においては、どんどん自分の心身が
蝕まれていくだけなのだ。

数ヶ月後、彼女は素直に謝罪をしてきた。もう一度、
やり直したい、断酒を頑張りたい。だから話を聞いて
欲しい、応援して欲しいと。

是非もない。彼女に対して、私は最後まで一貫した
姿勢で接してきた。
飲みたいのを飲まないで頑張ることの苦しさ、辛さは
共に分ちあえること。
飲んでいるときには、一切話はしないし、聞かないこと。

再び、自分で立ち上がろう、やり直そうとする彼女には、
できることは何でもしてやりたいと思った。

その後も一進一退が続いた。最も心配したのは、身体の
ことである。それまでもかなり限界に近い状態に幾度か
陥っていたので、果たして体力が続くのかどうか、
それだけが心配であった。

あれほど嫌がっていた入院を自ら決意して、3ヶ月
みっちり治療・回復に臨んだのが一昨年の9月
だったろうか。

やっと本気になった。前を向いて進む気になった。
入院中にも、メールやコメントをくれたり、
電話もあった。
見違えるほど明るい、前向きな姿に、驚きとともに
本当に嬉しい思いをした。

無事に退院し、親戚の家庭で共に暮らしを始めると
聞いたときは本当に安堵した。

家族のぬくもりも、ささやかな幸せも知らない彼女が、
もう大人の年ではあっても、また子供時代をやり直し
できると思えば、これ以上のことはない。

事実、日々の生活が本当に幸せであったと思う。
それまでとは打って変わった話の内容、弾む声、
嬉しい、楽しいことの方がはるかに多いことが
伝わってきて、なんともいえぬ喜びを
感じさせてもらった。

仕事をしたいという話があった時も、私は時期尚早と
見ていたが、自分の大切な居場所で、できることを
したいという前向きな思いも分かった。

ご家族もこの病気のことを理解し始めていた頃だと
思うが、余計なお金は再飲酒の引き金になりやすいので
彼女には持たせなかったようである。

電話で、仕事の休憩時間にコーラを買って飲むお金も
ないと愚痴る彼女に、大笑いした。
まるで子供である。
自分では言いにくいから、私から頼んでくれないかと
話す彼女は、なぜかそんな事さえ楽しそうであった。

ご家族がブログにコメントを入れてくださるようにも
なっていたので、コメント上で一日に300円くらいの
お小遣いはあげてくださいとお願いした。
コメントを打ちながら、また笑ってしまった。

飛行機が大好きで、空港へ行って一日中離着陸を
眺めているという話をよく聞かされた。
出張でたびたび飛行機に乗る私を羨ましがってもいた。

退院後、あれほど越せなかったひと月を越し、
一年を越した。

実は、四季を通じて断酒を継続した時、つまり一年を
越した時が最も危ない時期でもあるのだ。

二年を越せばかなり安定してくるのだが、一年を越した
時というのは、最も魔が差す時であるともいえるし、
この時点で失敗する例はかなり多い。

友達の集まりか何かで、彼女もつい、その一杯に口を
つけてしまった。
初期の、失敗を繰り返している時と違って、断酒を
継続している期間が長ければ長いほど、再飲酒した
時のダメージは心身ともに大きい。

再び連続飲酒に陥った彼女は、相当なダメージを
受けたはずである。
しかも、失敗後か、その前かは定かでないし、
詳しい事情も分からないが、連絡をしてきた時には
再び彼女はひとりになっていた。

絶対に裏切りたくないと思っていた人を裏切って
しまったことに苛まれたのか、もうこれ以上
迷惑をかけられないと思ったのか、あるいは、
自分自身の足で立って、生活をしていく、
自立の道を歩もうとしていたのか。

いずれにせよ、彼女自身、あきらめない、またマイナス
からだけれども、やり直しを始めると話してくれた。

まずは病院へ行くこと。それを念押ししたのが3月。
ちゃんと病院へ行って、点滴を受けてきたと聞き、
また通院で生活のリズムを立て直すよう話をした。

だが、おそらくその後も飲んだり通院したりを
繰り返し、例によってろくに食事もしないで
過ごしていたに違いない。

栄養失調で入院。これまで、何度聞いてきたことか。
この飽食の時代にである。
飲めば食事ができない。何か食べれば吐いてしまう。
だが、お酒は一旦吐くと、またすんなり飲める。
仮に何か食べたとしても、栄養を吸収する力が
身体に無い。結果、下してすべて出てしまう。

これまで何度同じことがあったろう。
それでも、入院すると聞いて、なんとか最悪の状況は
回避できたと思ったのが4月。

昨日、滞っていたブログの更新をした。
断酒7年を前に、書ける時に書いておこうと
思ったのだが、その記事についたコメントに
わが目を疑った。

彼女のご家族からのコメントで彼女が亡くなった
とのことであった。

思考がストップし、あいつめ、また悪い冗談を
と思った。
コメントは確かに彼女の携帯から投稿されている。
ちょっと度が過ぎると思い、電話をかけたが出ない。

メールを送信し、今朝返信を頂いた。
ご家族からである。
事実であった。
ひとりで逝ったらしい。

怒りがこみ上げた。悲しみが噴きあげた。
どこにもぶつけようのない想いに、
身体の芯が震えた。

バカヤロウ。なんでひとりで逝った。
なんで何も言わずに逝った。
私はともかく、家族にまで・・・。

最後まで私に叱られてどうする。





お母さんに、こっぴどく叱られなさい。

そして、よく頑張ったと褒めてもらいなさい。


今はもう是非もありません。


お母さんに抱かれて、ゆっくり、
ゆっくりとお休みなさい。


あなたは、最後まで、自分をあきらめては
いなかったと思います。


ひとつだけ、私との約束を果たしましたね。

よく頑張りました。

本当によく頑張りました。